根深い『裁き』~ルシファの霊力~

 
 

私は、人の輪に入ることができなかったり、集団の中で発言ができないことが多々ありました。しゃべることが嫌いとか、緊張するということではなく、まるで喉に栓をされたかのように言葉が出ません。体も強ばり、とても苦しくなりました。 そして、いつからか一歩踏み出すどころか、自分から常に一歩引いたところで、人と付き合っていました。
それは、『臆する霊力』だと語られました。
踏み出すより一歩下がった方が楽でしたが、臆して一歩引くと疎外感を感じます。(臆する霊力に捕らわれた人間は『孤独』だと語られました。)
ですが、自分から一歩引いているにも関わらず、疎外感を感じると輪の中にいる人たちが『ねたましく』なります。「あの人はあんなに明るくて楽しそう…いいなぁ」うらやましくなるんですね。また、「なんであんなことが楽しいのかしら…私にはわからない 」と高ぶって人を見下す思いも来ます。

そして、「私は、ココにいない方がよいのでは?」「みんなも私のことをダメな奴と思っているのではないか?」「こんなダメな私は、イエス様を裏切るユダ(イエス様を裏切った弟子)かもしれない?」と占います。(想像・妄想)占うと自分で勝手に被害者意識のようなものを感じて、「こんな思いになるのは、あの人のせいだ」と人のせいにしたり、腹が立ちます。(人を裁く)

高ぶり、占った後には「みんなと比べて自分は…」「自分はなんて嫌な奴なんだ」「できないんだ」と自己憐憫に陥ります。 自己憐憫…苦しいですよね。私は、いつも泣いていました。

臆する→ねたみ→占い→裁き→高ぶり→自己憐憫

牧師を通して、臆する霊力のこの解き明かしを聞いて、自分の状態はまさにその通りだと、自分が臆する霊力にまかれていたことに納得しました。

臆する霊力!私は、臆する霊力から解放されました!
ハレルヤ!!……

…だけでは終わりませんでした。

そこから、もっと根深く私の中にへばりついていた悪が明らかにされました。
私のファミリアスピリット、パン種!!
11/7ブログ『偽物の自分と本物の自分』
11/23ブログ『ファミリアスピリットに打ち勝つ』
10/31ブログ『古いものは過ぎ去った、見よすべてが新しい』


『裁き』『高ぶり』=『ルシファの霊力』です。


『裁き』!?
臆する霊力も

臆する→妬み(裁き)→占い→裁き→高ぶり→裁き→自己憐憫(裁き…自分を罪に定めることは、自分自身を裁いているということです。)
…裁きから裁きですね。

私は、昨年、姉妹たちと行った韓国旅行を通して、自分を含め、仏教やキリスト教、新興宗教といった宗教をしている人間は、己が神であり、裁きの人間だったと語られたとブログで証をさせていただきました。
10/21ブログ『仏教とは?~初韓国旅行をとおして~』

ですが、今回、また裁きのことが語られ、自分の中の裁きが自分が思っていた程小さなものではないとわかったのです! 少しどころか、私のすべてが裁きでした。 私は、裁きで形成されていたと言っても過言ではありません。牧師や兄弟姉妹を通して語られた際、
「あれも裁き!?これも裁き!? じゃぁ日々何を考えて過ごせばいいの !?」「私という存在がなくなってしまう。0になってしまう!どうしよう」と思った程です。
悪が0になることは感謝なことですが、そのときはそうは思えませんでした。
それまで当たり前だった自分が一切なくなることに対して、自分が自分ではなくなるのではないか、自分で自分を守れなくなるのではないかというおそれる思いにもなりました。イエス様が共にいてくださるのに、自分で自分を守る必要なんてないんですけどね。 それも、イエス様の教えや信仰よりも自分が頭(かしら)→神と同等になろうとしている…ものすごい高ぶりです。不信仰です。

ですが、そんな私のように裁きの塊という人は少なくないでしょう。

『裁き』といわれて何を想像しますか?『法によって裁かれる』や『神様の裁き』??
自分は、犯罪を犯したわけでもないし、誰かと喧嘩しているわけでもない、周りとも上手く付き合っているし、特に問題もない…だから自分には関係ないことだと思いますか?
私もそう思っていました。ですが、『裁き』はとても身近な悪霊なのです。 この世の全ての人の中にあるものなのです。

たとえば、「私は、Aさんが嫌い」「苦手」はAさんを裁いています。自分自身の価値観や判断、経験(サタンの支配下での家庭環境や教育などで人それぞれ異なりますね)で「Aさんはこういう人間だから」とあなたの考えで決めつけていることになります。同様に「BさんとCさんだったら、Bさんの方が好き」も、BさんはCさんより○○だからというのはどちらかが優っているというあなたの上からの判断によるものなので、それも裁きになります。「もっと○○してほしかったのに」「なんでこうしてくれないんだ」というのも「Dさんは○○な人だから」「きっと○○って思われているんだろうな」も『裁き』です。

そして、「いいなぁ~」「うらやましいな~」と、人をねたむこと、『ねたみ』も裁きなのです。

雅歌8章6b
愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷だからです。


神が定めた『裁き』の範囲は、私たち人間が考える範囲よりはるかに広いものでした。神の基準と人の基準は全く違います。


第1ヨハネ2章9~11
「光の中にいる」と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである。

人を裁くと、何が善で何が悪なのかも、イエス様や聖霊が自分に語ってくださっていることもわからなくなります。自分の考えで判断するようになります。そうなると、自分が神になってしまいます。自分が神になるのは、ただの宗教ですね。


イザヤ14章12~15
黎明(れいめい)の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果てなる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府(よみ)に落とされ、穴の奥底に入れられる。

ルシファ(黎明の子、明けの明星)は、傲り高ぶって神と同等になろうとした元天使=サタンです。天からサタンのために用意された地獄へ落とされました。
以前から私のパン種はルシファの高ぶりの霊力だと語られていました。 傲り、高ぶり、プライド、そして裁き! そのルシファの霊力に巻かれた人間は、もの凄く強情、傲慢です。 何でも、まず自分の意見があります。一度自分の頭で自分流にしてから、行います。なので、頭で考えて、自分が無理と判断したらやりませんし、聞きません。イエス様に従っているようなことを言っていても、結局は自分に従っているのです。

イザヤ2章22
あなたがたは鼻から息の出入りする人(古い自分を含む人間)に、たよることをやめよ、このような者はなんの価値があろうか。


クリスチャンは幼子のように『素直に、正直に、 誠実に』であること、『喜ぶこと』が土台だとよく語られています。私は、クリスチャンになって3年経ちますが、その間ずっと牧師を通してイエス様から『素直になりなさい』『喜びなさい 』と言われ続けていました。でも、私は「素直って何?どうすればいいのだろう」「喜んでる(つもりな)のに、なぜ喜べって言われるの!? どうすれば喜んでいることになるの!? 」と頭で理解しようとしていたので全くわかりませんでした。『素直に』と『喜ぶこと』がとても難しかったです。
2/14ブログ『聖書の読み方☆』

牧師が知恵の言葉でわかりやすく語ってくださいました。
「赤ちゃん(クリスチャン)が、お母さん(イエス様)のミルク(みことば)をもらうときに、『お母さん、今日のミルクはしょっぱいのでいりません』とか『今はいりません、5分後に飲みます』とか『このミルクの成分はなんですか?』なんて言わないでしょぅ?与えられたら、何も言わず飲むでしょぅ?みことばも『アーメン』(そうなったと信じます)って素直に霊で受ければいいの。」

私は、なんて強情な赤ちゃんだったのでしょう。

使徒行伝7章51~53
ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。あなたがたは、御使(みつかい)たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。

使徒行伝28章26~29
『この民に行って言え、あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞こえにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。そこで、あなたがたは知っておくがよい。神のこの救いの言葉は、異邦人に送られたのだ。彼らは、これに聞きしたがうであろう」。〔パウロがこれらのことを述べ終わると、ユダヤ人らは、互に論じ合いながら帰っていった。〕

エレミヤ9章23~25
主はこう言われる、「知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力あるひとはその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。誇る者はこれを誇りとせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる」。主は言われる、「見よ、このような日が来る。その日には、割礼をうけても、心に割礼をうけていないすべての人をわたしは罰する。


裁き続けている人、高ぶって神と同等になろうとする人(自分の判断であれは無理、これも無理、これは大丈夫など)…神に委ねるということをしないので(信仰がない)、何年、何十年自分なりのイエス・キリストを拝していても、何一つ変わりません。 それは、ただの宗教・オカルトですね。愚かなことですし、本人もとても苦しい歩きです。
イエス様は、みことばでも以前から私の強情さのことを教えてくださっていたことに気づきました。 2年前に牧師を通して私に与えられていたみことばです。

サムエル上15章22~23
サムエルは言った、「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭(はんさい)や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。
〈リビングバイブル〉
「神様は、いくら完全に焼き尽くすいけにえやその他のいけにえをささげたって、おまえが従順でなければ、ちっともお喜びになりはせん。従順は、いけにえよりはるかに尊い。神様は、おまえが雄羊の脂肪をささげるよりも、お声に耳を傾けるほうをお喜びになる。反逆は占いの罪と等しく、不従順は偶像礼拝と等しい罪なのじゃ。もはや、神様のおことばを無視したからには、神様もおまえを王座から引きずり下ろされることだろう。」

ルシファの霊力のことも『素直に』『喜ぶこと』も、ずっと悟ることができませんでした。 私の中に高ぶりや強情さがあったからです。今回、やっとわかりました。
ここまで、愛と忍耐でイエス様に忠実に語り続けてくださった牧師、兄弟姉妹に感謝します。

私は、もう誰も裁きません!高ぶりません!!

第2コリント5章16~17
それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

アーメン。