‘情’からの解放

 
 

「仏の顔も三度まで」…誰もが必ず聞いたことのある言葉ではないでしょうか。
イエス様を知る前は、「三度は許すが、四度目はないよ」というこの言葉は「三度も許される」寛容な意味の言葉だと思っていました。というのも、私は、長野の田舎で生まれ育ったので、仏教とこの日本という国しか知らず、この「仏の顔も三度まで」という世界(サタンの支配下)が全てでした。生活そのものでした。イエス様を知るまでは!

よく考えてみると、三度って少ないと思いませんか?
仏とは言っていても、完全に限界がありますよね!?限界のあるそれは、‘人間の情’だとイエス様は教えてくださいました。

それに対し聖書には、

マタイ18:21~22
そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか』。イエスは彼に言われた、『わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。

という『無条件のゆるし』が書かれています。無条件!?すごいことですよね。
人間の情(仏教)がたった三回という条件付きに対し、神の愛、神の情は無条件のゆるし!というところからも、この二つが全く異なる!比にならない!微塵も関わらない!ことがわかります。
その神の愛である『無限の許し』を思ったとき、私は「仏の顔も三度までって!たった三度かよっ!」と思いましたし、「あぁ~限界がある人間の情って、なんて無力でちっぽけなんだろう!」「そんなことで、何かが変わるわけないじゃない!」と、あまりの差に脱力してしまいました。
それまで、まだ ‘人間の情’にも少しはよいところがあると思っていたのですね、目が覚めた思いでした!それと同時に、‘人間の情’で成り立っている仏教が、どれほど無力なのかもわかりますね。

第1コリント13:4~8a
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。

コロサイ3:12~14
だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらのいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。

‘人間の情’を頭(かしら)にしても、何も変わらないし、むしろ大切なことが見えなくなってしまうことを体験することで教えていただきました。

きっかけは、友人との交わりでした!
私は、イエス様から大切な友人に福音をする機会を与えていただきました。救われて欲しい!と思っていた友人です。
イエス様のこと、教会のこと、自分の証…長い時間、彼女と話しました。私は、単純にたくさん話せたから良かった!と思っていました。ですが、イエス様が彼女に伝えたかったこと「イエス様が真理である」という彼女への神の愛を、私は伝えることができていなかったと、後に牧師を通して教えていただきました。
イエス様が、彼女に伝えたかった愛を遮ってしまったもの…それは私の中の‘人間の情’でした。
私の中の『義理・人情・ヒューマニズム・道徳教育、情を頭(かしら)とさせる女預言者イゼベルの霊力』『神の愛を見えなくさせるめくらの霊力』そして『ルシファの高ぶりの霊力』だと教えていただきました。
そして、‘情’と‘高ぶり’は、集会で『オセロの駒』をたとえに、とてもわかりやすく語られました!
‘情’と ‘高ぶり’そして‘裁き’はオセロの駒の裏表!セットだったんです!
2012年9月11日14万4千人のクリスチャン~人間の情と神の愛~

高ぶり・裁きも私のファミリアスピリット! ‘ルシファの高ぶりの霊力’です!以前ブログにその高ぶり・裁きからの解放の証を書かせていただいたことがあります。
2012年2月21日根深い『裁き』~ルシファの霊力~
そこで私は、高ぶり・裁きの塊であったと証をさせていただきましたが、高ぶり・裁きの塊ということは…人間の情の塊でもあるということですね。

それらの霊力と慣れ親しんできたことを悔い改め、戦い、イエス様の御名前によって霊力を自分の中から追い出すと、ずっと当たり前のようにあった思い(‘人間の情’)が、当たり前ではなくなりました。逆に、今までの思いに対して違和感を感じるようになります。
そのとき、私は今まで‘人間の情’の判断で、どれだけ言わなければいけない大切なことを言わないで生きてきたのだろう…相手の顔色をうかがい、穏便に片付けようと黙したり、とにかく波風を立てないようにしてきたのだろう!と思いました。…友人に対して、学校や職場でも、そして家族に対しても!!(それが苦しくなり、いつの間にか、人と話すことが苦手になっていました。一人でいた方が楽だと思っていました。)

‘情’からの解放の第一歩として…
私は、実家のある長野県から静岡県浜松市に導かれ、一人暮らしをしていましたが、1年半前から同じぶどうの木の姉妹とルームシェアをするようになりました。同じ屋根の下、同じクリスチャンとして、そして家族として暮らしてきました。(一人でいる方が楽だと思っていた私が、誰かと共に住むことになるとは思いもしませんでした。)
ですが、彼女に対しても、まだまだ言葉足らずだったり、思ったことを言えていなかったのだと気づかされました。
情の裏は、裁き・高ぶり!彼女を裁いてもいたのでした。私はそのことを謝らずにはおれなくなり、
「私は今まで‘情’で言わなくちゃいけないことをたくさん言ってこなかったんだと思う!今まで思ったことを言わず、裁いていてごめんね!」と神の御前で正直に話しました。
それを聞いた姉妹は、
「話してくれてありがとう!これからは、たくさん話していこう!私たち家族なんだから」と。
一つの関係が変わった!!ことがわかり、私は涙が出るほど嬉しかったです。
そして、姉妹と共に住めるようにしてくださった神の御計画に感謝しました。

箴言18:19a
助けあう兄弟は堅固な城のようだ。

箴言18:24
世には友らしい見せかけの友がある。しかし兄弟よりもたのもしい友もある。

まずは、目の前の一歩から!

‘人間の情’で結ばれたもろい『絆』(お金や、利害関係などのサタンからの少しの攻撃で切れてしまいますね)ではなく、‘神の愛、神の情’によって結ばれる堅固な『絆』で、兄弟姉妹と、友人と、これから出会う人たちと、そして家族としっかり繋がり、神の兵卒として歩んでいけることに感謝します。
すべての栄光をイエス様に帰し、感謝します。
アーメン。