古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しい!

 
 

私は、イエス様に救われたと同時に、イエス様が私の生まれる前から授けてくださっていた、まことの祝福の人生を歩きはじめました。

皆さんは、『これから私の人生はどうなっていくのだろう』とか、『私はこのままでいいのだろうか』など、不安や疑問を抱くことはありませんか?
私は、そう思っても、その思いから逃げていた人でした。

私は、色々なことに対してすごく面倒くさがりな人間でした。女の子だけど、部屋の片付けはできない、髪はいつもボサボサ、服装もだらしがありませんでした。
人とのコミュニケーションもおろそかにして、相手の思いを聞くこと、自分の思いをきちんと伝えることができてなかったので、人に誤解をさせたり、不快な気持にさせたり、迷惑をかけたりしてきました。
向上心もなくて、アルバイトなどで失敗しても、振り返って次のバネに生かす…ということができず、何度も同じ間違いを繰り返して、そこでも人に迷惑をかけ、信用も失ってしまうような人でした。


そんな私が、大学三年生の頃から、就職活動を始めても、どこも採用してくださるところはありませんでした。また、経済的な理由から、新卒という資格を得れるかどうかも不確かになった時期があり、就職活動ができない時もありました。
その後大学四年生になることができましたが、卒業間近になっても企業からのオファーを得ることができませんでした。
私はこのまま就職先も決まらず、卒業か…?と、不安に感じていました。
今、大学生で就職活動が上手くいかず、悩んでいる方のお気持ちが、分かります。

ところが以前、研修という形でお世話になった浜松にある企業の社長から、突然『うちで働きませんか?』とお電話を頂き、驚きと喜びと安堵のうちに、とんとん拍子にその企業での正式な入社が決まってしまいました。

あとで社長から話を聞くと、『今まで100人ほど研修で来た人がいたが、採用した人はごく僅か…』と聞きました。しかも、浜松は、実家は京都にあり、大学も鳥取で当時の私にとっては縁もゆかりもない土地でした。
―今まで採用の声をいただけなかった私に、どうしてすごい倍率のなか私はこの企業に採用していただけたのでしょうか?―

新しく住む家も決まり、大学卒業もでき、私は浜松に引越してきました。
当時、私には交際している男性がいました。その人は浜松に住んでいるクリスチャンでした。彼は、私が浜松に引越してくる以前に、一度私を『ぶどうの木』という浜松にある教会に連れて行ってくれたり、そこで発行した冊子(トラクト)をプレゼントしてくれていました。私は初めてぶどうの木の集会に出席した時、話の内容よりも、若い女性が多くて、しかもみんなお洒落で綺麗だったことが印象に残りました。

私が浜松に引越してきた時、彼は私を再び集会に連れていってくれました。私は今度は『どうしてこの人達はこんなに綺麗―明るい感じなんだろう』と思いながら、話に耳を傾けていました。イエス様を信じた人には祝福が伴ってくると、この日の集会では語られました。そして、この場にいるクリスチャン達が、皆その祝福を確かに受けているように見えました。
私もその祝福が欲しいと、思いました。
そこで牧師と、イエス様を自分の内側に受け入れるお祈りと、助け主と呼ばれる聖霊を頂くお祈りをしました。牧師の後に続いて復唱する言葉もたどたどしかった私でしたが、お祈りした時、私のお腹が確かにポッと温かくなりました。『これが救われるってことなのかな』と、自分なりに、イエス様からの最初の『私はここにいる』とメッセージを受け取った瞬間だったのでした。

聖書には、『そして、あなたがたのうちで良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成してくださるに違いないと、確信している(ピリピ人への手紙一章六節)』と書かれてあります。
今までになかった私が、救われて後、あらわれ始めました。
『イエス様が入られた私達の体は、神の宮:教会そのもの。また、宮の状態(私の内側の状態)が、外側(例えば家の中が整頓されているか等)に現れてくる』と教えられましたが、私は確かに部屋を綺麗にすることを好むようになっていきました。
交際していた男性は、救われる前の私が部屋の片付けができなかったことを知っていましたから、この変化に驚いていました。

またぶどうの木の若い姉妹達が、新しい洋服を買いに私を連れて行ってくれました。私はそれまで、明るい色、可愛い模様の服を買いたくても、『私には似合わない』とか『お金も無いし』等の理由で、結局暗い色・安価な服しか買うことができませんでした。
でも、この時の私には仕事もありお給料を頂いて、こういうことの為にもお金を払える余裕が生まれていました。
さらに、姉妹を通して『何色着ても自由だよ』と言われたことが私の背中を押し、その時には明るい黄色の服を買うことができました。
私はこの時から、明るい色の服も好んで買えるようになりました。今では、救われる前には着ることのできなかったお花柄の服も自分から選んで着ています。

私は容姿にコンプレックスがあり、その一つが幼い時からあったアトピーでした。腕にも足にも掻き傷だらけで、半袖や膝丈のスカートが履けないことが悩みでした。
でも、私は聖書を学ぶようになると、イエス様は癒し主であり、病気も癒してくださることを知りました。
私はイエス様に祈りました。
そして聖書には『あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている(ヨハネによる福音書十五章三節)』『まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう(マタイによる福音書六章三十三節)』と書かれてありますが、私は別にこれといって何か努力したわけでもないのに、ただ集会に行き話を聞いている(神の国と神の義を求める行い)だけで、アトピーが癒されていったんです傷跡も、消えてなくなりました。
服が自由に着れるようになりました。
また、アトピーで困っていたのは容姿だけではありませんでした。痒くて夜中に目が覚めるので睡眠は不十分だったし、あるいは寝てる間目覚めることもなく掻きむしり、気づけば皮膚がボロボロだったり、痒くてイライラは募るし、本当に困りものでした。
でも私、今は本当に全然痒くありません。

こうして、様々なことが変わっていくなかで、私に更に変化がありました!
それは、当時交際していた男性との結婚前の肉体関係を、やめたいと思ったことでした。親にも言えない、人にも公には言えない後ろめたい関係が、嫌になったのでした。
そう思っている時に、牧師を通して『(聖書の)箴言を読むといいですね』と語られて、救われてまだ3ヶ月くらいだった私は素直に読んでみました。
箴言のなかには、人を騙して自分の都合のいいようにあしらう『遊女』が登場してくるのですが、その遊女が自分のことだったと、一瞬で悟れてしまいました。
私は自分が怠惰だった分、人に依存していたのですが、そういう関係は間違っていたと認め、男性とは別れました。

イエス様に出会うと、今、自分が何者なのか、人生のどこにいるのか、絶対に教えて頂けるのです。それはイエス様を信じる人には誰にでも与えられている特権です。しかも、イエス様はこの世界の全てを造られ、全てのことをご存知で、正しいものにも正しくないものにも恵みの雨を降らせてくださる愛の神です。間違った答えやいじわるな答えはお出しになりません。

私は男性との古い交際を終わらせ、まったく初めて本当に『独り』を味わう体験をしました。家族は京都にいましたし、友人も静岡県より以西にいましたから、一人暮らしの家に帰宅すると、誰も絶対にいない環境でした。
でも、私には、ぶどうの木の牧師、兄弟姉妹がいました。 絶えず牧師を通して日々の糧となるメールが届きましたし、毎週決まった曜日に日曜集会とはまた違う集まりもあって、私は人と接する機会を沢山与えられていました。 それに牧師兄弟姉妹はイエス様への信仰のゆえに、私の近況を絶えず気にしてくれました。孤独を体験しそれに捕らわれすぎて周りが見えていなかった時期がありましたが、今振り返ると、そういった人の温かさが、どれだけ私の励まし・支えになっていたことか分かりません。
しかも、牧師や同年代の姉妹達は私を外食や買い物に連れて行ってくれました。私は、救われる前はすごく食欲旺盛で、麺類よりご飯物のほうがお腹に溜まるから、外食はご飯のあるものを選ぶことが多かったのです(一番食べた時は一人で二合~三合くらいの白米を一食で食べたことがありました)。
でも牧師兄弟姉妹と行ったレストランはイタリアンのお店で、パスタが出ました。そしたらそのパスタが美味しくて、それ以来パスタは私の大好きな料理になりました。
それに、今は、パスタを美味しいと感じるだけでなく、それでお腹がいっぱいだと感じるようになりました。美味しいものを、食べれただけで満足できるようになるなんて…夢にも思いませんでした。

イエス様を受け入れると、食べ物の好みも変わります。私は甘いものが大好きで、すごく甘いお菓子が特に好きだったのですが、今、昔食べていたような甘いお菓子を買って食べてみたら、甘すぎて逆に食欲がなくなりました。『なんでこんなのが好きだったのかな』と不思議に思うくらいです。

昔好きだったものが、今はそうではなくなったことは、他にもあります。私は救われる前、少年漫画、特に主人公が特別な力を得て、敵を倒していくストーリーが大好きでした。でも、どんな大義名分であっても自分を頂点に立たせるために殺しあい蹴落としあい、お互いが汚く罵りあう場面を見るのが嫌になり、読まなくなりました。

イエス様は、こうして、救ってくださった後、予想もできなかった現在の自分に変えてくださってきました。



でも、実はイエス様は、聖書に『目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた(コリント人への第一の手紙二章九節)』と書いてあるとおり、私の生まれる前から、私がイエス様に出会うように、ご計画してくださっていました。
私が救われる前から与えられていた職場―現在も勤めています―は、『イエス様が与えてくださった場所』だと牧師を通して語られました。
今の職場があるからこそ、私はぶどうの木の集会が開かれる浜松市に暮らすことができます。そして、この職場は、農業の会社なのですが、私はさかのぼって中学時代に、職業体験授業である農家ご夫婦のお世話になり、それがきっかけで『農業を仕事としてやってみたい』という思いを入れられました。もし、私がこの思いを抱くようにならなければ、私はいまの職場に居なかったと思います。
だから、この職場がイエス様から与えられた場所だと教えてもらった今、私は、聖書に書いてあるとおり『天地の造られる前から(エペソ人への手紙一章四節b)』イエス様に出会えるように、救われるように、私自身は知らなかったけれど、神の御手のなかを救われる前から生きていたんだと分かります。
聖書に『(使徒行伝十七章二十八節a)我らは神のうちに生き、動き、存在しているからである。』とある通りです。

また、人間として一般常識にも大きく欠けていた私でしたが、この職場の人達は本当に寛容で、何度失敗しても、必ずやり直すチャンスを下さってきました。今では、ボーナスを頂けるくらいに、認めていただけています。

私が救われたばかりの頃、牧師を通して『クリスチャンになるとは、良識をもって生きること』と教えていただきました。牧師を始め、神の家族からは、本当に全うなことは何なのか、沢山教えて頂きました。
私は、救われる前まで、何が正しいことなのか、全く分かりませんでした。でも、神の家族は、妥協のない神の愛で、答えを自分のその時その時の感情でコロコロと変えることなく、聖書に基づいて、私の分からないことを教えてくださいました。
でも、私は、イエス様に救って頂き、神の家族と共にいる時間の増えたことがあまりに自然過ぎて、そのありがたさに全く気づいていませんでした。
私は、それに気づけないほどに自分を正しい、自分の意見・感情が一番とする高ぶりの思いが強く、牧師兄弟姉妹に甘えすぎてしまい、一度集会への門をイエス様に閉ざされたことがありました。
私は失って初めて神の家族の存在の大きさを知りました。
私は、その後、イエス様の憐れみで集会に戻ることができました。今、相談し答えをいただけること、また嬉しいことを共に喜び、悩みの日には共に悩んでくださる神の家族に出会わせていただけて、しあわせだと感じます。

皆さんも、本気で戒め、本気で励まし、いつも温かい神の家族の輪に、入りたいと思いませんか?

私はそんな神の家族を通して、『家族っていいな』と思うようになりました。そして自分の京都にいた家族との仲がそれまでは疎遠だったので、絆を復興しようという思いをイエス様に入れて頂きました。そして、今まで全然していなかった近況報告等のメールを家族に送るようになりました。そしてその頃、集会で牧師を通して『受けるより、与えるほうが幸い―あるから与えるのではなく、ないから与えるの。そうしたら100倍1000倍になって自分に返ってきます』と語られ、さらに行動を拡大しようと思い、ずっと不義理をしていた母方の祖母の家に何年かぶりに訪れることができました。祖母と、叔父は、すごく歓迎してくれ、会うことのなかった空白の時間を埋めるかのように会話をしてくれました。私は『来てよかった』と本当に思いました。
そうして家族に働きかけていくなかで、私が家族に送ったメールを『ほかほかの肉まんみたいに温かい』と褒めてもらえました。面倒くさがりで自分勝手だった自分が、そのように言ってもらえるようになるとは、思いませんでした。

そして、段々と家族の抱えている問題を知ることができるようになっていきました。私の家族には借金が方々にあり、長女が多額の送金をしていましたが毎月収支がまったく合わず、少しのお金を出したところで焼け石に水でした。
人間の力では、もうどうしようもない状態にあった私の家庭でしたが、イエス様がぶどうの木を通して、知恵と資金を貸してくださり、家族に京都からぶどうの木集会が開かれる浜松に引越してもらい、人生のすべてを聖書に基づいてやりなおせる機会を与えてくださいました。
一人暮らしをしている私の一番上の姉と妹以外の家族は、浜松に引越してきてから、皆救われ、助け主聖霊を頂くことができました。
長女からの送金は終わり、京都では無職になってしまっていた父が仕事に就き、引きこもりがちだった二番目の姉も普通に外出できるようになったばかりか、今ではアルバイトをしています。
私は、長年苦しめてしまっていた長女からの送金が止まったことが、本当に嬉しいです。 こんなことが起こるなんて、私は夢にも思いませんでした。
『すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである(コリント人への第二の手紙四章十五節)』

それに、そこに至るまでの間に、心はハラハラするようなこともありました。でも、必ずイエス様は、牧師を通して与えられる知恵の言葉に従って行動したことには、必ず共に働いてくださり、次へ次へと前進させてくださいました。
私は『守ってくださった』と思う時、ぶどうの木に与えられている賛美『イエス様はいつでも私と共におられる♪神の大きな力が、私を支えてくれる♪心は喜びに溢れ、私の舌も誉め歌う♪イエス様の御前で望みに生きるから♪(使徒行伝二章二十五、二十六節から成る)』を思い出し、まさにその通りだと思ってきました

また、話はさかのぼって、救われる前、私は自殺願望がありました。でも、それは、目には見えないけれど、しかし確かに存在する悪霊(悪魔の手先)がもってくる思いだということ―死にたいなんて思わない・明るく幸せに生きたいという思いを持って生まれでてくるように、イエス様は私を母の胎内で造られたのです。これが本来の人の性質です―を知りました。
悪霊は、『イエス・キリストの御名で命じる。○○の悪霊よ、私から出ていけ!』とイエス様のお名前で命じれば、出ていき、私は本来の私に戻れるのです。
しかも、イエス様は、悪霊に勝利しやすい環境も用意してくださいます。私の場合、自殺願望は、自分の至らない点や改善しなくてはならない点など現実にある問題から逃げるための極端な口実でしたが、職場が社会人として成長するための訓練場所となり、至らない点を直せる=現実にある問題をクリアできる機会を与えられたのでした。
イエス様のお名前で、悪霊を縛り上げ、追い出す、と同時に人として必要なことも訓練して頂いたのです。
だから今ではいつの間にか、死にたいと思っていたことが遠い昔のことのように、感じています。生活の土台から変えてくださるのがイエス様なのです。

面倒くさがりで、現実逃避ばかり考えていた私が、こんな風になれるなんて、本当に考えてもいませんでした。

イエス様を信じた人には、必ず祝福が与えられるのです。
自分の人生に不安や疑問をお持ちの方、もうこれ以上悩む必要はありません。すべてイエス様の御手のなかです。
あなたが、これを読んでいるのも偶然はありません。
もし、あなたが、イエス様を受け入れてみたいと思ったなら、次の文章を声に出して読んでください。声に出すだけでいいのです。
『愛する天のお父様、イエス様。私がこれまで犯してきたすべての罪をお許しください。イエス様が、私の罪のために十字架にかかって下さり、3日目に神が死人の中からイエス様をよみがえらせたことを信じます。そして、私のこれからの人生を導いて下さい。また、私に聖霊と火によってバプテスマ(洗礼)を授けて下さい。私の全身を聖霊で満たして下さい。たった今聖霊をいただけたと信じます。そして異言も下さい。いただいたと信じ、舌を動かします。(ララララ…と声を出して舌を動かしてください。それがあなたの異言です。)イエス様ありがとうございます。あなたがおっしゃる通り、しるしと奇跡を行い、異言を語ります。すべての栄光はイエス様に帰して、感謝して祈ります。アァメン』

私は、イエス様のおかげで、今まで自殺してしまうこともなく、生きることができ、そして想像もしなかった喜びを沢山体験させていただきました。
私は、ますますイエス様の愛のうちを歩きたいです。
また、この受けてきたことを、周りの人達に伝えることのできる人になりたいです。
そして神の家族がイエス様にあって私にしてくださったこと―一緒にどこかへ出かけてくれたこと、小さなことでも気づいたら声をかけてくれたこと、何度も過ちを犯してもその度に許してくれたこと、過ちを犯していたら忍耐強く私を諭し戒めてくれたこと、最初から私を裁かず『どうしてそう思ったのか』『どうしてそういう行動をしたのか』と理解しようと踏み込んで聞いてくれたこと、嬉しかったことを共に喜んでくれたこと、離れている時は黙って影でイエス様にとりなし祈ってくれていたこと―を私もイエス様にあって周りの人と接していく時、意識していきたいです。

『わたしはあなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また「受けるより、与えるほうが幸いである」と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである。(使徒行伝二十章三十五節)』

アーメン!そのように、主にあって、私の家族、親戚、友人、会社の人に、また出会う人達に働きかけていけたこと感謝します。

最後に皆さんへ、イエス様から愛のメッセージです。


コリント人への第二の手紙五章十七節
『だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。』


ヨハネによる福音書十六章三十三節
『これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。』


使徒行伝四章十二節
『この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。』

アーメン!すべての栄光はイエス様に帰します。