イエス様に出逢えてよかった

 
 

私は47歳の主婦です。主人・子供2人(長女22歳、長男21歳)・主人の母の5人で暮らしています。私は24歳の時に結婚をしました。今のこの時代には珍しくない「出来ちゃった婚」でした。私はその前にも、お付き合いをしていた人との間で妊娠に至り、一度中絶した事があります。当時私は、21歳でした。年齢的にも若かったので、特に迷う事もなく簡単に中絶をしました。そして、”結婚をする前に中絶”という辛い経験をしていながらも、同じ事を繰り返し結婚前に妊娠。今回は結婚となりましたが、どれだけ命という物を軽んじていたのか、クリスチャンとなり知る事が出来ました。まだ生まれてこない小さな命を、人ではなく物の様に簡単に処理してしまう自分がいました。主人と結婚した後も「もし妊娠していなかったら結婚していたのだろうか?」と思う事が度々ありましたが、そうなることも全て神はご存じで神の計画。主人が「たった一人の人」であり、そんな私でもイエス様は選んでくださったのだと
わかりました。

創世記2:22~24
主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。

私とぶどうの木との出会いは、長男の交通事故がきっかけでした。長男は、小さい頃から野球をやり甲子園を夢見る高校球児でした。
2008年10月28日、 自転車にて登校中、交通事故にあいました。頸椎損傷で首から下が動かず、自発呼吸も出来ないので呼吸器を手放せない身体となってしまいました。今までの生活が一転し、本当に目の前が真っ暗になるとはこういう事をいうのだと思いました。加害者がどんなに謝罪しようが、息子が元に戻る訳でもなく、“顔も見たくない!謝罪の言葉も聞きたくない!”と思い憎んでいました。

2009年2月17日、リハビリの為、浜松の病院から兵庫県の病院に転院することになりました。家には主人と義母が残り、私と長女は病院の近くにアパートを借り、4ヶ月間のリハビリ生活に付き添うことになりました。その中で自宅での介護生活を送る為に、息子と一緒にたくさんの事を学びました。転院する前に、息子の野球部の先輩とそのお母さん、お姉さんの3人が浜松の病院にお見舞いに来て下さり、私は初めてイエス様の話を聞きました。
その時は「イエス様」と言われても何だか良くわかりませんでしたが、事故に遭ってからは周りの人から勧められる色々な物に神頼みをしていたので “イエス様でも何でもいい。息子が治るなら何にでもすがりたい!”という思いでした。
兵庫の病院に移ったあと、イエス様の話をして下さった野球部の先輩のお母さんから、何度か「病院に行きたい」とメールをいただきました。断る理由も無かったので、「どうぞ」と言う感じでした。

2009年4月4日、牧師家族(牧師と娘さん二人)と野球部の先輩家族が兵庫県の病院へ来て下さいました。
その日は、来る予定のなかった主人が兵庫に来ており、私達は家族揃って牧師達からイエス様の福音を聞く事が出来ました。そして、イエス様を受け入れ救われました。その時はとても不思議な感じで、疑う事も無く素直に受け入れる気持ちになった事を覚えています。今思えば牧師達の言葉が、宗教臭くなく真理(真の神の言葉)だったからなんだと思いました。牧師からは、牧師自身の病気の癒しや、牧師の娘さんの学校の先生(男性)が脊髄損傷で言語を奪われた状態から、ある日突然車椅子から立ち上がり走り出したという話を聞きました。今、“何がイエス様を信じる気持ちにさせたのか”と思いだしてみると、牧師からの言葉一つ一つが温かかった事が思い出されます。
そしてその時に、沢山の御言葉を与えてくださいました。

マルコ5:25~34
さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた。多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた。イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。そこで弟子たちが言った、「ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか」。しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた。その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。

マルコ16:14~18
その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。

ルカ7:11~16
そののち、間もなく、ナインという町へおいでになったが、弟子たちや大ぜいの群衆も一緒に行った。町の門に近づかれると、ちょうど、あるやもめにとってひとりむすこであった者が死んだので、葬りに出すところであった。大ぜいの町の人たちが、その母につきそっていた。主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」
と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいる者たちが立ち止まったので、「若者よ、さあ、起きなさい」と言われた。すると、死人が起き上がって物を言い出した。イエスは彼をその母にお渡しになった。人々はみな恐れをいだき、「大預言者がわたしたちの間に現れた」、また、「神はその民を顧みてくださった」と言って、神をほめたたえた。

ローマ15:14~21
さて、わたしの兄弟たちよ。あなたがた自身が、善意にあふれ、あらゆる知恵に満たされ、そして互に訓戒し合う力のあることを、わたしは堅く信じている。しかし、わたしはあなたがたの記憶を新たにするために、ところどころ、かなり思いきって書いた。それは、神からわたしに賜わった恵みによって、書いたのである。このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである。だから、わたしは神への奉仕については、キリスト・イエスにあって誇りうるのである。わたしは、異邦人を従順にするために、キリストがわたしを用いて、言葉とわざ、しるしと不思議との力、聖霊の力によって、働かせて下さったことの外には、あえて何も語ろうとは思わない。こうして、わたしはエルサレムから始まり、巡りめぐってイルリコに至るまで、キリストの福音を満たしてきた。その際、わたしの切に望んだところは、他人の土台の上に建てることをしないで、キリストの御名がまだ唱えられていない所に福音を宣べ伝えることであった。すなわち、「彼のことを宣べ伝えられていなかった人々が見、聞いていなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりである。

ピリピ4:4~7
あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

Ⅱペテロ1:3~11
いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かになるならば、わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう。これらのものを備えていない者は、盲人であり、近視の者であり、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れている者である。兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。こうして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの永遠の国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるからである。

Ⅲヨハネ1:2
愛する者よ。あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵れ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。

特に頂いた御言葉の中で、イエス様に希望を感じた御言葉はマルコ16:17~18でした。


「信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。
アーメン。


牧師が帰り際に聖書をくださいました。その聖書に印を付けてくださり、その部分を毎日読むように言われました。私と娘はできる限り、病室で声に出して読んでいました。また、病室からは正面に教会の十字架が見え、夜になると赤く点灯していたので、いつもそれを見ながら祈っていました。

2009年6月にリハビリが終わり、自宅へ帰宅する事になりました。イエス様を受け入れましたが、自宅に戻ってからも、すぐには教会へは気持ちが向きませんでした。息子が甲子園を目指す高校球児だった為、どうしても野球の応援に行きたい気持ちが強く、毎週メールでの誘いがあっても断っていました。

夏の県大会が終わり、全国大会(甲子園)が雨で中止になった日曜日、テレビ放送も無いので“ちょっと行ってみようか”という気持ちになり、家族で初めて集会に参加しました。そして何回か通う内に、牧師の方から〝何故息子がこの様な状態になったのか!!″を示されました。
私達は牧師を通して、全ての物事には霊的(神の世界)原因があり、見たり聞いたりしている事よりも、現実的である事を学びました。全ての事に偶然は無い!息子の事故も何らかの霊的原因があり、そこを解決(整える)していく事により、息子の身体に神の癒し(神癒)が行われていく・・・牧師は私達に、今まで生きてきた中での罪を清算して、新しい人生・清い人生を生きるために、自分達の過去に目を向けさせて下さいました。

私は息子の事故に対して、加害者を憎む半面、自分が若い時に中絶をしてしまった事が原因で“バチがあたった”という思いがあり、自分を責めていました。そして、その思いを誰にも言う事ができず苦しんでいました。しかし、聖書を学んでいく中で、神はバチ等を当てる神ではないことと、サタン(悪霊)の存在を知りました。
息子の事故にも霊的な原因があると言われ、それは「中絶したから」という事とは違うと教えていただきました。今まで自分を責め重荷を負っていたけれど、いつまでも血肉の戦いで自分を責め続けるのも違うのだと、聖書から教えていただきました。

エペソ6:10~18
最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち
抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。

Ⅱコリント5:16~17
それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

また、イエス様によってぶどうの木に与えられた『地獄についての神の啓示』という本には、中絶や流産が原因で、この世に生れて来なかった命は天国へと引き上げられ、イエス様と共にいるのだと書かれている事も教えていただきました。私は、イエス様に悔い改めの祈りをしました。そして家族にも、自分が昔犯してしまった罪を告白しました。家族はクリスチャンとして、「血肉の戦いではない!」という聖書の御言葉に立ってくれました。血や肉体を持った私という一人の人間を見るのではなく、サタンが私にさせたことだという教え(真理)のもと、神の家族(兄弟姉妹)として私を許してくれたのです。この事によって、私と家族の中に隠し事や、わだかまりがなくなり、風通しの良くなった関係に変えられたことで、新たにイエス様にあっての家族の絆を築いていく歩みが始まりました。

もう一つ、私達夫婦の心の中に、重荷となっていた事がありました。
7年前に私達夫婦は、20年近く勤めた会社を突然辞める事になりました。それは、会社のお金を横領してしまったからです。直ぐに会社の社長には返済をしました。返済するお金も自分達では用意出来なかったので義母からお金を借りました。普通に考えれば警察に通報されてもおかしくないのですが、社長の温情で警察沙汰にならずにすみました。しかし、問題が発覚してから社長に謝罪をしなくてはいけないのに、会ってはいただけず、会社を辞めてそのままになっていました。それを牧師に話すと、「社長に謝罪に行きなさい。必ず聖霊(助け主)が働いて、向こうも気持ちよく迎えてくださるから。」と言われ、私と主人は息子を連れて会いに行くことにしました。会うまでは、何て言ったらいいのか~大丈夫かな~と不安でした。しかし社長は「元気だったか!今は何をやってる?」と思いもよらない言葉をかけてくださいました。ただただ私達は謝るだけでしたが、社長は何も無かったかのように接してくださいました。私と主人は、ずっと謝れずにいた事が胸につかえていましたが、胸のつかえもとれスッキリする事が出来ました。牧師からも、「どんな罪でも全て許される。イエス様が私達の全ての罪を背負って十字架にかかり、血を流してくださった。あなたたちは、この世の悪霊に使われてしまったのだ」と教えていただき、“もう許されたんだ”と思うと、心に負っていた重荷が取り除かれました。

このようにイエス様は、一つ一つ私の重荷を取り除いて下さいました。私は許される事を知り、そのような自分を許して下さったイエス様にあって、人を無条件で許す事も知りました。
自分の内側が変えられて、今は“事故の裁判を一刻も早く終わらせたい!人を罪に定め、訴え続けるのは違うし、したくない!”という思いになり、また、“その裁判の為に息子や自分達家族が、どんなに不幸で辛い思いをしているのかを、書類に書いて証言する事もしたくない!”という思いが沸き起こってきました。

一番最初に集会に導かれた時のメッセージは「許すこと」(みことばノートNo.81)でした。自分達が犯してきた罪は、イエス様が十字架にかかって血を流してくださったことで全て許されたのだから、そのイエス様を受け入れた自分も、相手の罪はとことん許さなくてはいけない事を言われました。そしてそれは、助け主聖霊によっ
て必ずできるのだと教えられました。また、息子の事故もサタン(悪霊)が相手を使って事故を引き起こしたこと、だから加害者も実は被害者なのだという事を教えていただきました。私達はこの教えに従い、加害者となってしまった男性を許しました。そして、彼らも苦しみの中にいる事を知っていたので、教会に彼と彼の父親を呼び、共に聖書を学んでいこうと働きかけました。今は毎週一緒に聖書を勉強しています。

後に、サタンが事故を引き起こした事についても、霊的な原因(3~4代にわたる血の中にある呪い祟りの霊力)があり、私達家族と加害者(家族)が同じ霊力を持っていたため、それが引き合って事故が起こったのだと語られ、ますます自分達をだましてきた悪霊の正体を知り、敵はサタン!というところに立つことができました。

「許し・人を無条件で許す」      みことばノート 抜粋

マタイ6:14~15
もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。

ヨハネ20:23
あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

コロサイ3:12~13
だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。

アーメン。


聖書には、【人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである】と書かれているので、神にとって息子を立ち上がらせることはたやすいことです。しかし、息子は牧師達が病院に来てくださった時に立ち上がる事が出来ませんでした。それは何故か・・・牧師自身もイエス様に聞いていたそうです。そして私たち家族と交わる中で、牧師は娘の状態に目を向けられこうおっしゃいました。「息子さんは、神のタイミングで立ち上がるでしょう。息子さんよりも癒しが必要なのは娘さんですね」と。イエス様は娘のことも深く愛し、救いたいと思っておられたのです。
娘は中学2年の頃から変化がありました。高校中退、未成年の時から水商売をしていました。
16才の時には身体に入れ墨を入れ、妻子ある男性との不倫。私達夫婦は、息子の野球にばかりに関心を持ち、娘はしっかりしていて、何でも自分で出来る子だったので余計に大丈夫と思ってしまい、ほったらかしでした。週末も息子の野球に付いて回っていたので、今思うと寂しい思いをさせていたと思います。自分に眼を向けさせる為に、悪い事をしていたのかと・・・今になってやっとそう気づく事が出来ました。

イエス様は全てご存じで、牧師に娘の状態を示されました。牧師からは、「今すぐ娘さんを夜の世界から足を洗わせなさい。身体に入れ墨を入れさせてしまう様な関係を断ちなさい。そして不倫の関係も解消させる事!サタンにチャンスを与えてはいけない。娘さんの一生が台無しになってしまう。大変危険なところにいますよ!」と言われました。そして、娘に対して御言葉をくださいました。

ヨハネ11:9~10
イエスは答えられた、「一日には十二時間あるではないか。昼間あるけば、人はつまずくことはない。この世の光を見ているからである。しかし、夜あるけば、つまずく。その人のうちに、光がないからである」。

主人は娘の不倫相手と連絡をとって関係をやめるように伝え、夜の仕事も辞めさせました。
改めて牧師から、息子は既に霊が癒されているから立ち上がるのは時間の問題。しかし、娘の状態は入れ墨=自分を傷つける行為であり、不倫も居場所が無いから夜の街へ行き知り合うチャンスを与えてしまうのだと語られました。そして、どれだけ娘の心と身体が傷ついているか!娘の事を親としてしっかりと守り、立ち直らせなければならない!と戒められました。

イエス様は、息子が癒され立ち上がるために私達を救ってくださったのではなく、私達家族一人一人に祝福を与えるという約束のもとで救ってくださったのだと分かりました。

牧師からは、まず娘に寂しい思いをさせてしまった事を心から謝罪し、愛情を持ってしっかりと向き合うよう言われました。直ぐに「今まで寂しい思いをさせてしまってごめんなさい。」と娘に謝りましたが、「今さら何!?」という言葉が返ってきました。今まで娘が抱えてきた気持ちを痛感しました。

娘と向き合うにあたり、娘の入れ墨を除去する事と、高校卒業の資格をとらせることが親の務めとして与えられました。
娘は、高卒の資格がなかった為、自分のやりたい事があっても資格をとる為の学校に通うことができず、仕事をするにも限られてしまい、狭い世界しか知りませんでした。「もう一度勉強をし直し、もっと社会を知る事。」と、牧師に言われました。娘に入れ墨の事、学校の事を話をしても最初は「嫌だ!必要ない!」の一点張りでした。私も娘の性格から言って、娘の気持ちを変えるのは・・・と思う部分がありました。
しかしイエス様を信頼し信じて祈っていった時、イエス様は娘の気持ちを動かして下さり、入れ墨除去の治療にも通うようになりました。入れ墨除去の治療も東京のクリニックに通い、必ず母親の私が付き添い、治療費は父親の収入から支払うことにしました。今まで淋しい思いをさせてきてしまった娘に対し、主人の収入を全て娘の為に使い、
そして生活費は、息子の事故によって入ってきたお金を、私達家族の生活費として益となる様に使いなさいとイエス様が牧師を通して言ってくださったのです。

平成23年6月4日から入れ墨の治療が始まりました。そして2回目の治療が7月3日(日曜日)の予約しかとれませんでした。日曜日は、安息日である集会を休まなくては行けませんでした。私が集会を休むとなると、主人と車椅子の息子の二人だけでは集会へ行くのは無理で、家族で休むしかありませんでした。そこも牧師から「御主人のお母さんに頼んでみれば」と言われました。「絶対無理」という思いもありましたが、「イエス様。お義母さんを救ってください」と祈りながら頼んでみました。自分の思いとは逆に「いいよ。付いていくだけだからね。」と了承してくれました。そして次の週も義母は一緒に集会へと足が向き、その夜、家に帰ってから聖霊を受け入れ救われました。
本当にイエス様は意思さえ向ければどんな事でもしてくれる。イエス様のやり方ってすごいなと思いました。それからは家族で団結して一つの事に向かえる様になりました。

高校中退の娘は、高校卒業の資格等いらないと以前は言っていましたが、今は高卒認定試験で資格をとる思いになってくれました。2012年8月に高卒認定試験を全く勉強しないで8教科中4教科合格することができました。
試験では、何故か「キリスト」とか何だか集会で聞いた聖書の内容が出題され、娘もビックリしたと言っていました。いつもイエス様は側(内側)にいるんだという事を感じたそうです。残りの科目も、次の試験で合格すると意欲が湧くようになりました。今度は11月に受験する為に、学校へ通いたいという思いをイエス様は娘に入れて下さいました。
インターネット等で探していたら1つの学校が示されました。そこへ娘と二人で説明を聞きに行く事にしました。
9月からの受講で、11月に高卒認定試験を受験します。今では、もし合格出来なくても1教科でも受験に合格していれば、引き続き授業を受ける事で、来年の3月には高校卒業の認定が与えられる制度がある事を教えられました。来年の4月には、大学でも専門学校でも自分の望む道に進む事が出来ます。わずか半年の間に、イエス様は娘の道を整えて下さいました。本当に神にしか出来ない事だと思いました。今では、学校から帰宅した後も家で問題集を開く娘の姿をイエス様は私達に見せてくださっています。以前では考えられない姿・・・イエス様によって出来ない事は無いとイエス様の愛を実感している毎日です。本当に変えられた娘を見て「イエス様ありがとう」の感謝の言葉でいっぱいです。

私は今まであまり感情を出す方では無く、愛情表現も苦手でした。
そんな私が、イエス様を知り救われたことで、牧師(=霊のお母さん)から沢山の知恵の言葉をいただいてきました。
例えば、駄目な事は駄目だという事。時には抱きしめてあげる事も大事だということ。それは、改めて今までの自分を振り返ると出来ていない事ばかりでした。家族が生活していく上では、困る事はありませんでしたが、家庭内は「コミュニケーション・お互いを思いやる気持ち」が無く、お互いに無関心だったと思います。自分では、仕事もして家族の食事の支度、子供達の事とフル回転で何でもやってきたと思っていました。主人は仕事しているだけで、家に帰れば寝てるだけ。お互いに無関心な生活の中で、私もそこそこ収入があったので、子供達が成人したら離婚したいという思いもありました。だから家庭内には愛が無かったと思います。子供達がいるから我慢しようという所に私はいました。主人に何かを頼んでも、直ぐにやってくれない!自分でやってしまう!それなら最初から何も言わないで自分でやろう! という感じだったので、会話も特にありませんでした。それでいいと思っていました。そんな私達夫婦の関係だったので、おのずと家族間の会話もなく、気持ちがバラバラな家族でした。

今回ぶどうの木で新しいトラクト『1つになろうよ!~命の絵本〈命の糸に会う本〉~』ができ、改めて家族の在り方を問われました。まずはコミュニケーションの第1歩として、家族と会話すること。当たり前の事ですが、それが出来ていなかったので、相手に関心を持ち、相手の気持ちを思いやる事の大切さから教えられました。
『相手は鏡!』・・・相手の嫌な所が見えたら、それは自分も同じものを持っている。表情・口調全てが、その時の自分だと語られました。言葉を出すのも思った事を、すぐに口に出さないで一拍置く事。出す言葉も全て「イエス様」と聞きながら話す事。聖書には言葉はとても大切だと書かれています。
【言葉は肉体となる】・・・悪い言葉ではなく聞いている人の益になる様な言葉を出しなさいと書かれています。言葉一つ、呼び方一つで相手に働く霊力というものが変わってくる事も語られました。
例えば、こんな事がありました。義母に対し子供が出来てからは「お義母さん」ではなく『おばあさん・ばーば』と呼んでいましたが、ある日の集会で、「年寄り扱いされている様で嫌だった」という母の気持ちを知りました。また、牧師から「子供が出来ても、あなた達にとってはお義母さんなのだから、お義母さんと呼ぶのが自然だ」と言われました。私は義母の気持ちに全く気づけていなかったことを悔い改めました。今は、「おかあさん」と呼ぶことから、改めて母との関係を築いています。

私は今、家族とのコミュニケーションをとる、訓練の真っ最中です。相手に関心を持ち、お互いに自分の思いを正直に伝えあう、言葉のキャッチボールの大切さを教えられています。

箴言31:10~31
だれが賢い妻を見つけることができるか、彼女は宝石よりもすぐれて尊い。その夫の心は彼女を信頼して、収益に欠けることはない。彼女は生きながらえている間、その夫のために良いことをして、悪いことをしない。彼女は羊の毛や亜麻を求めて、手ずから望みのように、それを仕上げる。また商人の舟のように、遠い国から食糧を運んでくる。彼女はまだ夜のあけぬうちに起きて、その家の者の食べ物を備え、その女たちに日用の分を与える。彼女は畑をよく考えてそれを買い、その手の働きの実をもって、ぶどう畑をつくり、力をもって腰に帯し、その腕を強くする。彼女はその商品のもうけのあるのを知っている、そのともしびは終夜消えることがない。彼女は手を糸取り棒にのべ、その手に、つむを持ち、手を貧しい者に開き、乏しい人に手をさしのべる。彼女はその家の者のために雪を恐れない、その家の者はみな紅の着物を着ているからである。彼女は自分のために美しいしとねを作り、亜麻布と紫布とをもってその着物とする。その夫はその地の長老たちと共に、町の門に座するので、人に知られている。彼女は亜麻布の着物をつくって、それを売り、帯をつくって商人に渡す。力と気品とは彼女の着物である、そして後の日を笑っている。
彼女は口を開いて知恵を語る、その舌にはいつくしみの教がある。彼女は家の事をよくかえりみ、怠りのかてを食べることをしない。その子らは立ち上がって彼女を祝し、その夫もまた彼女をほめたたえて言う、「りっぱに事をなし遂げる女は多いけれども、あなたはそのすべてにまさっている」と。あでやかさは偽りであり、美しさはつかのまである、しかし主を恐れる女はほめたたえられる。
その手の働きの実を彼女に与え、その行いのために彼女を町の門でほめたたえよ。


ここには、女性の器としてどうあるべきかが書かれています。この御言葉をしっかりと握りしめ、家族との絆を大切にしたいと思っています。

私達は、不思議と困った時に大きなお金が入ってくる人生でした。
20年前に家を建て、その時の住宅ローンが義父の死により、3年程返済しただけでローンが返済不要になりました。会社の横領でお金を返すのに、義父の生命保険のお金を、義母に借り返済する事ができました。4年前の息子の事故により多額の賠償金が入り、それにより義母に借金を返せました。全てイエス様からの祝福されたお金では無く、サタンの支配下で翻弄されて得たお金ばかりでした。そのお金を、私達家族が〝イエス様に祝福された家族″となる為に使う事で、有益な物に出来ると、牧師を通して言われました。


私達家族は『神癒』のひな型の家族だと牧師から言われました。最初は、息子の癒しの事と思っていましたが、そうではなく、3~4代の血の中にある霊力からの解放・断ち切る事が神癒なのだと教えていただきました。そしてそのために、まずは自分自身が180度変わる事を言われました。
今まで自分が出来なかったコミュニケーション・家族の絆をしっかりと持つ事。誰が欠けてもいけない、皆がそれぞれ訓練の場に立たされています。他人よりも肉親の方がやっかいですが、「血肉でみてはいけない!相手がどんな状態でも相手を血肉で知ってはいけない」というみことばに一人一人が立ち、日々許し、愛し、祝福し合いながら生活しています。

マタイ7:1~5
人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

「どんな相手でも全て許さなくてはいけない。自分がしてきた罪も全て許されたのだから。」と聖書には書かれています。
【愛が無ければ一切が無益】・・・どんな言葉でも愛を持って口にするように言われています。

ぶどうの木の牧師からは本当に一から十まで知恵の言葉で教えていただきました。後は自分が忠実にやるだけ!本当に簡単な事ですが、自分の怠惰や肉の思いで無駄にしてしまう事もありました。そんな私達であったにも関わらず、牧師や兄弟姉妹は見捨てずに、忍耐をもって何度も教え諭して下さいました。どれだけの愛を注いでいただいたか分かりません。これからは、自分がしてもらった事を相手にもしてあげられる者にならなくてはいけません。

我が家は今、家族単位の信仰ではなく、一人一人が『自分とイエス様』の関係の中で信仰に立っています。そして、イエス様の愛と証をいただいている恵みに感謝し、毎週家族5人で、喜んで集会に出席しています。また、毎晩家族で聖書を読む時間をもうけ、コミュニケーションの時間も大切にしています。

私は、喫煙者で煙草はやめなさいと言われていました。「百害あって一利なし」自分の身体にも良くないし、何より自分の中に聖霊がいるのに「聖なる宮を汚している。」と言われてもなかなかやめる事が出来ませんでした。ある日 息子が床擦れがひどくなり、それは自分達が煙草を吸っている汚れが、そこに現れていると言われました。それでもうやめる事が出来ず苦しんでいました。息子の床擦れよりも、自分のストレス発散の方を優先し、イライラを煙草で紛らわしていました。
その時は、クリスチャンであってもイエス様に求める事が出来ず、自己愛で「この位いいじゃん。」という所もありました。でも、「煙草をやめたい。」という思いと罪悪感で、とても苦しかったです。
しかし、ある日突然スパッとやめる事が出来ました。
今まで自分のやり方でやめようと苦労してもやめる事が出来なかったのに、本当にやめたいと思い、「イエス様、こんな自分は嫌です!」と聖書に向かう事が出来たとき、御言葉と共にスパッとやめる事ができました。イエス様が私に思いを入れて下さったのだと感謝しました。

イザヤ41:13
あなたの神、主なるわたしはあなたの右の手をとってあなたに言う、「恐れてはならない、わたしはあなたを助ける」。

Ⅱコリント12:9~10
ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

家族の事も、思いやる気持ちにさせてくださったのはイエス様です。何より息子の事故で生活がガラッと変わってしまい、言い表せない思いで真っ暗でした。しかし、イエス様に救われて、家族が前向きに明るく生活できるようになりました。台所にたっていても鼻歌を歌いながら食事の支度をする自分にかえられていきました。その鼻歌も最初は讃美歌を歌う事でした。
牧師から「聖書が開けない時も、讃美歌の中にたくさんの御言葉があるから、讃美歌を歌う事でも自分の中に御言葉が蒔かれる。」と教えていただき、讃美歌を歌うようになりました。自然と気持ちが軽くなり、暗闇から明るい所に出られたような感じがしました。御言葉が、自分を元気にしている事を実感しました。

今、ぶどうの木では「3~4代に渡る血の中にある呪い祟りの霊力」について示されています。
この霊力によって、イエス様を知らない時代の私達は、サタンに好き放題に攻撃され、長男の事故、長女の状態、家の中の状態等を引き起こしてきました。「何も困っていない」と、あのまま進んでいたら、どうなっていたでしょう・・・。しかし、イエス様に救われ霊的状態が整えらていった時、そのあらわれは魂・そして目に見える身体の状態へとあらわれていきます。
私達は、イエス様が牧師を通して語られる、御言葉に基づいた知恵の言葉を忠実に行い、古い時代のものを捨て去り、180度反対の自分に生まれ変わった時、御言葉(箴言)通りの祝福が注がれると信じています。

箴言10:22
主の祝福は人を富ませる、主はこれになんの悲しみをも加えない。

息子が立ち上がる日も目前に迫っています。今、私達家族1人1人に与えられた、イエス様からの愛を体験しながら毎日を送っています。振り返ってみると、救われる前に良いと思っていたものには何の価値もなかった、私達は、足元がすぐに壊れてしまう様な土台の上に家を建て、平安だと思いながら住んでいましたが、それは大きな間違いであった事に気付きました。
私達は土台のしっかりした家を建てなければなりません。どんな事があっても揺るがない、イエス・キリストという真の神を土台に建てられる家は、どんなサタンの霊力にも支配されない完璧な祝福の家です。

マタイ7:24~27
それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。

今、家族と共に聖書を通して、お互いが分かりあい祈りあえる関係を築いている事を、本当に嬉しく思っています。私達の将来に、不安を感じないで生活出来る今!!イエス様に出会ってなければそう感じる事はなかったでしょう。

長年、野球中心の生活を送ってきた息子は、クリスチャンになった当初、早く立ち上がって野球をしたいという思いを強く持っていました。しかし、聖書には【神の思いは人の思いとは異なっている】と書かれてあります。

イザヤ55:8~9
わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。

息子は、“立ち上がったら、学校で野球の指導者に就きたい”という思いがありましたが、イエス様が導いてくださったのは、体育系の大学ではなく、完全インターネット授業で、自宅にいながら学べる、サイバー大学(コンピューター系の大学)でした。
事故にあう前の身体ばかりを使う生活から一転し、今まではあまり打ち込んでこなかった「勉強」という分野に挑戦する事になりました。学んでいく中で難しいと思う事もあるようですが、神は今のこの時間を使い、徹底的に訓練してくださっています。事故前は身体を使うだけで(野球)、頭を使う事(勉強)をしてこなかった息子ですが、この訓練により、野球の世界から視野を広げ、バランスのとれた大人として立ち上がる事となるでしょう。思いをはるかに越えてかなえてくださる神に感謝します。
そして時がきて、立ち上がった息子は以前の息子ではない。神によって変えられ、新しく生まれ変わった人間となって立ち上がり、主にあって人生を切り開いていく事ができる。今、その道を着実に歩んでいる事が分かります。

Ⅰペテロ2:19~25
もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。   

ローマ5:1~5
このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。

伝道の書3:1
天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。

伝道の書3:11
神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。



私は今、【イエス様は、私達が求め、また思うところの一切を遥かに越えて叶えてくださる方】(エペソ3:20)という聖書の御言葉に強い確心を持って、一日一日を生活しています。皆さんに私が受けたイエス様の愛を伝えられた事に感謝します。

すべての栄光をイエス様に帰します。