長崎旅行で学んだカトリック

 
 

11月8日~10日まで、牧師である母と、長老家族と一緒に長崎に行ってきました。私は高校の修学旅行以来だったので、約10年ぶりの長崎観光となりました。
長崎と言えば、キリスト教の中心の地でもあります。私たちは、大浦天主堂と、浦上天主堂を通して、カトリックの歴史と、その教えについて知ることとなりました。

1日目に大浦天主堂(国宝)に導かれ、2日目に浦上天主堂に行きました。
大浦天主堂に入った時、イエス様は牧師を通して、「よく学んで、間違って伝えられた私を、日本の人たちに正しく伝えるように!」と私たちにおっしゃいました。
その言葉どおり、教会堂の正面には、十字架にかかったままのイエス様がステンドグラスに描かれていました。そして、教会堂の柱には、イエス様の十字架の道行(十字架にかかっておろされるまで)を描いた絵が、順にかけられていました。そして、どの絵にも、必ず母マリアの姿も一緒に描かれていました。
私たちは違和感を感じました・・・イエス様は十字架にかかり3日後に復活されているのに、カトリック教会のイエス様はずっと十字架にかかったまま・・・そして、血に力があると聖書には書かれているのに、柱に飾られている絵には一切血が描かれていない・・・イエス様の十字架の意味が全く正しく伝えられていないことが分かりました。

イエス様が十字架上で流された血と、イエス様の復活には、とても大きな意味があります。
イエス様の血は私たち人間のすべての罪を清める“力”があり、復活されたことによって、助け主・聖霊が来られ、クリスチャンには悪霊を追い出す権威と“力”が与えられます。イエス様は十字架にかかって死んだ神ではなく、復活されて今も生きておられる神だからこそ、偽の神々にはない“力”があるのです。イエス様の十字架の姿ばかりに注目して、十字架にかかることで成し遂げられた神のご計画に目を向けることをしないカトリック教徒たち・・・そこには私の想像をはるかに越えたマリア信仰・マリア偶像礼拝がありました。

カトリックは、自分の息子(イエス様)が十字架にかけられた母マリアの苦しみを教えていました。柱にかけられている絵や、販売されている冊子「聖母マリアとともに歩む十字架の道行」などからも、母の悲しみを想像させ、情に訴えてくる描写がたくさんありました。
そして、原罪の人間である私たちのせいで、無原罪のマリアの息子であるイエス様を十字架にかけさせてしまったのだから、マリア様の苦しみに目を向けて罪を犯さないように生活する・・・マリア様はイエス様と私たち人間との間の仲保者である・・・そんな教えが土台にあることが分かりました。
なぜここまで、イエス様ではなく、“マリア様”になってしまったのか・・・。
教会堂の入口には、『日本之聖母』と書かれたマリア像があり、書店には『無原罪のマリア』という小さなマリア像(マリア偶像礼拝)が販売されていました。また、ロザリオというネックレスのようなものを使って、マリアへ祈りを捧げる儀式があることや、メダイというペンダントのようなものを身につけ、それが、マリアの愛の印と、マリアへの信心の証を意味するのだということも知りました。さらに、以前インターネットでカトリックについて調べた際、天の父である神、イエス様、聖霊様の三位一体と、マリアが同等に位置づけられていたり、マリアは、アダムの助け手であるエバだという勝手な解釈をしていたことも思い出し、私は、母マリアが神格化されている現実に、聖なる怒りが込み上げてきました。

さらに、「殉教」という言葉を身近に感じたのも初めてでした。信仰をつらぬき通すことによって受けた迫害の歴史が、長崎にはありました。キリスト教弾圧によって、神父や信者26人が、十字架刑となり殺された史実。12歳の少年もこの刑によって殺されたと知り、とても胸が痛みました。そして、彼らは後に26聖人と呼ばれるようになりました。
他にも、餓死刑によって死んだ神父や、冬に裸で石の上に座らされて説教と拷問を受けて死んだツルという女性など、殉教によって亡くなったクリスチャンは記録にあるだけでも600人以上だと言われているそうです。

彼らはなぜ、このような目にあわなければならなかったのかを思う時、やはりマリア偶像礼拝が原因だと語られました。復活したイエス様に目を向けてこなかったがために、彼らには聖霊の力がなかったのです。だから、すべて肉(魂・体)・・・マリアを悲しませないように、肉で努力して聖書のみことばに従おうとしたのです。マリアが自分たちを守ってくださると信じて・・・。でも、マリアは所詮、神に用いられた一人の人間にすぎません。神の“力”は与えられていないのです。結局彼らは、自分たちを弾圧してくるサタンの策略に打ち勝つことができず、命を落すこととなったのです。

“力”のなさは、2日目に行った浦上天主堂でさらに明らかになりました。
浦上天主堂には、被爆マリア像がありました。浦上天主堂は、爆心地から0.5キロに位置し、一瞬のうちに爆風で教会堂が全壊しました。そして当時、堂内にいた2人の神父と24人の信徒が亡くなり、原爆によって浦上教区信徒12000人のうち8500人が生命を失ったそうです。この、悲惨な光景は原爆資料館でも紹介されており、“クリスチャンであっても守られなかったのか・・・”ということを証明していました。

そして、殉教し、原爆を受けてまで伝えてきたカトリックの教えは、今や長崎の人口の0.3パーセントしか信仰しておらず、1000人に3人しか信者がいないと知り、本当に彼らの人生は一体何だったのかと、むなしくなるばかりでした。

これがキリスト教!?・・・私が未信者であれば、そう思います。カトリックとプロテスタントの違いも分からず、キリスト教と言えば、ステンドグラスのあるきれいな建物と、黒い服を着ているシスターや、大きな十字架をぶらさげて結婚式を執り行う神父をイメージする人がほとんどなのではないでしょうか??皆さんがよく知っている、世の中で称賛されているマザーテレサや、ローマ法王もカトリックを代表する人物です。
日本人の身近にあるキリスト教は、フランシスコ・ザビエルが日本に伝えたマリア偶像礼拝の教え=カトリックなのです。知れば知るほど、偶像礼拝の新興宗教のように思えました。今、自分が学んでいる教えと全く違う!十字架にかかっているイエス様を見ても、自分が知っているイエス様と同じだとは思えませんでした。私が知っているのは、すでに復活されたイエス様です。すでに天の父の右に座られ、私たちのために執り成してくださるとともに、そのお名前と血に、権威と力があるお方です。

私たちは、今回の2泊3日の長崎旅行でカトリックをしっかりと学んできました。カトリックの教えは違う!と確信をもって言えるように、自分の目で見て、学ぶ機会をイエス様は与えてくださったのです。
肉は大変な衝撃で苦しくなりましたが、大浦天主堂、浦上天主堂、原爆資料館を見終わった2日目の夜、私は、「イエス様、もっと分かるようにみことばからも教えてください」と祈り、聖書を開きました。
そして、ヨハネの黙示録からみことばをいただきました。

ヨハネの黙示録18:16~19:3
『ああ、わざわいだ、麻布と紫布と緋布とをまとい、金や宝石や真珠で身を飾っていた大いなる都は、わざわいだ。これほどの富が一瞬にして無に帰してしまうとは』。また、すべての船長、航海者、水夫、すべて海で働いている人たちは、遠くに立ち、彼女が焼かれる火の煙を見て、叫んで言う、『これほどの大いなる都は、どこにあろう』。彼らは頭にちりをかぶり、泣き悲しんで叫ぶ、『ああ、わざわいだ、この大いなる都は、わざわいだ。そのおごりによって、海に舟を持つすべての人が富を得ていたのに、この都も一瞬にして無に帰してしまった』。天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ。この都について大いに喜べ。神は、あなたがたのために、この都をさばかれたのである」。
すると、ひとりの力強い御使が、大きなひきうすのような石を持ちあげ、それを海に投げ込んで言った、「大いなる都バビロンは、このように激しく打ち倒され、そして、全く姿を消してしまう。また、おまえの中では、立琴をひく者、歌を歌う者、笛を吹く者、ラッパを吹き鳴らす者の楽の音は全く聞かれず、あらゆる仕事の職人たちも全く姿を消し、また、ひきうすの音も、全く聞かれない。また、おまえの中では、あかりもともされず、花婿、花嫁の声も聞かれない。というのは、おまえの商人たちは地上で勢力を張る者となり、すべての国民はおまえのまじないでだまされ、また、預言者や聖徒の血、さらに地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたからである」。
この後、わたしは天の大群衆が大声で唱えるような声を聞いた、「ハレルヤ、救と栄光と力とは、われらの神のものであり、そのさばきは、真実で正しい。神は、姦淫で地を汚した大淫婦をさばき、神の僕たちの血の報復を彼女になさったからである」。再び声があって、「ハレルヤ、彼女が焼かれる火の煙は、世々限りなく立ちのぼる」と言った。



神は7つの角度からみことばを通して語ってくださると、牧師を通して教えられてきましたが、私はこのみことばをいただいた時、長崎・カトリック・殉教・原爆・被爆マリア・・・すべてがつながりました。そして、すでに黙示録で預言されていたことを知り、とても驚きました。
長崎に来る前には分からなかったみことばの意味が、神のタイミングで1つ御心を成し遂げた時に理解力が与えられる・・・この神の秩序正しい霊の解き明かしに感謝しました。

第1コリント2:9~13
しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。