『神癒』~無条件の許し~

 
 

はじめまして、私は生まれも育ちも福岡、現在も福岡で仕事をしている女性です。
私がイエス様に出会い、真理(聖書の教え)を知ったのは大学一年生の時になります。大学のクラスで、学籍番号の一番最初だった私と一番最後だった現在のぶどうの木の牧師の次女が、偶然はなくクラスで数名しか受講しない授業で一緒になり、友達として仲良くなり、その子を通してイエス様に出会い、真理を知りました。


聖書には、人との出会いに偶然はないと書いてあるとおり、彼女との出会いも偶然ではありません。大学受験を控えていた頃は、岡山にある県立大を第一志望に、朝早くから夜遅くまで毎日勉強に、実技試験にと努力してきました。しかし、その第一志望の進学先には進むことができず、同時に受験していた静岡県浜松市の当時私立大学(現在は県立大となったことも、神の祝福であり、当時の私には考えられない奇跡です!)に進学することになりました。


箴言19章21
人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。


この浜松への進学が、彼女との出会いを通してイエス様に出会うこと、その全てが神の計画であった事を、当時の私は知る由もなく、私の計画していた大学に行けなかったことで、悔しさもあり、あまり浜松への進学も気の乗るものではありませんでした。そんな私にとって初めての一人暮らしや、福岡から浜松への誰一人知らない遠い土地での生活は、不安やストレスの原因となり、不眠が続く毎日でした。


ある日試験が近いこともあり、試験勉強をするために彼女の家に泊まることになりました。
救われる前の古い私は、ただでさえ人の家で寝付けないし、寝れない日々は続くし、内心「大丈夫かなぁ」と不安でいっぱいでした。出来るなら泊まらずに帰りたいという思いもありました。
さらに、その日は台風が上陸していて天候も悪く、とてもバスで彼女の家に行くことも困難で、行くのをやめようかなとも思っていました。今では、はっきりとあの時の思いは、私をポチの家に行かせたくないサタンの策略と分かります。彼女はぶどうの木牧師の次女であり、彼女の家に行くことはその先に牧師との出会いがあったのです。しかし、実際に台風で天候は悪化する一方で、断りの連絡を彼女にいれようかなと思っていた時、彼女のおじいちゃんがわざわざ迎えに来てくださることになりました。


無事にポチの家に到着し、初めてポチのお母さんでもある牧師とお姉さん(副牧師)に対面しました。その後、彼女と試験勉強を行い、寝支度を行って布団に入ったのですが、あんなに「寝れない寝れない」と話をしていたのに、それが嘘のように恥ずかしいくらい一瞬でぐっすりと眠ることが出来たのです。
当時の私は、まだクリスチャンでもなく、彼女の家族みんながクリスチャンだということを知っている程度でしたが、この体験は私が初めて、「神様っているんだ!凄い!!!」とイエス様に頂いた最初の愛であり、体験体感した出来事でした。


それから、数ヶ月して大学1年生も終わりに近づいたころに、私は青信号を自転車で横断中に交通事故にあいました。相手の方は、信号を確認していなかったようで赤信号で前進したところ、私と接触したのです。連絡を受けた両親が急いで福岡から浜松にきたり、相手の方が私のマンションに尋ねてこられたのですが、謝罪する事もなく両親が事故処理の件で連絡をしたときにも『保険会社に任せているので』という言葉のみで挨拶もなく、両親は『なんて非常識な人なんだ』と怒っていました。
そんなある日、事故後の手続きを行いに警察に母と出向きました。そこで、事故の相手について何らかの処分(裁判をおこしたり)をするのか、許して、解決するのかを質問され答えるというものを行いました。母は、相手の方のあの対応もありましたし、古い私の性格も十分わかっているので、私が即座に「許します」と答えたとき、とても驚いた様子で、「あの、あんたが!びっくりした」と言っていました。


クリスチャンは置かれた所で光でなければなりません。


マタイ5章14~16
あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中すべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。


このみことばをいただいた時、私は改めて大学生活の中で牧師の次女が光となってくれたことで、私自身が変えられていたことが分かりました。超自然の『神癒』を体験していたんだな!と忠実に福音し続けてくれた彼女に、そしてイエス様に感謝し、私も置かれた所で光になるように忠実でなければならないと語られました。


事故のあと、一人暮らしをしている私を気遣ってくれ、彼女は再び家に私を招待してくれました。
そこで、私は初めて彼女のお母さんである牧師本人から、十万人に一人の難病が癒された証を聞いたのです。その証を聞いた時、初めは不思議な気持ちもあり、とても「はっ!」と驚いたのを覚えています。それは「目からうろこ」という表現がぴったりな感覚でした。


私の家は、よくある一般的な日本の家で、特に熱心に信仰はしていないけど、昔から仏壇があるので仏教。でも、親戚は教会で結婚式、もちろん占いや風水なども良いことは信じるけど悪い事は信じない。私もそんないい加減で自分勝手な信心を持っている人でした。家族の誰かが病気になった時は、「病気が治ると有名」と聞けば遠くの神社やお寺にでも足を運び、お守りやお札を購入したし、仏壇に回復を祈ることもしました。ですが、誰一人として回復することなく亡くなっていったのです。周りの人は、「もう歳だから・・・」「そうゆう運命なんだ」と思うことで、見えなくされ、すりかえられていた真理が、牧師の証を聞いたとたん私には、私の中にあった仏教・神道に対する疑問の答えが、一気に見えるようになったのです。
「私が信じていたもの、祈っていたのは真理ではなく、偶像(偽物)だったからダメだったんだ」と。聖書には、はっきりと偶像には力がないことが書かれてあります。


イザヤ42章8
わたしは主である、これがわたしの名である。わたしはわが栄光をほかの者に与えない。また、わが誉を刻んだ像に与えない。


イザヤ42章17
刻んだ偶像に頼み、鋳た偶像にむかって「あなたがたは、われわれの神である」と言う者は退けられて、大いに恥をかく。


わたしはその日、牧師の次女と牧師に祈っていただき、イエス様を救い主として告白し、さらに聖霊様と異言もいただき救われたのです。




しかし私は、私の計画(肉の思い)を優先し、毎週日曜日を聖別する事なくバイトをしたり、休みの日くらい寝たいという理由で、牧師の次女が日曜集会に誘ってくれた際も安息日を聖別することなく、放蕩娘のように、聖書のみことばに従わずに過ごしていました。


そんなある日の日曜日に、いつものように彼女が日曜集会に誘ってくれました。ですが、そのときの私は大好きだった彼に振られたことがショックで、外に出る気分でもなく、その誘いを一度断ったのです。すると、牧師、彼女を通してイエス様がみことばで私に語ってくださいました。
「まず神の国と神の義を求めなさいだよ!」と。


マタイ6章33
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。


このみことばを通して、私は「そうか、行ってみよう。」と意思を向けて集会に行くことにしました。その瞬間、ずっと連絡も取れず、ましてや向こうからの連絡など全くなかった彼から、電話がかかってきたのです!あまりのタイミングに私はすぐに、「イエス様だ!!」と分かり、ものすごい喜びに満たされたのです。
牧師と彼女を通して与えられた「みことば」を初めて体験させていただき、感謝があふれました。

それ以来、私はこのみことばを握りしめています。
私が、ふらふらと放蕩娘のように誤った方向へ歩こうとしたとき、この世にまかれてイエス様が頭( かしら)でない歩きをしてしまいそうな時、いつもこのみことばを通して励まされ、戒められ、「そっちじゃないよ!」と、本当に一方的な神の哀れみで、イエス様は私に語ってくださり導いてくださいます。
また私は、このみことばの賛美が大好きになり、どんな時も知らない間に口ずさんだりしている私がいます。このみことばはまさに、私の信仰の土台となっているみことばなのです。


ヘブル11章1
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。


ヘブル11章6
信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。


それ以来、私は意志を向け日曜日を聖別できるようになり、ぶどうの木兄弟姉妹と真理(聖書)を学ぶようになりました。古い私が180度変えられる体験、『神癒』を体験する歩きがスタートしたのです。


私は特に「許す」ということについて、徹底的に訓練*神癒を受け、自分が変えられていっている!という体験をしました。ただ「許す」のではなく、主にあって「無条件で人を許す」のです。


マタイ6章14~15
もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるしてくださるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。


マタイ18章35
あなたがためいめいも、もし心から兄弟を許さないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう。


人を許すことは簡単なことではありません。許したつもりでも、何かの拍子に思い出し、再び許せない思いにかられることはよくあります。しかし、イエス様は「許しなさい」とおっしゃいます。なぜ許せるのか?それは、イエス様を受け入れてクリスチャンになると、救われる前まで死んで機能していなかった霊(神から与えられている本当の自分)が生き返り、魂と体だけで生きて人を許せなかった自分が、聖書のみことばに従いたい自分に変えられるからです。そして、人を許せなかった原因である“悪霊の存在”と、その悪霊を巧みにつかって人間を苦しめ翻弄させている“サタンの存在”を知るからです。


黙示録12章7~9
さて、天では戦いが起こった。ミカエルとその御使いたちとが、龍と戦ったのである。龍もその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落とされ、その使たちも、もろともに投げ落とされた。


私は、兄弟姉妹が聖書のみことばに従って無条件で人を許した証を聞いたり、牧師が語ってくださる悪霊の教え(みことば)を自分自身の霊に蓄えていく中で、自分の身に起こったことや、周りの人の“状態”を肉(魂・体)でそのまま受けるのではなく、その人にとりつき、あやつっているサタン・悪霊の存在を見ることができるようになっていきました。

そして、救われ聖霊をいただいている私たちクリスチャンには、みことばを持ってサタンと戦う権威も与えられていることを語られました。


マルコ16章17~18
信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち彼らは私の名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる。


ルカ10章19
わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。


このみことばをかかげ、サタンと常に戦い抜いて、勝利をしていかなくてはなりません。
その人を‘その人’として見るのではなく、霊で見分け、どんな悪霊なのか、そしてその霊と戦う!勝利していくということを徹底的に訓練されたのです。


第1コリント2章11b~13
それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜った恵を悟るためである。この賜物について語るにも、わたしたちは人間が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。


エペソ6章10~18
最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言をとりなさい。」
絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。



そして、日本と韓国という国と国の間にある問題を通しても、神は私に血肉の戦いではないことを語ってくださいました。


救われる前の私は、韓国とはかなり近い距離にある福岡で暮らしながら、韓国に対して近くて遠い国という印象を持っていました。初めて韓国人の方と出会ったのは浜松へ行ってからですし、韓国*韓国人を身近に感じる機会もありませんでした。
また、韓国人と日本人は似ているようで、実際交わってみると、言葉はもちろんですが、生活習慣などの違いも多くありました。
最近は、竹島問題や日本と韓国の間にある歴史問題など、韓国に対しても、日本に対しても双方の国に色々な思いを持っている人がいると思います。
私は救われる前まで、政治家の人のように、「竹島は日本の領土なのに、韓国の人はいきなり私達のものだと言い出し、人を住まわせるし、一体なんなんだ!」と思っていた人の一人でした。
それに文化の違いからか、並ぶことをしなかったり、自己主張の強い性格であったり、日本人からすると理解しがたい言葉や行動に対する周りの大人たちの反応や言葉、情報によって、韓国や韓国人に対して“嫌悪感”を持っていました。


そんな私を、イエス様は2011年の8月に韓国ソウルへ導いてくださいました。
この韓国旅行でイエス様が私に語ってくださったのは、人だけではなく、この世のあらゆる問題も肉(感情・知性)で見ずに、まずクリスチャンとして神から頂いている霊の目で見るということでした。
救われて聖霊をいただき、霊にみことばを蓄えていった時、古い自分が持っていた韓国*韓国人に対する“嫌悪感”は、日本と韓国に働く分派分裂の霊*サタンからだということが分かったのです。私は完全にサタンの策略にかかっていたのです。
そして、人間の愛ではなく神の愛(無条件の愛・無条件の許し)で見たとき、どんな人種であろうと、一人ひとりが神の大切な作品であり、私が裁くことではないと語られたのです。


ローマ14章4
他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。


さらにイエス様は、私が知性においても理解し、納得できるようにソウルにある戦争博物館に導いてくださいました。

戦争博物館には、韓国と北朝鮮の間で起きた戦争について詳しく展示してありました。朝鮮戦争が続く中で、韓国の領土が一時は釜山周辺のみになってしまったことも、もちろん知りませんでした。
そして、この戦争博物館で私に語られたのは、韓国という国は、いつどこの国に攻められるのか分からない、心休まる瞬間のない国だということです。自身を主張していないと奪われてしまう、なくなってしまうという中で暮らしていることも見せられ、“韓国人”のルーツをしっかりと知性で納得することができました。
また、サタンの存在を知り、神の愛に満たされた私に変えられて韓国*韓国人を見たとき、「戦争」というサタンの策略にかかり、真理と悪霊の存在を知らずに好き放題され、ずっとそこに捕えられた国・人なんだということが分かりました。そして、イエス様にとって誰一人例外はなく、大切な神の作品であり、人種も関係ない、同じ唯一の神がつくられた大切な作品、なによりも同じ地球にいる【地球人】だという思いが私の中に強く入ってきました。
私の霊(神の子)の思いが、魂(知性・意志・感情)に連動したとき、この国の国民性、“このようにならざるを得なかった”という根底が、サタンの策略である「戦争」というものにあることがよく分かり、私は無条件で韓国*韓国人を許すことができたのです。そして改めて、このサタンの策略から解放することが出来るのは、イエス様*真理しかない!と思いました。


ルカ18章27
イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる。」


主イエスにあって、日本と韓国はもちろん、地球上のすべての人種関係なく、一つになれる!同じ【地球人】として一つ思い、一つ心に必ずなれると確信しました。

この地球は神が作られたもの、領土はだれのものだ、かれのものだと争うこと自体おかしい。だれのものでもありません。それをめぐって、互いに分派分裂し、傷つけ合うこともサタンの策略なのです。私は真理を知り、私たちが本当に戦うべき相手はサタンなのだということが、はっきりと分かりました。だからこそ、イエス様がおっしゃるように、互いに許し合い、愛し合い、祝福し合って生きていかなければならないと強く思いました。


そして、私はこの韓国旅行を通して、韓国の歴史について学び、沢山の事を語られたのですが、全てをふまえて、『相手の所(立場)まで降りて行く』ということの大切さを語られました。真理=聖書の教えを学んだ自分(イエス様と共に第3の天にいる自分)が、まだ聖書の教えを知らずにこの世(第1・第2の天)で翻弄されている国・人々を見ること・・・その見方こそが無条件の愛と許しにつながることが分かりました。
私は、古い自分に出来なかった、相手の所(立場)まで降りて行き、なぜそうなってしまったのかをイエス様に聞くことのできる訓練*神癒を受け、新しい自分に変えられました。霊においても、肉(魂・体)においても、そして知性においても、「無条件の許し」についてイエス様が語ってくださったこの韓国旅行に感謝します。




また、身近なところでは家族に対しての接し方が変えられていきました。
誰でも経験があるとは思いますが、私はついつい家族だから好き放題言ってしまい、少し相手から嫌な事を言われたら、「目には目を歯には歯を」で答えてしまっていました。しかし、クリスチャンになってからは、まずその人を“その人”として見ないこと、その人自身を裁くことがないよう、「許して、愛して、祝福する」ことが大切だと教えられました。また、今目に見えている世界以外に霊の世界があることを知り、その人を使っているサタンをしっかりと霊で見極め、イエス様から与えられている権威によってサタンと戦い、勝利することができることも知りました。そして、相手への言葉を発する前に口から出す言葉を吟味し、イエス様に一つひとつ聞いていくことも学びました。この一呼吸をおいたとき、相手に対して、怒りの言葉をぶつけていた私が相手の所まで降りていき、「何かあったの?」と声をかけることができるように変えられていたのです。


このように、イエス様は私のクリスチャンとしての成長に合わせ、一つずつ一つずつ分かるように霊・魂・体そして知性においても、牧師や兄弟姉妹を通して、また家族が使われて、訓練してくださいました。


ヘブル12章5~11
また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである。」あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうさせるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。




私の家は、ごく普通の家庭で、父・母・弟の4人家族です。
私自身、我が家は普通の家族で平穏に暮らしていたつもりでしたが、訓練が進む中、神の御手の中で、ある事実が発覚し、私はそれを知らされることとなりました。

それは、ある日突然明らかにされた、父が長年数回にわたって、学生時代に付き合っていた女性と浮気をしていたという事でした。

私は、そのとき初めてその事実を知ったのですが、母は私が生まれる前から、生まれてから、そして今に至るまで、ずっと父の行為に気づきながらも、胸に秘めていました。私や弟には将来があり、結婚に失望してほしくないという気持ちから、私達には決して分からないように過ごしてきたのです。

しかし、そんな母もついに気持ちが飽和していっぱいになり、泣きながら家を飛び出したのです。
しばらくして家に戻ってきた母は、泣きながら今までの自分の気持ちや自分の夫を信用できなくなったこと、信じてきて裏切られ続けた辛さを父にぶつけ、責めました。
私は、黙って何も言えない父を前にショックで、言葉を出すことができず、「えー!自分のお父さんが!? なぜ!!」という思いもあり、ただ黙って両親の話を聞いていました。

母は長年にわたり、何度も話をしてきたにも関わらず、同じ事を繰り返してきた父に対して、「今まで話をしてきたのに、私や娘、息子、家族を裏切って!私はもう、あんたを信用する事はできないし、許せない! 結婚生活26年を返して!」と泣きながら訴えました。
このことが、分かったのは10月1日。両親の結婚記念日は10月6日と、26年目の記念日を前にしたものでした。
父に対して「許せない!」と繰り返し、母は私にも「私達はずっとこの人にだまされてきたんよ!許せんやろ!」と問いかけてきました。

自分が生まれる前から母を悩ませ、ずっと家族を裏切って家族に嘘をついて浮気を続けていた父の行為は、この世の中で考えたら、許されがたいことです。このようなことが原因となり離婚にいたった夫婦は少なくはないでしょう。

私自身も、真理を知らない時(救われる前)にこの事実が発覚していたら、確実に母の問いかけに対して、「本当に許せない!今までお母さんをこんなに苦しめて!私や、弟をだまして、よその女の人とそんな関係を続けて、汚らわしいし、情けないし、軽蔑する。」と言ったでしょう。母には離婚を勧めていたと思います。

しかし、私はこれまでクリスチャンとして救われ、聖霊をいただき、聖書のみことばや、牧師を通してイエス様に語られたこと、兄弟姉妹を通して語られたことから、この世の頭であるサタン*悪霊の存在、働きを教えられてきました。そして、人をその人として見ない!ということも十分に語られ、イエス様は訓練してくださいました。以前の私は、悪い事(世の中の常識的に)をした人は裁かれて当然!許せないという考えでしたので、今回の父のことも、もちろん裁いていたでしょう。けれども、聖書のみことばには、人を裁いてはいけない!許しなさいと書かれています。


マルコ11章25~26
また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。
そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるしてくださるであろう。〔もしゆるさないならば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださらないであろう〕


私は、クリスチャンとしてみことばを霊に蓄える中で、誰をも裁かない、無条件の愛、無条件の許しを、牧師を通してイエス様に教わりました。

そんな私から、父に対する母の「私達はずっとこの人にだまされてきたんよ!許せんやろ!」という問いに対して出た言葉は「私はクリスチャンになってサタンの存在を知ったから、これはお父さんに悪霊が入り、お母さん達、そして私達家族をばらばらにさせるサタンの策略だと分かるから、私はお父さんを裁かないし、責めたりしない。許すよ。」という答えでした。肉は、起こった出来事が大きすぎて、ただただショックでした。しかし、私の霊は平安でした。なぜなら、私は霊でこの出来事を受けることができ、サタンの策略だということが分かったからです!魂においても、父に対しての裁きの気持ちは全くなく、私は超自然にクリスチャンとして、大胆に真理を両親に伝えていたのです。そんな私を見て一番驚いていたのは両親でした。親ですから、私がどんな性格なのかを一番よく分かっているからです。

救われる前の私が、「違うものは違う、好きなもの嫌いなものを何でもハッキリと言う」というキツイ性格だった事を誰よりも知っている両親は、なおさら私から出た言葉に驚いていたのです。
驚いている両親に対して、私はなぜ自分がクリスチャンになったのかを証しました。
すると、私がクリスチャンになったと言った時も、洗礼を受ける時も、また毎月一回浜松に聖書を学ぶ為に行っていることに対しても、両親がどのように思っているのかということを聞いたことがありませんでしたが、この時初めて両親がどのように思っているのかを話してくれたのです。

「あんたは、クリスチャンになったと言ってきてから、仏壇に手をあわせる事もせんし、法事にもでらん、納骨堂にも行かなくなった。でも、その時だけ仏壇に手をあわせる、法事のとき、納骨堂の時だけ拝んだり、思い出したようにその場だけでの行為ではなく、あんただけはいつも楽しそうに死んだおばあちゃん、おじいちゃん、おじさんの事を忘れる事なく、『おじいちゃん、あのときこんな事言ってたよね』と話してくれて、いつも思ってくれて、私達は本当に嬉しい。だから、あんたがクリスチャンになったと言って来た時も、洗礼を受けると言って来た時も、毎月一回浜松に聖書を学びに行くことも、反対して止める事だって出来たけどしなかった。本当に嬉しかったし、あんたに感謝してるから」と母は泣きながら話をしてくれました。

私には、両親がそんな風に思っているなんて、想像もつきませんでした。


そして、父はもう一度母とそして家族とやり直したいという気持ちを表す為、全てにケジメをつけて相手方の女性との関係をキッパリと清算しました。相手方の女性宅から帰宅し、我が家の玄関に入ったとたんに父は号泣し私に、「すまんかった。お前に迷惑をかけて本当にすまんかった」と泣き崩れました。その時、私は人生で初めて父を抱きしめ、「私は、お父さんを軽蔑したり、汚らわしいなんて思ったりしないよ。お父さんとお母さんは、何があっても世界にたったひとりの私のお父さんとお母さんだから、これからもずっとお父さんとして尊敬してるから」と父に伝えました。
そして父は何度も『本当にありがとう』と泣きながら私に伝えてくれたのです。


そして翌日、母と母の姉とランチに出かけることになりました。
そのときの会話で、普段あまり褒めたりしない母が私と母の姉を前に、「私はこんなんやけど、本当に自慢の素晴らしい娘を持てた事がとても嬉しい。あんたがいてくれて、本当に良かった!」と言ってくれたのです!
さらに、そんな出来事があった週の週末は、以前から思いを入れられ、浜松に聖書を学びに行こうと準備していた週末でした。しかし、金曜日の夜も出発日の土曜日目覚めた時も、家族でこんな事があった週に浜松に行くなんて、本当に大丈夫かなという思い煩いが私の中にありました。

朝起きて、部屋からリビングへ向かうとなにやら父と母が笑いながら話をし、二人ともバタバタと出掛ける準備をしています。母は私を見るなり「あんたを駅に送ったら、二人で山口にドライブに行ってくるね」と嬉しそうに言い、二人は浜松に向かう私を笑顔で送り出してくれたのです。つい先週、あんな事があったなんて本当に考えられない。一家がバラバラになってもおかしくない状況だったのに!と、信じられないような状態の両親の姿を見て、私は喜んで感謝して浜松に向かう事が出来ました。


ヨハネ16章22~23
このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。


ヨハネ14章29~30
今わたしは、そのことが起こらない先にあなたがたに語った。それは、事が起こった時にあなたがたが信じるためである。わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。


ローマ5章3~5
それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを知っているからである。そして希望は失望に終ることはない。


前日までの全てがその日を迎えるための訓練であり、神の大きな愛を感じた私は心から『イエス様を知っていて良かった』と思いました。神の訓練は肉には本当につらいこともありましたが、霊では平安、そして、それは魂へと連動し、体(肉)においてもいつも平安で、喜んでいる自分がいたのです。


ピリピ4章4
あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。


聖書には、いつも喜んでいなさい!主を喜ぶことが力である!と書かれています。

救われてこれまでの訓練の中で、霊→魂へクリスチャンとしてキリストの思いが連動する体験をさせて頂いてきた私は、会社で一日に三回も別々のマネージャーさん達から、『いつも、ニココニコして、楽しそうだね、元気だね!』と声をかけていただいたことがあります。日常生活の中で体(肉)にも神の栄光として現れてきた事の証かと嬉しく感謝しました。
この私の体験、霊→魂→体の順に起こった『神癒』は私が努力したり良かったからではなく、私の中にいるイエス様と聖霊様の超自然の働きによるもの。それが聖書が教える真理です。人には出来ないが神には出来る!人は変わることができるのです!そして、それは真の神のみができるのだということを体験しました。

これからもますます自身の神癒を祈り求めて、主の訓練を求めていきたいと思います。

すべての栄光をイエス様に帰します!!