父に起こった神癒

 
 

今回、私の父に起こった神癒を、ここに証させていただきます。
全ての栄光をイエス様に帰します。

【父に起こった神癒】 
お父さん、お母さんへ。 
2013.2.26 お父さんからの電話で、胃癌の手術後に、食道静脈瘤が消えてなくなっていたと報告を受けた時、私は本当に驚きました。イエス様の臨在を身をもって体験して、今さらながら、(今までたくさんの証を書いてきたのに)「本当に癒しが起こった!イエス様って本当におられるんだ!」と冷静でいられないほどでした。そして、「希望は失望に終わらなかった!」<ローマ5:5>という喜びと感謝が満ち溢れました。
私の中にも、私たち日本人の血の中に受け継がれてきた、神を知ろうとする時、人間が作り出した宗教の中でしか神を認められない思いが確かにありました。しかしそれは、心の拠り所とはなり得るけれど、私たち人間を生かしてくれるものではありません。人間が作り出した勝手な神や哲学(偶像)には何の力もないのです。仏教、神道、キリスト教、人の力や物に傾倒していく・・・どれも、宗教です。けれど、私たちが知ったのは、人間が作り出した神ではなくて、人間を創られた神・創造主と、そのひとり子である、イエス・キリストです。お父さんを造られた方が、お父さんの体を癒し、回復させることは容易なことでした。お父さんや家族の抱えている問題を解決することも、同じです。神に不可能はない、真の神は、大いなる方だからです。
「人にはできないが、神にはできる、神はなんでもできるからである」<マルコ10:27>の通りです。
今回、私たちは、自分の身に起こったことが、宗教と同列に置かれるものではないのだということを体験しました。これは、真理であって、万物ができた時から創造主によって決められた物事の在り方なのです。「わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある。」<Ⅱコリント13:8>のみことばを体験したのです。
私が帰省して、お父さんとお母さんがイエス様を受け入れ救われた日、私は、「イエス様は癒し主であるから、お父さんの病気は必ず癒されるから。お父さんが癒されたら、その証が、この“水と霊によって生まれ変わる”の証に加わることになるからね。」と伝えました。その時、お父さんもお母さんも、からし種一粒ほどの信仰で、「そうだね、そうなるね。」と答えました。「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」<マタイ18:20>というみことばの通り、イエス様は共にいてくださっており、あの時の私たちの言葉を現実のものとしてくださいました。すべての栄光をイエス様に帰して、感謝をもって、約束の通り、神癒の証明をここに書き記します。

<ホセア14章>
イスラエルよ、あなたの神、主に帰れ。あなたは自分の不義によって、つまずいたからだ。あなたがたは言葉を携えて、主に帰って言え、「不義はことごとくゆるして、よきものを受けいれてください。わたしたちは自分のくちびるの実をささげます。アッスリヤはわたしたちを助けず、わたしたちは馬に乗りません。わたしたちはもはや自分たちの手のわざに向かって『われわれの神』とは言いません。みなしごはあなたによって、あわれみを得るでしょう」。わたしは彼らのそむきをいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからである。わたしはイスラエルに対しては露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張り、その枝は茂りひろがり、その麗しさはオリブの木のように、そのかんばしさはレバノンのようになる。彼らは帰って来て、わが陰に住み、園のように栄え、ぶどうの木のように花咲き、そのかんばしさはレバノンの酒のようになる。エフライムよ、わたしは偶像となんの係わりがあろうか。あなたに答え、あなたを顧みる者はわたしである。わたしは緑のいとすぎのようだ。あなたはわたしから実を得る。知恵のある者はだれか。その人にこれらのことを悟らせよ。悟りある者はだれか。その人にこれらのことを知らせよ。主の道は直く、正しき者はこれを歩む。しかし罪びとはこれにつまずく。

<使徒行伝4:10~12>
あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。


2012.12.4 母から私に一本の電話がありました。母の勧めで受けた検診で父に胃癌が見つかったとの事でした。父に連絡を取ると、父は、「胃癌はそこまで進行しておらず、癌は今なら手術で取り切れるらしい。」と、落ち込んでいる様子もなく話していました。しかし、その後の検査で、胃癌の他に、肝硬変(アルコールの霊による)に起因した食道静脈瘤も発見されました。父の場合は、胃癌よりもむしろ、食道静脈瘤の方が深刻で、その状態はいつ破裂して大出血を起こしても不思議ではないほど進行しているとのことでした。今まで自分の命や生活に何の疑問もなく生きてきた人間にとって、このような事態はまさに青天の霹靂です。自分の命がいつ取り去られてもおかしくはない現実が突然、突きつけられたのです。
牧師を通して、「イエス様の御手の中だよ。イエス様はどんなことをしても、御両親を救いに導くから。実家に帰って、あなたの顔を見せて今こそ救いに導いてあげてね。そして、こんな時だからこそ、大丈夫だよ。と言ってあげる人が必要だよ。」と語られ、人間の力ではどうしようもなくなったこの時が、私の両親にとって、救いに至る恵みの時であると強く思いました。
私はこの5年間の証“水と霊によって生まれ変わる”を書く中で、人間にとって、救われるということ・霊が生き返ることこそ、すべての“神癒=神にしかできない奇跡”の始まりであり、どんな不可能も可能にする無限の“力”があることを学んできました。この、力ある救いは、本来、すべての人間がこの地上で、生きている間に受けなければならないものです。この頃、ぶどうの木では、救いによって、一人でも多くの人の霊を生き返らせるために「どんなお守りよりも“力”があります!」という、口に出して読むだけで救われ、神の力を体験することができる文章を、今まで作成してきたトラクトと一緒に配っていました。

2012.12.27~29姉妹たちに3人の子供を預け、一人で島根の実家に帰省しました。必ず、両親の霊を生き返らせるのだという強い思いを持っての帰省でした。イエス様は癒し主であることを話し、「お父さんには、ここで命を落としてもらうわけにはいかない、もっと、生きてもらわなくてはならないという強い思いがある。今日はイエス様を受け入れて救われてもらい、守りの中に入ってもらうために来ました。」と両親に話し、救いの告白文の紙を手渡すと、両親ともに救われ、聖霊もいただきました。そして、霊・魂・体の癒しについて書いた“水と霊によって生まれ変わる~神癒の証・「神の国は力である」の証明~”をプレゼントしました。
翌日は、病状と手術についての説明があるとのことでした。母と話していくと、やはり、夫婦2人でこの現状に向かうには心細いようでしたので、姉と私は娘として共に両親に付き添い、医師からの説明を聞きに行きました。医師の口からは、「胃癌だけなら取り切れるからうまくいきます。しかし問題は、深刻な食道静脈瘤にあります。いつ、破裂して大出血をするか分かりません。今日にでも破裂してもおかしくはないほどの状態です。万が一、手術中に少しでもこの静脈瘤を傷つけたら大出血を起こすので、手術はとても難しいものになります。胃癌よりもむしろ、こちらの治療を先にしたいぐらいですが、この治療に時間をかけている間に胃癌も進行していきますから、治療の選択に悩むところです。」と話されました。話の中で何度も、「食道静脈瘤がいつ破裂するか分からない。」という事が聞かれました。そして、2つの治療法を提示され、「医師として、本来なら、こちらの治療法が有効です。と言ってあげなければならない事ですが、今回の状態では、こちらの方法で行きましょう。とは言ってあげることができません。それほど、深刻で、治療法の選択に悩む状態です。」と言われ、どちらにするかを家族で話し合って決めるように言われました。一つ目は、開腹手術をして、胃をすべて取り、(胃癌に対しての治療)加えて、脾臓も取る(静脈瘤に流れる血液が遮断され、かなりの程度で静脈瘤が軽減される)。1回の手術で2つの病気に対して効果的にアプローチできる。ただし、状態の悪い肝臓にかかる負担はかなり大きいため、悪くすれば肝不全に陥り、命に関わる可能性がある。また、胃をすべて取ることによるその後の生活への制限も出てくる、という問題がありました。二つ目は腹腔鏡下で胃を2/3取り、回復してから内科的に食道静脈瘤の治療に移る方法でした。体への負担は少ないですが、問題の食道静脈瘤を残しているため、いつ破裂するかという不安材料を抱えながらの治療になるのだという事でした。いつ、破裂して大出血を起こすか分からない静脈瘤は、父にとって今や癌よりも命を脅かす最も大きな爆弾でした。

家に帰って、家族全員に集まってもらい、医師から言われた病状の説明と、治療についての相談をする場を設けました。
実家の家族は、私の姉も、甥、姪も数年前にイエス様を信じ、救われていましたが、両親と、同居している姉家族との間には“分派分裂”や“裁き”の悪霊が働いて、コミュニケーションがうまく取れず、互いの気持ちがすれ違ったり誤解が生まれたりしてなかなか家族の団結ができていない状況でした。しかし、家族でありながら無関心でいたり、親身になれない言動から愛が冷めていきます。一家の長である父のこの一大事は、なにをおいても家族が共に支え合い、協力して乗り越えていかなければならない事です。それぞれの思いを素直に口にして、みんなが父の病気について真剣に考え、親身になって言葉を出していった時、父の口から、「お父さんも手術とかは初めての経験だし、怖いと思っている。」という言葉が聞かれました。普段このような言葉を口にしない父だったので、この言葉を聞いて私の霊はとてもうれしく思いました。この言葉は、父の、包み隠さない素直な気持ちです。それは、強がりや、プライドなどで武装していない、本当の父でした。人間は、どんな時も、何歳であっても、幼子のように素直であることが一番平安なのです。私はこの出来事を通して、父の霊が生き返り、神癒が魂にも及んでいることを聖霊によって示されました。 
そして家族会議が終わった後、ふと、ハンガーに掛けてあった甥のTシャツに目が留まりました。白いTシャツには、大きく“God story”と書かれてありました。神は一つの方法、二つの方法で語られる経験を何度もしてきたので、イエス様が共にいてくださり、思い煩うことなど何もない、God storyがすでに始まっているのだと確信しました。



浜松に帰ってぶどうの木の長老である主人に報告しました。長老は医師として働いているので、主治医から父に提示された2つの治療法についても医学的についても理解して、その治療の難しさも知り、だからこそ家族にゆだねられた選択の難しさも十分に分かっていました。しかし、長老は、「どんな治療になるにしても、お義父さんの頭(かしら)が癒し主であるイエス様であることが、何よりも大切なことだ。」と言いました。私は、父の霊が生き返ったという所で、どこか一安心してしまっていたところがありましたが、長老を通して、生き返った霊から始まり、父の魂の部分でも神癒を求めていく・自分から求め、信仰を育てていく事が必要であることを示されました。神は心を見られるからです。
そして長老は父に電話をかけ、「医師として働いてきましたが、その中で、どうしても人間ができることの限界があることを私たちは知っています。今回、先生から言われている治療方法を選ぶことは、とても難しい選択だと思います。でも、どちらの治療方法を選ばれたとしても、お義父さんが選んだ方に間違いはないと思っています。なぜなら、どんな方法であったとしても、お義父さんを癒すのはイエス様だからです。イエス様が、お義父さんを癒してくださいます。その事を忘れずにいてください。」と伝えました。最初、父の口からは「どうなっても構わない」という、言葉が出ていた様です。あまりにも一度にいろいろなことが起こり、また、その山(問題)がとてつもなく大きく、深刻なものと思えたのでしょう。しかし、長老との電話の最後には、「分かった。ありがとう。」と前向きな言葉に変わっていきました。

2013.1.12 父に対して種をまくことに使われたのは、私でしたが、その種を、「成長させてくださるのは神である」<Ⅰコリント3:6>のみことばの通り、父の信仰が成長していました。
父は、手術方法の選択に悩んでいましたが、長老が電話をした次の日に“腹腔鏡下での2/3胃切除”のみの手術を行い、食道静脈瘤は手術の回復を待って治療していく方法を選択し、主治医に伝えたそうです。私は母からこの間にも、「胃癌が進行していると検査で言われた。」と聞いていたので、父にその事を確認しました。すると、父は、「そんなことは聞いていない。先生に手術の方法について連絡したら、そんなに急がなくてもいいですよ、と言われた。前は先生から食道静脈瘤が今日にでも破裂する危険な状態と言われていたのに、今回電話した時はそんなことは一言も言われないし、急がなくてもいいからと先生が言っている。お母さんにもその話をしたら喜んでいたし、お父さんは、あの紙(救いの告白)読んだからじゃないかと思っている。手術日も、最初は1月の下旬と言われていたのに、だんだんと日にちが延びて2月になったから、もしかしたら、このまま手術しなくてもいいことになるかもしれないと思うようになってきた。」と話していました。
私はかつて自分が体験したように、「私は共にいる」とイエス様がご自身をあらわしてくださっている体験を父もしているのだと分かり、とても嬉しくなりました。

私は、牧師からの、聖霊の賜物による、解き明しと知恵の言葉を受けて、父に対して、サタンの存在と霊力のことを話しました。そして、人間は、「まいたものを刈り取る」<ガラテヤ6:7>という法則の中で、自分がまいてしまった悪習慣のために(アルコール、ニコチンなど)神からいただいた体を壊してしまったことは、悔い改めなければならないこと、そして、その悔い改めには力があり、それを行っていった時に神がその心を見られ癒しがどんどん進んでいくことを話しました。そして、今回、病気が発覚するまで無事に守られていたことは本当に感謝すべきことであったこと。また、神の御手の中で導かれているから、必ず、父は生きることができる。なぜなら、神によって生まれ変わった人間には、その人にしかできない神の働きがあるから、神は必ずその人を生かすのだと伝えました。
また、父も体験したように、人間の口から出る言葉は、ころころ変わる。「今日にでも静脈瘤が破裂する。」と、医師が言っていた言葉は、この世の神であるサタンが医師を使って脅し、呪いの言葉をかけてきていた(この世の神であるサタンは、簡単に人に出入りし、その人を使う)のだという事。どんなに悪い言葉をかけられても、受け付けない事、みことばには、癒されると書いてあり、そこに真実がある。そこに留まって、前だけを見ることを伝えました。父は、終始、真剣に聞いていました。

<ローマ8:31~32>
それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。

<ガラテヤ2:19~20>
わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。

<ガラテヤ5:18>
もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。

<ローマ3:4b>
あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。それは、「あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」と書いてあるとおりである。


家庭の中も変わってきたようで、母が肝臓に良いとされる食事を調べて作り父に勧めたり、それまでは姉家族と別々にとっていた食事も、今では姉が食事を作り、家族みんなで食卓を囲んでいるとの事、そして、父自身も治療に耐えられる体作りに心がけ、何でも感謝して食べるようにしているとのこと、父も嬉しそうに話していました。この様子から、この時、父は、この世の律法の中で、肉体的には病気のレッテル(癌、食道静脈瘤を抱えて、しかも治療も難しく命が危ない)を貼られている状態でしたが、その中にあっても、喜びと、希望を持っていました。何より、長老が大切な事として示されたように、父の頭(かしら)がイエス様になっていることが分かりました。聖霊が働いてくださり、神の存在を知らせ、からしだね一粒から始まった信仰が芽を出して成長していることを知り、霊→魂→体の神癒が実現していく確信を得ることができました。

<マルコ4:30~32>
また言われた、「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」。

父の霊が生き返り、その生きる力が魂、体へと及んでいく過程において、霊に食事を与え続けなければなりません。肉体を作り上げるのに様々な栄養を必要とするのと同じく、霊にも栄養を蓄えなければなりません。霊の食事はみことばと、聖霊によることば(生ける水の川<ヨハネ7:37~38>)です。父の霊にとっては、私がプレゼントした、“水と霊によって生まれ変わる神癒の証・「神の国は力である」の証明~がそれにあたりました。そこには、人間はなぜ病気になるのか、そして、神を信じ、生まれ変わることで、どのようにしてその病気が癒されていくかという、聖霊によって教えられた奥義が書かれてあるからでした。一人ではなかなかそれに向かえない父でしたが、姪が、父を助ける神の家族の姉妹として立ち上がり、毎晩、プレゼントをした証を父に読み聞かせていました。姪は、「おじいちゃんの為に働くイエス様のお仕事」ということにとても喜びを感じており、忠実にその役割を果たしていきました。また、父も、姪が証を読みだすと、見ていたテレビを消して証に耳を傾けていたそうでした。

2013.2.13 父の手術を目前に、私は母と話しました。
母は、「お父さんは手術が近くなって、いろいろと考えることもあるみたいで、ここ数日はめっきり食欲がない。このぐらいの年になると知り合いが癌で亡くなったとか、病気になったとかいう話をよく聞くようになるし、その度にさみしい気持ちになるからね。お父さんのことをずっとかわいがっていてくれた人も癌で、良くないらしいわ。それで、気を落としている。手術の日、お姉ちゃんは仕事で来られないようなこと言っているし、お姉ちゃんの態度に冷たいと感じることもある。お姉ちゃんはお父さんの事、どう思っているのか・・・ずいぶん前に手術日は決まっていたから仕事も調整はできたと思うのに、お父さんがこんな時にそんな態度はないでしょ、とやるせない気持ちになるよ。」と話していました。

この状況を牧師に話すと、牧師から、「お父さんの食道静脈瘤は、お姉さんのお父さんに対する思いの状態ね。」と、姉の“裁きの霊”が父の食道静脈瘤を来たらせた原因の霊力であることを聖霊の賜物である霊を見分ける力によって、示されました。これまで、家系の血を一番に引く長女である姉が、“3~4代に渡る血の中にある呪いたたりの霊力”のゆえに、人生の艱難辛苦を一手に背負いました。サタンの存在とサタンが使う悪霊の策略を知り、それに対抗して戦い勝利するクリスチャンでなければ、人間は簡単にサタンによって翻弄される人生を歩むことになり、また、そのような状況に対して、「こんな不幸になったのは、あの人のせい。」「許せない。」「あの人だって、悪い。」という恨みや裁きの思いを他者に募らせていきます。そして、その裁きの思いは自分の心身だけではなく、相手の心身をもむしばみ、滅ぼしていきます。姉の“裁きの霊”が、一家の長である父に対して攻撃してきたのです。
この裁きの霊力は、自分だけではなく、相手もまた獄屋に閉じ込めてしまう、人間を神の祝福から遠ざける、苦い悪の根です。食道静脈瘤に関して示されてきた言葉は、「今日にでも破裂する恐れがある」「命を脅かす、爆弾を抱えているようなもの」という事でした。これが聖霊による賜物の中の、知識の言葉として示され、霊的に見れば、姉と両親との関係は、積もり積もった裁きの思いが爆発寸前のギリギリの関係です。そしてそれが爆発してしまえば、家族として破たんを来してしまうような危険な状態にあります。
 牧師は、そのサタンの策略(姉の父への裁きの霊が、父の食道静脈瘤を来たらせた)に打ち勝つため、姉が悔い改め、数々の辛苦を来たらして苦しめたのは、両親でもなく、父でもない、サタンという存在に今一度立ち返り、父を許すことが必要であると知恵の言葉で示してくださいました。

父に電話をすると、「手術の成功率は50%らしい。」と言うので、「手術の成功率は100%だから。この世の中の情報に左右されないこと、同世代の人が亡くなっていく事でいろいろな思いがあると思うけれど、自分は自分、人と同じではない。お父さんの気持ちも全部分かっておられるイエス様と、自分の関係だよ。まだ若いんだから、頑張って生きて、孫たちの成長を見とどけてくれなきゃね。しっかりしてよ。」と励ましました。
また、姉とも話し、牧師からの解き明しと知恵の言葉を示し、改めて、サタンの存在とその策略を伝えました。そして、今が互いにとって、修復のための大事な場面であること、万が一、ここで何かが狂って父が命を落とすことが起こった場合、後悔してもしきれないのではないか。そんな状態で親子がこの地上で別れることになるのは間違っている。親を恨んでいたら、3~4代の血の中にある呪いたたりの霊力の中で、祝福が得られない。姉の中にも聖霊がいるから、何が善で、父にどうしてあげないといけないか、分かるはず。そして、父への、許し、思う気持ちを素直に行動に出すことが大事。そうやっていく事で、恵まれた環境の中で生きていけることを話していきました。また、私は離れた所に住んでいて、なかなかすぐに帰ってあげることができない。姉を頼りにしているのは、両親も私も同じ。父は、姉が行って声を掛けてあげたら、元気が出るから。とも伝えました。姉は真剣に聞いており、イエス様の御前で、父を裁いていたことを悔い改め、すべてが明らかにされた事を感謝して共に祈ることができました。

<エペソ5:13~14a>
しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。明らかにされたものは皆、光となるのである。

<へブル12:14~15>
すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。

<エペソ6:12>
わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。



2013.2.15 家族と、父の兄弟や友人が付き添って父は手術に臨みました。最初、仕事で行けないと言っていた姉は、自分の睡眠時間を無くして夜勤の仕事に入るギリギリまで父に付き添っていたそうです。食道静脈瘤を傷つけないようにと慎重に慎重を重ねながらの胃癌摘出手術は、時間はかかりましたが無事に成功し、出血も60ccと少量で終わりました。
手術室から出てきた父は意識もしっかり戻っており、一番最初に母に手を差出し、父と母は手を取り合って手術の成功を喜んだそうです。父からの第一声は、「みんなのおかげで無事に手術を乗り越えられた、ありがとう。」だったとの事です。その後も父は、訪れる人達に感謝の言葉を伝え続けていたそうです。普段は口数も少なく、自分の思いなどあまり口にしない父だったので、母から聞く“みんなにありがとうと感謝の気持ちを伝える父”の姿に、魂も解放され健全な状態になり、祝福されていることを実感しました。

2013.2.26 父から一本の電話があり、退院前の検査で食道静脈瘤がなくなっていたことが明らかになりました!私は驚き、「それ、イエス様だよ!」と伝えました。父は、「先生は手術の時に血管が切れたからではないか。と言っていたよ。」と言うので、父に対して初めて食道静脈瘤への霊的解き明しを話し、サタンの存在と策略、それに打ち勝つために姉が手術前に悔い改めていたという、イエス様の御手の中での秩序正しい歩き(霊的な整えられ方)を話しました。父は「そうかもしれん。」と言うので、「そうかもじゃなくて、そうゆうことだよ。先生の治療計画の中では、この後食道静脈瘤の治療が続いていくはず、胃の手術で良くなるんだったら、最初からあんな難しい治療の選択を言われることはないよ。先生だって想定外なんじゃないの?癌よりも、食道静脈瘤の方が命を奪う危険があるって、言われていたじゃない。それが、無くなったんだよ。もう、爆弾を抱えていつ破裂するか、恐れながら生きていかなくてもいいんだよ!神の癒しって、本当にあるの!イエス様、ありがとうって感謝しなきゃね。」と伝えました。父は、「そうだな。分かった。」と言っていました。また、母にも、同様に話しました。

父の命を脅かす深刻な食道静脈瘤は、取り除かれました。イエス様は、人間が、自分がまき、刈り取ってしまった人生を悔い改め、真の神イエス様を求めるならば、その、まいてきたものの刈り取りの時でさえも、祝福のステップへと変えてくださいました。また、神の癒しは、ただ体の病気が癒された、という事だけにはとどまりません。
父の場合、胃癌自体は、手術を受けなければなりませんでした。(しかし振り返ればその手術は腹腔鏡下での手術であったので、父の体への負担は最小限に抑えられていました)それは、父にとって、必要な事でした。なぜなら、この手術という事柄を通して、家族の素直な思いがあらわれ、それと同時に父自身の魂が解放されて、周りから注がれているたくさんの愛の中で生かされている自分、という存在を見つめ直し、素直にそれに対する感謝の思いを周囲に伝えることができるようになりました。家族であっても愛の冷めていた関係を、自分の一番身近な隣人である、互いの存在を大切に思いやる関係に、主にあって修復することができたのです。そして、霊→魂が健やかになっていった時、同時に、霊の世界では、姉の悔い改めによって聖霊が豊かに働かれ、食道静脈瘤を来たらしていた裁きの霊力が、打ち砕かれてしまったのです。
母から聞く、入院中の父の様子で、一番多く示されてきたのは、父が口にする、周囲への「感謝」の言葉でした。その報告を牧師にすると、父の癒しは、「感謝が満ち溢れて神の栄光となる。」<Ⅱコリント4:15>のみことばの通りに、霊が生き返った父の、健全な魂からの「感謝」の言葉の数々が満ち溢れ、神の栄光である、神癒が体に成就したのだと解き明かしてくださいました。癒しが、見えない霊の世界から、目に見える所に及び、現れる時が、霊→魂→体という神のルールに乗っ取った、神癒という奇跡が完全に成就した瞬間です。

<Ⅱコリント4:15>
すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。



このように、イエス様は、みことばに、「主の祝福は人を富ませる、主はこれになんの悲しみをも加えない。」<箴言10:21>とある通り、イエス様は、一家の長である父の病気の原因を明らかにし、それを来たらしている悪霊力を砕き、体だけでなく、家族間の関係も、健全なものにして豊かな人生を送ることができるようにと霊的な土台を立て直してくださいました。さらに、父が解放され、霊的状態が健全になるに従って、その状態は我が家の長男の霊的解放にもつながっていきました。実は長男の名前は、父と主人の名前から一文字ずつ取ったものであり、それは霊的に私の家系と、主人の家系の両方の家系の血の中に流れる霊力を受け継いでいたことになるのです。ですから、両家の霊的状態が圧迫されていればその状態は長男にも及び、反対に霊的に解放されれば長男もまた、解放されて活き活きと成長するのです。長男は聖書を学び始めて6年が経ち、この春小学校を卒業し、将来にたくさんの希望を持って中学校生活への新たな成長の一歩を踏み出します。私は、島根に帰省した際にイエス様が示してくださっていた通りに、全てが、神の御手の中で行われた“God story”であったと確信しています。

人間が母の胎内でどのように組み立てられるのかを知ることができないように、父の体の中でどのように癒しが行われたのか、私たちは解明することも、この目で見ることもできません。実際、人間が見て、知り、解明し、追い求める必要などないと思っていますし、人間にすべての事を知ることは許されていません。それこそ、長老が言っていたように、“人間が介入できない、超自然の神の領域がある”のだと思います。医師から告げられた、手術の成功確率は50%でした。しかし、イエス様にあっては、人間の想定も可能性もはるかに超えた、100%以上の無限の癒しが実現したのです。

<詩編107:17~22>
ある者はその罪に汚れた行いによって病み、その不義のゆえに悩んだ。彼らはすべての食物をきらって、死の門に近づいた。彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、主は彼らをその悩みから救い、そのみ言葉をつかわして、彼らをいやし、彼らを滅びから助け出された。どうか、彼らが主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみわざとのために、主に感謝するように。彼らが感謝のいけにえをささげ、喜びの歌をもって、そのみわざを言いあらわすように。

<箴言30:5>
神の言葉はみな真実である、神は彼に寄り頼む者の盾である。

<Ⅰコリント1:18~25>
十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。



この世界は、霊によって造られていると聖書は教えています。この霊(の世界)の事を私たちに賜わった聖霊によって解釈して、霊的状態を健全な形へと整えていく時に、道は開かれ、すべての問題の解決が成っていくのです。それが「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」<マルコ10:27>というみことばの持つ意味です。

<Ⅰコリント2:4~13>
そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。
しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。
そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。

<ヨハネ16:13>
けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。

 
真理に従うとは、唯一の神が決めたルールの王道を歩くこと。右にも、左にも迷い出てはなりません。迷い出た道は、オカルト・ひとりよがりの力ない宗教(人間が作り出した勝手な教え)の道です。
私たちは、「宗教」という言葉を嫌います。宗教は人間が作り出したものであり、どこまでいっても肉の領域(魂・体)で力なく、祈りも聞かれず、癒しも起こりません。しかし、これらの体験してきた数々の証は、万物を造られた創造主が、人間の核である霊を土台として建て上げ、すべてにおいて祝福を得るようにと私たちに定めてくださった唯一無二の「真理」を通して与えられたものです。私たちは、それを何によって見分けることができるのでしょうか?それは、地に足の着いた良識から判断されるべき実(証)に尽きるのです。

<マタイ7:13~14>
狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。

<マタイ7:16~18>
あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。

<Ⅱコリント13:8>
わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある。

人間にとって、霊が生き返ること。その事に、どんなに重大な意味があり、そのためにどれほど大きな愛(救い主イエス・キリスト)を、創造主である、天のお父様からいただいたのかを、すべての人間が知る必要があります。そして、私たちの人生を助け、導いてくださる聖霊によって、すべての人間が、水と霊から生まれ変わり、真理の“力”によって“神癒”を受け、祝福に満ちた豊かな人生を送ることができるよう祈っています。

<ヨハネ6:63>
人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。

<へブル1:14>
御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか。

【どんなお守りよりも“力”があります!】
読み終えた瞬間、イエス様があなたの内側に住まわれ、ここからの人生を豊かに幸せに生きられるように導いてくださいます。健康面においても、社会的にも、経済的にも、すべてに最高の祝福を与えられ神の御手の中で守られるのです。
真の神は「愛」です。災いは神からは来ません!悪魔(悪霊)から来るのです!
あなたの中の“信じてみようかな・・・”という小さな思いを神はとても喜ばれ、必ず、ご自分が本当にあなたと共にいて守っておられることを、あなたに分かるように示してくださいます。あなたにとって、最高のプレゼントになること間違いなしです!まずは、ぜひ、声に出して読んでください。


「愛する天のお父様、イエス様。私がこれまで犯してきたすべての罪をお許しください。イエス様が、私の罪のために十字架にかかってくださり、3日目に神が死人の中からイエス様をよみがえらせたことを信じます。イエス様、どうぞ、私の中に入ってください。そして、私のこれからの人生を導いてください。私が今日まで犯してきたオカルト・宗教の罪をお許しください。今まで信じてきたこと、教えられてきたことはすべて間違いだったと認め、たった今捨て去ります。イエス様の十字架の血によって私を清めてください。罪が許されたことを感謝します。
私に聖霊と火によってバプテスマ(洗礼)を授けてください。私の全身を聖霊で満たしてください。たった今、聖霊をいただけたと信じます。そして異言(いげん)もください。いただけたと信じ、舌を動かします。(ララララ・・・と声を出して舌を動かしてください。それがあなたの異言です)イエス様、ありがとうございます。あなたがおっしゃる通り、しるしと奇跡を行い、異言を語ります。すべての栄光はイエス様に帰して、感謝して祈ります。アァメン。」
※アァメンとは、“そうなったと信じます”という意味です。