イエス様を一番にした時、
後のものは全て添えて与えられる

 
 

3月31日にぶどうの木で食事会を行うことになったのですが、私はここまでの牧師の働きに感謝してプレゼントを渡す思いが入れられ、兄弟姉妹たちに提案しました。そして私が、牧師にプレゼントを渡す時の働き人に立てられました。プレゼントのお金を兄弟姉妹から集めることを考えたとき、私はある兄弟から牧師のプレゼント代をいただくのは、経済的に彼にとって負担ではないのかと勝手に判断しそうになりました。しかし、それを相談した姉妹から『私たちの牧師へのプレゼントは、贈る側の羊にとっても祝福だと思うので、この人だけ払わなくていいよとこちらで決めたらその人の祝福を止める事にもなるよ。今回の事は皆の総意で行うことであって、こちらの思いで兄弟だけ輪から外してしまうのは違うかな。』と言われ、その通りだと思い、悔い改めました。

また、3月31日の交わりの時に『次の集会で語られたことをブログに書いてくれる方』と教師が皆に聞いてくださいましたが、私はその時手を挙げませんでした。

その後で私は、ブログを書きたいと思いました。しかしみことばをなかなかもらえず『みことばをもらえなかったからイエス様から言われていないんだ』と勝手に決めつけようとしましたが、姉妹から、「みことばよりも先に思いが入ることだってあるし、イエス様から言われている(思いを入れられている)ことを信仰で『私やります!』というのではなく反対に『イエス様に言われていないから』と決めつけるのはすごく神の前に高ぶりだし、自分から祝福を『私は要りません』と言っているのと同じだよ。」と語られました。

集会で語られたのですが、イエス様に言われたことを優先して喜んで行う人に、神は神にしかできないやりかたで祝福を与えてくだいます。
だから教師は、みなが祝福されるために、『ブログを書く人~?』と聞いてくださったのでした。特にブログは、誰か一人が書けばいいというものではなく、一つの事柄にしても、それぞれイエス様から語られたことは少しずつ異なっているので、皆一人一人が語られたことを発信していくのが本来のありかただと語られました。(書くことで、自分の知性にもしっかり蓄えられるので、ブログを書くこと自体がすごく祝福だと改めて語られました。)

この世のことに心を配っていた私は、先の兄弟の一件では、兄弟が受けれる祝福を知らず知らずのうちに止めそうになりました。また、肉のことが日々自分が使う時間の中心になっていたので、ブログを書くことなどのイエス様の仕事を、負担と思っていました。
それだけ、『イエス様のための自分』ではなく、『自分のためのイエス様』になっていたのです。

ローマ14:22~23
『あなたの持っている信仰を、神のみまえに、自分自身に持っていなさい。自ら良いと定めたことについて、やましいと思わない人は、さいわいである。しかし、疑いながら食べる者は、信仰によらないから、罪に定められる。すべて信仰によらないことは、罪である。』

2コリント9:6~8
『わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からではなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は、喜んで施す人を愛してくださる。神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。』

ピリピ2:12~18
『私の愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲がった邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい。』


あーめん!まず一番にイエス様のことを喜んでする自分になれたことを感謝します。