トルコ旅行を通して語られたこと

 
 

今回聖書の舞台となっている地であるトルコを観光し、行った先々でマリアと使徒たち(ヨハネ・パウロ・ピリポなど)がここに存在していたのだと、とても身近に感じ取ることができ感動しました。

私はパウロが実際歩き福音してきた地、エフェソス(エペソ)を見た夜、使徒行伝の19章から最後まで、引き込まれるように聖書を読みました。今までも何度も読んできていましたが、エフェソスの遺跡で見た場所が実際に聖書に書かれてあり、より現実的に私の中に入ってきました。これまでは、聖書の中に出てくるイエス様の使徒たち、福音を伝えてきたパウロのことを霊的に優れた特別なすごい人達、私たちとは違う少し遠い存在のように感じていました。ですが、この時は読みながら、いつも集会で兄弟姉妹の証を聞いているような感覚で、兄弟パウロが今!証をしてくれているのだと感じました。


特に語られた部分を書いていきます。


(使徒行伝21:27~22:21)
パウロはエルサレムでアジヤからきたユダヤ人に「イスラエルの人々よ、加勢にきてくれ。この人は、いたるところで民と律法とこの場所にそむくことを、みんなに教えている。その上に、ギリシヤ人を宮の内に連れ込んで、この神聖な場所を汚したのだ」と言って迫害をうけます。そして、その言葉で市全体が騒ぎ出し、民衆が集まってきてパウロを殺そうとします。そこに守備隊の千卒長や兵卒が駆けつけ、パウロを兵営(軍人が集団で居住する所)に連れて行くように命じるのですが、大勢の人々が「あれをやっつけてしまえ」と叫びながらついてきたので、群衆の暴行を避けるため、兵卒にかつがれて行かなければならないほどでした。しかし、パウロはそんな中で千卒長に民衆に話をさせてもらえるようお願いし、自分が救われる前はどういう人間であったか、そして実際にイエス様が現れどのように変えられたか自分の体験を証しします。


(パウロにとっての初めの愛)
私はここを読んだ時、パウロの福音をすることへの強い意志をみました。自分を殺そうとしている人が、かつがれなければ歩けないほどたくさんいたのだから、身を守るためにそのまま兵営に連れて行かれても良かったと思います。でも、パウロは自分の身を案じるのではなく、その状況を大きな福音のチャンスだと捉え、意志を向けて上に立つ権威である千卒長にその場を求めたのだと思いました。すると、すぐに与えられ、その時騒いでいた民衆たちもパウロが話しだすと静粛になり、最後まで立派に証することができました。そこに大きな聖霊の力を感じました。私たちも、日々の生活の中で福音のチャンスはたくさん与えられています。パウロのように自分の立場、状況、状態を顧みず、「生きているのはわたしではない。キリストがわたしの内に生きておられるのである」という姿勢で、常に福音のために自分を明け渡せているのかを問われていると思いました。そしてまず、意志を向けること!チャンスを活かすも、活かさないも自分の意志次第。でも意志をむけて行った時に、聖霊が働き、周りの状態も一瞬にして変えてくださり、必ず主にあってやり遂げることができるのだと語られました。何よりクリスチャンは福音のために生かされている、それが一番の仕事であるというところに立つこと、福音をして行く姿勢をパウロを通して改めて学びました。


(使徒行伝22:3~21、26:2~23)
また使徒行伝を読んでいくと、パウロは行く先々で自分に与えられた最初の愛を何度も証していることが分かります。

私たちもこれまで集会で「初めの愛」をとられることなく語り続ける事が語られてきました。神が与えてくださった「初めの愛」、奇跡こそが何よりイエス様が生きておられることの証明になり、福音になること、そして何度も証をすることで自分も感謝が満ちあふれ、ますます力強く語り続ける事が出来る事を語られました。


(使徒行伝23:1~5)
パウロは議会を見つめて言った、「兄弟たちよ、わたしは今日まで、神の前に、ひたすら明らかな良心にしたがって行動してきた」。 すると、大祭司アナニヤが、パウロのそばに立っている者たちに、彼の口を打てと命じた。そのとき、パウロはアナニヤにむかって言った、「白く塗られた壁よ、神があなたを打つであろう。あなたは、律法にしたがって、わたしをさばくために座についているのに、律法にそむいて、わたしを打つことを命じるのか」。 すると、そばに立っている者たちが言った、「神の大祭司に対して無礼なことを言うのか」。 パウロは言った、「兄弟たちよ、彼が大祭司だとは知らなかった。聖書に『民のかしらを悪く言ってはいけない』と、書いてあるのだった」。


パウロは自分の間違いに言い訳をすることなく、すぐに素直に悔い改めました。福音を伝え、教えを説きながら論破していく際、決して高慢になることなく、指摘された時にはすぐに自分を吟味し素直に悔い改める事が大切である事、それが自分を清く保ち、サタンにすきを与えず、立ち止まる事なく前進して行ける歩きにつながるのだと語られました。また、それができるのは自分でやっているのではなく、イエス様に明け渡して聖霊によって語らせていただいているという、全ての栄光をイエス様に帰したところで行っているからできるのだと語られました。


(使徒行伝23:11)
その夜、主がパウロに臨んで言われた、「しっかりせよ。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなくてはならない」。


大胆に証をし語り続けてきたパウロも、このイエス様の言葉から恐れや不安があったことが分かります。でも、私たちと同じように神の言葉(みことば)をいただき、肉を打ちたたき、意志を向けてイエス様の仕事をやり遂げてきたのだと語られました。




読み終わった時、実際パウロが迫害を受けた場所を見、現実的に想像しながら読んだことで、これまで以上に霊に強く語られ、思いが溢れました。まずこれだけの迫害を受けながら、決して妥協する事なく、命をかけて福音を述べ伝えてくれたことに、「感謝」という言葉では言い切れない思いでいっぱいになり、パウロがいたから、今真理を知ることができたのだと胸が熱くなりました。そして私の中から最初から霊的に何でもできた特別なすごい人、少し遠い存在という思いは消えました。もちろんパウロはイエス様に宣教師として選ばれた人でしたが、決して特別な力の持ち主ではなくて、私たちと同じように初めの愛をいただき、訓練を受け肉の思いと葛藤し戦いながら、でも常にイエス様に意志を向けすべてのことを忠実に行い、福音を述べ伝えてきました。以前から読んでいてわかっていたはずなのに、今回初めて実感したかのようにパウロも私たちと同じイエス様を愛する兄弟姉妹、神の家族なのだという思いが強く入ってきました。それは今、目に見える兄弟姉妹を思うような、とても身近な感覚です。


私はトルコに行く前の賛美とイエス様への感謝を表す証の会で、「WE GATHER IN THIS SANCTUARY」という賛美を選び、証をしていました。

「WE GATHER IN THIS SANCTUARY」

(歌詞)
「われら神の家族 たがいに愛し合い 許し合い 祈り合い ともに主を賛美 喜びのわらいが われらの口に 満ちあふれ ハレルヤ イエス様を賛美」


☆詩篇71:8
『わたしの口はひねもす、あなたをたたえるさんびと、頌栄とをもって満たされています。』


(証)
「私が一番イエス様に感謝しているのは、何より母が十万人に一人の難病から癒され、こうして今も元気に生きていることです。私は小学五年生の頃に救われ約15年間聖書を学び、いつも聖書から答えをもらい歩んできました。今では聖書がない生活、イエス様がいない生活は考えられないほど、強い信仰もいただきました。いつも私の中心には聖書という一本の柱があります。それも母が、小さい頃からどんな時も聖書を基盤として戒め、教え、諭してきてくれたからだと思います。母が病気になったから私はイエス様と出会えましたし、イエス様がいたから母は癒されました。そして、今の私があります。本当にイエス様に感謝しかありません。なぜこの賛美を選んだかというと、そんな私の歩きを振り返った時、そこには必ず共に祈り、励ましてくれた牧師・兄弟姉妹の姿があったからです。辛いときには話を聞き、共に戦い励まし祈ってくれました。また嬉しいときには共に喜んでくれました。この賛美の歌詞そのものの神の家族が私には与えられている、その感謝も溢れこの賛美を選びました。これからも、みなさんと共にイエス様の兵卒として働き、歩んでいきたいと思います。」


このように証をさせていただいていました。

トルコに行く前から聖霊によって「兄弟姉妹・神の家族」に思いが入れられていました。この時は、自分の身近にいるぶどうの木のみんなのことを思っていましたが、トルコに行き、約2000年前から現在に至るまでの、イエス様に忠実に従ってきたクリスチャンたちも私の大切な神の家族なのだという思いに変えられました。


使徒行伝の実践的なパウロの歩き(パウロの証)を通して、私はあらゆる角度から自分がどのように福音をしなければならないか、クリスチャンとしてどう歩んで行かなければならないかを、教えていただきました。いつも兄弟姉妹が訓練として通っているところは、他人事ではなくいずれ自分も通るところだから、先に聞けることに感謝して自分がその訓練にむかうときどのように実践すればいいかしっかり聞くように語られていますが、そのことに時代は関係ないのだと実感しました。私たちは聖書に書かれている使徒たちの歩きの証から、先に様々な訓練に対する答え・方法をいただくことができるのです。また兄弟姉妹の証は一人のものではなく、みんなの証であるとも語られてきましたが、それも時代は関係なく、使徒たちが受けた奇跡の数々も私たちの証であり、イエス様が神の子であること、救い主であること、今も変わらず生きておられることを確信できる証が本当にたくさん与えられているのだと感謝が溢れました。

パウロや使徒たちとは今実際に会って話せなくても、聖書を通して私たちを励まし、勇気づけ、語り、福音をしていく上で大切なことを教えてくださっています。パウロも使徒たちも全員が、肉体はなくても霊では1つ、一つ思い一つ心で、今もイエス様のために働き続けているのだと強く感じました。私には、こんなに素晴らしい兄弟姉妹が与えられているのだと、勇気と力が満ち溢れイエス様に改めて感謝しました。


私は帰ってきてから、一番最初にこのみことばをいただきました。

(第一コリント15:55~58)
「「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」


使徒たちが命をかけて伝えてくれた福音は、決してむだになることはなく、全世界に広まり私たちの元にしっかりと届きました。そして私たちはイエス様を知り、命を得、たくさんの祝福を受け、今真理を知れたことに心から感謝をしています。でも、今サタンによって間違った教えが浸透し、偽物の神々を信じている人が全世界にあふれています。実際、使徒たちやパウロが福音して回ったトルコも今ではイスラム教の霊力に支配されてしまっています。トルコに行き、愛がなく宗教でしかない教えに縛られた人たちを見た時、胸が苦しくなり、「パウロがこんなにも一生懸命にのべ伝えたのになんで!?」という思いになりました。と、同時にどんなにサタンが攻撃し福音を絶やそうとしても、私たちはパウロが伝えてくれた真理を知っている!今肉体があり動ける私たちが今度はこの足で、使徒たちから受けたバトンをしっかりと受け継ぎ、イエス様の真理を大胆に述べ伝えていかなければいけないと思いました!そして、それも決して無駄になることはなく全世界に広まり、終わりの時にはみながイエス様を褒め称えるクリスチャンとなれるのだと確信しています!


今回、トルコに行き、実際目で聖書の世界を見、また聖書を読んでたくさんのことが語られました。聖書は私がこれまで感じてきたように、いつの時代にも適用し、どんな問題についても的確に答えを与え続けてくれるとても力のあるものだと改めて実感しました。ますますしっかり読んでいかなければいけないと思いました。そしてパウロのように常にイエス様を一番に、意志を向け、すべてのことに忠実に、信仰を持って福音をのべ伝えていきたいと思います!!