召命アカデミー
(神に選ばれて聖職者として仕えること)を通して

 
 

どうやって職場内でイエス様を知らせ、あらわせるだろうか?考えていた中で、やってきた今回のアカデミー。

2010年12月29日、初めてその友達に会った時点を振り返ると、イエス様の計画は本当に驚くほどすばらしいことが分かった。私にイエス様を知らせてくれた友達は、私が一度も行ったことのない日本に住んでいる一人の(日本人)牧師だ。偶然な機会に日本語に関心を持つようになり、日本に住んでいたことのある知人に日本語を学びたいと助言を求めたら、ちょうどその時に韓国に遊びにきた知人の友達を紹介してくれた。この時は、ただ“牧師と友達になった”と思うくらいだったが、今の私の人生を振り返ってみると、本当にすごい日だったと思う。イエス様が偶然はないとおっしゃっているように思う。イエス様の計画の中に生きていることを改めて感じることになる。

ただ一度きりのもう会えない友達だと思ったこの友達は、ほかでもなく、私に福音してくれた友達であり、同い年の一人の女性牧師だ。

その後、2011年6月、韓国宣教に望みをおいたその友達は、韓国に留学に来た。本当に最高のタイミングに私はイエス様を知ることになった。そして、私はまだ聖霊をもらっていなかったので、友達を通して聖霊と聖霊の賜物である異言をもらった。その後、私の生活は一日一日が証にあふれる一日だった。



その友達は24時間主と会話し、24時間従う。まだそのような信仰を見たことがない。だから私は、その友達を通して主についてもっと知るようになった。“神はどこにいる?”と否定していた私に、親切と愛でイエス様を知らせてくれた友達だ。この友達に会った当時、私は趣味で学んだタロットで仕事をしていた。

初めて会った時、私はこの友達にタロット占いをした。あとで聞いた話だが、私に福音したいと気遣って、タロット占いを受けてくれたのだ。(そして、その時友達がいただいたみことばは、第1コリント9:19~23、10:27~11:1だったと聞いた。)日本語を学びたかった理由は、タロットの客がほとんど日本人だったからだ。



2回目に留学で韓国に来た友達に会った時、その友達はイエス様について知らせてくれ、私は拒否感なく昔教会に通っていたと話した。昔に通っていたけど、その時は大きい関心を持たなかった。

牧師である前に友達で、同い年だったため、私は自然にタロットの仕事をしながら大変な点を話すようになった。その仕事を始めたあと、不眠症に悩まされはじめ、何かがとりついた人のようにタロット占いをし、いつも客の悩みだけ聞いていた私は疲れていき、幸せがなくなりはじめていた。その話を聞いた友達は、それは神の前で罪なので、タロット占いを辞めたほうがいいと言った。最初は友達の言うことが少しおかしいように聞こえたが、友達はみことばで説明してくれ、徐々に理解できるようになり、私に正しい道という思いも入った。

そして、私のことをマタイ13:44~46に書かれてある尊い真珠だと言ってくれた。このみことばを通して、その友達の教会は、私のために生活費と日本語学校に通えるように学費をくれた。それによって私はタロット占いをやめることになり、日本語学校に通い始めた。最初は、たくさんとまどったが、仕事がとても大変で辛かったので、断るよりは受け入れたかった。



天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。(マタイ13:44~46)アーメン。



その時から、私の人生は大きく変わった。イエス様に初めてもらった愛だった。

しかし、とても疑わしかった。私をどのように知り、お金を支援してくれるのか?もしかしたら異端ではないだろうか?私を日本に連れて行ったらどうしよう・・・など、たくさんの思いが入った。でもこれは、サタンが与える不安な気持ちだった。今もこの友達は、私に会ったらイエス様のお名前ですべてのことを施す。この友達の教会は、このようなみことばで私に施してくれた。それはみことばに従った行動だった。



そこでわたしは、あなたがたの魂のためには、大いに喜んで費用を使い、また、わたし自身をも使いつくそう。(第2コリント12:15a)アーメン。


あなたの手に善をなす力があるならば、これをなすべき人になすことをさし控えてはならない。(箴言3:27)アーメン。



この友達は、その年の8月27日に留学期間を終えて帰り、私は今の教会に通うようになった。最初私は、とても大きな熱情をもって礼拝、奉仕などを始めた。私の屋根裏部屋(心の奥)には、証がいつもあふれていた。聖書がなかったら、どこにも行かなかった私の生活だった。本当にとても幸せな時間だった。

でも、書き記せないたくさんの混乱が始まった。時間が少しずつ流れたあと、知る事になる一つの事実は、知ることより従順と実践が裏づけにならなければならない(=証に力がある)ということだった。



兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。(ヨハネ黙示録12:11)アーメン。



証を一生懸命した中で感じたことは、“私だけ話しているな。なぜ、他の人は証がないのだろうか?”ということだった。また、一つ感じた点は、“どんな青年たちも知識が不足しているのではないんだな!”だった。みことばもとてもよく知っていた。

水曜礼拝、金曜礼拝、養育班、主日礼拝、奉仕など、教会に一週間近く来るようになりながら感じたことは、“聖書を見て行うのではなく、聞くことだけしているな。義務で出かけているのではないだろうか?”ということだった。“私のためのものか?イエス様のための人生か?”とても難しくなり始めた。



兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。(ローマ10:1~4)アーメン。



私たちは、聖霊様の導きによって聖書を読み、イエス様の御旨が分かる。牧師だけがイエス様と1対1の交わりができるのではなく、聖霊のバプテスマを受けたすべての人が、みことばに込められたイエス様の御旨が分かるのだ。(第1コリント2:9~12、第1ヨハネ2:27)礼拝が重要ではないというのではなく、建物である教会だけが主になってしまった人生だということだ。聖書を読むのは、クリスチャンなら皆一読するように、必ず一度はしなければならない手順のようになっていっている。


しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。(第1コリント2:9~12)アーメン。



あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。(第1ヨハネ2:27)アーメン。



聖書は、ただの本だろうか?神の感動(霊感)のゆえにつくられたこの大切な宝物を、どれだけ活用して、私たちは人生の中で適用しているのだろうか?



聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。(第2テモテ3:16~17)アーメン。



創世記だけ何度も読んだ方たちも大勢いるようだ。イエス様を愛していると言うが、真の愛がなかったのではないだろうか?愛する人ができればどうなのか?その人のすべてのことが気になり、その人のすべてのことに対して心を配り、関心を持つようになる。本当に愛していると叫ぶ私たちは、イエス様を知るためにどれだけ聖書を見て、従っているのか。これが本当にすべての思いと、すべての知識と、すべての力を尽くして愛することか?


心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。(マルコ12:30)アーメン。




もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。「彼を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。(第1ヨハネ2:3~6)アーメン。



私は聖書を創世記から始めなかった。それが答えだと思わなかった。一読するすべての人が、よくないというのではない。一読することが重要なのではなく、行うことが重要だということだ。“一読してすべてのことを行えるか?”という疑問がある。私は祈り、聖書を広げる。いつも私の思いと利己心、どんな答えも出さないで、すべてのことをイエス様と聖霊様の導きにゆだね、祈りをしたあと聖書を開く。いつもそこには、イエス様がくださる答えがあった。でも、私の思いで一つ答えを求めて探す時は、何もくださらなかった。私とイエス様との1対1の関係だ。

すべてのことをイエス様にゆだね、求めることを知るまで、私も数々のつまずきと困難があった。でも、イエス様がくださったみことばに従って、私はその時その時実践して進んだ。実践して進んだ時のイエス様の働きは本当にすごかった。日本人の友達牧師に学んだ方法だ。彼らは、そのようにみことばを見て、兄弟姉妹と一緒に分け合う。一人でもらったみことばは、そのみことばがイエス様がくださったみことばか、サタンから来たみことばか分別力が劣る・・・なぜなら、サタンも光の天使に擬装するからだ。



というのは、もしある人がきて、わたしたちが宣べ伝えもしなかったような異なるイエスを宣べ伝え、あるいは、あなたがたが受けたことのない違った霊を受け、あるいは、受けいれたことのない違った福音を聞く場合に、あなたがたはよくもそれを忍んでいる。(第2コリント11:4)アーメン。

しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。(第2コリント11:14)アーメン。



韓国で教会に通い、一人でもらう私のみことばが、1年間は見当がつかなかった理由だった。誰も一緒にみことばを分かち合うことができず、一緒にみことばを見ようとするとおかしいと思われた。生きていらっしゃるイエス様がどんな方法で働かれるか知らないのではないか?私にみことばをくださるイエス様が私の時に応じてみことばをくださり、行った時に驚くべき働きをしてくださるのに。実践もしてみないで、おかしいというのは話にもならなかった。私の証で彼らはすでに見たので。私がもっと一生懸命証しなければならない理由がまた生まれたのだ。そのように時間が流れていった。しかし私はやはり知ることだけ増える人になっていった。実践するよりも、“言葉だけ”クリスチャンになっていった。




信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。(ヤコブ2:17)アーメン。



霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。(ヤコブ2:26)アーメン。



日本人の友達牧師の教会は、牧師と1対1の関係のもと、悩みと解決についてみことばと牧師が与えられている聖霊の賜物“知恵の言葉”で知らせてくれる。そして、時に応じて一緒に祈り、サタン(その人に攻撃してくる悪霊や、その人の中にいる悪霊)を追い出す。その点が、私はいつもうらやましかった。私だけ何かをすることに疲れていった。

私は、イエス様がここの教会の職場に私を送ってくださった理由があるというのは分かる。それははっきりしている。だから私は、もっと目を覚まさなければならない。今回の召命アカデミーを聞き始めた理由もこれだった。私の職場と教会は一つの建物だから。さらに重要な講義になるだろうという期待と一緒に。



召命アカデミーを始める時の私は、24時間イエス様だけを望む人生を求めながらも、自分が中心になっていることを感じ、再び目を覚ますために祈っている時だった。私が中心である人生は、本当にあまりにも喜びのない日々だった。そんな中でイエス様がくださった知恵は、本当に驚くほどすばらしかった。他人ができていないことに動揺するのではなく、私が先にイエス様と同行して従い、みことばを読んで証し、そんな人生の中で、私を通してその人が主を感じられるようにしてみるのはどうか?と、おっしゃってくださった。



わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。 ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。(第1コリント9:19~23)アーメン。




召命アカデミー。本当にとても整理がよくできて、良い方向の提示に役立った。

私たちは、自分の義(肉)とイエス様の義(霊)を区分できる分別力を持って、すべてのことを望み見て、行わなければならない。分別力が重要な理由は、分別できなかったら、私たちは区別された人生をいきられないからだ。



というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。(ローマ7:5~6)アーメン。



わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。(ガラテヤ5:16~17)アーメン。



真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。(ヨハネ17:17)アーメン。



私は、このようなみことばを通して、聖別されたクリスチャンは、何が自分の義で、何がイエス様の義なのか区分できる分別力があるということが分かった。



職場の中で、私の人生の変化によって実を結ぶなら、どれだけイエス様が喜ばれるだろうか?

牧師の言葉は、とてもよく整理できていた。職場にいながら、その時々適切な状況によく整理したみことばが浮びそうだった。

私も職場内で、光と塩でありたい。いてもいなくてもいい一人ではなく、いなかったら困る人でありたい。この点で、自分の義を掲げているのではない。神の労働者として、本当に最善を尽くして、誠実に生きていきたいという思いだ。

自我停滞感?今はしっかりと知って生きているからだ。この地に私が生まれた理由は、イエス様のためだということを知ったからだ。人生の目的を知ったので、私は揺れ動いても、常にイエス様がいない人生は考えないようになった。



よく称賛を好む。仕事をしながらも、称賛を受けたらとてもうれしい。でも、その称賛も神の働きによることをいつも忘れてはいけないと思う。それなら、非難を受ける時は、誰によって非難を受けるのか?多くの感情に苦しんで、ストレスを受ける理由は、私から見たら、ここにあると思う。喜びも(一時の)悲しみも、すべて主がくださることを知って受け入れ、生きるようになったら人生に感情起伏はないように思う。



それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。(第1コリント1:29~31)アーメン。



他の人が、私にいい加減に接したら、それはその人ではなく、その人の中にいるサタンの姿を見極めなければならない。なぜなら、私たちクリスチャンの敵は人ではなく、サタンだからだ。

最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。(エペソ6:10~12)アーメン。

他の人から称賛された時、やはり私がよいからではなく、時に合う知恵と行動を教えてくださったイエス様に感謝の祈りをしなければならないと思う。すべての人生は、試験とも同じだと思う。整えられ、イエス様に近づいていく人生になるのではないだろうか?


また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。(ヘブル12:5~11)アーメン。



クリスチャンになる前、私の人生はいつも周りの影響をたくさん受けたように思う。些細な言葉に気を遣い、心を奪われ、ストレスを受けていた。でも、今の私はストレスなんてない。完全にイエス様を望み見る人生は、困難も悩みもない。困難も、感謝して受け入れる人生になるために、いつも祈っている。



神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。(ローマ8:28)アーメン。



その方案についていろいろと考えてみた。火曜日にアカデミーをするのが重要なのではなく、私の領域(置かれた場所)で、牧師の言葉をどのように適用するべきかが私の宿題であり、重要ではないか。

私が今働いているところは高校だ。私の教会と職場は同じところだ。最初仕事を始めるために、この職場でもらったイエス様のみことばは、以下のみことばだ。



よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。(ルカ15:7~10)アーメン。



私を100%ご存じのイエス様がくださった100%理解できるみことばだった。私は、なくしてしまったものがあると、他のことは考えず、ひたすら1つなくしてしまったものだけを考えて探す場合が本当に多かった。他の物が大切ではないからではなかった。本当に理解できる思いだ。たとえでおっしゃいましたが、私にはとても大切に迫ってきた。みことばを見たあと、こんな気持ちで伝道をしたら、本当にいいと何度も思った。



あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。(マタイ20:26~28)アーメン。



上のような2つのみことばをくださった。低い者の姿で仕え、イエス様と同行し、一人でもイエス様に立ち返り、悔い改められるようにする私の人生。イエス様が、この職場でくださった私の使命だ。



“光と塩になる人生。そして、生きていらっしゃる神と同行する人生。”

私が祈った人生だったので、とても心に響いた。特に下のみことば。このみことばはやはり、イエス様がいつもくださったみことばだった。



あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:13~16)アーメン。



そして、金銭について。

以前、同じ屋根裏部屋で分かち合ったみことばを思い出す。お金を所有しようとする心は、完全にサタンが与える心だと思う。誘惑だからだ。



富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。(第1テモテ6:9~10)アーメン。



どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。(ルカ16:13)アーメン。



でもお金は、神が私たちにあふれるように満たしてくださる祝福だということも分かった。私の信仰の指導者(信頼のおける相談相手)である日本人の友達牧師の人生で分かった。

アカデミーのほとんどの内容は、簡単に理解できた。いつも日本人の友達牧師が、大切だと言う部分だったから。でも、言語の壁がまだ少しあり、牧師がまとめた内容が、さらに私には大きな助けになった。

不足することが全くない日本人の友達牧師の教会のクリスチャンたちの生活から分かった。満たそうと努力するのではなかった。肉ではなく霊的に24時間目を覚ましている彼らの人生に、イエス様が祝福から祝福を注がれている姿を見た。“私がイエス様であってもそうする”と思った。イエス様が、あふれるように一人一人を満たしてくださることを証するので、驚きを見た。

日本人の友達牧師の教会のクリスチャンたちは、みんなが聖書の真理に従って生活した結果、社会的、経済的、健康など、すべての面で祝福を受け、一人一人が肉の自分から、霊の自分に180度変わっている。彼らは聖書に書かれてあること、イエス様と聖霊様の力を証明し、クリスチャンが0.8パーセントしかいない日本で今、イエス様の愛を実践して、たくさんの魂を救っている。絶対神の力としか言えない証で日々満たされている神に喜ばれる真のクリスチャンの姿を、私は目撃している。またイエス様が、あふれるように満たしてくださることを近くで見ることができる。



そして、さらに心に入ってきたのは、「信仰生活が長いですが、なぜ幼子でとまっていますか?」という部分だった。私が教会に通い始めながら、一番入った思いだった。私の人生の主人がいつもイエス様か?いつも考える点だ。イエス様が見て、私の人生はどうだろうか?

“能力があり、神を恐れて、真実で、不義の利益を嫌う者”


なぜ教会に、ねたみと憎しみがあるのだろうか?サタンと主に1つのところで仕えることはないだろうか?信仰に妥協はないと思う。完全な従順、また私の人生の変化から出てくる道。いつも祈る。他の人の人生を見て叱咤するよりは、彼らの人生を見て私を吟味し、私が先に変わり、彼らのために祈ってあげられる心をくださることを祈る。毎日。



今回の召命アカデミーは、最初にその信仰に立ち返り、行動と実践でイエス様を伝えられる人になるために祈り、一日中主と一緒に会話しようという大きい挑戦をいただいた良い機会になった。信仰とは、本当に牧師の言葉どおり、生きていらっしゃる神と同行する人生だと、私は確実に信じる。

イエス様を信じる私の人生は、イエス様と似ていって、イエス様と一緒にする時に光を放てる。私の力ではできないことがたくさんあるが、イエス様を通しては不可能がないことを知っている。



イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。(マルコ10:27)アーメン。



言葉でだけ「信じてください。」というのではなく、行うことで私によってイエス様のかおりを放つ人でありたい。



しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである。いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか。しかし、わたしたちは、多くの人のように神の言を売物にせず、真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語るのである。(第2コリント2:14~17)アーメン。



わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。(ヤコブ2:14~26)アーメン。

私は死んで、イエス様が生きる人生でありたい。

わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。(ガラテヤ2:19~20)アーメン。



召命アカデミーが終わるころ、イエス様は職場の中で、私の人生が主の子供になった人生であることを見直せるようにしてくださった。どんな子供でも、両親の悪口にはかっとなる。それにもまして、私たちはイエス様の光である子供たちだ。私の父であるイエス様が、私によって職場内で懸念されることを望まない。

私がもっと目を覚まして私の人生を完全に主に頼り、私のすべての人生が主のものになるその日まで、私はどんなことも疎かにしてはだめだ。みことばの知恵は驚くことだし、大きいことで、主の働きは本当に生きていらっしゃって、感じるようにしてくれる。私がみことばを見なかったら、イエス様の知恵が分からず、実践しなかったら、イエス様の働きを私が成し遂げられない。

24時間会話し、祈る理由は、私の人生にイエス様が臨在し、働かれることを望むからだ。

私の肉は、とても強くていつも思いを支配する。私が感じられない間につけ込んで、主を忘れさせ、疲れさせる。


生きていらっしゃるイエス様と同行する私たちの教会になることをもっと期待してみる。今私が通っている教会はやはり、教会の大きさに、聖徒数に執着する教会ではなく、聖徒一人一人が主を忘れ再びサタンの手の中に入っていかないようにすることではないかと考えてみた。1対1の関係、牧師との関係も非常に重要だ。苦々しい現実は、私は代表牧師を知って1年以上すぎてから、牧師が私を知った。なぜ牧師は、近づいていくにはとても遠い人になっているのだろうか?全員に同じ状況が広がっていたら、幸いに牧師のみことばで皆が恵みを受けて生きていけるが、各自違う生活と悩みに苦しんでいる。彼らが悩みが原因で、生きていらっしゃる神と徐々に遠くなっていたら、本当にそれが神が望まれる人生か考えてみる。

神との1対1の関係も大切だが、それをすべての人が教会に来てすぐには分からない。牧師たちは、礼拝準備もとても忙しく、近くにいって悩みを相談することにも、心的にはとても遠いところにいるようで、もの足りない気持ちがたくさん残る。2000名を何人かの牧師でうまくやっていけるだろうか?教会が大きすぎるということだ。一人一人をもっと知り、彼らに主の導きについて一緒に祈ってあげ、イエス様を通して道を提示してあげるには、とても手に余るということだ。



牧師がおっしゃった教会の仕事。

回復されているのか?武装されていっているのか?主導者と助ける役割がよくなっているのか?

多くの考えを持ってきている部分だった。各自の位置で、神がくださった役割をよく理解しているか?答えは“私がまずその聖徒の一人になって、イエス様に従順に行うことではないだろうか?”と思った。

私の小さい実践が、イエス様をあらわせるなら。

とてもたくさんの人たちが、聖霊様の臨在を忘れているようだ。私が見る観点だと思ってしまうことがあることも、一つ思いでいらっしゃる聖霊様と祈り、聞き続けている事がらもある。


イベント的にする証ではなく、こつこつ主が守ってくださる人生を生きているのか?



狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。(マタイ7:13~14)アーメン。


私たちの教会は、良い実を結んでいるのか?


にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。(マタイ7:15~21)アーメン。


時々、教会が社会よりももっと恐いところだと思う。私も聖徒たちをどれだけ愛する心で見ているか疑問点がある。憎んではいないが、愛も同じくない私を吟味し、たくさんの反省をする。イエス様の愛に似ていく私になるものと確信している。私に愛が何であるかを分かるようにしてくださった方だからだ。


たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。(第1コリント13:1~8)アーメン。


生きていらっしゃる神と同行するためには、肉の思いはすべて捨てて、聖霊様の導きによって生きていかなければならない。

なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。(ローマ8:5~7)アーメン。




また驚いた点は、皆“私は人間だから”と言い訳していることだ。私たちはイエス様の品性に似ていかなければならない者たちだ。聖霊がいるなら可能だ。私たちに不可能はない。生きて働く神と一緒にする私たちに不可能はない。“私は、もともとそう。私の性格だ。”・・・サタンが植えつけた愚かな弁明だけしている。必要に応じて、サタンと主に一緒に仕える者たちになっている。不可能はない。

罪の本性の支配を受ける人は、神に喜ばれない。



また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。

わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」
と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。(ローマ8:8~39)アーメン。



神に不可能があるだろうか?

完全な従順!本当にたくさんの人たちが、広くて楽な道にだけ行こうとする。私たちは、狭い門に行かなければならない。誰でも行く道ではなく、ひたすらイエス様に行く道に行かなければならない。


狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。(マタイ7:13~14)アーメン。


聖霊様が懸念することを知る人にならなければいけない。私たちはこの世に来ることになった大きい御旨があるにもかかわらず、仕事をしてお金を稼ぐために欲を出し、家を買い、車を買い、結婚し、変わりない人生を生きていくこと、こんなことが人生の目的だと思って生きて、それらを通して幸せと平安を感じる。そして、錯覚する。イエス様がくださった平安だと安住して生きていく。

私たちがこの世に来た目的が、本当にこのような理由か?と疑問をもって考えてみる。皆が、一日中生きていらっしゃるイエス様を感じ、24時間聖霊様と一緒に死ぬ日まで生きていくことを私は祈る。ひとまず、青年たちのために私が属している屋根裏部屋で、主の光になることを願う。職場だけでなく、生活するすべてのところで主の光である子供になるために、いつも目を覚まし、祈る人生に挑戦する。一日一日が最後の日のように、イエス様を伝える人になるために、いつも目を覚まし、祈る私になるだろう。イエス様は、耳に聞こえるままに働いてくださる方だから、私の思い通り成し遂げてくださると信じている。



あなたは彼らに言いなさい、『主は言われる、「わたしは生きている。あなたがたが、わたしの耳に語ったように、わたしはあなたがたにするであろう。(民数記14:28)アーメン。


すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。(ローマ14:7~8)アーメン。


兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。(ローマ12:1~2)アーメン。





今回召命アカデミー担当の牧師が証を書きなさいとおっしゃったのですが、いろいろ私の思いと感じた点、そして反省しなければならず、目を覚まさなければならない部分を書きました。私は書きながら、改めて反省することになり、再びまたイエス様の力に頼り、起き上がれる勇気が生まれました。


そして、イエス様が私を選ばれた理由も再確認できました。私の願いは、全世界のクリスチャンたちが、脱落せず、一つ思いでイエス様に従えるようになり、一つになることです。それがイエス様が望んでおられることだと思います。イエス様は、私にその強い気持ちと、それを行うための尊い真珠だと預言をくださいました。私を通して、一人でも助けになったら、この証が助けになったら、また、イエス様の美しい尊い真珠として生きていけるようになることをうれしく思います。

今私が、一度も行ったことのない日本にいるクリスチャンたちと交流していることも、神の計画だと思います。全世界がイエス様によって一つになるために、まずは韓国と日本が一つになれるように、そして、韓国と北朝鮮が一つになれるように、イエス様と同行しながら、聖書のみことばを実践していきたいと思います。私はこれからも、私のためのイエス様ではなく、イエス様のための私の姿で祈ります。“イエス様、私がここにいます。私をイエス様の完全な僕として使ってください”と、毎日祈ります。

そして、この小さな私から、イエス様の働きがあることを絶えず祈ります。



そこでピラトはイエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」。 (ヨハネ18:37)アーメン。



すべての栄光をイエス様に帰します。