証から気がつかされたこと

 
 

私たちは福音の兵隊として、証をしなさいというタイミングがいつ与えられるか分かりません。
買い物しているレジで10秒で証をしなさい。
皆の前で1時間かけて証をしなさい。
イエス様が「今」といわれたときに、少し待ってくださいと答えたら福音の兵隊として失格ですね。いつ、どんなタイミングでいわれても証ができるように私たちも日々訓練を受けています。

来週の聖日には韓国からの兄弟姉妹が初めて来日し集会を共にします。彼らは私たちの証を聞けることを楽しみにしています。そういうこともあり、兄弟姉妹たちが古いところを振り返ってどのように変えられていったかと改めて証をしました。証をするときは、自分はもちろん、自分の教会や牧師を誇るのではなく、イエス様に栄光を帰すためされなければいけません。そこで必要となるのが、御言葉です。

第2コリント10:17~18
「誇る者は主を誇るべきである。自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、確かな人なのである。」

また証は「こういう良いことがあった」というイベント的な証だけではありません。このような証があるだけでは、御利益宗教といわれてしまいます。過去の自分はこんなところにいたけれども、この御言葉をいただいて自分はこんなにも変えられていったと、語れることが力のある証となります。
その過去について語るときも、涙を流しながら「あの時はこうこうで辛かったんだけど・・・」と暗く、涙を流しながら語るのではまだ昔の霊に勝利できていないことになります。勝利を得て証をするならば、「昔はこんな馬鹿みたいなことやっててたんだけどね、サタンの霊にやられていたのがわかったの!それで戦って勝利を得たんだよ!」と昔とらわれていた悪霊を足の下に踏み砕くように、明るく力強く語れるのです。

コロサイ人への手紙1:21~23
「あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなた方を聖なる、傷のない、責められるとこのない者として、みまえに立たせて下さったのである。ただし、あなたがたは、ゆるぐことがなく、しっかりと信仰にふみとどまり、すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないようにすべきである。この福音は、天の下にある全ての造られたものに対して宣べ伝えられたものであって、それにこのパウロが奉仕しているのである。」

私も改めて証をしている中で、新たに気がつかされたことがあります。
私は以前は所謂普通の教会に通っているだけのクリスチャンでした。学生の時から交際していたノンクリスチャンの女性がいましたが、彼女は自殺の霊や自己憐憫の霊にとらわれているこの世的にいえば「病んでいる」女性でした。また彼女の家庭も裕福なものではなく、学費が払えないから除籍になりそうだったときに私が払ってあげたり、就職活動費なども私が出したりしていました。
彼女は無事卒業、就職しぶどうの木において聖霊のバプテスマを受け救われました。そして彼女は箴言7章から遊女の霊にとらわれていたことを知り霊の解放が行われました。さらに私との間にあったのが遊女の霊に起因する姦淫・不品行の霊であったと悟り、これまでの私との交際関係を解消して、魂・体においても解放されました。当時の私は「こんな女の子一人も幸せにできないで男として情けないではないか!」
とかっこつけしいな考えをもっていたうえで、交際を続けて彼女を幸せにしようと必死でした。

このように改めて証をしてみて、当時の自分は最近語られている「男のプライド」の霊にとらわれていたと初めて分かりました。上記の考えは相手のことを考えているようで、自分の男の意地を守るために彼女を幸せにしようと躍起になっているだけです。かしらがイエス様ではありませんね。プライドとは自分の能力を頼みとして神を神としてあがめてより頼まない、傲慢な心の状態のことで、人を神よりも高くし、自分に対する賞賛やへつらいを愛し求めます。自らを低くする謙遜とは真反対の悪のことです。男性が本来持っている家族を守るために与えられた本能的な力ではなく、この世の自分の地位を誇示するためのプライドは余計なものです。

男のプライドがあったら福音を正しく聞くことも伝えることもできません。証を書くときに筆が進まないことがあります。イエス様に救われた結果のみを書き、自分がかつていたところを隠したまま証を書き上げようとする霊力が働きます。自分がかつていた恥ずかしい部分を隠したくなるところが、男のプライドの霊であり証を止まらせる霊力です。この霊力はいたるところにあらゆる形で存在しています。家族を養うために男性が働いて稼いでくるのは神が定められたことです。ですが、事あるごとに「俺が稼いできた金だぞ!」と言うのがあればそのかしらは自分であり、神ではなくなってしまいます。自分がやった、自分がやってやったと思うところがあれば吟味です
はじめの愛を取られず、すべての栄光をイエス様に帰し御言葉を蓄えていくことが大切ですね。

箴言16:18~20
「高ぶりは滅びにさきだち、誇る心は倒れにさきだつ。へりくだって貧しい人々と共におるのは、高ぶる者と共にいて、獲物を分けるにまさる。慎んで、み言葉をおこなうものは栄える、主に寄り頼む者はさいわいである。」

第1ヨハネ2:15~17
「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。全て世にあるもの、すなわち肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。」

アァメン。