審判者の霊~古い肉にあるパン種との聖別~

 
 

クリスチャンの国籍は天にあります。ですから、天国ではないこの地上で起こることや見聞きし、知ることすべてに対して、救われる前の捉え方とは真反対となります。クリスチャンは古い肉の時代に培ってきた、自分なりの常識、判断、やり方など(パン種)すべてを捨てて、すべての判断をイエス様・みことばに求めます。古い、肉にあったパン種は救いと共に一瞬のうちに取り除かれるのですが、私たちが肉体を持って生きている限り、そのパン種が膨らもうと挑戦してきます。そんな時、クリスチャンは内におられる聖霊の助けをかりて、二度とパン種が膨らまないように戦い続け、パン種を十字架につけ、霊の思いに満たされている状態に自分を置き続ける、という戦いをしなければなりません。それを、「霊と肉との聖別」と言います。

今週の集会では、あらためて、握っているもの…古いパン種によって、真理が見えなくならないように、滅ぼされることのないようにとマルコとガラテヤのみことばから語られました。これらのみことばから、古い肉のパン種と、イエス様からいただいた聖霊による御霊の実(新しく生まれ変わった本当の自分)がクリスチャンである自分の中に同時に存在することはできないのだということ、パン種にある肉の虚栄に従って生きることの苦しさを語られました。

<マルコ10:29~31>
イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」。

<ガラテヤ5:7~10>
あなたがたはよく走り続けてきたのに、だれが邪魔をして、真理にそむかせたのか。そのような勧誘は、あなたがたを召されたかたから出たものではない。少しのパン種でも、粉のかたまり全体をふくらませる。あなたがたはいささかもわたしと違った思いをいだくことはないと、主にあって信頼している。しかし、あなたがたを動揺させている者は、それがだれであろうと、さばきを受けるであろう。

<ガラテヤ5:16~18>
わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。

<ガラテヤ5:19~26>
肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。



今週、ぶどうの木では、「審判者の霊」について語られました。それは私自身が審判者の霊にとらわれていたことによってでした。
クリスチャンであって、国籍を第3の天に持っていながらも、自ら救われる前の古い第1.2の天の中に自分を置いて、古いパン種を膨らました時、自分の価値観や判断で物事を捉え、人を裁き、人にレッテルを貼り審判する霊力にとらわれてしまいます。
イエス様は誰をも血肉で見ないこと、霊の世界こそすべてであり、互いに愛し合い、許しあうことを教えてくださっていましたが、「審判者の霊」は、それと真反対です。イエス様の言われることよりも自分の判断、感じ方、意見を一番とする、高ぶり・ルシファーからの霊力です。イエス様と言いながらイエス様への信頼がなく、自分のやり方が頭になっている不信仰の霊力です。裁きだけがあり、愛がないので、とらえられている私自身がとても苦しい思いになりました。どんなことからサタンに門を開き、肉にあるパン種を膨らませていったのか、そのサタンの策略を暴くために、ここに証します。

<ヤコブ4:11~12>
兄弟たちよ。互に悪口を言い合ってはならない。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟をさばいたりする者は、律法をそしり、律法をさばくやからである。もしあなたが律法をさばくなら、律法の実行者ではなくて、その審判者なのである。しかし、立法者であり審判者であるかたは、ただひとりであって、救うことも滅ぼすこともできるのである。しかるに、隣り人をさばくあなたは、いったい、何者であるか。

ぶどうの木にはある交通事故をきっかけに、2組の家族が導かれてきています。この2組の家族は、この世(第1.2の天の中)でいう、“被害者”と、“加害者”の関係です。この事故によって、先にぶどうの木に導かれてきたのは“被害者”側となった、ぶどうの木の執事の家族でした。事故で受けた怪我によって息子さんの体は四肢麻痺の状態となりました。現代のこの世の医療では回復の見込みがないとされ絶望に陥っていた執事の家族の元に福音が届き、家族はイエス様による癒し(神癒)に望みを置いてぶどうの木に導かれてきました。
執事の家族が初めて導かれてきた集会では「無条件の許し」が語られました。それは、ただの「許し」ではありません。相手が謝っているから、許す・・・こちらの状態が回復したから許してあげる・・・このような「条件付きの許し」ではありません。目に見える体の状態がどうであれ、相手がどうであれ、許す、「無条件の許し」です。なぜなら、聖書には、「サタン(悪魔)」の存在が書かれているからです。サタンはこの世の神であり、その手下の6000類もいる手先の「悪霊」どもを使い、人間に対してどんな災いももたらすことができるのです。執事の息子さんに起こった交通事故も、「悪霊」が引き起こしたものでした。ですから、悪霊が加害者を使って事故を起こさせ、息子さんの体を傷つけたのです。
聖書にははっきりと、「悪霊が、人に入る」<ヨハネ13:27>ことも書かれていますし、「私たちの敵は血や肉を持った人間ではなく、悪霊である」<エペソ6:12>ことが書かれています。私たちは、自分の目に見えていることだけが全てであるという固定観念を持って生きていましたが、聖書は、そうではなく、すべての物事の大元には目には見えない「霊の世界」が存在していることを教えています。
執事家族は、聖書に書かれてある通り、「相手が悪いのではない、サタンが相手を使って事故を起こさせたのだ。」という所に立ち、“加害者”とされた男性を無条件で許し、平安を得ました。
牧師を通して「霊の世界」で、どのような動きがあってこの事故が起こったのかを解き明かされました。それは、救われる前の執事家族をだましていた悪霊と、加害者側になってしまった家族をだましていた悪霊が同じものであったこと。同じ霊力(3~4代に渡る血の中にある呪いたたりの霊力)は互いにひき合ってそれに支配されている人間同士に事故を起させました。サタンにとってはどちらが被害者、加害者になっていても、そんなことはどうでもいいことでした。サタンが人間に対して働きかける目的、それは「盗み」「殺し」「滅ぼす」これだけです。サタンからしたら、どちらも同じ霊力の支配の下にある人間同士。両方を滅ぼすために事故を起こした。ただそれだけです。ですから、この事故において、霊の世界では被害者も加害者もなく、言ってみれば、両者ともがサタンの被害者である、という事でした。
執事家族は、加害者となってしまった男性と、その父親にも、苦しみから解放されてほしいという思いから福音し、共にぶどうの木で学ぼうと声を掛けました。2人ともぶどうの木の集会に来られ、救われました。しかし、加害者側になってしまった男性は、四肢麻痺で車いすに乗っている執事の息子さんの姿を見るのがつらいことと、宗教に縛られたくはないという思い(日本人の血の中にある真の神を認めることができない宗教心)から集会から離れてしまいました。男性は離れてしまいましたが、男性のお父さんは集会に来つづけ、聖書を共に学んでおられます。その後、男性は家からも出ていき、家族ともほとんど連絡が取れない状況でした。
執事家族は、交通事故の裁判のために弁護士から、この事故によって、家族共にどんなに心身を消耗しているか、介護をする側の日常生活に支障を来しているか…事故によって味わっている辛苦を細かく書類に書くようにと勧められました。そうやって裁判で心情を訴えることによって賠償金の額が変わるそうです。しかし、無条件で許し、しかも救われて神の家族となっている男性を苦しめることになることはできない、そして、イエス様にあって介護の労苦などない、どんなにつらいかなどという事は書きたくない、という思い(霊の思い)で弁護士に勧められた書類を書くことをしませんでした。弁護士には、イエス様にあって息子は必ず立ち上がるから、賠償金は必要なくなるのだと、自分たちの信仰を伝えました。弁護士からは、「気が狂っているのではないか!」と言われましたが、執事家族は信仰に留まっていました。
裁判は特に争う事もなく、最低限の示談金をもって和解に至り、終了しました。

執事家族は事故の原因となった霊力(3~4代に渡る血の中にある呪いたたりの霊)と戦い、解放されていきました。神の癒しは、息子さんの体の癒しだけに限定されるものではありませんでした。イエス様の御心は、家族の一人一人が自分を支配していた悪霊から解放されてイエス様にあって、救われる前から新しく生まれ変わった自分に変えられていくこと(これを神癒といいます)でした。イエス様による新しい土台の上に自分を建て上げていく事によって、すべてに祝福が与えられ、息子さんの体の癒しも完壁に行われるというのが、霊の世界にある、神のルールです。それらの歩みは、執事家族が証として書き表しており、現在、最後に一家の長である執事が神癒の証を書き進めている最中です。

先日、執事の証の完成に向けて、執事の助け手である奥さんと共に交わろうとしていたのですが、ちょうどその日が息子さんの在宅入浴サービスの日に当たったために、その日の交わりの門が閉じられてしまいました。その時、急に、日常生活のすべてを人の手を借りて行わなければならない息子さんの心情と、それに自分のすべてを捧げて付き添う家族の生活面での制約などに、感情移入する気持ちになりました。それは、かつて執事家族に対して弁護士がこの事故によってどのくらい辛い生活を送ることになったのかを書いてください、と言った言葉に同調するものでした。そして、早く息子さんを立ち上がらせてあげたい!霊的な状態が整えられてサタンの縄目から解かれ、癒しがその体に行われてほしいと強く思いました。


この状態で集会の日を迎えました。執事の証(無条件の許し、3~4代に渡る血の中にある呪いたたりの霊からの解放が書かれている)には、事故の相手の男性を解放させる力があり、男性本人に必要なものだと語られていたことと、男性がイエス様から離れている間は、再びサタンの支配下での生活の中にあること、イエス様の守りがなければどんなサタンの策略に陥り、滅びを刈り取ってしまうとても危険な状態であること、真理を知って解放されるまではどこに逃げても苦しい人生だということから、私の中で、一刻も早くその男性が家に戻ってきてぶどうの木に来れるようになれればいい!と思っていました。集会の最後に牧師から相手の男性のお父さんに、男性と連絡をつけているかどうか質問されましたが確実に連絡がついていないとの返答でした。そのやり取りを見た瞬間、自分の中に、言葉では言い表せないほどの裁きの思いが湧き上がってきました。
「同じ霊力で引き合い事故に遭い、被害者になった家族はイエス様につながって様々な霊力と戦ってここまで来ているのに加害者になった方も、共に解放されていかないといけないんじゃないの?もっと前進を求めて忠実に行うべきでしょう!」「被害者は許すけれど、許された加害者側はそれに対してどうするの?」という思いになりました。
そして、この思いで、とても苦しいことを伝えると牧師から「それは審判者の霊だよ。」と教えていただきました。「あわれみは裁きに打ち勝つ<ヤコブ2:13、マタイ9:13>。真理を知らないこの世の中の人達、全員がそこにいるのよ。自分が頭で勝手に被害者、加害者のレッテルを貼り、人を裁く。いつまでもそこにとらわれているから苦しいよ。イエス様に対しての高ぶり、ルシファーからの霊力だね。審判者はただ一人、イエス様だけだよ。」と語られました。そして、牧師の口から出た一言、「執事家族のことと、男性の家族のこととは関係ないよ。」の言葉で「ああ、そうだった!」とまるで自分の中のチャンネルがガチャンと変わるように、イエス様に立ち返ることができました。 

私は、血肉の戦いではないと分かっている“つもり”でした。お互いがサタンの被害者だということも分かっている“つもり”でした。しかし、この2組の家族を見る時、事故によって引き合わされた被害者と加害者になってしまった家族としてセットとして見ていたのです。セットとして見ている以上、そこには、レッテルがついてまわります。さらに、セットとして見ていたので、両方が一緒に解放されていかなければならないのだ、という自分のやり方を握り、神に対する、高ぶりのパン種を膨らましてしまいました。そのために、忠実にやってるの?やらなきゃ!と、裁くのです。(審判者の霊・不信仰の霊・反キリストの霊)また、被害者とされた執事家族の日常に感情移入してしまったので、(義理人情ヒューマニズムを頭とさせる霊)そこから起こる裁きの思いはとても強いものになっていました。  

しかし、牧師が言われた一言「執事家族のことと、男性の家族のこととは、関係ないよ。」から語られるイエス様の思い(第3の天からの視点)は、誰もがその人とイエス様の個人的な関係に在るのだということでした。イエス様はこの2家族をセットとして導いてこられたのではない。セットの片方である加害者側の人としてではなく、一人の尊いその人個人として導き、祝福を与えたいのだということでした。2組の家族をセットだと思い込み、勝手に自分の判断で解放と癒しのストーリーを作り上げていた私は自分が神になっていたんだ。なんて高ぶっていたんだろう!とその高ぶりをイエス様に悔い改めました。

「イエス様とクリスチャンの関係」という題名の映画があったら、その主役は間違いなく自分自身です。なぜなら、イエス様が唯一の男子であり私たちクリスチャン一人一人がキリストの花嫁なのだと聖書に書かれてあるからです。出てくる登場人物や起こってくる事柄はみんな、花嫁役である自分を花婿であるイエス様につなげ、婚宴の席に着かせる(神の国に入る)ための訓練につかわれる、言わば脇役なのです。イエス様と自分は1対1の関係です。それほどまでに一人の人間を尊く扱って愛を注いでくださる方がイエス様です。 愛の神、イエス様の目から見たら、サタンが起こしたこの交通事故であっても(神は大きな御手の中で、サタンが人間に攻撃することを許しておられます)男性と男性家族を真理に至る恵みに導く…ご自身のもとに導くための、言わば、きっかけに過ぎないのだということです。もちろんそれは執事家族にも言えることで、互いが互いの救いのためにイエス様の御手の中に存在したということです。
執事家族の証は、自分たちを苦しめてきた悪霊から解放されて、生き方を古い時代から180度変えられ、すべてにおいて祝福を得ているという証です。それと同じようにイエス様は男性とそのご家族にも、すべてにおいて祝福される人生を送ってほしいと願っておられます。
執事家族は、男性家族をイエス様のもとに導きました。もちろんクリスチャンは自分をイエス様のもとに忠実に導いてくれた人に対して、恩を知らない者になってはなりませんが、それは、支配や義理人情の霊力から来る関係であってはなりません。なぜなら、男性家族を導くことは、執事家族とイエス様の間での信仰の行いなのです。
2つの家族は霊の世界でつながってはいますが、クリスチャンという信仰の面ではそれぞれが「イエス様と自分」という関係を築いていかなければならないのです。

<ヨハネ15:16~17>
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。

私は、高ぶりのパン種を膨らませ、「審判者の霊」にまかれている状態にある時は情や裁き、それによる苦しさのみがあり、そこにキリストの愛がないことが分かりました。聖書に書かれてあるように、愛がなければいっさいが無益なのです。もし、私が神の家族である男性や男性家族、また、執事家族のことを思って何かを語ったとしても、霊的に汚れたままで内側から出る言葉は、相手への裁きや圧迫、義理人情に動かすそそのかし、偽善にしかならないでしょう。しかし、内側をきよめて聖霊に聞き従い、愛を持って語るならば、それは生ける水の川となって聞く人を解放に導くことになるでしょう。言葉では同じことを語っていても、霊の世界において語る側の内側が聖いか、そうでないかは、天と地ほどの隔たりがあることも語られました。

<第Ⅰコリント13:1~8a>
たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。 愛はいつまでも絶えることがない。

<ルカ11:41>
ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる。

かつて、ある方が、ぶどうの木で執事家族と男性家族が、神の家族として交わり共に聖書を学んでいることに対して、「それは、加害者に対するいじめだ。」と言われました。被害者が加害者を見世物にする、加害者を罪の意識で支配する、加害者は針のむしろに座る気持ちにさせる…これがこの世、第1.2の天の中でのことです。
真理を知らない人達は皆、自分の判断が全てという神に対する高ぶりのパン種を持っています。血肉の戦いをし、パン種を膨らませ、サタンの使う「審判者の霊」によってますます神の前に高ぶり、互いにレッテルを貼り合い、お互いに裁き合いながら(審判しあう)生きています。これがサタンが支配するこの世、第1.2の天の中で行われていることです。永遠に裁き合い、憎しみ合いながら苦しさと重荷を抱えて生きていかなければならない世界です。そして、その苦々しい思いを抱えたまま、行き着く先は地獄でしかありません。
しかし、真理を知り、第3の天におられるイエス様の視点から見た時、誰かに自分の価値観や判断などでレッテルを貼ることはありません。誰をも(自分自身をも)血肉で知ることはすまいと聖書に書かれてある通りです。<第Ⅱコリント5:16~17>誰もがレッテルなど全く関係ない、神の御前に愛すべき神の家族(霊でつながっている兄弟姉妹)なのです。そこには私たちに注がれている無条件の許しと無条件の愛があります。そして、不可能を可能にし、また、どんな傷も癒す力があります。イエス様は、私たち人間の考えや判断などとは全く次元の違う、神の愛をもって一人一人に祝福を与えてくださる方であると、また、私たちは計り知れないほどの大きな神の御手の中で導かれているのだという神の偉大さを改めて語られました。一つ一つの奥義を語ってくださり、聖さに立ち返らせてくださるイエス様に感謝し、すべての栄光をイエス様に帰して祈ります。

<ローマ12:1~2>
兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

<ガラテヤ6:14~16>
しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように。