韓国旅行で語られた『許し』

 
 

私は8月13日~15日に、牧師、副牧師、牧師の次女(三つよりの綱)と韓国に行きました。

私は2回目のソウルです。1回目(2011年夏)は『裁き』について、そして2回目のこの旅行では『許し』について語られたことを証します。


私は、韓国に行く前や滞在中、そして帰ってから「イエス様、私に語ってください」と祈っていました。なので、絶対にイエス様は私に語ってくださっていました。ですが、私は何が語られたのか断片的にしかわからず、みことばをもらってもわかりませんでした。姉妹たちの証と、自分が見たことがどう繋がっているかわからずにいました。確実に、自分の問題!自分がキャッチできていないのだと思いました。「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」と、聖書を開くたび、そして内側からも「心をかたくなにしてはいけない!!」と言われていたからです。

韓国から帰国した直後の集会で、私は韓国で語られたことを証する時間をいただきました。ですが、何が語られたかわからない状態で霊からの証ができませんでした。それから集会で‘あざけりの霊…受けたことを証できない’のことを語られ、まさにそれだと気づき悔い改めました。


私は、今回韓国に行く前に、2年前に初めて韓国に行ったときにブログで書いた自分の証を読み直しました。〈仏教とは?~初韓国旅行をとおして~その1〉自分勝手・自己中心的な韓国の国民性と古い自分が同じだったこと、姉妹たちと行った韓国で最も大きな教会であるヨイド教会では、『無条件の許し』などではなく「日本、北朝鮮から韓国を守ってください。韓国に勝利を。」などという自分のための祈り、そして『裁き』がすり込まれる教えであったこと、仏教(情=偽善=お金が頭)、宗教は結局『己』が神!であり、やはりそこには『裁き』が生まれることを書いていました。

副牧師が7月の韓国行き独立記念館を見て受けた『霊→魂→体の順の許し』のブログ〈韓国宣教~独立記念館~〉も読み、そして、ヨハネ20:19~23をいただきました。



ヨハネ20:19~23

その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。


今回、韓国で交わった姉妹たちは日本語が話せる方たちだったので、いろいろな話が聞けて感謝でした。

1日目は、今年の6月に牧師、副牧師が韓国で出会ったクリスチャンの親子(母娘)と会いました。お母さんは焼肉屋を経営しながら神学校に通っている方で、娘さんは5ヶ国語が堪能で、翻訳や牧師の通訳をされているそうです。彼女たちとの交わりの中で、娘さんと2人で話す時間が与えられ、私はなぜ5ヶ国語も勉強しようと思ったのか聞きました。娘さんは必要に迫られたからと言い、ドイツ語、フランス語は、それぞれの国に絵を学ぶために留学したときに覚えたと話してくれました。彼女がその時描いていた絵はピカソのような抽象的な絵で、悪魔を感じさせる暗い絵だったので、何年も前に描くことをやめたと言っていました。ですが、最近イエス様から、もう一度絵を描くことを言われている!それも、霊的な絵を描くこと!と話すので、私もトラクト‘1つになろうよ’の絵本版の絵を描かせてもらっていること、霊的なことを絵で表現することを言われていると話しました。私は絵の勉強などしたことはありません。(大学でデザインスケッチは勉強しましたが…)落書きぐらいしか描けない私を使っていただけたことにも改めて感謝し、主にあってがんばって完成させようとより強く思いました。私たちは互いに驚き、イエス様に聞いて霊的な絵を描いていこう!と話しました。彼女は、7月に姉妹二人が副牧師と韓国に行った際に2人から証を聞き、「‘証’というのは素晴らしい!副牧師と互いに書こうと話した!」と、とても喜んでいました。娘さんの証と絵への油のそそぎを祈ります。

娘さんは、「イエス様に自分を使っていただきたくて死ぬほど祈った!すごく祈ったの!」と話してくれました。それを聞いて、私は死ぬほど祈り求めたことはあるだろうか…と問われました。自分のために必死で祈った…というよりは、人のためにどれだけ必死に祈ったか?という問いが自分の中に残りました。娘さんとの別な会話の中でも「許せと聖書には書いてあるけど、自分にはそれがどうしてもできない。」と。詳しく聞くと、ある人が何度も祈って欲しいと娘さんに相談してきても、すぐに元に戻って娘さんに対して暴言を吐き…を繰り返す人がいると。その人への許しをイエス様に祈ったけど、その祈りの後は一度もその人に会っていないので、自分が許せているかわからないということでした。私は後でその会話のことを、牧師に話し、「忍耐をもって祈る訓練もある」と語られました。

忍耐をもち相手のことを、思いを尽くし、心を尽くして祈ること!を、改めて考えさせられました。



2日目は、「周りはみんなクリスチャンだけど、自分は無宗教だ」と話してくれた日本語が上手なタクシーの運転手さんと出会いました。彼が「韓国のクリスチャンは自分のことしか祈らない!」と溢れ出るように話してきたことがとても印象的でした。前日に、焼肉屋のお母さんをとおして、異常気象や地震、放射能汚染などが問題となっている日本から、逃げ帰る韓国人宣教師が後を絶たないという話を聞いていましたし、2年前のヨイド教会での韓国クリスチャンの祈り、そしてその時に、自己中心の古い自分と韓国人の霊力が同じであった…そこに愛はないと語られていたことを思い出し、自分のことしか祈らないとこに『許し』はない!! と内側から強く言われたと思いました。



その日の夜、明日はヨセフさん(副牧師が以前韓国語を教えてもらっていて、副牧師、牧師とずっと親交があった韓国人青年)と会うし…私は何で韓国に来ることになったのかと、聖書を開き、マルコ15:42~16章をいただきました。



マルコ15:42~16章

さて、すでに夕がたになったが、その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトの所へ行き、イエスのからだの引取りかたを願った。彼は地位の高い議員であって、彼自身、神の国を待ち望んでいる人であった。ピラトは、イエスがもはや死んでしまったのかと不審に思い、百卒長を呼んで、もう死んだのかと尋ねた。そして、百卒長から確かめた上、死体をヨセフに渡した。そこで、ヨセフは亜麻布を買い求め、イエスをとりおろして、その亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納め、墓の入口に石をころがしておいた。マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスが納められた場所を見とどけた。

さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。そして、彼らは「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。墓の中にはいると、右手に真白な長い衣を着た若者がすわっているのを見て、非常に驚いた。するとこの若者は言った、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と」。女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。

〔週の初めの日の朝早く、イエスはよみがえって、まずマグダラのマリヤに御自身をあらわされた。イエスは以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたことがある。マリヤは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいる所に行って、それを知らせた。彼らは、イエスが生きておられる事と、彼女に御自身をあらわされた事とを聞いたが、信じなかった。

この後、そのうちのふたりが、いなかの方へ歩いていると、イエスはちがった姿で御自身をあらわされた。このふたりも、ほかの人々の所に行って話したが、彼らはその話を信じなかった。

その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。

主イエスは彼らに語り終ってから、天にあげられ、神の右にすわられた。弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。〕



3日目の朝も聖書を開いたときにルカでイエス様復活が書かれているP132が開け、ルカ23:44~24:12を読みました。そして、ヨセフさんとの交わりを前に牧師の次女と祈りました。



ルカ23:44~24:12

時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして聖所の幕がまん中から裂けた。そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。百卒長はこの有様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った。すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた。

ここに、ヨセフという議員がいたが、善良で正しい人であった。この人はユダヤの町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた。彼は議会の議決や行動には賛成していなかった。この人がピラトのところへ行って、イエスのからだの引取り方を願い出て、それを取りおろして亜麻布に包み、まだだれも葬ったことのない、岩を掘って造った墓に納めた。この日は準備の日であって、安息日が始まりかけていた。イエスと一緒にガリラヤからきた女たちは、あとについてきて、その墓を見、またイエスのからだが納められる様子を見とどけた。そして帰って、香料と香油とを用意した。

それからおきてに従って安息日を休んだ。

週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。ところが、石が墓からころがしてあるので、中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。そこで女たちはその言葉を思い出し、墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した。この女たちというのは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、およびヤコブの母マリヤであった。彼女たちと一緒にいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。ところが、使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった。〔ペテロは立って墓へ走って行き、かがんで中を見ると、亜麻布だけがそこにあったので、事の次第を不思議に思いながら帰って行った。〕



私は2年前に初めてヨセフさんに会いました。彼が「戦争が起きたら、自分は戦争に行く!」と言っていたことが印象的で、そのとき私は、やっぱり韓国人と日本人は違うな…と思いました。ですが今回、焼肉屋のお母さん、娘さん、以前牧師が韓国旅行でお世話になったクリスチャンのガイドさんと交わり、彼女たちが純粋にイエス様に使っていただきたいと切に求める姿を見ました。焼肉屋のお母さん、ガイドさんは自分の息子の心配をするお母さんでした。そして、真理を求めている真珠の姉妹の姿…副牧師の証にもありましたが一人ひとりを見たとき、今まで言われてきた‘地球人’ということがよくわかりました。

それらを受けて、最終日にホテルのレストランで、ヨセフさんの正面に座って彼を見たとき、韓国人とか日本人ではなく、そこに座っていたのは神に愛された一人の青年でした。

その一人の青年に、「あなたは愛されている!祝福の道を歩んで欲しい!」という思いでいっぱいになり「タバコをやめたいけど、なかなかやめられない」「軍隊にいるときは、タバコを吸わなかった」と話す彼に「ヨセフさん、今は神の軍隊に入っていますよ!吸うわけにはいきませんね」と言わずにおれず話しました。そして、彼に一人ではないと知って欲しかったので「日本でぶどうの木の兄弟姉妹は、ヨセフさんの祝福を祈っています!」と伝えました。

以前から、彼は霊的にイエス様の肉の父ヨセフだと語られていて(ヨセフさんという名前の由来)、今回も改めて彼にそのことが語られました。それを聞いたヨセフさんは、どういうわけか、副牧師の頭に手を置き「私を信じなさい。」と何度も言うのです。 2年前に初めて会ったときは、「浜松にはアクトがある!(ぶどうの木がある浜松市には、アクトタワーという45階のビルがあります。以前ヨセフさんはそのビル内の会社で働いていました。)あとアクトとか、アクトとか…アクトがある!(笑)」と、ずっと‘アクト’という言葉を連呼していました。以前、アクトは‘使徒行伝’という意味だと教えてもらっていたので、彼は数珠をつけて仏教の霊にまかれているのに…「使徒行伝!」と嬉しそうにはなすなんて、不思議な人だ と思ったことを思い出しました。牧師の証(ヨセフさんとぶどうの木の繋がりはすごいのです!)からも、常に神に使われてきたヨセフさんのブループリントは絶対的なものであることと、計り知れない神の御計画に毎度のように驚きました。そして、あとで牧師から「彼は救われている。あとは彼の意志しだい!」とイエス様に言われたと聞き、とても嬉しく感謝しました。ヨセフさんが意志を向けられるよう、そしてニコチンの霊から解放されることを心から祈ります。そして、またお会いするのが楽しみです!



韓国での2泊3日を終え、韓国に行く前にいただいた19~23節が、まさに今回の韓国旅行そのものなのではないかと思いました。

散々分派分裂し、8月15日終戦記念日(独立記念日)という最も両国の間に壁が生まれる日。韓国のために十字架にかかったと言われた牧師(イエス様)の韓国入り。たくさんの証と知恵知識の言葉を、韓国に立てられた兄弟姉妹に話されました。牧師は会う人会う人に、日本は終戦記念日、韓国は独立記念日であること、日本と韓国の歴史上のことも話されていました。焼肉屋のお母さん娘さんは改めて聖霊を受けられましたし、新しくホテル内で店を営む姉妹との出会いもありましたし。

そして、‘無条件の許し’を知るクリスチャンでありながらも、伊藤博文を暗殺した韓国の英雄、安重根〈アン・ジュングン〉の話も聞くことになりました。(彼は9月2日が誕生日でカトリックの洗礼名はトマスだそうです。)



これらのことが、ヨハネ20: 19~23と同じように思いました。



帰国してからもみことばをいただきました。



ローマ10:1~4

兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。



ローマ9:15~24

神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。

そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。



マルコ10:13~16

イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。



エペソ2章

さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。

だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。





副牧師の証からも国ではなく人と人との出会い、繋がりであることも語られましたし、みことばからも韓国と1つになることが言われていると確信し、ますますの出会いを祈ると共に、次の韓国旅行も求めたいです。



帰国した後の土曜日の夕方TVを観ると、BSでベン・ハー〈後編〉が放送されていました。イエス様が十字架にかかられるところでした。そこで、信徒の1人が言った「あの方は何の罪も犯さなかったが、この世の全ての罪を負って十字架にかかられるのだ」というよく聞く言葉ではありますが、その言葉が私の中に残りました。やはり‘無条件の許し’が言われているのか、偶然はなく見せられたのだと思いました。





「自分が!自分が!」では、クリスチャンといえども己が神であり、そこには裁きが生まれること!

裁きがあっては、誰かのために思いを尽くして祈ることなどできませんし、心を尽くし思いを尽くし祈ることなくして無条件の許しはないと語られました。

そして、イエス様がおっしゃる愛とはなんなのか?と思い返し、今までの自分が愛をもって誰かに対してしてきた祈り(とりなしの祈り)は、とても中途半端で自分なりの義であったと気づきました。それが、姉妹たちの証ででてきた‘偽善’というところと繋がるかなと思いました。〈クリスチャンの原点〉

完全に明け渡した器として、全身全霊で祈り行っていくための訓練を求めていこうと思います。

今までの集会でも、裁きや許しについて語られてきましたが、2年前、初めて韓国に行ったときには『裁き』、そして今回2回目のソウルで『許し』が自分には語られたと思いました。どう言葉にしたら良いかわからないのですが、鱗がとれたような…とてもすっきりとした思いです。



第1コリント15:37~58

また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。すべての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。

死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。

兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。

「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。
死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。





それと、今回、韓国でも日本の既成教会と同様、真珠の姉妹一家もそうですし、お母さんが教会に行っていても子供は成長と共に教えから離れていくという状況(さらに御主人も信じていないとか)を感じ、三つよりの綱である牧師姉妹との旅行で、やはり親子そろってイエス様につながり伝道に使っていただける姿(加えて、牧師の御主人は置かれたトルコで使徒行伝、85歳の牧師のお父様もクリスチャンになり救われています)は、すごい神の栄光なのだと旅行中に思いました。出会ったクリスチャンたちにも語られていると信じます。



再び韓国という地に導き、語ってくださったイエス様に感謝します。