キリスト教界の霊力からの解放
~数々の家庭を破壊する偽教師~

 
 

テトスへの手紙1:11
彼らの口を封ずべきである。彼らは恥ずべき利のために、教えてはならないこと(間違った教理)を教えて、数々の家庭を破壊してしまっている。

「ぶどうの木」の集会で、私がこれまでのキリスト教会で聞いたことがなかった事として、聖霊により、以下の3つが示されました。

①悪霊の存在、対応するための教えが全くなかった。
②聖霊の真の働き、賜物の1つ1つをちゃんと理解しておらず、すべてが肉の行いであった。
③牧師達さえも、肉と霊の『聖別』がされていない結果、御霊の実の「愛」と人間の情の「愛情」が、混同されてきた。

それゆえ、既成教会では力がなく、日本の福音宣教が実を結ばなかったのです。


私は、このような力のないキリスト教会に、母の胎にいる時から通い続けて、日曜日は教会に行くことが当たり前になっていました。私が小さい頃は、父母の仲も特に悪くなかったと記憶しています。
母は、通っていた福音自由教会の礼拝だけではしだいに物足りなさを感じるようになり、霊的に飢え乾いて大きな聖会や、韓国系の教会の集会に参加し始めました。韓国系の集会では、パフォーマンスが特にすごいようで、そこから間違った韓国宗教=カルトの霊を持ってきて、家の中で一人だけ異言で、「あ~ばらばらばら~」とか言い出した頃から、夫婦関係や親子関係がおかしな空気になっていきました。同じクリスチャンである子供から見ても母は変でしたし、そんな母と結婚してしまったノンクリスチャンの父はどんな気持ちだったでしょう。母がどこかで新しい話を聞いてくるたびに、「今までは間違っていた、今度は本当にわかった」と話し始めるので、「またか・・・」という気持ちになりました。

コリント人への第一の手紙10:31~33
だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。ユダヤ人にもギリシヤ人にも神の教会にも、つまずきになってはいけない。わたしもまた、何事にもすべての人に喜ばれるように努め、多くの人が救われるために、自分の益ではなく彼らの益を求めている。

ローマ人への手紙10:2~3
わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。

ローマ人への手紙12:2
あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

宗教の霊にまかれて、何がつまずきとなるか、何が善であるか、何が神の義かも分からず、その状態を母に指摘しても聞く耳を持たない、めくらつんぼの状態になってしまっていました。宗教、分派分裂、裁き、めくらつんぼ…様々な霊力にやられていたと今なら分かりますが、そもそも悪霊の存在や戦い方、聖霊をいただくことを知らなかったので、誰も対応できずに家の中で悪霊がやりたい放題でした。

ここで私の家系の霊力について語ります。
私の家系は母方の実家が石川県小松市、父は岩手県出身で父が母の家に婿養子として入りました。小松市で住んでいた土地は、遊郭と縁のあるところで、母方の血筋からは遊女、姦淫不品行の霊が三代~四代にわたる、血の中にある呪い祟りの霊力であると、牧師から聖霊の賜物による解き明かしがありました。岩手県出身の父には、昔からの仏教の強い東北の血が流れています。その霊力の中、両親が結婚し兄、上の姉、下の姉、私が生まれました。

さて、ここから先は全て家族からではなく、私が大学に進学して就職一年目まで実家を離れていた時に起こったことで、ぶどうの木を通して聞いた話になります。

上の姉は宗教に狂った母に猛反発し、両親の前で様々な思いを訴え、薬を飲んで自殺してやると予告して、両親が止めるでもなく、本当に目の前で飲んでしまったことが三度もあり、一度は救急車で運ばれました。この母と上の姉が一緒にいることは好ましくないと判断したのか、姉が付き合っていた男性と同棲することを見越して、父が姉を家から出しました。その時、クリスチャンとして愕然とした母は、それを止めるでもなく、逃げるように教会へ祈りに行っていました。その後、上の姉と男性との間に子供ができて結婚しました。
上の姉と夫の夫婦間に家族関係を破壊する分派分裂の悪霊が働き、ことごとく二人の仲がうまくいかず、夫婦げんかが絶えず、上の姉の夫は外泊が多くなっていきました。上の姉の夫はサービス業で、長時間勤務の仕事をしていて、結婚前から不満を抱えていて、二男が生まれる前には仕事を辞め、とりあえず住んでいたアパートを引きはらい、それぞれの実家に住むことになりました。上の姉は次男出産後、夫から一緒に住もうと言われても家族で住む家もないという事もあり、ずっと実家にいました。当時、上の姉は韓国で聖霊をもらったというA牧師の教会に通っていました。夫側から離婚の話も出されて、A牧師に相談し、A牧師と父、母、上の姉との話し合いの場所がもたれました。そしてA牧師から、離婚の事にお互いの両親の意見が入ると感情的になってしまうから、私に任せてもらえるか、と話されたそうです。そしてA牧師は、上の姉の夫と会ってくれましたが、あの男はダメだ、と話していたそうです。そのうち夫側から、夫の名前が記入された離婚届が送られてきました。上の姉は怒りにまかせて離婚届にサインをし、両親も離婚を承認して、そのまま離婚届を役所に出しました。そうしたら、夫側の母親は、離婚届を送り返してほしかったのに、何で勝手に出したんだ、とA牧師に伝えてきたことがA牧師から母の耳に入りました。その後A牧師は、上の姉に教会内の男性との再婚を勧めてきたそうです。
上の姉は、普通の母が欲しかったのでしょうが、相変わらず宗教に狂ったままの母に反発し続けて、今度は他の男性と関係を持ち子供が出来てしまいました。そしてA牧師に相談し、再びA牧師と父、母、上の姉との話し合いの場所がもたれ、生まれて来る子を養子に出すことに決めました。そして生まれてきた女の子は生後一週間で養子に出されました。
そんなひどい状態の中で、上の姉とぶどうの木の牧師の出会いがありました。家族で一番初めにぶどうの木と出会ったのが上の姉でした。ぶどうの木の副牧師が、クリスチャン書店大空で店長をしていた時に、上の姉が来て、母が宗教に狂っていて困っている、何とかしてほしい。それに、男の子二人を父親なしで、自分一人で育てていくなんてできない・・・元夫には、毎年年賀状を出して子供たちの成長を知らせている、ということを泣きながら話したそうです。そして上の姉は、その場で聖霊をいただき救われました。
その出会いから数日後、ぶどうの木の牧師が大韓教会の集会に参加していた時のことです。集会中、韓国宗教の霊力に倒された(比喩ではなく本当に倒れた)女性がいて、集会後誰にも助け起こされずに倒れたままでした。それを見かねたぶどうの木の牧師が助け起こしたところ、この人こそが上の姉が先に話していた宗教に狂っていた母でした。
これがきっかけでその後、母はぶどうの木に行くようになりました。ようやく既成教会、韓国宗教の霊力の下から抜け出すことができたのです。そして、母は上の姉と離婚した元夫に対して謝罪をし、復縁を望む手紙を出すように牧師から聖霊の賜物による知恵を受けました。
神のブループリントには、上の姉と元夫は復縁し、里子に出した女の子もまだ小さく里子に出された記憶が残らない内に戻してもらい、夫婦と男の子二人、女の子一人の5人家族として仲良くやってくことが描かれていました。イエス様につながっていけば祝福は約束されていました。
母がぶどうの木と出会った頃、乳ガンになっていて手術で乳房を切除する予定になっていました。霊的に子供をきちんと育ててこなかった、霊の母乳を与えなかった、そして肉的にも教会にどっぷりはまっていて、家のことをきちんとしておらず、子供の食事が手抜きの時もあり、家族の世話をきちんとしてこなかったことが、乳ガンとして現れたと牧師から聖霊の賜物による解き明かしを受けました。ぶどうの木で祈り悔い改めの後、放射線治療に方針が変わり切除を免れましたが、最後数ミリのガンが残ってしまい、それを手術で取り除きました。なぜ放射線治療で完治せず、最後に数ミリのガンが残り手術しなければいけなかったのか、小さなことのようですが、牧師はこうなった理由をずっとイエス様に聞いていました。
上の姉は、当時通っていた教会のA牧師から、霊のことばっかり話すぶどうの木はカルトだと言われ、結局母が手術をしなければならなくなった理由もわからない内に、手術しないとガンは治らなかったじゃないか、嘘つき、と叫んでぶどうの木につながることなく、離れていってしまいました。
そして一年後、母の口から、上の姉の元夫への手紙の中に、上の姉が復縁を望んでいることを書いていなかったことが明らかになりました。牧師からの知恵の言葉は謝罪と復縁であり、その中の復縁こそが上の姉と元夫の家族の新しい土台となるところでした。そのことを手紙の中に書かなかった母の不忠実さが、最後に残った数ミリのガン(母親として出来ていない所)の霊的原因であると、牧師を通して解き明かされました。
病気の癒しは、信仰の浅い幼子に対しては、イエス様がご自身を現すために、奇跡的に与えて下さることがありますが、成熟したクリスチャンに対しては、棚からぼたもちのように与えられてラッキー、というものばかりではありません。イエス様からの声に聞きしたがっていかなければ、完全なる癒しは得られません。そしてそれは信仰の行いによります。

上の姉は、どこの教会にも行くことはなくなって、信仰を捨てました。宗教のせいで、上の姉が家族の中でサタンの標的とされて、こんなにもやられてきたのだと牧師から聖霊の賜物による解き明かしを聞いて、上の姉に対しての深い哀れみと同時に、ここまでした悪霊に対する煮えたぎるような怒りが湧いてきます。この証を書いていて、初めてこの思いが出てきた自分に驚いています。今になってようやく、その思いが入ってきました。
初めてこれらの話を聞いた時は、ここまでの事は全て過ぎ去った後で、両親と姉、そして養子に出すことを許可したA牧師に対して何を馬鹿なことをやっているのだ!と、裁きの思いでいっぱいになりましたが全て後の祭り、もう知らないところにきていたのでどうしようもなく、無関心を決め込みました。兄弟で一番下の自分には重過ぎる事実として関わりたくありませんでしたし、今まで家族である自分に聞かされていなかったので、もう勝手にしてろ!という感じで、家族であっても他人事でした。

ここまで三代~四代にわたる血の中にある呪い祟りの霊力(遊女の霊)、そして宗教=カルトの霊にまかれて家の中は最悪な状態でした。

一方この頃、下の姉は別の教会へ通い続けていましたが、通っている教会とは別の教会のゴスペルに参加していました。ゴスペルを主導していた牧師は、クリスチャン同士のお見合いの斡旋もしていました。牧師たちが勝手に誰と誰をくっつけようという話で、紹介される方の意見はあまり関係ありませんでした。それぞれが行っている教会の牧師の承諾の下で、デートは教会に集合し牧師に「行ってきます」、そしてデート終了後は再び教会に戻って「行ってきました」と報告をするそうです。デート中は同じ車に乗ることはNG、手をつなぐこともNG、デートにお金をかけることもNG等、禁止事項はたくさんあったそうです。そこで、下の姉は好みでもない男性を紹介され、しぶしぶお付き合いを開始して、そのまま結婚させられそうでした。しかし下の姉もぶどうの木に行くようになったため、牧師会が開かれて、またもや勝手にお付き合いを解消させられたそうです。付き合うのも別れるのも当人たちの意思とは無関係です。さらに、教会間で信徒同士の結婚があったら、妻となる者がそれまでの教会を離れ、夫となる者の通っている教会へ共に行くことになり、信徒が増える側の教会から信徒が減る側の教会へ、お金を渡すという話も聞こえてきています。これが主にある結婚の在り方でしょうか。

エゼキエル34:1~10
主の言葉がわたしに臨んだ、「人の子よ、イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して彼ら牧者に言え、主なる神はこう言われる、わざわいなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者。牧者は群れを養うべき者ではないか。ところが、あなたがたは脂肪を食べ、毛織物をまとい、肥えたものをほふるが、群れを養わない。あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引き返らせず、うせた者を尋ねず、彼らを手荒く、きびしく治めている。彼らは牧者がないために散り、野のもろもろの獣のえじきになる。わが羊は散らされている。彼らはもろもろの山と、もろもろの高き丘にさまよい、わが羊は地の全面に散らされているが、これを捜す者もなく、尋ねる者もない。それゆえ、牧者よ、主の言葉を聞け。主なる神は言われる、わたしは生きている。わが羊はかすめられ、わが羊は野のもろもろの獣のえじきとなっているが、その牧者はいない。わが牧者はわが羊を尋ねない。牧者は自身を養うが、わが羊を養わない。それゆえ牧者らよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる、見よ、わたしは牧者らの敵となり、わたしの羊を彼らの手に求め、彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ、再び牧者自身を養わせない。またわが羊を彼らの口から救って、彼らの食物にさせない。

私自身はそんなキリスト教に疑問を感じつつも、既成教会に通い続けていました。しかし深入りすることはありませんでした。この頃の証はありませんが、学生の時に付き合っていた女性に「何でそんなに優しいの?」と聞かれた時「クリスチャンだから」と答えたことが記憶にあります。しかし、この答えは人の情から来るただの愛情や、弱い人には「俺がやってやる」という男義(普通は「男気」と書きますが霊的には男の義であるので「男義」と言う牧師の聖霊の賜物による知識の言葉です)、自分のやっている事は正しいという男のプライド(神の目から見たら高ぶり)から出たものであり、神の愛から来るものではなかったと、牧師から聖霊の賜物により解き明かしをされました。事実、付き合っていた女性は私がどれだけ優しく尽くし、夜中に会いたいとの呼び出しに応じたり、金銭面で助けてあげたりと色々してあげましたが、救われることはありませんでした。彼女の霊力に振り回されて、私のお金と時間と優しさがどんどん奪われていき、私の中にも平安が無くなっていきました。ところが後日、彼女もぶどうの木で聖霊をいただき、自ら御言葉をもらったら、あっさりとそれまでとらわれてきた、陰険な遊女の霊力(箴言7:10)から救われて、その霊力の下にあった私との付き合いも解消しました。私の霊も遊女の霊力から断ち切られ、神の愛で彼女が救われたことを喜んでいるのですが、自分の情が足を引っ張り現実を受け入れたくありませんでした。実はすでにプロポーズをして、結婚の約束までしていた彼女に、愛していなかったと言われたのですから、それを聞かされた時は大泣きです。まさか26歳にもなって、こんなに泣くとは思ってもいませんでした。しばらくは放心状態でしたが、時間がたつにつれ、愛がない結婚生活はどんなにひどいことになっていただろうかと思えるようになり、あの時結婚しなくてよかったのだと思うようになりました。私の血筋には小松の土地の遊女の霊力があり、私と付き合っていた女性が解放された霊力は箴言に書いてある「遊女」でした。

箴言7:6~27
わたしはわが家の窓により、格子窓から外をのぞいて、思慮のない者のうちに、若い者のうちに、ひとりの知恵のない若者のいるのを見た。彼はちまたを過ぎ、女の家に行く曲りかどに近づき、その家に行く道を、たそがれに、よいに、また夜中に、また暗やみに歩いていった。見よ、遊女の装いをした陰険な女が彼に会う。この女は、騒がしくて、慎みなく、その足は自分の家にとどまらず、ある時はちまたにあり、ある時は市場にあり、すみずみに立って人をうかがう。この女は彼を捕えて口づけし、恥しらぬ顔で彼に言う、「わたしは酬恩祭をささげなければならなかったが、きょう、その誓いを果しました。それでわたしはあなたを迎えようと出て、あなたを尋ね、あなたに会いました。わたしは床に美しい、しとねと、エジプトのあや布を敷き、没薬、ろかい、桂皮をもってわたしの床をにおわせました。さあ、わたしたちは夜が明けるまで、情をつくし、愛をかわして楽しみましょう。夫は家にいません、遠くへ旅立ち、手に金袋を持って出ました。満月になるまでは帰りません」と。女が多くの、なまめかしい言葉をもって彼を惑わし、巧みなくちびるをもって、いざなうと、若い人は直ちに女に従った、あたかも牛が、ほふり場に行くように、雄じかが、すみやかに捕えられ、ついに、矢がその内臓を突き刺すように、鳥がすみやかに網にかかるように、彼は自分が命を失うようになることを知らない。子供らよ、今わたしの言うことを聞き、わが口の言葉に耳を傾けよ。あなたの心を彼女の道に傾けてはならない、またその道に迷ってはならない。彼女は多くの人を傷つけて倒した、まことに、彼女に殺された者は多い。その家は陰府へ行く道であって、死のへやへ下って行く。

結局は同じ霊力同士が惹かれあっていただけでした。もしそのまま結婚していたら、自分の家を反面教師にして、いい家庭を作ろうと思っても血に流れている霊力は断ち切る事はできず、結局は自分の家族の二の舞になっていたでしょう。その霊力を見極め断ち切るために、イエス様は私たちを結婚する直前まで進ませて、彼女の内にある悪霊がもうたまらない!となるところまでメスを入れてくださったのだと、牧師から聖霊の賜物による解き明かしを語られました。
そして、私が彼女に対して接してきた愛は、人の情から来る愛情であり、聖書に書いてある愛ではありませんでした。私が混同していた愛情と神の愛とは全く違い、神から来たものではない愛情では、自分も彼女も救いに導くことはできませんでした。既成教会では神の愛と、人間の情である愛情との違いを教えておらず、それを混同してクリスチャン=優しいと思っていました。神の愛とは、そしてクリスチャンの性質の愛は、御霊の実の愛です。一方自分が良いと思っていた愛情とは、義理、人情、ヒューマニズム、道徳教育をかしらとする肉の思いであって、女預言者イゼベルの霊力から来るものとなってしまいます。そして神の愛と人の情を混同し、間違えていると行き着く先は死です。私はこの死の淵から救われました!

ガラテヤ人への手紙5:22~23
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。

ヨハネの黙示録2:20~23
しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。

ローマ人への手紙6:20~23
あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。

こうして上の姉は信仰を捨て、母、下の姉、私はぶどうの木に導かれ聖霊をいただきました。私が初めてぶどうの木に行く時、上の姉からぶどうの木はカルトだから行かない方がいい!と言われましたが、私は上の姉が母を嫌っているのは知っていたので、「それじゃあ、確かめてくる」とだけ言って、集会に参加しました。
ぶどうの木では、これまでの教会で聞いたことがなかった、悪霊の存在、聖霊の働き、御霊の実の愛と人間の情の愛情との聖別を初めて教えられ、目が開かれ、むしろ今までしてきたことが力のない宗教、神の目から見たカルトであったと分かりました。キリスト教宗教には力がないこと、聖書は神の霊感を受けて書かれたものであるから、霊によって読まなければ分からない、神様は優しいだけでなく、私たちを訓練して鍛えてくださる、真のクリスチャンは神にも人にも喜ばれる、聖霊をいただいたクリスチャンは御霊の実がなり、それぞれの召しと選びによって霊の賜物が与えられる。牧師は100%聖霊に明け渡した器でなければならない。聖書に書いてあることなのですが、これまでとはまったく違う理解として入ってきました。聖霊によって聖書を読むと、御言葉を自分のこととして読めるようになりました。それに伴う力(証)も多くの兄弟姉妹から御言葉の裏付けをもって語られてきました。

コリント人への第一の手紙2:9~16
しかし、聖書に書いてあるとおり、
「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」
のである。そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。

使徒行伝2:38~39
すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。



さて聖霊をいただき、悪霊の存在を知った私たちの家族に、メスが入ることになりました。三代~四代の血筋の霊力の大元である、石川県小松市に一人で暮らしている祖母を救い出すことになったのです。まずは家族全員が集まる場を設けました。この頃、私は貯蓄はありましたが職場の給料が少なかったため、少ないお金を握っていつもお金の心配をしていました。金銭を愛する悪根っこの霊にずっと憑かれていました。握ったお金を離しなさいと言われ続けていて、肉をうちたたきお金を握るのをやめ、自分のためではなく家族のためにお金を使う事を決めました。

テモテへの第一の手紙6:10
金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。

桜の季節だったので、家族で今までしたことのない花見をしようと決めたのです。当初は日曜集会に参加するため、浜松~小松を土曜日に日帰りで行くつもりでしたが、牧師から「せっかく行くのなら、日帰りでバタバタするより、旅館にでも泊まってゆっくりした方が、家族も喜ぶでしょう」と知恵を頂き、家族全員での温泉旅行となりました。
祖母には母から電話で、旅行に行くよと告げてもらいましたが、祖母にサタンが入り、「私はそんなの行かん!」と拒んできました。母は改めて祖母に手紙を書き、旅行に行くことと、日時を伝えました。最後まで祖母の返事は聞こえてなかったのですが、信仰で旅行の当日、小松の家までレンタカーで迎えに行きました。着いてみると、なんと祖母は旅行の準備をして、私たちが来るのを楽しみに待っていたのです!両親、兄弟4人、甥が2人、祖母、そして兄と交際していた女性(後に結婚して兄嫁となりました)もお誘いし合計10人と大所帯です。小さい頃は里帰りで全員集まることもあったのですが、甥が生まれてから集まるのは初めてで、家族全員で旅館に泊まるのも初めてでした。小松の家から温泉までは時間にして1時間弱と、たいした距離ではありませんでしたが、普段デイサービス以外に出かけることのない祖母からしてみたら十分な距離で、こんな遠くまで来られて楽しみだと言っていました。旅館での食事は館内のレストランでとるプランでしたが、当日になって急にレストランが一杯だからと、宴会場を貸しきりで使わせてくれました。小さい甥もいたので、周りの客を気にする事もなく、家族全員で食事の時間を楽しめて感謝でした。この旅行にかかった費用は全て負担するつもりでしたが、兄と兄の彼女、下の姉も協力してくれました。感謝でした。
旅行にはレンタカーを借りていったのですが、その最後返却する時に、ガソリンスタンドで割引サービスのスロットがあり、そこで一番値引きの大きい当たりが出ました。イエス様の下での旅行は、こんなにも祝福があり、全てがスムーズに進み感謝の内に旅を締めることが出来ました。

そして次に、下の姉に思いが入り、それまで勤めていた職場をやめ、ヘルパーの資格をとって小松市の祖母の家へ引っ越して、私が祖母の面倒を見ながら生活をすると宣言しました。そうして浜松でヘルパーの資格をとり、研修を終えて小松の家へ移り住みました。
しかし、姉が小松の家に行くのは、ただ祖母の面倒を見るためではない、さらに大きな神の計画があったのでした。姉が行くことによって初めて重大なことが明らかになったのです。小松の家にシロアリが発生していて、それが原因で建物の土台はぼろぼろ、畳の下の床も抜けそうになっていたことが分かったのです。花見の時も小松の家に入ったのですが、羽蟻が発生する季節ではなかったため、誰一人としてシロアリの存在に気づきませんでした。シロアリの駆除はしましたが、こんな土台の家にはもう住めません。これが私たち家族の土台で、いつ崩壊してもおかしくない家族だった、と牧師から聖霊の賜物による解き明かしを受けました。この小松の土地の霊力を切り離し、家族の土台を建て直さなければいけないところまで来ていました。そう、これをイエス様は見せてくれたのでした。
これまで年老いた祖母を一人だけおいている背景には、家族への無関心さ、冷たさ、その根本には母が祖母を憎んで裁きがありました。母が祖母を裁き、上の姉が母を裁き、こうして三代~四代にわたり血の中にある呪い祟りの霊力は続いていくのです。ならば真のクリスチャンとなり、人を「許し愛し祝福する」力を得た母の代で、その霊力を断ち切らなければいけないのです。一番身近な家族を許すことも出来ないで、何がクリスチャンか!神の愛か!?と母の心をイエス様が徹底的に打ちたたき、祖母を許し愛し祝福し、浜松に来てもらうよう話しをしました。最初は頑なだった祖母の心は、徐々にほぐされて、浜松で一緒に暮らすことになりました。
浜松に来てから祖母は、毎日の食事をご馳走だと喜び、孫、曾孫に囲まれ「小松に住んでいた時は哀れな老人やった、浜松きて本当に良かった」と話して暮らしています。そして、ぶどうの木にも導かれ聖霊を頂き救われました。母の代で断ち切られると思っていた、三代~四代にわたる血の中にある呪い祟りの霊力は、祖母の代で断ち切られました!
父も祖母が住めるよう部屋を用意し、祖母が浜松に来てからは、小松の新聞を取り寄せてあげる気配りを見せてくれました。

こうして家系の根底である祖母が救い出され、ようやく家族が一つになるための土台が整えられました。そして、今まさに家族がひとつになるべく訓練を受けています。母は御言葉から夫に従うことを言われ続けて、夫に従うよう変えられました。そして家の中で牧師となるべく、祖母、下の姉と家庭集会を持っています。私は唯一ぶどうの木につながらせていただいている身として、父や上の姉に対して福音を伝えることを言われています。

ここまでの証を書いてみましたが、ぶどうの木に導かれてから、全てが順調に来たわけではありません。この証を読んで、聖霊をいただいたらこんなことができるようになるのか、と思われるかもしれませんが、実際はイエス様が牧師を通して語られたことを、神の器として実践してきただけです。この間も、しょっちゅう家族内で、分派分裂もありました。何度言われても、肉において怠惰で間違いを繰り返すこともありました。神の愛を持って戒めてくれている、牧師や兄妹姉妹を裁いてしまうことも何度もありました。ぶどうの木に導かれるまでの教会では、ここまでしてくれることはありませんでしたから、自分たちの肉に甘かったのです。既成教会では日曜日に教会で説教を聞いて、祈って適当に日常生活をすごしていました。だれが声を荒げて叱ってくれたでしょうか?だれが家庭内にまでメスをいれて、なんとかして救い出そうとしてくれたでしょうか?聖霊をいただいて、イエス様の声を、聖書の御言葉を忠実に行うから、相手にどうにかして救われてほしいから、厳しくもなるのです。イエス・キリストの愛を持っている教会ならば、ここまでします。この世と妥協して、外見だけを取り繕って、問題なくすごしていくことが神の御旨ではありません。そして、私の中にも聖霊がいるから肉が辛くてもなんとしても従いたい!という思いになり、その度に悪霊を追い出し、自分の頭のてっぺんからつま先までイエス様の血をかけ、キリストの思いで満たしてくださいと祈り、肉を打ちたたきここまでくることができました。

コリント人への第二の手紙1:12~14
さて、わたしたちがこの世で、ことにあなたがたに対し、人間の知恵によってではなく神の恵みによって、神の神聖と真実とによって行動してきたことは、実にわたしたちの誇であって、良心のあかしするところである。わたしたちが書いていることは、あなたがたが読んで理解できないことではない。それを完全に理解してくれるように、わたしは希望する。すでにある程度わたしたちを理解してくれているとおり、わたしたちの主イエスの日には、あなたがたがわたしたちの誇であるように、わたしたちもあなたがたの誇なのである。

ヘブル人への手紙12:5~11
また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、
「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。
あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。

私は今まで就職にも恵まれてきませんでした。聖霊をいただく前に入った職場や、兄弟姉妹の忠告を無視して選んだ職場でしたので、一社目は倒産し、二社目は経営悪化で自主退社、最後は深夜から働き始める市場の仕事(暗い内から働きはじめる霊的には闇の職場)でした。闇の霊力と、肉体的な疲れから日曜の集会中に居眠りをしてしまうこともあり、市場で働くのは限界となり御言葉をもらい辞めました。

ヘブル人への手紙11:8
信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。

そこから次の仕事を探して、最初は東北の復興支援を行う復興庁、ボランティア団体等を受けましたが受かりませんでした。新たに仕事を捜さなければいけないので、信仰によって転職コンサルタントに登録して仕事を紹介してもらうことにしました。紹介された仕事はとりあえず手当たり次第に受けましたが、どこにも受からず交通費などでお金を使わされる一方でした。そうしている内に、牧師から転職コンサルタントのいいなりになって、かしらがイエス様になっていないと指摘されました。まさに図星でした。信仰によって始めたはずの行動が、いつの間にかどこでもいいから就職を決めることが目的となり、かしらになっていました。

私たちは牧師を通してよくこう言われます。「この世のものが悪いと言っているのではない。全ては神が造られたものだから悪いものはない。ただイエス様を差し置いてそれをかしらにしてしまうことが神の前で罪です。私たちのかしらはどこまで行ってもイエス様でなければならないのです。」

偶然はなくこのタイミングで、E社で働いているぶどうの木の執事が「E社の営業マンが急遽辞めることになった。その分の仕事を皆で分担してもできないことはないが、新しく若い営業マンをいれて仕事を教えていきたいと、営業マンの中で話が出ている。これはもうイエス様だと思い、すぐさま知り合いに仕事を探しているいい子がいると、君のことを話しておいた。」と私に仕事を紹介し推薦してくれました。
E社が入っているEグループは、浜松のサービス業界では最大手で、入社した若者は絶対に辞めないし、求人を出したら応募が殺到するようなところです。私がE社を受けたいという意志を向けたら、その分の求人を出すことを待ってもらい、優先して選考にあずかるという、普通なら絶対にあり得ないことが待っていました。
E社をイエス様からだと信じて受けさせていただくことにしましたが、ここでもE社を握らずかしらとしないで、イエス様をかしらにして「御心ならば道を開いてください、そうでないなら門を閉じてください」と霊を試しながら進めていきました。
応募を決定してから面接まで1週間程時間がありましたが、ここでイエス様は、牧師、兄弟姉妹を使って、クリスチャンとして、社会人として私を徹底的に訓練して下さいました。私たちの群れは牧師を中心にメールをやりとりして、タイムリーに霊の動きを共有しその時々の一人一人の霊の状態を見極めています。私もメールを打つのですが、肝心な時に返信をしなかったり、報告連絡相談(ほうれんそう)が足りなかったり、毎回メールの中に誤字脱字があり、それはもう笑えないレベルにまで達していました。E社への就職の話を進めていく中でも、メールの誤字脱字が酷く、社会人としてとてもじゃないが推薦できるものではないと呆れられていました。いつまでも神をあざけっていてはいけません。放心、ぼんやり、注意力散漫の霊を追い出しもしましたが、それだけでは改善されませんでした。これは他の霊力があると牧師は気がついて、イエス様に聞いてくださり、それが家の血筋による三代~四代にわたる霊力であったと、聖霊の賜物による解き明かしをされ、三代~四代に渡る霊力を追い出しました。後は肉を打ちたたき、メールを送る前の見直しをしてミスがないようにしています。霊力を断ち切った後は、肉の体を打ちたたいて、聖霊に従っていくだけです。肉がついている以上、ここで気を抜いてしまうと古い悪霊が戻ってきて7倍悪くなってしまいます。だからクリスチャンは24時間365日、聖霊に満たされ、肉の欲を捨てて、何事をするにも霊に従っていかなければなりません。

マタイによる福音書12:43~45
汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」。

E社の面接が決まった段階では、まだ転職コンサルタントの方に紹介してもらった企業の面接の予定があり、断りを入れずにそちらの面接も受けようとしていました。すでにE社が第一希望でしたが、まだ合格した訳ではなく、ここまで仕事を紹介してくれたことに恩を感じ(情です)、転職コンサルタントへの説明もどうすればよいかわからなかったので、とりあえず受けるだけ受けておこうという気持ちでした。そのことを兄弟姉妹たちの前で明らかにしたら、「信仰とは望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認する事だよ!だから、すでに受かったと信じて他は誠意を持って断らなきゃ!そうしないと入社する気もないのに面接で相手の時間を取らせてとても無礼だ!あなたには信仰がないし、人としてもありえない!」と姉妹を通し戒め教えられました。言われたことには間違いがなく、自分がクリスチャンとしても、社会人としても常識知らずでした。姉妹から聖霊の賜物による知恵の言葉をいただき、E社の面接の前に転職コンサルタントの方に連絡して、経緯を説明し、誠意を込めて全ての応募を辞退させていただき、身を綺麗にしてから面接に挑みました。一次面接、二次面接と進む中で自分がクリスチャンであること、聖書や、信仰、神の愛のことまで話しをする機会があり、福音の場にもさせていただきました。後で知りましたが、一次の面接官の方には営業経験のある職歴を、二次の面接官の方には自分の学歴を見られていました。私は国立大学の修士課程まで出ていましたが、今までの仕事はこれを評価してくれるような土台ではありませんでしたし、自分も就職には関係ない学歴だと思っていました。しかし牧師は以前から「修士まで出ているのにこれまでのあなたの職歴は勿体ない」とおっしゃっていました。そして今回初めて自分の学歴に注目、評価してくれる会社に出会うことができました。全てを益としてくださるとはこういうことか!と感動しました。

ローマ人への手紙8:28
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。

二次の面接が終わってすぐに、面接官の方がぶどうの木の執事の所にきて「彼のこと、最後は君が決めなさい」と採用の最後の決断を執事に任されたそうです。執事はまだ入社三年目の社員で、私を紹介していただいた本人とはいえ、その方に最後を委ねるなんて普通なら絶対ありえません!執事は二つ返事でよろしくお願いしますと、私の入社を決めてくれました。
さらにE社では、日曜日の休日当番もあるのですが、面接前に日曜日出られないなら採用は五分五分だね、と営業の中で話がされていると執事を通し聞かされていました。面接時に私は、日曜日は教会の集会に出ることを第一にしたいが、律法的に何が何でも日曜集会に出ないと行けないのではない、と話しました。そうしたら、面接後に社内で、休日当番の時間を、彼の日曜集会に間に合うように短くしようか、という話しが出たと聞かされました。集会を守らせるために聖霊の力が働き会社の仕組みまで変えてくださいました。霊を試していき、霊力にひとつずつ打ち勝って就職を得ることができ、就職後の道まで整えられていきました。こうして私はイエス様の奇跡をとことん見せられました。

これまで私は就職が恵まれず、イエス様を信じているのに自分はそんな仕事かよ、と言われることを占い恐れて特に家族に対して福音出来ていませんでした。信仰があるつもりでも、結局は奇跡を見ないと信じない、不信仰でした。牧師を通して、聖霊の賜物である知識の言葉で「トマス」だと言われました。

ヨハネによる福音書20:24~29
十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

トマスの前にイエス様が現れたように、私の前にも現れてくださいました。哀れみ深い神を畏れ敬います。これまでも信仰の武具として証をいただいていましたが、今また祝福された職場へ就職を与えられ、これでもかというほどの証を与えられ、霊においても肉においても喜んで、まずは家族へ、そして全世界へ福音を宣べ伝えていきます。

使徒行伝16:31
ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。

マルコの福音書16:15~20
そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。
主イエスは彼らに語り終ってから、天にあげられ、神の右にすわられた。弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。〕

コリント人への第二の手紙13:8
わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある。

イエス様の計り知れない愛に感謝します。