劇団四季
「ジーザス・クライスト=スーパースター」を観て・・・

 
 

9月1日(月)、私はぶどうの木の牧師と兄弟姉妹たちと一緒に、劇団四季の「ジーザス・クライスト=スーパースター」を観に行きました。全国公演をしていた「ジーザス・クライスト=スーパースター」が、ちょうど7年目の最終日である9月1日に、私たちが住む浜松で公演してくれたのです。この導きに偶然はないと信じ、イエス様に感謝して皆で観ました。
「ジーザス・クライスト=スーパースター」のあらすじは、こちらからご覧ください。
「ジーザス・クライスト=スーパースター」のあらすじ

イエス様が十字架にかけられるまでの最後の7日間を描いたミュージカルという事もあり、どのように描かれているのか楽しみにしていたのですが、公演が始まると、「イエス様がすごく人間的に描かれている・・・これはイエス様を嘲っているミュージカルなのか!?全くイエス様に力がない」と期待を裏切られ、落胆する思いが来ました。私は、「イエス様、このミュージカルを通して、あなたは何を私たちに伝えたいのですか?見るべきだったのですか?」と問いかけ続けていました。
イエス様が一人の青年として神と人間の狭間で苦しむ姿、マグダラのマリアがかげりのない、純粋で献身的な愛をイエス様に注ぐ場面、聖書にはあまり書かれていないユダの心の内側・・・果してこの公演を見た人たちが、「イエス様の愛と力」を知ることができるのだろうかという疑問が生まれました。
もちろん、そんな思いとは別に語られたこともありました。

ミュージカルは、当然イエス様が主役でしたが、もう一人の主役と言えるほど、イエス様を裏切った弟子のユダの事が大きく取り上げられていました。聖書では、お金と引き換えにイエス様を売った裏切り者であり、イエス様から「生まれない方がよかった」と言われていたユダですが、ミュージカルの中では、イエス様に対する思いと「なぜ自分にイエス様を裏切る役目が与えられたのか」と神に訴え悩む心の葛藤が細かく描かれていました。そして、地獄に落ちていくのです。それが、すべて聖書通りであったのか、また、本当にユダはそのような人間であったのかは分かりませんが、イエス様と十二使徒の関係ではなく、イエス様とユダの関係という視点で描かれていたことは、私の中にとても新鮮に入ってきました。

最後は、イエス様が十字架上で、「父よ、わたしの魂をみ手にゆだねます」と言って息を引き取るシーンで終わるのですが、その後3日目に復活したところが描かれていない事も、大事な部分が欠けていると思い、「これで終わり!?」と複雑な気持ちになりました。
しかし、生身の人間が実際に十字架にかかっているシーンは衝撃的で、イエス様が2000年前に自分の罪のためにこのように十字架にかかってくださったのだと思うと、それは本当に凄い事であり、今イエス様の十字架による大きな愛と罪の許しが与えられている事に、心から感謝しました。

また、みことばが土台であり、みことばを忠実に再現するために、みことばがセリフとなっているようなミュージカルでしたが、聖霊なしに頭でみことばを解釈するとこのような描き方になるのかと驚き、改めて神学ではイエス様の愛と力を知る事も、体験する事もできないのだと語られました。

観終わったあと、私は、この「ジーザス・クライスト=スーパースター」を通してイエス様が伝えたかった事がもっとあるのではないかと思いながらも、悟れずにいました。今までは劇団四季のミュージカルを観ながら、霊的に語られることがたくさんあり、観終わった時には、「イエス様はこれを伝えたかったのだ」「イエス様がこう教えてくれた」という思いがあふれてきたのですが、今回は全体的に感じた不満ばかりを口にしていたのです。

しかし、それは私が心を狭めて観ていたからであり、実際は7年目最後の日にふさわしいミュージカルであり、8年目を迎えるぶどうの木に対するイエス様からのメッセージが込められている内容(演出)であったのだと牧師を通して解き明かされたのです。

イエス・キリストが地上に来られた事、それはみことばが地上に来たのだと言えると牧師はおっしゃいました。
劇中に出て来る民衆役は、イエス様こそ「神の子」であると信じる人も、イエス様を迫害して十字架につけるようピラトに訴える人も、同じ人たちが演じていました。
それは霊的に、一人の人間がイエス様を受け入れてみことばに従う人にもなり、サタンの声を聞いてイエス様=みことばに反逆する人にもなる事を表わしているのだと語られました。
また、ユダはイエス様を愛していたクリスチャンであったにも関わらず、この世の地位や名誉、お金によって心が揺らいでイエス様を裏切る人の象徴であり、マグダラのマリアはどこまでもイエス様に従うクリスチャンの象徴だったのです。肉的に観たら、マリアがイエス様に対してかげりのない、純粋で献身的な愛をイエス様に注ぐ姿や、イエス様が「あなたが私の思いを一番よく分かっている」と言うセリフが姦淫だと思ってしまいますが、霊的に観たら、クリスチャンとして、イエス様にかげりのない、純粋で献身的な愛を持って仕える事が言われているのであり、そんなクリスチャンをイエス様は「私の思いを一番よく分かっている」僕として喜んでくださるのだと語られました。
つまり、「ジーザス・クライスト=スーパースター」には、
①みことばを受け入れても、サタンの声を聞くとみことばに反逆する人
②イエス様を愛していても、サタンの支配下であるこの世の地位や名誉、お金などに心を奪われて裏切る人(ユダ)
③イエス様の思いを一番よく分かっているクリスチャン、どこまでもイエス様に従うクリスチャン(マグダラのマリア)
が描かれており、イエス様は私たちに対して、この世には、サタンに捕えられて福音を聞く事ができない、あるいは聞く機会さえ与えられない人、福音を聞いても従えない人、福音を聞いたらまっすぐイエス様に従っていける人がいる事を教えてくださったのです。

マタイ13:18~23
そこで、種まきの譬を聞きなさい。だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。

それは、これから私たちがこれから出す絵本に対しても言えることだと語られました。神のみことばが詰まった絵本が世の中に出た時、イエス・キリスト=みことばを、世の中の人がどのように受け止めていくのかをあらわしているのだと教えられました。
ここから絵本がどのように用いられていくのか私たちにはまだ分かりませんが、まずはすべての人が手に取る機会を与えられるよう、出版社を通して世の中に出せることを感謝しています。そして、私たちは信仰で、すべての人がこの絵本を通して救われ、イエス様の愛と力を受けたクリスチャンとなるよう祈ります。


私が一番引っかかっていた“イエス様が人間的に描かれていて力がない”という事に対しては、まず次のみことばをいただきました。

ピりピ2:6~8
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。

アーメン。
イエス様も、肉体をもった私たちと同じ人間としてマリアの胎から生まれ、33歳まで生きた青年でした。「神の子」なのか人間なのかという葛藤、何も罪を犯していない自分が十字架刑にかかるという恐怖と苦しみ、できる事なら十字架にかかりたくないと天の父に訴える気持ち、それは同じ人間だとすれば理解できる事です。しかし、イエス様は聖霊の力によって、黙って十字架にかかるという神(天の父)の御計画を全うされました。ここがとても大事なポイントでした!
神は、どこまでもご自身に従う“人間”として、長子であるイエス様をこの地上に遣わし、肉の人間であっても、聖霊によって神に忠実に従い、みことばを行うことができる事を証明されたのだと語られました。
私は、十字架にかかって3日目によみがえり、天に帰られたイエス様を信じて救われたので、“力のないイエス様を描くなんておかしい、こんな姿は信じたくない!”と思っていましたが、
大事なポイントは聖霊による力だったのだと語られ、イエス様が十字架にかけられるまでの7日間の意味をさらに深く知ることができました。

また、十字架上でイエス様が息を引き取られる前に「父よ、わたしの魂を、み手にゆだねます」と言うシーンですが、聖書で確認すると、実際は「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ23:46)であり、正しく描かれてはいませんでした。しかし、この一言を通しても、イエス様が肉体をもった人間として魂をゆだね、忠実に神の御計画を全うした事があらわされている事が分かりました。本来のみことばとは違っていましたが、最後の一言は、8年目を迎えるぶどうの木の一人一人に対するイエス様からのメッセージであったのだと語られたのです。

「自分の魂(肉)を十字架につけて、7年目を終えなさい!」と!!!

イエス様が息を引き取った最後のシーンのバックは星空であり、【時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。】というみことばとは違いましたが、私たちにとっては8年目(9月2日)を迎える前夜があらわされていたのだと語られました。
そして、私だけでなく、兄弟姉妹たちも「なんで!?」と思ったのが復活の場面がなかった事でしたが、それは自分の魂(肉)を十字架につけて神にゆだね、8年目を迎えた私たちが伝えていく事であると語られました。

2014年9月2日、ぶどうの木は8年目を迎えました。
私たちはますますここから、十字架にかかった後に真の神となって「復活」されたイエス様によって与えられた神の力・悪霊に打ち勝つ権威と血の力を行使して、大胆に私たちのスーパースターであるイエス様を宣べ伝え、一人でも多くの魂をイエス様に勝ち取っていく事を、一つ思い・一つ心で行なっていきます。

ピりピ1:18b~20
見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう。なぜなら、あなたがたの祈と、イエス・キリストの霊の助けとによって、この事がついには、わたしの救となることを知っているからである。そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。

ピりピ1:27~30
ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そして、わたしが行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたが一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い、かつ、何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救のしるしであって、それは神から来るのである。あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。あなたがたは、さきにわたしについて見、今またわたしについて聞いているのと同じ苦闘を、続けているのである。

ピりピ2:6~18
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。
わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい。

アーメン。

「ジーザス・クライスト=スーパースター」を通して必要の一切が語られたことを感謝します。
そして、イエス様の御名前とみことば、十字架の愛が、劇団四季の皆さんを通して全国に届けられたことを感謝して祈ります。