親の霊性が子に与える影響の重大さ

 
 

今回、長男(14歳、中2)の状態から、私自身の霊的な状態を示され、イエス様に悔い改めました。ここに証させていただきます。

私の長男は小学校4年頃よりモンスターを捕まえるゲームをやるようになりました。そのゲームを始める際、「周りの友達もやっている」、「そのゲームをやっていないと友達の輪には入れない」という、この世的な声に聞き従い、それならよいと認め、与えました。それ以降、長男はゲームに徐々にのめりこむようになり、中学2年の秋頃からはゲーム以外のものには興味が無くなってくる「依存状態」にまでなり、学校生活にも支障がでるようになりました。

マタイ12章43-45
汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」。

クリスチャンである長男の聖なる神の宮に、イエス様からではない、サタンから来るゲームなどの悪霊を入れてしまったため、みことばどおり、その状態は7倍悪くなってしまったのです。
本当にギリギリの所で、イエス様は光を当てて下さり、長男をそこから解放して下さると共に、ここまでの私達両親の子供に対する関わり、子育てのあり方を吟味し、悔い改めの機会を与えて下さることとなりました。私は流され、いつしか判断が聖書ではなくこの世の常識になってしまったことにより、子供達を滅ぼしてしまうところだったのです。

そこに至る私の一つの霊的な背景としては、日常におけるこの世との妥協がありました。
私は4年前に以前務めていた病院から現在務めているクリニックに転職しました。その際、クリニックの院長と安息日(日曜日)を聖別(休む)することを当初は約束していました。しかし、院長の「産婦人科医は日曜日も患者さんのために働くのが当然だ」というこの世的な(偽善的な)常識に流され、日曜日の診療にも携わるようになりました。
そういう霊的な状態の中で、家庭においても家族への関わりも、ゲームや遊具を与えるときも、特に思慮もなく(みことばもなく)与え、また普段の関わりも学校の成績や、日常の義務的なこと(宿題やったかなど)が中心となり、家族に本当に関心を持って寄り添う関わりができていませんでした。そういう霊的な状態では子供が遊んでいるゲームの善し悪しも見えず、めくらの状態で正しい判断ができなくなっていました。

ヘブル4章
それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。 ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、
「わたしが怒って、彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、誓ったように」
と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。 すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、 またここで、「彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない」と言われている。 そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、
「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」
とダビデをとおして言われたのである。 もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。 こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。 なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。 したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。 というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。 そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。
さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。

今回、長男の霊的な状態が明るみとなり、長男に悪影響を与えていたゲームやモンスターハンターのキャラクターグッズを取り除く事としました。しかし、悪霊に長期間攻撃を受けていた長男は、それをすぐに受け入れることができず、これまでにない拒絶と反抗の態度を示しました。その長男に対峙する中で、自分自身のなかのファミリアスピリットが自分自身を攻撃し、うち勝てていないことに気づかされました。長男が頑なになり、またやる気が出ない、学校に行く気にならない、などの声が聞こえてくると、以前自分自身が、そして自分の兄弟が不登校、引きこもりになった当時のことを思い出し、自分の長男もそのようになるのではないか、という恐れの思いにおそわれました。部屋に閉じこもらせたくない思いの中で、長男に対しては「ここは俺の家だ、おまえに貸してやっているだけだ」という冷たい言葉を出してしまっていました。

この世にまかれた霊的状態の中で、自分自身の中にある、「自分は、自分の家系はこうだ」という占いの霊(ファミリアスピリット)が自分自身をとらえ、それが長男に対する言動にも現れていました。

今回気付かされた、イエス様から来ない思いにとらわれていたこと、自分自身をとらえてきた悪霊としっかり戦いぬかず、みことばに不忠実であったことをイエス様に心から悔い改めました。そしてもう一度聖書の真理に従った自分自身の生活、子育てに立ち帰り、自分自身をとらえてきた悪霊、ファミリアスピリットと戦い抜くことを決心しました。

ヤコブ4章
あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。 あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。 求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。 不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。 それとも、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。 しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。 そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。 苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。 主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。
兄弟たちよ。互に悪口を言い合ってはならない。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟をさばいたりする者は、律法をそしり、律法をさばくやからである。もしあなたが律法をさばくなら、律法の実行者ではなくて、その審判者なのである。 しかし、立法者であり審判者であるかたは、ただひとりであって、救うことも滅ぼすこともできるのである。しかるに、隣り人をさばくあなたは、いったい、何者であるか。
よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。 あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。 むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。 ところが、あなたがたは誇り高ぶっている。このような高慢は、すべて悪である。 人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。

エペソ人への手紙6章4
父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。

長男には自分自身のファミリアスピリット、恐れの霊にまかれた中で言動をしてしまったことをあやまりました。 そして子供達みんなに対して、ここまで自分自身が父親として真理に従っていなかったこと、そのためにイエス様からではないことを家の中に、子供達の中に入れてきてしまったことをあやまり、イエス様に悔い改めました。そしてクリスチャンとして、父親として、真理に立ち帰り、前進していくことを伝えました。

長男はこれまでのゲーム依存の生活から脱却し、霊からもう一度立て上げる一歩を踏み出しました。

エペソ人への手紙6章10-18
最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。 すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、 平和の福音の備えを足にはき、 その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。 また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。 絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。

私自身も職場の院長と話し、あらためて安息日を聖別していきたい旨を伝えました。院長は認めて下さり、今後は安息日を聖別していくこととなりました。今回、安息日の聖別ということを通して、私の仕事である医療:不妊治療に対し、ここまで私がこの世的に考え、流されてきたことに気付かされました。実際診療の際には、イエス様に祈り、患者さんが妊娠したことも多々ありました。しかし、その土台が人の知恵で生み出された技術優先・欲得であったとするならば、それは神の許容的みこころのなかで行われていたことだとわかりました。

詩篇106篇1―15
主をほめたたえよ。主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。だれが主の大能のみわざを語り、その誉をことごとく言いあらわすことができようか。公正を守る人々、常に正義を行う人はさいわいである。主よ、あなたがその民を恵まれるとき、わたしを覚えてください。あなたが彼らを救われるとき、わたしを助けてください。そうすれば、わたしはあなたの選ばれた者の繁栄を見、あなたの国民の喜びをよろこび、あなたの嗣業と共に誇ることができるでしょう。われらは先祖たちと同じく罪を犯した。われらは不義をなし、悪しきことを行った。われらの先祖たちはエジプトにいたとき、あなたのくすしきみわざに心を留めず、あなたのいつくしみの豊かなのを思わず、紅海で、いと高き神にそむいた。けれども主はその大能を知らせようと、み名のために彼らを救われた。主は紅海をしかって、それをかわかし、彼らを導いて荒野を行くように、淵を通らせられた。こうして主は彼らをあだの手から救い、敵の力からあがなわれた。水が彼らのあだをおおったので、そのうち、ひとりも生き残った者はなかった。このとき彼らはそのみ言葉を信じ、その誉を歌った。しかし彼らはまもなくそのみわざを忘れ、その勧めを待たず、野でわがままな欲望を起し、荒野で神を試みた。主は彼らにその求めるものを与えられたが、彼らのうちに病気を送って、やせ衰えさせられた。

医療もイエス様が頭でなければなりません。神の愛が頭でなければならないという事です。医師・医学上の知恵知識、さらには医師の野心、競争、この世の富(金もうけ、地位・名誉につながること)がみじんでもあれば、その先は、この世の神サタンの支配下になり、特に人間の生命の根源に関わる不妊治療は神の御旨に反した家族関係、親子関係を築き上げてしまう危険があることを再認識させられました。神をおそれ、神の御旨にかなった夫婦関係そしてそこにつながる次世代の子供達の誕生をサポートするための器として自分を用いて下さるよう、しっかりイエス様につながり、患者さんの霊からの癒しを求めていきます。 そして置かれたところで、そして産婦人科医学会の中で、自分自身をもって神の栄光を表す、神の御旨に沿わないものには「ダメなものはダメだ」ということがしっかり言える器として、霊で立っていきます。

今回の事を通し、自分自身がそして家族が救われ、生まれ変わったものであることにあらためて感謝し、今回、イエス様から教えていただいた事をしっかり刻み込んで、ここから私自身そして家族も霊からしっかり立て直し、仕事においても家庭においても真理に立っていきます。

全ての栄光はイエス様に帰します。