クリスチャンとしての自分を建て上げる
救われるという事はどういうことか、国籍が第三の天にある自分とは何者なのかについて、体験した事を証します。
救われてから8年になりますが、自分の信仰がアップダウンし、不信仰になる時、いつも、目に見える状態に目を留め、物事を判断し、占いや恐れに支配されていました。占いや恐れは古い自分の肉から来るものですから、一旦それらを受け付けてしまうと、喜び、平安はなくなり、裁きや焦り、不信仰に陥ってしまいます。このままでいいのか、じっとしていていいのか、間違ったことをしていたらどうしよう、取り返しがつかないことになったらどうしよう、何とかしなければ・・・!という強迫観念に駆られていくのです。御霊で始ったことも、肉で仕上げようとして、苦闘葛藤するようになります。
今回体験した事は、クリスチャンでありながら握ったものをもって滅されることのないように、という神からの警告と、また、その道がいかに祝福から離れた迷い道であるかということを学んだ証です。
私には3人の子どもがいますが、安息日ごとに家族で集会に行き、聖書を学んできました。長男は現在中学2年生になります。安息日を聖別するために学校の部活動も、休日が休みとなる科学部に所属しています。今年度に入って、担任の教師から、「友達と関わろうとしない、自分から友達との関わりを遮断しているように見える。何に対してもやる気がなさそうで、話しかけても反応が悪く、聞いているのか聞いていないのか分からない状態、何か学校で嫌な事があるのか、何が原因なのか。最近はそれが顕著に表れていてクラスの友達も、長男の事を変わったね、と心配している」という話がありました。
家庭では、次男と楽しく過ごしている様子が見られていたのですが、じゃれ合いの中で力に任せて次男に暴力を振るうこともありました。
長男については、小学校1年生の時に救われていて、3年生ぐらいまではわりと学校でも積極的にいろいろな事をやりたがり、ずっと好きだった魚などの生き物についても興味を持って調べたり話したりしていました。しかし、年々消極的になっていき、自己卑下や、マイナス思考などが見られるようになりました。中学に入ったら、何事にも一生懸命頑張りたいという希望を持っていましたが、実際に見える現状ではますます消極的になり、「めんどい」が口癖になり、口数も減り、学校や部活の事を聞いても適当に二言三言で答えるか、そっけない返事をするかのどちらか。最小限のコミュニケーションで済ませたいのかと思わせるものでした。物事に対しても、つめが甘く、提出物忘れなどもあり、ちゃんとしようと思ってもまた繰り返すことが何度も。そのように失敗したにも関わらず、他者の助言を受け入れず、自分のやり方を通そうとする頑なさもみられました。そのようなことがあり、みことばを一緒に確認したり、祈ったりしてきました。その時は長男も、素直にみことばにアーメンしてしっかりやっていこうとしていました。しかし、学校から長男の様子を聞かされる度、改善しない、それどころかどんどん悪くなる状態に、私は平安をなくして長男の状態に恐れを感じるようになりました。どうして?と、親として何がいけなかったのだろう、あのことか、このことか、と思いを巡らし始めます。占いの霊です。大丈夫かな?と常にドキドキ心配して一喜一憂する日々。焦りから、「しっかりしなさい!何をやっているか!」と長男を裁く思いにもなり、強く叱咤したりもしました。また、私のせいでこうなってしまったのではないかと思い、「学校のみんなと同じように、楽しく過ごして部活にも勉強にも充実した日々を送ってほしい。もしかして、友達とうまく関われなくなったのは、例えば安息日を聖別していたことによって、友達との仲間つくりの機会を無くしてしまったのではないか。一人疎外された状況に置いてしまったのではないか・・・たくさんの事を奪ってしまったのではないか、何とかしてやらなければならない」と苦しい思いになりました。何とかして長男を改善、解放させてやらなければならないと苦闘葛藤しイエス様への信仰も信頼もなくなっていきました。そして長男が良くなってくれることが自分のすべてであるかのように思えて、恐れが来れば来るほど長男の事を握っていき、私の最大の関心事となっていきました。
牧師から、私が長男を握っていると言われ、「あなたのドキドキは長男にとって何の益にもならない。あらわれを見て焦って運動部に入れた方が良かったか、安息日を聖別したがために友達と関われなくなったのがいけなかったとかではない、体が先じゃないでしょう。すべての順番は、霊から。もう一度、霊魂体の教えに戻りなさい」と教えられました。神の目から見たら、私は完全に情で自分の子どもを握っていて、自分の力で自分の価値観のまま思うように子どもを導こうとする高ぶりでした。あらわれを何とか改善しようと魂や体についての働きかけをしようと苦闘葛藤し、体力づくりのために始めたテニス教室も、安息日にレッスンを入れるようになっていました。すべての根本である霊の土台から長男を回復させなければ何も改善されることはない、という教えに全く立てていませんでした。義理人情を頭とさせる女預言者イゼベルの霊力(偽キリスト=偽みことば=偽の愛)と、神と同等であろうと高ぶるルシファーの霊力(反キリスト=反みことば)によって、私は神から預かった大切な子どもを、神の愛によって導き育てるのではなくて、それらの悪霊によってその神の愛の前にしゃしゃり出続けていました。それは長男を解放させないばかりか、もっと苦しい所に追いやっていたという事になるのです。神の目から見て、その時の私には聖いものはまったく無く、その良心も知性も汚れている霊的状態でした。
そんな苦しい中で、聖霊によって明らかにされた事がありました。
長男がLINEのプロフィール写真にゲームのキャラクター(モンスター・霊的にサタン)を載せました。私はゲームのキャラクターだし、そのキャラクターは敵でプレイヤーはそのモンスターを倒すものだからと、それほど気にしていませんでした。それを見つけた姉妹から、霊的にこのような汚れを子どもの日常生活に入れてきていたのなら、長男の霊性が毒されてその状態が魂→体にもあらわれる。親としてそこに気づかないならば、今ある長男の状態は当然の結果なのだと語られました。
イエス様は、長男を捕えている悪を光にさらし、解放してくださるために、滅びの一歩手前、ギリギリのところで聖霊によってこのことを明らかにしてくださいました。(長男にキャラクターの写真、捕えられているサタンの正体を目に見える形で発信させた)、その発信を姉妹が聖霊により忠実にキャッチしてくださった事によって、光に照らし出して下さったのです。
クリスチャンとして、霊の世界を学び、すべての物事は、霊→魂→体で成り立っているという教えを学びながら、全く霊の事には無頓着で、めくらつんぼの自分でした。そのめくらつんぼを来たらせているものは一体何かと深く掘り下げていくと、救われる前に持ち続け、救われてもなお真反対に変わらなかった自分自身の肉にある価値観でした。そのゲームは、友達がやっているから、一緒に遊びたいから欲しいと長男が4年生の時にねだったものでした。私は、そのゲームについてよく調べもせず、友達の輪から外れたらかわいそうと思い、情によってそのゲームを長男に与えました。しかし、実はそのゲームはモンスターと戦う時に血を流すような内容で、暴力的な表現がされている為、年齢制限もかかっているようなゲームでした。
みんなと同じように・・・という目先の快楽だけを見て、親としてそれがどのような物なのか、それが子どもにどのような影響を与えるものなのか、毒になるものか、益になるものかという物事の本質をしっかりと霊の目で、また良識をもって見分けることができませんでした。何度か、長男の部屋にあるモンスターの置物を見て「こんなサタンみたいなやつ、やめなさい」と叱ったこともありました。それは自分の中におられる聖い聖霊からの発信でしたが、情と妥協によっていつのころからか容認している状態でした。
自分の中にあった価値観、「みんなと同じように~」など、国籍が第3の天にある者となったクリスチャンには、あり得ない事です。救われていない異邦人(みんな)と、クリスチャン、同じであるはずはないのです。自分の父が、サタンであるか、天の父であるかと書かれてあるほどの大きな違いであり、行き着く先が地獄か天国かというほど真反対の人間なのです。ですから、クリスチャンとなった私が、「みんなと同じように~」と求めていく事は、とんでもない間違いであり、反キリストであり、それは、エジプトから救い出されたのにもかかわらず、再びエジプトを求め、神の安息に入らせないと神が誓われた不従順な民そのものでした。クリスチャンはこの世に迎合するのではない。霊の世界を見分け、霊魂体を守りながらこの世には全く存在しない塩味(一本筋の通った生き方・神に喜ばれ人にも受け入れられる)をもってサタンの支配下にあるこの世から異邦人(みんな)を救い出すために第三の天から遣わされた存在であるという自覚を決して忘れてはならないのだと痛感しました。
私は、「みんなと同じように~」を、微塵でも良いものだと思い、そこにひかれていたのです。みんなと同じように、学力レベルの高い学校を目指し、みんなと同じようにこの世の地位や名声に望みを置き競争する、みんなと同じようにこの世の流れに任せて、今はこういう時代だからと言い訳をして物事に妥協しながら生きていく。何かができることが神の栄光と価値を置き、その枠にはめようと必死になって子どもに向き合う。これでは、神の子である子どもの霊は圧迫され、喜びも平安もなくし、親に対して辟易するのも当然です。世と世にあるものは過ぎ去るのです。また人が全世界をもうけても命を損したら何になろうか。ぶどうの木では「一つになろうよ!!命の絵本・命の糸に出会う本」という絵本を出版しましたが、一つ大きなテーマとして、家族の在り方、子育てについて書かれています。私は、「神から預かった子ども」を「自分自身の子ども」であると握り、「神がその子の一番の祝福、ブループリントをご存知」であることに反して「私自身が子どもの行く道を導き、祝福の人生を何とか歩ませなければ」という非常な高ぶりの中にありました。今は、なんてむなしいものを握って、子育てをしてきたのだろうと、心から思います。聖書には、「まず神の国と神の義を求めなさいそうすればすべて添えて与えられる」と約束されています、私たちが祝福を受け取るのは決してこの世と同じ方法によってではない、神のなさり方がある、順番を間違えてはいけないと牧師を通して語られました。
霊の世界を軽んじ、神の愛ではなく情と高ぶりの霊力と戦わず子育てをしてきた親の甘さ(親自身も霊性が汚されていた状態なので正しい判断が出来ない)によって、長男の霊性はサタンに毒され、現実の世界よりもゲームの中に人生の楽しみを見いだすという中毒患者のようになってしまいました。人との交わりを避けたりコミュニケーションを取ろうとしない、反抗的な目つき、全うな判断ができない、暴力的な態度、言葉。常に面倒くさい、何事にも無関心で覇気がない状態。すべて、そのゲームの持つ霊力でした。そのゲームは、人間の霊魂体を滅ぼすためにサタンが使う麻薬だったのです。そのような汚れを神の宮である自分に入れてきた時から、長男は全く毒されてしまいました。霊性が汚されることによって、神からいただいた性質(御霊の実)を持った本来の長男は圧迫され、その毒は魂を犯してやがて目に見える体へのあらわれとなりました。御霊の実の性質などどこにも見られない長男の姿でした。
聖書に書かれてある通り、長男はクリスチャンであるがゆえに救われていないこの世の人間よりも七倍(霊の世界では無限を意味する)毒されて、魂も体もボロボロにされてしまいました。(この霊力は、まさに今社会で起こっていること、イスラム国に集まる若者、そしてそれを真似て殺人を犯してしまった日本の若者も同じ霊力です。霊の世界ではこの世がその霊力に覆われており、いつでも身近でそのような事件が起こってもおかしくない状態にあると牧師から解き明かされています。)私は苦闘葛藤していながら、一体どこに目をつけて長男を導こうとしていたのだろうか。牧師や姉妹に指摘され、戒められてやっと目が覚め、自分がどんなことを神から預かった子どもにしてしまっていたのか、その事の重大さを悟ったのです。イエス様に悔い改め、長男にそのようなゲームを与えてしまった思慮のなさを悔い改めました。
しかし長男はそのゲームを握っているため、ゲームを絶つことに対しての不満や、恨みを前面にあらわして、自分の「人生の楽しみを奪うのか、これが無くなったらもう何もやる気がなくなる」と言い、先のあらわれと同様な態度や、何もかも奪われるという自己憐憫に陥ったりして、解放されることはありませんでした。何度も時間をかけ、真剣に話し、今度こそ情(自分の考え、意見)にまかれない、麻薬中毒の状態から絶対に助け出すという覚悟で当たりました。交わる中で、何度も衝突しました。
しかし覚悟を決めて当たらなければならないと分かっている一方で、自分の中にずっとあった、恐れの思い(年々長男の状態が悪くなっていく事の恐ろしさ)が拭い切れず、しっかり真理に立って力強くいることができない自分もいました。怖い、怖いという思いが、自分を尻込みさせるのです。牧師と話し励まして下さった時も、最終的には、やはり怖くて、長男への働きかけもイエス様を信頼して神のやり方を行うより、長男を握ったままの「自分のやり方から離れることができない」と言葉に出しました。牧師から戒めを受け、高ぶりと、神へのあざけりを悔い改めました。そして、主にある知恵と、喜びと、信仰を求めました。牧師が祈り、サタンを追い出して下さった後は、なぜ、自分がこんなにイエス様に信頼することができなかったのだろう?と不思議な気持ちになり、靄が晴れたような、荷が軽くなったような思いになりました。そして、「恐れるな、小さな群れよ。御国をくださることは天の父の御心なのである」というみことばが自分の中で思い出されていました。そうか、自分は一体何者であるのか、という事に立ち返らなければならない。自分がすべきことは、霊を土台として魂と体を守りながら神から預かった子どもを育てていく事なのだ。自分のやり方、価値観、知恵に従わせようと子どもを握ることはしてはならない。握れば握るほど、同時に恐れがついてくる。サタンはそこに恐れを持ってくるのだ。そして翻弄されて滅ぼされる。人は、握ったものを持って滅ぼされる。といつも言われていた言葉の意味を体感した出来事でした。私がするべきことは、霊の世界を見分け、思慮深く子どもを守りながら神が与えてくださったブループリントの上を歩ませること。ただそれだけに専念すれば良いのだ。それが絵本「一つになろうよ!!命の絵本・命の糸に出会う本」に書いてある、本物の子育てなのだと悟った時に、ずっと捕らわれていた恐れからの解放がありました。
長男の様子は一進一退を繰り返しています。麻薬中毒という滅びの淵から助け出され、霊的な集中治療室で治療を受けている現状です。みことばにアーメンし、悪霊を追い出す祈りが出来たかと思えば、再び、自分の大事な物が「奪われた!奪いやがって!」というサタンの声を聞いて反抗的な言動をしたりします。しかし、恐れの霊から解放された私は、長男の霊をしっかりと立たせるために、霊のことば(みことばと、愛の戒め)を妥協することなくまっすぐに伝えていきます。長男も、目覚め始めています。
牧師、副牧師、兄弟姉妹が祈り、親身になって語ってくださいました。長男には、牧師から、今までのあらわれは、すべてゲームの霊力から来ていたものであり、長男にとってはすべてを滅ぼす麻薬であったこと。いくら欲しても、ダメなものはダメ。あなたとあなたの将来を守るために絶対にやってはいけないものである事、それを伝え、絶たせることが本当の愛であることを語られました。そして、自分を守るために、見るもの聞くことに注意して霊性を聖く保ちながら、自分を建て上げていかなければならない事も語られました。霊性が狂ってしまえば全うな判断が出来なくなり、妥協してこの世に迎合していきます。富(サタンの支配・肉)と神(イエス様・霊)とに兼ね仕えることはできないと聖書に書かれてあるのですから、自覚を持って本当に神の側に立っていなければ・・・この世に溺れてしまったら、サタンはそのクリスチャンを捕えて滅びに連れて行くのです。霊性を聖く保つ事によって初めて御霊によって歩くことが出来る。そして第3の天から物事を見分けることができる。そして、どこへ行こうと、誰と会おうと決してそこにあるサタンからの霊力に惑わされない、正しいことは「正しい」と、間違っていることは「間違っている」と発信できる、一本筋の通った強い自分を建て上げることが出来るのです。それこそが、世の光地の塩として愛にあって人々に真理を語り続けたパウロの姿でした。
小学校一年生で救われた長男も、これまでの体験のすべてを益にして、中学三年生を目前にした今、自分自身を建て上げる聖別の時です。
私自身の聖書の学びの始まりには、聖書によって子育てをしていきたいという願いがありました。これまでの二心者であった自分を悔い改め、だまされてきた占いの霊、恐れの霊、裁きの霊、この世を愛する悪根っこの霊、めくらつんぼの霊、反キリストの霊、偽キリストの霊、不従順の霊、不信仰の霊を足の下にして、今度こそしっかりと真理に立って本物の子育てをしてきます。
この春、私たちは、トルコに行きます。約2000年前にパウロが聖霊によって全身全霊を捧げて駆け回った地で、同じ霊を霊魂体でしっかり感じ、より強いクリスチャンとしての自分を建て上げたいと思います。
聖書は霊の世界があること、私たちは霊の世界に生きていることを教えています。そしてその目には見えない戦いは、常に、この瞬間も私の周りで行われていることなのです。クリスチャンとしての自分の霊性をしっかり守らなければ、永遠の命から遠く離れ、私たちは死んでしまうのです。自分は何者であるかという事をしっかりと自覚し、目をさまして、信仰の歩きを続けていきます。
<ローマ12:1~2>
兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
<エペソ6:10~13>
最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。
<Ⅰテサロニケ5:16~24>
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。御霊を消してはいけない。預言を軽んじてはならない。すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。
どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。
<ピリピ1:9~11>
わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。
<Ⅱコリント10:3~6>
わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。
全ての事に感謝します。すべての栄光はイエス様に帰します。
救われてから8年になりますが、自分の信仰がアップダウンし、不信仰になる時、いつも、目に見える状態に目を留め、物事を判断し、占いや恐れに支配されていました。占いや恐れは古い自分の肉から来るものですから、一旦それらを受け付けてしまうと、喜び、平安はなくなり、裁きや焦り、不信仰に陥ってしまいます。このままでいいのか、じっとしていていいのか、間違ったことをしていたらどうしよう、取り返しがつかないことになったらどうしよう、何とかしなければ・・・!という強迫観念に駆られていくのです。御霊で始ったことも、肉で仕上げようとして、苦闘葛藤するようになります。
今回体験した事は、クリスチャンでありながら握ったものをもって滅されることのないように、という神からの警告と、また、その道がいかに祝福から離れた迷い道であるかということを学んだ証です。
私には3人の子どもがいますが、安息日ごとに家族で集会に行き、聖書を学んできました。長男は現在中学2年生になります。安息日を聖別するために学校の部活動も、休日が休みとなる科学部に所属しています。今年度に入って、担任の教師から、「友達と関わろうとしない、自分から友達との関わりを遮断しているように見える。何に対してもやる気がなさそうで、話しかけても反応が悪く、聞いているのか聞いていないのか分からない状態、何か学校で嫌な事があるのか、何が原因なのか。最近はそれが顕著に表れていてクラスの友達も、長男の事を変わったね、と心配している」という話がありました。
家庭では、次男と楽しく過ごしている様子が見られていたのですが、じゃれ合いの中で力に任せて次男に暴力を振るうこともありました。
長男については、小学校1年生の時に救われていて、3年生ぐらいまではわりと学校でも積極的にいろいろな事をやりたがり、ずっと好きだった魚などの生き物についても興味を持って調べたり話したりしていました。しかし、年々消極的になっていき、自己卑下や、マイナス思考などが見られるようになりました。中学に入ったら、何事にも一生懸命頑張りたいという希望を持っていましたが、実際に見える現状ではますます消極的になり、「めんどい」が口癖になり、口数も減り、学校や部活の事を聞いても適当に二言三言で答えるか、そっけない返事をするかのどちらか。最小限のコミュニケーションで済ませたいのかと思わせるものでした。物事に対しても、つめが甘く、提出物忘れなどもあり、ちゃんとしようと思ってもまた繰り返すことが何度も。そのように失敗したにも関わらず、他者の助言を受け入れず、自分のやり方を通そうとする頑なさもみられました。そのようなことがあり、みことばを一緒に確認したり、祈ったりしてきました。その時は長男も、素直にみことばにアーメンしてしっかりやっていこうとしていました。しかし、学校から長男の様子を聞かされる度、改善しない、それどころかどんどん悪くなる状態に、私は平安をなくして長男の状態に恐れを感じるようになりました。どうして?と、親として何がいけなかったのだろう、あのことか、このことか、と思いを巡らし始めます。占いの霊です。大丈夫かな?と常にドキドキ心配して一喜一憂する日々。焦りから、「しっかりしなさい!何をやっているか!」と長男を裁く思いにもなり、強く叱咤したりもしました。また、私のせいでこうなってしまったのではないかと思い、「学校のみんなと同じように、楽しく過ごして部活にも勉強にも充実した日々を送ってほしい。もしかして、友達とうまく関われなくなったのは、例えば安息日を聖別していたことによって、友達との仲間つくりの機会を無くしてしまったのではないか。一人疎外された状況に置いてしまったのではないか・・・たくさんの事を奪ってしまったのではないか、何とかしてやらなければならない」と苦しい思いになりました。何とかして長男を改善、解放させてやらなければならないと苦闘葛藤しイエス様への信仰も信頼もなくなっていきました。そして長男が良くなってくれることが自分のすべてであるかのように思えて、恐れが来れば来るほど長男の事を握っていき、私の最大の関心事となっていきました。
牧師から、私が長男を握っていると言われ、「あなたのドキドキは長男にとって何の益にもならない。あらわれを見て焦って運動部に入れた方が良かったか、安息日を聖別したがために友達と関われなくなったのがいけなかったとかではない、体が先じゃないでしょう。すべての順番は、霊から。もう一度、霊魂体の教えに戻りなさい」と教えられました。神の目から見たら、私は完全に情で自分の子どもを握っていて、自分の力で自分の価値観のまま思うように子どもを導こうとする高ぶりでした。あらわれを何とか改善しようと魂や体についての働きかけをしようと苦闘葛藤し、体力づくりのために始めたテニス教室も、安息日にレッスンを入れるようになっていました。すべての根本である霊の土台から長男を回復させなければ何も改善されることはない、という教えに全く立てていませんでした。義理人情を頭とさせる女預言者イゼベルの霊力(偽キリスト=偽みことば=偽の愛)と、神と同等であろうと高ぶるルシファーの霊力(反キリスト=反みことば)によって、私は神から預かった大切な子どもを、神の愛によって導き育てるのではなくて、それらの悪霊によってその神の愛の前にしゃしゃり出続けていました。それは長男を解放させないばかりか、もっと苦しい所に追いやっていたという事になるのです。神の目から見て、その時の私には聖いものはまったく無く、その良心も知性も汚れている霊的状態でした。
そんな苦しい中で、聖霊によって明らかにされた事がありました。
長男がLINEのプロフィール写真にゲームのキャラクター(モンスター・霊的にサタン)を載せました。私はゲームのキャラクターだし、そのキャラクターは敵でプレイヤーはそのモンスターを倒すものだからと、それほど気にしていませんでした。それを見つけた姉妹から、霊的にこのような汚れを子どもの日常生活に入れてきていたのなら、長男の霊性が毒されてその状態が魂→体にもあらわれる。親としてそこに気づかないならば、今ある長男の状態は当然の結果なのだと語られました。
イエス様は、長男を捕えている悪を光にさらし、解放してくださるために、滅びの一歩手前、ギリギリのところで聖霊によってこのことを明らかにしてくださいました。(長男にキャラクターの写真、捕えられているサタンの正体を目に見える形で発信させた)、その発信を姉妹が聖霊により忠実にキャッチしてくださった事によって、光に照らし出して下さったのです。
クリスチャンとして、霊の世界を学び、すべての物事は、霊→魂→体で成り立っているという教えを学びながら、全く霊の事には無頓着で、めくらつんぼの自分でした。そのめくらつんぼを来たらせているものは一体何かと深く掘り下げていくと、救われる前に持ち続け、救われてもなお真反対に変わらなかった自分自身の肉にある価値観でした。そのゲームは、友達がやっているから、一緒に遊びたいから欲しいと長男が4年生の時にねだったものでした。私は、そのゲームについてよく調べもせず、友達の輪から外れたらかわいそうと思い、情によってそのゲームを長男に与えました。しかし、実はそのゲームはモンスターと戦う時に血を流すような内容で、暴力的な表現がされている為、年齢制限もかかっているようなゲームでした。
みんなと同じように・・・という目先の快楽だけを見て、親としてそれがどのような物なのか、それが子どもにどのような影響を与えるものなのか、毒になるものか、益になるものかという物事の本質をしっかりと霊の目で、また良識をもって見分けることができませんでした。何度か、長男の部屋にあるモンスターの置物を見て「こんなサタンみたいなやつ、やめなさい」と叱ったこともありました。それは自分の中におられる聖い聖霊からの発信でしたが、情と妥協によっていつのころからか容認している状態でした。
自分の中にあった価値観、「みんなと同じように~」など、国籍が第3の天にある者となったクリスチャンには、あり得ない事です。救われていない異邦人(みんな)と、クリスチャン、同じであるはずはないのです。自分の父が、サタンであるか、天の父であるかと書かれてあるほどの大きな違いであり、行き着く先が地獄か天国かというほど真反対の人間なのです。ですから、クリスチャンとなった私が、「みんなと同じように~」と求めていく事は、とんでもない間違いであり、反キリストであり、それは、エジプトから救い出されたのにもかかわらず、再びエジプトを求め、神の安息に入らせないと神が誓われた不従順な民そのものでした。クリスチャンはこの世に迎合するのではない。霊の世界を見分け、霊魂体を守りながらこの世には全く存在しない塩味(一本筋の通った生き方・神に喜ばれ人にも受け入れられる)をもってサタンの支配下にあるこの世から異邦人(みんな)を救い出すために第三の天から遣わされた存在であるという自覚を決して忘れてはならないのだと痛感しました。
私は、「みんなと同じように~」を、微塵でも良いものだと思い、そこにひかれていたのです。みんなと同じように、学力レベルの高い学校を目指し、みんなと同じようにこの世の地位や名声に望みを置き競争する、みんなと同じようにこの世の流れに任せて、今はこういう時代だからと言い訳をして物事に妥協しながら生きていく。何かができることが神の栄光と価値を置き、その枠にはめようと必死になって子どもに向き合う。これでは、神の子である子どもの霊は圧迫され、喜びも平安もなくし、親に対して辟易するのも当然です。世と世にあるものは過ぎ去るのです。また人が全世界をもうけても命を損したら何になろうか。ぶどうの木では「一つになろうよ!!命の絵本・命の糸に出会う本」という絵本を出版しましたが、一つ大きなテーマとして、家族の在り方、子育てについて書かれています。私は、「神から預かった子ども」を「自分自身の子ども」であると握り、「神がその子の一番の祝福、ブループリントをご存知」であることに反して「私自身が子どもの行く道を導き、祝福の人生を何とか歩ませなければ」という非常な高ぶりの中にありました。今は、なんてむなしいものを握って、子育てをしてきたのだろうと、心から思います。聖書には、「まず神の国と神の義を求めなさいそうすればすべて添えて与えられる」と約束されています、私たちが祝福を受け取るのは決してこの世と同じ方法によってではない、神のなさり方がある、順番を間違えてはいけないと牧師を通して語られました。
霊の世界を軽んじ、神の愛ではなく情と高ぶりの霊力と戦わず子育てをしてきた親の甘さ(親自身も霊性が汚されていた状態なので正しい判断が出来ない)によって、長男の霊性はサタンに毒され、現実の世界よりもゲームの中に人生の楽しみを見いだすという中毒患者のようになってしまいました。人との交わりを避けたりコミュニケーションを取ろうとしない、反抗的な目つき、全うな判断ができない、暴力的な態度、言葉。常に面倒くさい、何事にも無関心で覇気がない状態。すべて、そのゲームの持つ霊力でした。そのゲームは、人間の霊魂体を滅ぼすためにサタンが使う麻薬だったのです。そのような汚れを神の宮である自分に入れてきた時から、長男は全く毒されてしまいました。霊性が汚されることによって、神からいただいた性質(御霊の実)を持った本来の長男は圧迫され、その毒は魂を犯してやがて目に見える体へのあらわれとなりました。御霊の実の性質などどこにも見られない長男の姿でした。
聖書に書かれてある通り、長男はクリスチャンであるがゆえに救われていないこの世の人間よりも七倍(霊の世界では無限を意味する)毒されて、魂も体もボロボロにされてしまいました。(この霊力は、まさに今社会で起こっていること、イスラム国に集まる若者、そしてそれを真似て殺人を犯してしまった日本の若者も同じ霊力です。霊の世界ではこの世がその霊力に覆われており、いつでも身近でそのような事件が起こってもおかしくない状態にあると牧師から解き明かされています。)私は苦闘葛藤していながら、一体どこに目をつけて長男を導こうとしていたのだろうか。牧師や姉妹に指摘され、戒められてやっと目が覚め、自分がどんなことを神から預かった子どもにしてしまっていたのか、その事の重大さを悟ったのです。イエス様に悔い改め、長男にそのようなゲームを与えてしまった思慮のなさを悔い改めました。
しかし長男はそのゲームを握っているため、ゲームを絶つことに対しての不満や、恨みを前面にあらわして、自分の「人生の楽しみを奪うのか、これが無くなったらもう何もやる気がなくなる」と言い、先のあらわれと同様な態度や、何もかも奪われるという自己憐憫に陥ったりして、解放されることはありませんでした。何度も時間をかけ、真剣に話し、今度こそ情(自分の考え、意見)にまかれない、麻薬中毒の状態から絶対に助け出すという覚悟で当たりました。交わる中で、何度も衝突しました。
しかし覚悟を決めて当たらなければならないと分かっている一方で、自分の中にずっとあった、恐れの思い(年々長男の状態が悪くなっていく事の恐ろしさ)が拭い切れず、しっかり真理に立って力強くいることができない自分もいました。怖い、怖いという思いが、自分を尻込みさせるのです。牧師と話し励まして下さった時も、最終的には、やはり怖くて、長男への働きかけもイエス様を信頼して神のやり方を行うより、長男を握ったままの「自分のやり方から離れることができない」と言葉に出しました。牧師から戒めを受け、高ぶりと、神へのあざけりを悔い改めました。そして、主にある知恵と、喜びと、信仰を求めました。牧師が祈り、サタンを追い出して下さった後は、なぜ、自分がこんなにイエス様に信頼することができなかったのだろう?と不思議な気持ちになり、靄が晴れたような、荷が軽くなったような思いになりました。そして、「恐れるな、小さな群れよ。御国をくださることは天の父の御心なのである」というみことばが自分の中で思い出されていました。そうか、自分は一体何者であるのか、という事に立ち返らなければならない。自分がすべきことは、霊を土台として魂と体を守りながら神から預かった子どもを育てていく事なのだ。自分のやり方、価値観、知恵に従わせようと子どもを握ることはしてはならない。握れば握るほど、同時に恐れがついてくる。サタンはそこに恐れを持ってくるのだ。そして翻弄されて滅ぼされる。人は、握ったものを持って滅ぼされる。といつも言われていた言葉の意味を体感した出来事でした。私がするべきことは、霊の世界を見分け、思慮深く子どもを守りながら神が与えてくださったブループリントの上を歩ませること。ただそれだけに専念すれば良いのだ。それが絵本「一つになろうよ!!命の絵本・命の糸に出会う本」に書いてある、本物の子育てなのだと悟った時に、ずっと捕らわれていた恐れからの解放がありました。
長男の様子は一進一退を繰り返しています。麻薬中毒という滅びの淵から助け出され、霊的な集中治療室で治療を受けている現状です。みことばにアーメンし、悪霊を追い出す祈りが出来たかと思えば、再び、自分の大事な物が「奪われた!奪いやがって!」というサタンの声を聞いて反抗的な言動をしたりします。しかし、恐れの霊から解放された私は、長男の霊をしっかりと立たせるために、霊のことば(みことばと、愛の戒め)を妥協することなくまっすぐに伝えていきます。長男も、目覚め始めています。
牧師、副牧師、兄弟姉妹が祈り、親身になって語ってくださいました。長男には、牧師から、今までのあらわれは、すべてゲームの霊力から来ていたものであり、長男にとってはすべてを滅ぼす麻薬であったこと。いくら欲しても、ダメなものはダメ。あなたとあなたの将来を守るために絶対にやってはいけないものである事、それを伝え、絶たせることが本当の愛であることを語られました。そして、自分を守るために、見るもの聞くことに注意して霊性を聖く保ちながら、自分を建て上げていかなければならない事も語られました。霊性が狂ってしまえば全うな判断が出来なくなり、妥協してこの世に迎合していきます。富(サタンの支配・肉)と神(イエス様・霊)とに兼ね仕えることはできないと聖書に書かれてあるのですから、自覚を持って本当に神の側に立っていなければ・・・この世に溺れてしまったら、サタンはそのクリスチャンを捕えて滅びに連れて行くのです。霊性を聖く保つ事によって初めて御霊によって歩くことが出来る。そして第3の天から物事を見分けることができる。そして、どこへ行こうと、誰と会おうと決してそこにあるサタンからの霊力に惑わされない、正しいことは「正しい」と、間違っていることは「間違っている」と発信できる、一本筋の通った強い自分を建て上げることが出来るのです。それこそが、世の光地の塩として愛にあって人々に真理を語り続けたパウロの姿でした。
小学校一年生で救われた長男も、これまでの体験のすべてを益にして、中学三年生を目前にした今、自分自身を建て上げる聖別の時です。
私自身の聖書の学びの始まりには、聖書によって子育てをしていきたいという願いがありました。これまでの二心者であった自分を悔い改め、だまされてきた占いの霊、恐れの霊、裁きの霊、この世を愛する悪根っこの霊、めくらつんぼの霊、反キリストの霊、偽キリストの霊、不従順の霊、不信仰の霊を足の下にして、今度こそしっかりと真理に立って本物の子育てをしてきます。
この春、私たちは、トルコに行きます。約2000年前にパウロが聖霊によって全身全霊を捧げて駆け回った地で、同じ霊を霊魂体でしっかり感じ、より強いクリスチャンとしての自分を建て上げたいと思います。
聖書は霊の世界があること、私たちは霊の世界に生きていることを教えています。そしてその目には見えない戦いは、常に、この瞬間も私の周りで行われていることなのです。クリスチャンとしての自分の霊性をしっかり守らなければ、永遠の命から遠く離れ、私たちは死んでしまうのです。自分は何者であるかという事をしっかりと自覚し、目をさまして、信仰の歩きを続けていきます。
<ローマ12:1~2>
兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
<エペソ6:10~13>
最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。
<Ⅰテサロニケ5:16~24>
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。御霊を消してはいけない。預言を軽んじてはならない。すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。
どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。
<ピリピ1:9~11>
わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。
<Ⅱコリント10:3~6>
わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。
全ての事に感謝します。すべての栄光はイエス様に帰します。