トルコ旅行を通して示された
イスラム教にある「男義の霊」

 
 

2015.3.25~4.1、聖書勉強の為、トルコ共和国へ行きました。
トルコという国は私にとってあまり馴染みがなく、とても遠い国でしたが、2013年に牧師の御主人がトルコ駐在になったことがきっかけとなり、この国について学ぶことになりました。今思えば、すべてが神の御旨だけが堅く立つ、聖霊の導きであったのだと分かります。

学んでいくと、トルコという国は聖書の舞台の地という事が分かりました。
チグリス・ユーフラテス川に潤された肥沃な土壌に、初めの人類(アダムとエバ)が誕生しました。また、そこは家畜や農作物などの豊富な資源に恵まれて、やがて文明が発達してきた、まさに神が選ばれた土地でした。旧約聖書に出てくるノアの方舟が洪水から逃れ、地にとどまった場所であるアララテ山は東トルコに、新約聖書の、特に使徒たちによる伝道の場もトルコ国内に点在していました。例えばヨハネの黙示録に出てくる7つの教会は、すべて今のトルコ共和国内にあります。また、イエス様の帰天後の時代に、使徒たちから福音を聞き、宣教を受け継いだクリスチャン達が信仰を貫いて岩山に隠れ住んだ場所もトルコにありました。世界遺産であるカッパドキアです。
日本に生まれ住んでいると、聖書の中に書かれていることは、はるか昔の遠い国での出来事で、理解することはおろか現実味を感じることさえ難しいかもしれません。しかも、私たちの住んでいる日本という国は大陸と離れた島国であるため、日本国民は、その独自の霊力の中に包まれており、視野が狭く、閉鎖的です。それは聖書にある神の霊の世界において、これまでも、又、いつまでたっても「井の中の蛙大海を知らず」の状態なのです。

今回のトルコ行きはN姉妹と副牧師の聖霊による強い思い、愛から始まった旅行でした。それは、息子二人(中3、中1)がこれからクリスチャンとして成長していく時に様々な迫害を受けたり、この世の霊力にまかれて不信仰になってしまう事があるかもしれない、男の子だからなおさら、この地上を覆っている「男義の霊力(神の義にことごとく反発する悪霊)」によって汚されてしまう事があるかもしれない。神の子として、信仰を守り通した先人のクリスチャン達の思いを霊魂体で感じてほしいというものでした。
私自身も、トルコ旅行に対してみことばをいただきました。

<エペソ1章>
神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから、エペソにいる、キリスト・イエスにあって忠実な聖徒たちへ。 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。
こういうわけで、わたしも、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを耳にし、わたしの祈のたびごとにあなたがたを覚えて、絶えずあなたがたのために感謝している。どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

<Ⅰテサロニケ3:8>
なぜなら、あなたがたが主にあって堅く立ってくれるなら、わたしたちはいま生きることになるからである。

トルコ旅行は、二人の息子、娘と私、そして私たちを助けてくれるために副l牧師が同行してくださいました。
トルコでは、様々な場所に行きました。
エペソでは、古代遺跡を見学しました。使徒行伝19章に書かれてある当時偶像礼拝されていたアルテミスの神殿跡地、パウロが真理を宣べ伝えた場所などを実際に訪れ、使徒たちが見たのと同じ景色を見て、風を感じ、実際に2000年前に使徒たちが霊に燃え忠実に福音していったのだと感激しました。また、イエス様が地上を去られた後に、マリアは十二弟子の一人であるヨハネを信頼し、行動をともにしたといわれていますが、エペソはその二人の最期の地となり、実際にヨハネの墓もここに残っていました。そして、ピリポの殉教の地は、エペソの東に位置する、世界遺産であるパムッカレ(トルコ語で綿の城を意味する白い石灰棚で有名)にありました。
私たちもここに来たけれど、2000年という長い時間を越えても同じ霊によってその思いを分かち合う事ができるという、不思議で感慨深い思いになりました。
カッパドキアには、クリスチャンが使徒たちの宣べ伝えた真理をしっかり守り、ローマ帝国からの迫害を逃れ、信仰を守りながら一生を送ったカイマルク地下都市があります。この地下都市はなんと、地下8階まであり、聖書を学ぶための学校や教会、台所や食堂、家族単位で暮らす居住空間、家畜を飼育するための畜舎などで構成されていました。この地下都市での暮らしの中で、初めて聖餐式のためのワインが作られたとのことでした。地下都市という名称は、実際には3万人収容できる規模の岩窟住居のことを指しており、それより小さいものは、地下村と呼ばれています。カッパドキア地方には、150~200もの都市が点在しているといわれ、今回の旅行中にも最大級のものが発見されました。
ギョレメ(トルコ語で、見てはならぬものの意味)野外博物館も見学しました。洞窟を掘り、教会として使っていた暗闇教会(カランルク教会)では、福音書に書かれてある様々な場面が洞窟内の壁に壁画として残っており、教えを新生クリスチャン達に絵で忠実に伝えながらイエス様を礼拝していたのだと分かりました。私たちと同じように福音を聞いた人たちが、イエス・キリストを心から信じて家族一同で大切に信仰を守り育てた場所であったことを感じることが出来ました。地下都市、洞窟といった過酷な環境で一生涯信仰を守り通した彼らは、まさに神を畏れて主イエス様の再臨を待ち望んでいた人々なのだと分かりました。
私は、それらの壁画を見ながら、「イエス様がこの地上に来てくださった、みことばがこの地上に遣わされた」と内から語られました。特に目が留まったのは、イエス様(=みことば)がサタンを足の下にして踏みつけている壁画でした。しっかりと、サタンの存在とそれに勝利したイエス様が伝えられていることに力強さを感じたからです。壁画はところどころ削られているところがありました。特にイエス様の顔(目)などは削られているものが多く見られました。これは、後世にアラブ・イスラム勢力などの迫害者たちが偶像礼拝を徹底的に排除するために、意図的に削ったのではないかと解説されました。いくら壁画を削っても、みことばは消せない、そしてそのみことばに力があり、私たちクリスチャンは偶像礼拝する者ではなく、みことばを拝する者である!という思いになりました。
イスタンブールのアヤソフィアという大聖堂でも、描かれていた壮大なモザイクによる壁画がイスラム教の教えにより漆喰で塗りつぶされ、イスラム教の祈りを捧げるモスクへと改修されていました。しかし、今やその漆喰がはがされ、もともと描かれていたイエス様の壁画が現れたのです。私は、このことを見た時に、「闇は光に勝たない、どんなものでも、隠されていることでも明るみになる、真理に力がある」のだと語られました。
アヤソフィアが建設された時代(A.C.537年)には、たくさんのクリスチャン達がアヤソフィア礼拝堂で神を礼拝したいと願い、地方からイスタンブールに移り住んだとの事でした。しかし、今やトルコ国民の99%がイスラム教徒です。私は使徒たちが福音を宣べ伝え、初代クリスチャン達が信仰を受け継いで生きた聖書の舞台であるこの国が、どうしてイスラム教国になってしまったのかという強い疑問を持ちました。確かに聖書ではパウロが言っています。「わたしが去った後、狂暴なおおかみがあなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒らすようになることを、わたしは知っている。」(使徒行伝20:29)と。私は、この狂暴なおおかみであるイスラム教について調べました。
イスラム教は、A.C.622年にモハメドという人が興した宗教です。神は唯一の「アラー」(天の父のアラビア語での呼び名)であり、旧約聖書は認めています。後の世(天国と地獄)の存在も。しかしイエス様を、旧約時代の預言者たちと同様な預言者の一人と数えています。そして、モハメドは自身を最後の預言者として、前の預言者たちに神が伝えずにいたことを余すことなく自分に伝えたというのです。サタンがモハメドを使い作り上げたイスラム教は、イエス様が神の子・救い主であることを否定しているので、新約時代にイエス様がなされたことは排除しています。イエス様が成し遂げられた御業(十字架による罪のあがない)の代わりにモハメドの経典によって救われる、神に認められると教えています。この教えこそが人間を滅びに至らせるためのサタンの最大の策略です。旧約聖書はイエス・キリストの出現を預言するものであり、新約の時代にイエス様が成し遂げられたことこそ、最も重要なのです。それは、「十字架による罪(原罪)のあがない」「血の力」「聖霊対悪霊の戦い」「助け主聖霊の存在」です。(旧約聖書と新約聖書は霊的に繋がっており、その両方があって初めて神の奥義は完成されるのです。)
イスラム教が、執拗にイエス様の壁画を隠したり削ったりするのも、それほどまでにサタンはイエス様のなされた御業を人間に知らせたくない、消し去りたい、自由にさせない(奴隷のままでいさせたい)というあらわれと語られました。
イスラム教は、真の神イエス様と同等になろうとする高ぶり、反キリスト、男義の霊力が作り出した教えです。ガイドさんから、「イスラム国とイスラム教が同じ教えとは思わないでください。イスラム教は平和を愛する、人殺しをしてはならない、と教えている・・・」という話を聞きました。どの宗教も、平和を願っていると言うでしょう。しかし、この世の中の根本は霊の世界にあるのです。ですから、霊の部分から変えられない限り、人間は一生サタンという悪霊の奴隷であり、どんなに平和を願ったとしてもその支配の中では力がありません。そればかりか、その教えは神の目から見た時、忌み嫌われる「悪・罪」です。なぜなら、男義の霊は、神に最も反抗、反対する、ルシファーの霊力(高ぶり・反キリスト・反みことば)と、女預言者イゼベルの霊力(神の愛より人情を頭とする・偽キリスト・偽みことば)、両方から成っている悪霊力だからです。
それは人間を神の愛から遠く離し、滅ぼします。男義の霊によって、人間はかえって分裂から分裂、混乱から混乱を生み出し、例えば、戦争や今日のイスラム国が行っているような、神の為に!と大義名分を振りかざし、大量虐殺を平気で行うような危険な行為に駆り立てられていきます。
また男義の霊とは、神の義に逆らい、自分なりの義を好いと思って振りかざして行う霊力です。本当の善ではなく、偽善です。神の義を行っていくところには、周りの誰をも悲しませない祝福が伴いますが、男義の霊力からもたらされる偽善によっては、平安はありません。男義の霊は、どんなに建前を善に見せても、一皮むけば自分の利益(自分の義)を求めてすべての行いをしているからです。

私はカッパドキアの絨毯屋さんで聞いた話から、イスラム教の男義の霊によって女性たちが支配され労苦していることを知りました。カッパドキアで作られるトルコ絨毯は、とても美しい工芸品です。しかし、トルコ絨毯の販売所で、カッパドキア地方の絨毯の作り方や、それに携わっている女性たちの暮らしなどについても説明を受け、驚きました。男性が行う作業は羊の毛刈りのみで、あとの草木染の材料の収穫や加工、絨毯織りに関する一連の作業はすべて女性が朝から夜中まで働きづめで行っていることを知ったからです。その間、男性は、暇な時間には男性同士で集まり、お茶を飲んでゲームをして過ごすらしいのですが、女性は家事育児を一手に引き受けて行っているので、遊んでいる暇な時間などないというのです。女性たちは、毎日毎日家の中で絨毯を織り続けています。それが一家の収入源となるからです。非常に素晴らしい、目の細かい絨毯を織りあげることができる期間は、女性の人生の中で長くはありません。それは細かい作業のために目に負担がかかり、目が悪くなってしまうからだそうです。結婚についても、絨毯の出来具合が女性の価値を決めるという事でした。女性には、男性と同じような教育が与えられず、知識がなかったため、苦労して織った絨毯の報酬を仲買人から正当に受け取ることが出来なかったという詐欺事件が頻発し、トルコ国内でもニュースになったようです。絨毯の詐欺問題だけでなく、女性に教育が与えられないまま幼くして結婚させられ、生活の基礎知識が著しく不足し、子どもを産み育て、家事をこなすだけという、人間としてしえたげられた状態が近年まであったという事も知りました。地球上どこの国の歴史の内にも、又、今尚ある現実ですが、このことは、私の長男がかつていただいていた、知識の言葉としての「ユネスコ」(国際連合教育科学文化機関:教育科学文化の推進と発展を目的としている)につながりました。特に!イスラム教の中にある、一夫多妻制、女性は配偶者以外の男性の前では全身を覆わなければならないという法規は、まさに、イスラム教=反キリスト・男義の霊力の支配の下に女性が置かれている現状をあらわしています。

このような男義の霊の支配の中で、本当の平和など訪れるはずはありません。男義の霊も含めて、悪霊が6000類あると言われる霊の世界でサタンに勝利され、人間をその支配から救い、自由にできるのはイエス・キリスト(救い主イエス様・原罪を取り除き人間の死んだ霊に命を与える)ただお一人であり、神の義であるこの方のみことばによって、世界は初めて一つになれるのです。

サタンの策略を知った今、私たちはイエス様のなされた御業こそを、全世界に声を大にして宣べ伝えなければならないのです。私が今春トルコへ行った意味は、2000年という時を超えて、トルコの地で使徒たちや主にあって生きた信仰の勇者たちに会い、霊によって一致して自分の召しと選びを確かなものにして神の義に励みなさい!と彼らの思いを受け継ぎ、確実にバトンを受け取る為だったということが語られました。

<ヨハネ1:1~5>
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

<Ⅱペテロ1章>
イエス・キリストの僕また使徒であるシメオン・ペテロから、わたしたちの神と救主イエス・キリストとの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を授かった人々へ。
神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。
いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かになるならば、わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう。これらのものを備えていない者は、盲人であり、近視の者であり、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れている者である。兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。こうして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの永遠の国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるからである。 それだから、あなたがたは既にこれらのことを知っており、また、いま持っている真理に堅く立ってはいるが、わたしは、これらのことをいつも、あなたがたに思い起させたいのである。わたしがこの幕屋にいる間、あなたがたに思い起させて、奮い立たせることが適当と思う。それは、わたしたちの主イエス・キリストもわたしに示して下さったように、わたしのこの幕屋を脱ぎ去る時が間近であることを知っているからである。わたしが世を去った後にも、これらのことを、あなたがたにいつも思い出させるように努めよう。わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。

<へブル12:1>
こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。

<Ⅰテサロニケ3:6~13>
ところが今テモテが、あなたがたの所からわたしたちのもとに帰ってきて、あなたがたの信仰と愛とについて知らせ、また、あなたがたがいつもわたしたちのことを覚え、わたしたちがあなたがたに会いたく思っていると同じように、わたしたちにしきりに会いたがっているという吉報をもたらした。兄弟たちよ。それによって、わたしたちはあらゆる苦難と患難との中にありながら、あなたがたの信仰によって慰められた。なぜなら、あなたがたが主にあって堅く立ってくれるなら、わたしたちはいま生きることになるからである。ほんとうに、わたしたちの神のみまえで、あなたがたのことで喜ぶ大きな喜びのために、どんな感謝を神にささげたらよいだろうか。わたしたちは、あなたがたの顔を見、あなたがたの信仰の足りないところを補いたいと、日夜しきりに願っているのである。
どうか、わたしたちの父なる神ご自身と、わたしたちの主イエスとが、あなたがたのところへ行く道を、わたしたちに開いて下さるように。どうか、主が、あなたがた相互の愛とすべての人に対する愛とを、わたしたちがあなたがたを愛する愛と同じように、増し加えて豊かにして下さるように。そして、どうか、わたしたちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共にこられる時、神のみまえに、あなたがたの心を強め、清く、責められるところのない者にして下さるように。  

島国日本という井の中にいては体感できなかった世界、聖書の世界は、本当にあったのだという事実をトルコでしっかりと確認することが出来ました。その世界を目の当りにし、霊では使徒や、クリスチャン達の思いを受け継ぎました。実際にイエス様を見てはいないけれども、信じるものに送ってくださった助け主聖霊の力によって、イエス様=みことばを拝し、愛して従うクリスチャンとなります。また、自分が何者であるか、なぜ、この日本に生まれ、ここでクリスチャンとして生きているのか、何をすべきかをしっかりと悟り、揺るがない信仰の土台を持って歩んでいきたいと思いました。

子どもたちも、それぞれ語られることがあったようです。特に二人の息子には、N姉妹と副牧師の思いでもあった、「男義:反キリスト反みことば・偽キリスト偽みことば」の霊力と戦い打ち勝って神の義を行うことが出来る、信仰で生きた先人たちと同じ強さ=真の男らしさを求められています。それを受けて私は、この世と聖別され、神の子を守り育てていく責任を感じ、身の引き締まる思いでいます。みことばは、ダニエル書からいただき、神の義によって育つ子どもたちの成長をとても楽しみにしています。

<ダニエル1:3~4>
時に王は宦官の長アシペナズに、イスラエルの人々の中から、王の血統の者と、貴族たる者数人とを、連れて来るように命じた。すなわち身に傷がなく、容姿が美しく、すべての知恵にさとく、知識があって、思慮深く、王の宮に仕えるに足る若者を連れてこさせ、これにカルデヤびとの文学と言語とを学ばせようとした。

<ダニエル1:8~20>
ダニエルは王の食物と、王の飲む酒とをもって、自分を汚すまいと、心に思い定めたので、自分を汚させることのないように、宦官の長に求めた。神はダニエルをして、宦官の長の前に、恵みとあわれみとを得させられたので、宦官の長はダニエルに言った、「わが主なる王は、あなたがたの食べ物と、飲み物とを定められたので、わたしはあなたがたの健康の状態が、同年輩の若者たちよりも悪いと、王が見られることを恐れるのです。そうすればあなたがたのために、わたしのこうべが、王の前に危くなるでしょう」。そこでダニエルは宦官の長がダニエル、ハナニヤ、ミシャエルおよびアザリヤの上に立てた家令に言った、「どうぞ、しもべらを十日の間ためしてください。わたしたちにただ野菜を与えて食べさせ、水を飲ませ、そしてわたしたちの顔色と、王の食物を食べる若者の顔色とをくらべて見て、あなたの見るところにしたがって、しもべらを扱ってください」。家令はこの事について彼らの言うところを聞きいれ、十日の間、彼らをためした。十日の終りになってみると、彼らの顔色は王の食物を食べたすべての若者よりも美しく、また肉も肥え太っていた。それで家令は彼らの食物と、彼らの飲むべき酒とを除いて、彼らに野菜を与えた。
 この四人の者には、神は知識を与え、すべての文学と知恵にさとい者とされた。ダニエルはまたすべての幻と夢とを理解した。さて、王が命じたところの若者を召し入れるまでの日数が過ぎたので、宦官の町は彼らをネブカデネザルの前に連れていった。王が彼らと語ってみると、彼らすべての中にはダニエル、ハナニヤ、ミシャエル、アザリヤにならぶ者がなかったので、彼らは王の前にはべることとなった。王が彼らにさまざまの事を尋ねてみると、彼らは知恵と理解において、全国の博士、法術士にまさること十倍であった。

今回、トルコの大地での体験を通して、私と子どもたちの霊魂体のすべてを力づけ、強くしてくださった私たち家族の主イエス様に感謝します。
すべての栄光をイエス様に帰します。