トルコ旅行を通して語られた
「神が望まれる家族の在り方」

 
 

今回トルコに行き、実際に見聞きしたことを自分の感情・意見に左右されず、みことば=イエス様は何とおっしゃっているのかを聞いていくと、すべてが私自身の情を頭とする自分の義という宗教からの解放につながっていました。イエス様は、私に、第3の天に国籍があるクリスチャンの歩みを教えてくださいました。

私がトルコで強く心に残った場所は、3つありました。 1つ目は、イスタンブールにあるアヤソフィアです。
イスタンブールのアヤソフィアという大聖堂では、描かれていた壮大なモザイクによるイエス・キリストの壁画がイスラム教の教えにより漆喰で塗りつぶされ、イスラム教の祈りを捧げるモスクへと改修されていました。これを霊で受ける(聖霊の導き・助けにより、イエス様に聞く、みことばに照らし合わせる)と、神の愛である真理が、情という偽の愛(偽善)の悪霊力によって塗りつぶされたのだと語られました。
人間にとって一番必要なものは神の愛である真理(聖書のみことば)なのですが、情の霊力は、その神の愛の前にしゃしゃり出て、神の愛を見えなくし、真理が伝わるのを阻んでしまいます。情は人々を真の神から遠く離し、滅びに至らせる霊力です。アヤソフィアで見たこの状態は、私自身が日常生活の中で情にまかれていた姿と同じでした。実際に私はクリスチャンでありながら情の霊力にまかれ、情を頭とした子育てをしていたからです。

息子たちが中学生になり、朝読書で読む本が必要となりました。私は、書店に行き朝読書のための本を各自買ってくるようにと勧め、息子たちを送り出しました。
その時長男が選んできた本は以前語られていた霊性を汚すものと同じ霊力を持った本でした。帰ってきてから本を確認した時に、私はその本を見て驚き、主人も一緒に買い物に行っていたので、なぜこの本を平気で長男に与えるようなことをしたのか尋ねました。主人はバツの悪そうな顔をしていました。以前、霊性を汚す事に使われたゲームそのものでなければ問題はないと短絡的に考え、霊力を見分けることに対して軽率であったこと、それによって霊性を保つということに注意を払えなかった自分に気付いたようでした。そして私が、「霊性を汚すものを入れてきた結果たくさんの事を刈り取って来たのに、また同じことの繰り返しになる」と言うと、「この本はいいんだ!長男に渡す!」と言って私からその本を奪い、長男に渡そうとしました。その本については、長男も霊ではイエス様からではない本と分かっていました。長男にも霊性の話を再度話して、その本は与えないことになりました。後に主人から「時間をかけて長男が選んできたのを見ていたから、買ってやりたかった。どんな本を選んだかよりも、せっかく選んだ本、という所ばかりに目が行き、霊性を保つ事を頭とせずに、情を頭として本を買ってしまった。霊的に違うと気付いた後も、何度も自分がそんなことを繰り返してきたことを指摘され、またか、と苛立つ気持ちと、一度与えたものを霊的に違うからと言って長男から取り上げるのはかわいそうだという情が動いた。自分が間違っていたと分かっていても引っ込みがつかず男義で突き通そうとした」と男義の霊にまかれていた状態が語られました。
このことを受け、牧師から、「そもそもなぜ、わざわざこの世の本を求めるのか、朝読書なら聖書を持って行って読めばいいのではないか、それが学校において福音のチャンスにつながるのではないか。それを親が導かずに、この世の本を求めていく時点でサタンに門を開いている。そのような親に対しては子どもを使っているサタンの方が一枚上手で導こうとしてもあざけられて従わない」と私たちが聖別されていない事によって息子を導けない力のなさを指摘されました。

私は以前、小学校で息子の自己紹介文を書くという宿題があった時に、趣味は「聖書を読むことです」と書けば皆に知ってもらえるのだからと、書くようにと勧め、息子もまたそのように書きました。ところが何か月か経ってから、実は「聖書なんか読んでいるのか」と、友達にからかわれたのだということを聞かされました。その時に私は、長男の状態を見て情が動き、そのように言われたことをかわいそうに思いました。最初は善いこととして勧めた自己紹介の内容でしたが、あらわれを見てすぐに信仰がゆらいでしまい、間違っていたのかと思うようになったのです。
もし私が、聖書が唯一正しいことという土台にしっかりと立ち、みことばに留まり霊の世界を知る者として第3の天から物事を見ることが出来る自分であったなら、聖書に書かれてあるように、それは「迫害」であり、「その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。」 (ルカ6:23ab)のみことばで平安でいることができるはずでした。しかし、その時の私は見た所の状態に左右され、まさしく第1.2の天の中で(みことばが全くない)情によって物事を判断してしまったのです。そして、自分が子どもに対して宗教的な事を押し付けてしまったのか…と喜びをなくし、恐れて、子ども自身が喜んで自発的にできるようになるまでは、親が言って子どもにさせることは控えた方がいいのではないかと、臆する霊に支配されていきました。しかしそんな中でも「若い人はどうしておのが道を清く保つことができるでしょうか。み言葉にしたがって、それを守るよりほかにありません。わたしは心をつくしてあなたを尋ね求めます。わたしをあなたの戒めから迷い出させないでください。わたしはあなたにむかって罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました。」(詩編119:9~11)というみことばにもあるように、みことばを蓄えることや、みことばによってイエス様と会話する重要性を語られた時などは、しっかり聖書に向き合う時間が必要だと思い、息子たちに「聖書を読めば?武具を読めば?」などと何度か声を掛けていましたが、「カバンが重くなる」、「家で読む」などと言って息子たちが聖書を持っていく事はありませんでした。
情にまかれると、めくらつんぼになり、真理と宗教の違いさえも分からなくさせられていくのです。日本において、学んでいる聖書が「宗教」と言われることが悔しいと思いながらも、それ対して違うのだとはっきり示すこともできずに、いつの間にか宗教と言われることを恐れてしまっていた自分がいました。日常生活においても、相手の状態や状況を見て情が動き、真理をまっすぐに伝えられず中途半端な福音になってしまったこともありました。そのような自分の突き抜けられない霊的状態(第3の天から物事を見ることが出来ない・情という宗教から解放されない)から、今回、聖書を朝読書の本に勧めることはせず、この世の本を読ませるような導きをしていたのでした。
みことばを土台とせず、第1.2の天の中で物事を判断して情にまかれて生きる歩みは、常に占いと恐れ、臆する霊によってアップダウンを繰り返し不信仰に陥るため、不安定です。親である私たち夫婦がそうであり、この世である第1.2の天の中での霊力に負けているのなら、息子もまた同じところで苦しかったのではないかと思います。ずっと、神の義ではなく、みことばのない自分の義で子どもと向き合ってきた私たち親は、自分の子どもを血肉で見て情にまかれ、霊力を見ることが出来なかったため、神の愛を見えなくさせる女預言者イゼベルによる義理人情の霊力(偽キリスト・偽みことば・偽善)によって、善悪の判断が狂い、子どもたちにある神の御旨を妨害している側にまわっていました。そのような中で、神の子である子どもたちと交わっても霊からの真の交わりにならず、かえって解放されない部分を子どもたち自身が溜め込み、傷つくことになってしまいました。
トルコに行く約1か月前には、私たち親が、情にまかれ霊を見分けることが出来ず、長男の霊性をしっかり守ってやれなかったため、長男が大変な苦しみにあい滅びの寸前までの刈り取りを来たらせていたことが明らかにされました。また、トルコ行きの直前には、幼い長女(6歳)にその霊的状態が表れました。牧師を通して、自分の受けてきた恵みと、その土台に立ち返ることが必要であると語られ、ハッとしました。私たちが受けてきた恵みとは、救われてからいつもみことばに裏付けられた祝福から祝福の証でした。すべてが、みことばという、神と私たちとの契約の土台の上に成った実だったのです。

<ヨハネ黙示録2:18~23>
テアテラにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。
『燃える炎のような目と光り輝くしんちゅうのような足とを持った神の子が、次のように言われる。わたしは、あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。また、あなたの後のわざが、初めのよりもまさっていることを知っている。しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。

<ローマ10:1~3>
兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。

<ルカ6:46~49>
わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。

イエス様は、このような霊的状態にあった私たち家族のことをご存知でした。そして、私がみことばの土台のない情を頭として行う自分の義から解放され、みことばを土台とした神の義を行う者になるように私の目を覚まし、霊的に整えてくださって、トルコへと導いて下さいました。
血肉で物事を判断する情の霊力と、そこにまかれているとどんなに迷い、刈り取りが大きいかという事と、「わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある。」(Ⅱコリント13:8)と聖書に書かれてある通りに、みことばの土台に立った、真理の力との大きな違いをイエス様は“長女の奇跡の復活”を通して教えて下さいました。

長女は、トルコ行きの2日前に、高熱と痰を伴う咳の症状が出て、肺炎と診断されてしまいました。また、尿検査では血液反応があり、膀胱炎かあるいは腎臓の病気もあるかもしれないとも言われました。外来の医師からは、「いずれも入院が必要であり、2日後にトルコに向けて出発するのは難しいだろう。大体の人が5日位の入院が必要になるし、長くて1週間ぐらいの入院になる人もいる」と回復までにかかる期間を告げられました。私はこの説明を聞いて動揺し、「入院したらトルコ行きは絶望的になる。入院なんてさせたくない!」と葛藤していました。しかし、ちょうどその場に駆けつけた主人は、医師に、「今出来る最善の方法をとります。トルコへ行くかどうかは、最善を尽くしたその後に判断します」と伝え、長女を入院させることに決めました。この時の主人の決断は、「決して希望を捨てず、今は親として最善を尽くすべき」という信仰によるものでした。
タイムリミットは48時間しかありませんでした。病棟の主治医からの第一声は「最低何時までにこの病院を出ることが出来ればトルコ行きに間に合いますか。」という言葉でした。続けて「絶対に退院できるとは言えません。でも、絶対に無理だとも言い切れません。今日の熱の下がり具合と検査データの経過を見ていきましょう。」とも言われました。外来の医師からは、ほぼ無理と言われたトルコ行きでしたが、病棟の主治医から出た希望の言葉に、聖霊が働いてくださっていることを思いました。
その日の内に牧師と副l牧師が来て祈ってくださいました。祈ってもらうと急に長女は泣き出しました。「どうしてか分からないけど泣けてきた」と。牧師がその涙は長女(神の愛の象徴であると預言)が今まで魂と体が傷ついてきたことによるものだと解き明かしました。それは、クリスチャンでありながら神の義であるみことばを行う事に対して不従順だった肉の家族や神の家族が犯してきた、愛に対しての無関心(多くの人の愛が冷める)という罪のためでした。長女(神の愛)を回復させるためには、それを一人びとりが悔い改め、一致して祈ることを牧師から示され、各自が悔い改め、癒しを祈りました。私も母親として、霊の交わりが出来ておらず、それによって長女がどれだけ苦しい思い(痰)を自分で処理できずに飲み込んできたか、血尿の症状に対しては、霊的に汚い物を排泄することに血を流すほどの苦痛があったという事を解き明かされ、長女に「お母さんが分かってあげていなくてごめんね、気持ち、わかったよ」と謝まりました。
牧師によって、長女の状態を来たらせた原因を解き明かされ、神の国と神の義を求めてみことばを行った結果、神の御わざが行われました。その日の夜中から長女の熱は平熱に戻り、痰や咳も少なくなり状態も落ち着いてきました。そして長女は食欲も出てきて、みるみる元気を取り戻していきました。そして、主治医からは「トルコに出発する日の午前中に退院しましょう」と言っていただき、入院から48時間後には、トルコに向けて旅立つことが出来ました。主治医からは「本当に、あと1日でも半日でも入院が遅れていたら間に合わなかったですね。」と言われ、主の御旨だけが堅く立ったことをイエス様に感謝しました。本当によくぞ、間に合ったと思いました。奇跡の復活を通し、イエス様は私に、「真理にしたがえば力がある」と言われた、その力ある御わざを見せてくださったのです。

「真理にしたがえば力がある!」・・・この力について、2つ目の場所、トルコのカッパドキア地方にあるギョレメ野外博物館の暗闇教会(カランルク教会)を訪れた時に語られたこととつながりました。暗闇教会(カランルク教会)には、福音書に書かれてある様々な場面が壁画として残っていました。先人たちはここで、教えを新生クリスチャン達に忠実に絵で伝えながらイエス様を礼拝していたことが分かりました。私は、それらの壁画を見ながら、「イエス様がこの地上に来てくださった=みことばがこの地上に遣わされた」と内から語られました。特に目が留まったのは、イエス様=みことばがサタンを足の下にして踏みつけている壁画でした。しっかりと、サタンの存在と、それに勝利したイエス様=みことばが伝えられていることに力を感じたからです。壁画はところどころ削られているものがありましたが、「いくら壁画を削っても、みことばは消せない!そしてそのみことばにサタンに打ち勝つ力があり、私たちクリスチャンはそのみことばを拝し行う者である!」という思いになりました。
長女に起こった奇跡はまさしく暗闇教会(カランルク教会)で語られたことそのものでした。それは、「みことばの持つ力」こそ、真理の力だという事です。

<ヨハネ1:1~5>
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

<ヨハネ1:9~12>
すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。

<ヨハネ黙示録19:13>
彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。

<Ⅰコリント4:20>
神の国は言葉ではなく、力である。

<Ⅰコリント15:55~57>
「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。


カッパドキア地方では、もう一か所、3つ目の場所であるカイマルク地下都市(地下8階)を見学しました。そこは、クリスチャンが使徒たちの宣べ伝えた真理をしっかり守り、ローマ帝国からの迫害を逃れ、信仰を貫いて一生を送った場所です。暗くて狭い地下都市で、迫害者から身を隠し、生活の一切を制限されながらの暮らしは、地上での暮らしとはあまりにもかけ離れていました。その暮らしの中にある肉においての過酷さは、想像を絶するものであったと思います。しかし彼らは、神の義に生きた人達でした。第3の天に国籍がある者として、目には見えない神を仰ぎ見て、神の義であるみことばに従い、自分のすべて(肉にある欲情)を捨てて神を畏れ敬い一生を送りました。肉と霊とは真反対(ガラテヤ5:16~17)と聖書に書かれているように、彼らは、この世から聖別された人生を送ったのです。そこには、肉からは絶対に得ることのできない、霊からの喜びに満たされ、信仰による平安があったに違いありません。真理は、聞いたみことばを信仰に結びつけていった彼らのような忠実なクリスチャン達によって守られ、後の世代に受け継がれていきました。そしてついに、この福音は時空を超えて私たちのもとに届けられたのです。
私自身はどうだろう、彼らのように、自分のすべて(肉にある欲情)を捨ててイエス様を愛し敬い、神の義であるみことばに従ってきただろうか。神の義ではなく、自分の義で中途半端に歩んできたのならばそこに実はならない。それどころか、その歩みは盲人が盲人を手引きするような危険な歩みであったということも身をもって体験してきたことでした。私たちは真理に逆らって自分の義という宗教をしていては何をする力もなく、真理にしたがって神の義を行えば力があるのです。私も彼らに倣ってこの世との聖別をしなければなりません。私がトルコに行ったのは、神の義に反し、情を頭とする自分の義という力ない宗教から解放されるため、そして先人が全身全霊で生き、福音をつないでくれた事に感謝し、その信仰を受け継ぎ、神の義であるみことばによって生きるクリスチャンに変えられる為だったのだという事が分かりました。
また、そのように変えられて、私たち家族にある召しと選びを全うしなければならないことも、続けて語られました。それは、神の望まれる家族の在り方を体得することです。
彼らが住んだ地下都市の中には、礼拝場所、イエス・キリストについて学ぶ学校、共同の台所・食堂などもありましたが、それぞれの家族ごとの部屋もあり、家族単位で生活していた様子がうかがえました。ここは私たちと同じように福音を聞いた人たちがイエス・キリストを心から信じて、家族一同で大切に信仰を守り育てた場所でした。家族と一緒だったからこそ、互いに力を合わせ、支え合って信仰生活を送ることが出来たのだと思うと、改めて家族という存在が大きな役割を果たすのだと語られました。それは、私たちの群れがずっと学んできた、「神から与えられた命の使い方」「家族の在り方」に通じていました。
私は、今回の事を通して、母としての自分がどのように神から預かった子どもを育てていかなければならないか、改めて、絵本「一つになろうよ!!命の絵本・命の糸に出会う本」に書かれていることを体験し、親としての責任の大きさを痛感したのです。
最も大切なことは、すべての根本は霊にあるという事をしっかりと認識し、まず第一に子どもの霊性を守る事でした。守るという事は、聖く保つということです。自分の義による食物を与えるのではなく、霊の食べ物と言われるみことばをしっかりと子どもの霊に与えること。それによって何が神の御旨で神に喜ばれかつ全きことであるかをわきまえ知る魂と知性を育て、神の義を行える子どもに育てることです。そうやって、神から預かった子どもたちの神の宮を、聖なるみことばによって建て上げていくのです。

<箴言31:10~31>
だれが賢い妻を見つけることができるか、彼女は宝石よりもすぐれて尊い。その夫の心は彼女を信頼して、収益に欠けることはない。彼女は生きながらえている間、その夫のために良いことをして、悪いことをしない。彼女は羊の毛や亜麻を求めて、手ずから望みのように、それを仕上げる。また商人の舟のように、遠い国から食糧を運んでくる。彼女はまだ夜のあけぬうちに起きて、その家の者の食べ物を備え、その女たちに日用の分を与える。彼女は畑をよく考えてそれを買い、その手の働きの実をもって、ぶどう畑をつくり、力をもって腰に帯し、その腕を強くする。彼女はその商品のもうけのあるのを知っている、そのともしびは終夜消えることがない。彼女は手を糸取り棒にのべ、その手に、つむを持ち、手を貧しい者に開き、乏しい人に手をさしのべる。彼女はその家の者のために雪を恐れない、その家の者はみな紅の着物を着ているからである。彼女は自分のために美しいしとねを作り、亜麻布と紫布とをもってその着物とする。その夫はその地の長老たちと共に、町の門に座するので、人に知られている。彼女は亜麻布の着物をつくって、それを売り、帯をつくって商人に渡す。力と気品とは彼女の着物である、そして後の日を笑っている。彼女は口を開いて知恵を語る、その舌にはいつくしみの教がある。彼女は家の事をよくかえりみ、怠りのかてを食べることをしない。その子らは立ち上がって彼女を祝し、その夫もまた彼女をほめたたえて言う、「りっぱに事をなし遂げる女は多いけれども、あなたはそのすべてにまさっている」と。あでやかさは偽りであり、美しさはつかのまである、しかし主を恐れる女はほめたたえられる。その手の働きの実を彼女に与え、その行いのために彼女を町の門でほめたたえよ。

もともと今回のトルコ行きはN姉妹と副l牧師の聖霊による強い思い、愛から始まった旅行でした。それは、息子二人(中3、中1)がこれからクリスチャンとして成長していく時に様々な迫害を受けたり、この世の霊力にまかれて不信仰になってしまう事があるかもしれない、男の子だからなおさら、この地上を覆っている男義の霊力によって汚されてしまう事があるかもしれない。神の子として、信仰を守り通した先人のクリスチャン達の思いを霊魂体で感じてほしいというものでした。それぞれが直接イエス様から語られ、イエス様と自分の関係を強固にすることが出来た今回の旅となりました。
神から与えられている召しと選びに忠実に、まず、親である私自身が、第1.2の天の中にある情を頭とする自分の義という宗教から解放され、国籍が第3の天にある者として、神の義であるみことばに生き、霊からの喜びと平安に満たされた聖別されたクリスチャンになる決心をしました。
一旦イスラム教の教え(情の悪霊力)によってイエス様の壁画(神の愛)が塗りつぶされていたアヤソフィアでしたが、今やその漆喰がはがされ、もともと描かれていたイエス様の壁画が現れています。私は、これを見た時に、「闇は光に勝たない、どんなものでも、隠されていることでも明るみになる、真理に力がある」(ヨハネ1:1~5 ルカ8:17)のだと語られました。
情で神の愛を見えなくしても、神の愛はどこまでも本物の光であって、闇である情に打ち勝つのです。これは、今回イエス様が私自身に教えてくださり、トルコ出発前にいただいていた、「あなたがたが主にあって堅く立ってくれるなら、わたしたちはいま生きることになるからである。」(Ⅰテサロニケ3:8)というみことばの通り、主にあって堅く立てるように情から解放して下さった大きな愛であったと同時に、男義の霊(ルシファーの霊力:高ぶり・反キリスト・反みことば)と、女預言者イゼベルの霊(神の愛より情を頭とする・偽キリスト・偽みことば)に支配されてきたイスラム教の人達に向け終日差し伸べられている真の神からの深い愛を表しています。イエス・キリスト出現の後に、サタンによって誕生した数々の宗教が、真理を黒に塗りつぶしても、イエス様の目・顔を削っても、イエス・キリストはいつどんな時にも変わることなく、2000年間変わらぬ光として、真理として、存在し続けているのです。

トルコから帰ってきた後、牧師が聖霊によって、1つの証を示してくださいました。それは2年前、長男が中学の部活を決める時にいただいていた証で、「パウロのように、イエス様に明け渡した器になる」ために中学3年間を過ごしていくというものでした。その証を書いてから、2年間の内に、私たち親が情にまかれて長男をしっかりと導けずにいたことや、クリスチャンとなり御霊の実の性質をいただき喜んでいた長男が、この世でいう、思春期・反抗期という男義の霊の芽生えによって、御霊の実の性質からかけ離され苦闘する経験をしてきました。しかし、この経験を通し、また今回のトルコ旅行を通して、長男にパウロになるという事は、実際にどのようなクリスチャンである事かを、イエス様はより明確に示してくださいました。長男は今、朝読書では、日々のみことば(武具)を身に付けています。そして、最も大切なことは『神(=みことば)を愛し従うことである』と自覚し生活しています。そして神が望まれる家族の在り方を体得するという召しと選びをいただいた私たち家族の歩みも、霊魂体において確固たるものになってきました。私たち家族にある神の計画は、確かに神の御手の中で進んでおり、一つのまっすぐな道を示し導いてくださっている神の愛に心から感謝しました。
すべての栄光をイエス様に帰します。

<テトス2:11~14>
すべての人を救う神の恵みが現れた。そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。

<ルカ9:23~24>
それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。

<マタイ6:33>
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

<ルカ12:32>
恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。