トルコ絨毯から語られたこと
みことばを土台とした信仰の行いこそが「神の義」

 
 

トルコ旅行で、カッパドキアを訪れました。その時、一枚の絨毯を購入したのですが、イエス様はこのことを通して、私に分かりやすく「自分の義で行う人間愛」と、「神の義で行う神の愛」の違いを教えてくださいました。

私はカッパドキアを訪れた時に、絨毯屋に立ち寄りました。そこで織られている絨毯はまさに男義の霊に支配された女性たちが労苦して織りあげているものでした。私はその絨毯にある背景を知っていくうちに、女性たちの助けになりたいという思いが強くなり、一枚の玄関用の絨毯を購入することにしました。子どもたちも共に選び、特に長女が一番気に入った絨毯になりました。絨毯の模様は、花が四方に左右対称に広がっていくイメージで、“家族”という意味が込められているとの事でした。絨毯を購入してから、どんな女の子が織った絨毯だろうか、一生懸命織ったその子に絨毯が売れたよと、いつ知らせが入るだろうか…などいろいろな思いを巡らせました。高価な買い物でしたが、帰国してから主人に一番に絨毯のことを話しました。主人も納得して、良かったのではないかと言ってくれ、家族で絨毯が届くのを楽しみにしていました。

私は絨毯を購入した時、女性たちの現状に、少しでも力になれればという“思い”があったのですが、そこに“みことば”がありませんでした。
絨毯を購入したことについて牧師に話すと、学問的な学びや肉的見聞を深め、そこから感じることで相手への行いにつなげていくことは、情を頭とした人間愛(第1.2の天の中)に留まっている状態だと語られました。そうではなく、国籍が第3の天にあるクリスチャンは、偶然なく見聞きしたことを、先ずイエス様に持っていく(第3の天から物事を見る)ことが必要であり、その時初めてイエス様=みことばを土台とした信仰の行い、神の愛をもっての行い(真理・本当の善)となることを教えていただきました。
神の愛の前にしゃしゃり出て、情(自分の力)で行う善・人間愛は、真の力を持たない宗教にすぎません。私は情にまかれていましたが、この絨毯の一件を通して、はっきりと人間愛(情・力ない偽善)と、神の愛(真理・力ある善)の区別を学ぶことが出来ました。

「女性のために、絨毯を購入し、支援する」という行いは同じであっても、その行いの土台の部分が“思い(情・フィーリング・人間愛)”であるのか、“みことば(神の愛)”であるのかでは、大きな違いがあります。
例えば、その絨毯が仮に詐欺だったとして不当な価格で売られる、あるいは購入した品物が届かないという事が起こったとします。情が頭である人間愛で行っていった場合、善の思いは「だまされた!許せない!私のお金返してよ!」というふうに、一気に裁きや後悔に変わるでしょう。人間愛で善を行うと、結果が自分の思うように上手くいけば自分がやってあげたと誇り、高ぶります。逆に思うようにいかなければ、行った事を後悔するというようにアップダウンを繰り返してしまいます。これは本当の善ではなく、神の目から見たら力のない偽善でしかありません。
一方、みことばが頭である神の愛で行っていくところには、“みことばを土台として行う事ができたという感謝、主にあってその力も与えられている事に感謝”という信仰があります。どのような状況になっても、みことばに戻れば神と自分との信頼関係の中において決して自分を誇ったり、裁きや落ち込む思いに陥ることなく、神の御手の中で平安でいることが出来ます。

人間愛(偽善)と神の愛(善)は、オセロの駒に例えられて教えられてきました。情を頭とする人間愛(偽善)は、何か事が起これば簡単に白から黒へ変わってしまうものですが、みことばを頭とする神の愛(善)は、どのような状況が起こっても、表も裏も白いままです。表裏なく白く聖い、それが私たち人間を愛し創ってくださった唯一の神のご性質そのものであり、ここにだけ真理の力が働くのです。

<第Ⅰコリント13:4~8a>
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。 愛はいつまでも絶えることがない。

牧師を通して、第3の天である神の目から見て、私がその絨毯を購入したことは、「あなたの手に善をなす力があるならば、これをなすべき人になすことをさし控えてはならない。」(箴言3:27)というみことばによる行いであったのだと語られました。
主人がクリスチャンとなり、聖書に約束されている通り、私たち家族は健康面においても、社会的にも、経済的にも、大いに祝福をいただいてきました。私たちには絨毯を織った女の子に対して金銭的な施しが出来るだけの力がイエス様から与えられていました。仮に購入した絨毯が手元に届かなかったとしても、私たちはクリスチャンとしてみことばを土台とした善を行ったという所に立ち続け平安でいることが出来ます。絨毯という品物や自分の行った自分の義に価値を置くのではなく、神の義を行うことができたという方に喜びと価値を見いだすことが出来るからです。
みことばに立って善を行っていく時、それは、天に宝を蓄えることなのだと牧師に教えていただきました。そして、このような土台の上で届いた絨毯は、神から与えられた義の実であると教えていただきました。

<マタイ6:19~21>
あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。

<ピリピ1:9~11>
わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。


私は絨毯の一件で、神の義による歩みと、真理にしたがうクリスチャンに与えられている特権を体得することができました。様々な事柄を通して語ってくださり、私を聖別に導いてくださるイエス様に感謝します。そして忠実に語ってくださる牧師に感謝します。
(多くのクリスチャンが、自分の義・自分の情を先行させた行いにより、偽善に陥ってはいませんか?)