トルコ絨毯から語られたこと②
男も女もない、一人びとりが“キリストの花嫁”

 
 

トルコ絨毯は男義によって支配されてきた女性たちが織りあげた絨毯でした。トルコ絨毯を通して語られたことは、今、実際に世界中で起こっている「男尊女卑の霊力」による問題です。

長男が部活を科学部に決めた時、「ユネスコ」という知識の言葉をイエス様から与えられていました。「ユネスコ:国際連合教育科学文化機関」の目的は文字通り、教育、科学、文化の発展と推進にあります。その中で、私の心に強く残ったのは、女子教育についてでした。それは、現代の日本に暮らす中ではあまり耳にしない「識字」という言葉を初めて知ったからでした。「識字」とは、文字の読み書きができ、それを理解することを言いますが、発展途上の国において、女性は男性に比べてその割合(識字率)が大幅に低いという事を知りました。特に女性においては、教育を受けられないことで、読み書き・計算ができないまま育ち、仕事に就けず、収入が少ない状態が続いてしまい、さらには本人や子どもが教育を受けられなくなる…という悪循環が発展途上の国々における貧困による負の連鎖を生み出し、人々を苦しめているという現状を知りました。
ですから、トルコ絨毯の説明を受けた時も、ユネスコから示された女子教育について思い出しました。また、続けて女性たちの現状を調べていくと、更に深刻な問題を具体的に知ることになりました。女性たちは、「女だから」というだけの理由で、生まれてくることができない事もあります(稼ぎ手として期待できない・結婚持参金が家計に負担などの理由で中絶の対象になる国もある)。男性が遊び学んでいる間に家事労働に明け暮れています。早すぎる結婚・妊娠で命を落とすこともあります。また、紛争の際には「兵士の妻」や「世話係」として誘拐されたり人身売買業者によって売り飛ばされたりすることもあります。特にアフリカの女性たちは、教育を受けられず収入にならない家事労働に従事しているため、家庭での発言権がありません。病気に対する知識もなく、生計を立てるために性産業に就くなどの理由からHIV感染などの危険にさらされています。これが、男義にある「男尊女卑の霊力」の中に置かれている女性の現状です。

今回トルコで学んできた、イスラム教にある男義の霊力で象徴的なものは、「一夫多妻制」です。男義は自分たちなりの善(自分の義)を建前として、情欲のままに各地で戦争や紛争を絶えず引き起こしています。その結果、たくさんの戦争未亡人・孤児が生まれるのですが、イスラムの一夫多妻制度は、夫の戦死によって生きていく術をなくした未亡人や孤児など弱い者たちを救済することを目的として制定されたということです。男義の世界では、これを善としています。しかし、神の目から見て、これはひとりよがりの偽善=悪でしかありません。男義による一夫多妻制は、「一人の男性に一人の助け手である女性を与え、ふたりの者は結婚によって一体となる」という神の秩序を乱しているのです。困っている人を助けることは一見、素晴らしいことのように見えますが、男義の情欲で始めた戦争の問題を、男義で収拾しようとしても、そこにはまたもや情欲が働きます。その結果、家族の在り方が乱されてしまいます。このような中にあっては、女性やそこに生まれてくる子どもたちは誰一人として幸せではありません。この男義の中にある「男尊女卑の霊力」は、女性たちを支配して全うな感情をつぶし、あたかもこれが当たりまえの社会、当たりまえの女性の生き方であると人々に思い込ませて今日にまで至ります。

しかし、このことは決して他人事などではありませんでした。実際に私たち夫婦の中にも「男尊女卑の霊力」はあったのです。そのあらわれは、今から7年前にさかのぼり明らかにされていたことですが、今回牧師を通して改めて思い出すことになりました。
私たち家族は、主人と私、長男、次男、そして長女の5人家族です。その中で、長女は、私たちが救われた後に授かった子どもで、初の女の子でした。将来の教育の為にと長男次男に対して、それぞれ学資保険の積立をしていたので、長女も同じように学資保険の積立の申し込みを考えました。その時私たちは、「女の子だからね」と言って、積立の額を長男たちより少なくしようとしていました。その時に牧師から「女の子だから男の子よりも教育が必要ないと思うの?それは違いますよ。女の子こそ、しっかり教育をつけなければいけないのよ。なぜなら、女の子がお母さんになって、男の子も女の子も両方育てなければならないのよ」と語られました。それを聞いて「そうか、女の子には、母親になり次世代を担う子どもたち(男も女も両方)を育てるという、尊い使命があるのか」と自分たちの考えが浅はかだったことを悔い改めました。 
これが私たちの中にも確かにあった、教育における「男尊女卑の霊力」です。私たちが救われる前に培ってきた「教育」や環境によって植え付けられた「常識・判断」は、もはや当たり前の「価値観」となって私たちの善悪の判断を狂わせていました。霊力とは、人間に憑依して一体となり、その人間を巧みに意のままに操るのです。まかれていると、「何が悪いの?何か悪いことした?」と、物事の本質に目を向け、深く考えることができないので、正しい判断に至りません。  

今、唯一の男子であるイエス様に対抗して、自分も男であろうと高ぶる男義の霊力は神の義よりも自分の義を求め、地球上を支配し続けています。そしてその霊力に支配されている現代のこの世の中は、戦争や紛争、様々な社会問題が山積みとなり、立ち行かなくなっています。しかし、唯一の神によってつくられた人間はもともとそのような存在ではありませんでした。聖書には、“男も女もなく、一人びとりが、唯一の男子であるイエス・キリストの花嫁である”と書かれています。神はイエス・キリストを唯一の男子として、神が創造した人間をキリストの花嫁として、“結婚”させることを定めておられるのです。人間をご自身の似姿に造られた唯一の神の前では、一人びとりが尊く、皆が平等です。誰にも、隣人に優劣をつけ、虐げ、支配する権利などありません。男性を重くみて、女性を軽んじるという「男尊女卑の霊力」の下でではなく、一人びとりが、男も女もなく、唯一の男子であるキリストの花嫁であり、平等なのであるという神の愛の中で、互いに愛し合い敬い合うならば、分裂も戦争も虐げも悲しみもありません。一人ひとりに神から与えられた命を大切に充実した人生を送ることができます。そして、そうやって男義の霊力から解放され、真に聖別された“キリストの花嫁”になることによって、皆がキリスト・イエスにあって一つになれるのです。  

今回、サタンはトルコ行きの直前に長女を肺炎にさせ、トルコに行かせまいとしました。それだけ、長女が男義の国、トルコに入る事を嫌がったのです。トルコで絨毯の説明を聞いた時に、私の中で、イスラム教にある男義の霊(男尊女卑の霊)の支配下で労苦している女の子と、男義の霊によって肺炎になるほど傷つき、神の力によって奇跡の復活を遂げトルコへ導かれた長女の姿が重なりました。そのような中、家族で話し合い購入した絨毯は、特に長女が気に入り、到着を待ち望んでいた一枚となりました。牧師から、この絨毯を購入したことによって、霊的に長女の召しと選びが成就したという事を解き明かされました。それは、霊の世界で、古い時代に、教育における「男尊女卑の霊力」にまかれていた両親が、その霊力に打ち勝って絨毯を購入したことで、長女の霊が解放されて喜んだという事でした。また、長女とトルコ絨毯をつくっている女の子たちとは霊的に同じ圧迫を受けていたので、長女の解放と共に女の子たちの霊も共に解放され、喜んでいる、という事でした。男も女もなくすべての人間を平等にしてキリストの花嫁として生きられるようにするために、教育における「男尊女卑の霊力」を足の下にすることが、ユネスコ(女子教育)という知識の言葉にある、私たち家族に与えられた女の子(長女)にある神の召しと選びなのだという事が分かりました。
そして、長男に与えられた今回の訓練は、まさに男義の霊力からの解放でした。「男尊女卑の霊力」からの解放は、女性だけで出来ることではありません。男義ではなく、神の義を行える男性がいて初めて、地球上を支配してきたこの霊力に打ち勝ち、真に神が望まれる人間の生き方、キリスト・イエスにあって全人類が一つになることが出来るからです。
私たち家族に与えられたトルコ絨毯には、イエス様からの「男義の霊を足の下にすることを忘れてはならない、また、子どもたち、特に息子たちを男義で生きる男義の子ではなく、神の義で生きる神の子に育て上げなければならない」という私たち家族への愛と励ましが込められています。私たち家族が「ユネスコ」という知識の言葉を与えられてから、今日にいたるまで、「男義の霊力」「男尊女卑の霊力」から解放され、イエス様を頭とし、神の義に基づいた真のクリスチャンファミリーとなるために、イエス様が訓練してくださっていたのだと分かり、その神の愛に感謝しました。

<第Ⅰコリント11:11~12>
ただ、主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。それは、女が男から出たように、男もまた女から生れたからである。そして、すべてのものは神から出たのである。

<第Ⅱコリント11: 2>
わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している。あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとりの男子キリストにささげるために、婚約させたのである。

<ガラテヤ3:26~28>
あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。

<エペソ5:22~33>
妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。

今回のトルコ絨毯を通して、イエス様は多くの事を解き明かして下さり、ここからの私たち家族の召しと選びを示してくださいました。
すべての栄光をイエス様に帰します。