まず神の国と神の義とを求めて得た健康

 
 

私(73歳)は、ぶどうの木、イエス様に救われて丸5年になります。
振り返ってみると、色んな事がありました。その都度、牧師、兄弟姉妹に助けられ、今日までやってきました。
私の一番の証は健康面です。
大腸癌の早期発見による手術の成功、胆石除去手術、白内障手術、長年のC型肝炎も新薬で完治。あらゆる検査も良好で、病院通いだった体が、この5年間でイエス様によって完全に癒されました。本当にイエス様に感謝しかありません。

マルコ10:27~31
イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。ペテロがイエスに言い出した、「ごらんなさいわたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」。イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」。

これからも、イエス様の教えを忠実に歩んでいきます。
聖書も集会で一から丁寧に解き明かして教えて頂き感謝しています。しかし、進歩がなく豚に真珠になってしまう時もあり、自分の甘さを痛感しています。「これくらいならいいか、私は正しい」という自己愛、高ぶりから人を裁く事を繰り返してきました。しかし、「WAR ROOM 祈りのちから」のDVDを見て、自分は人の為に祈ることができていなかった事に気づかせて頂きました。

第1テサロ5:14~24
兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互いに、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。御霊を消してはいけない。預言を軽んじてはならない。すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。
どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように、また、あなたがたの霊と心とからだとを守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。

テトス2:11~15
すべての人を救う神の恵みが現れた。そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。あなたは、権威をもってこれらのことを語り、勧め、また責めなさい。だれにも軽んじられてはならない。


ぶどうの木で悪霊の事も教えて頂き、私は出掛ける時、車に乗るとすぐにイエス様に行き先を報告し、大声で私たち家族にまとわりつくサタンの追い出しをして出掛けます。そして、帰ってきた時には、「イエス様、ありがとうございます」と感謝を捧げています。それが習慣となっています。
この世では、本当に些細な事かも知れませんが、急いでいる時は、信号が青、時間が余裕がある時は信号が赤になったりと、常にイエス様に守られていることを実感し、今では楽しみながら運転をしています。

「WAR ROOM 祈りのちから」のDVDを見た時は、本当に私たち家族はこの映画で出て来る家族と同じような生き方をしていた事に気づかされ、私たち家族のためのDVDだと目が覚めた思いで見ました。今までは、群れ(ぶどうの木)の中で教材にされる事が恥ずかしい事だと思っていました。しかし、今は気付かないままでいた方がどれだけ恥ずかしい事か気付かせて下さったイエス様に感謝しかありません。また、他の人が教材になっている時は、自分の益として受け止め、共に祈れる事にも感謝しています。
御霊の実である【愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制】を忘れず、これからも日々喜んで、みことばを土台に生活していきます。

ヘブル10:19~39
兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。また、約束して下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、愛と善行とを励むように互に努め、ある人たちがいつもしているように、集会をやめることをしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。
もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基づいて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。「復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と言われ、また「主はその民をさばかれる」と言われたかたを、わたしたちは知っている。生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。
あなたがたが、光に照されたのち、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してほしい。そしられ苦しめられて見せ物にされたこともあれば、このようなめに会った人々の仲間にされたこともあった。さらに獄に入れられた人々を思いやり、また、もっとまさった永遠の宝を持っていることを知って、自分の財産が奪われても喜んでそれを忍んだ。だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。
「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。
しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。

アーメン。

賛美歌「まず神の国と神の義を」♪
まず神の国と神の義を求めよう そうすれば全て添えて与えられる
だから明日の事を思い煩うな 明日の事は明日自身が思い煩うであろう
一日の苦労はその日一日だけで その日一日だけで十分だから