女預言者イゼベルの霊―コンプレックスからの解放―

 
 

私はイエス様に救われ、クリスチャンとなり14年となりました。
今回私は、自分を支配していた女預言者イゼベルの霊を知る事になりました。イエス様に救われ、新しく生まれ変わった神の子とされたのにもかかわらず、古い自分が抱いてきた容姿コンプレックスに、女預言者イゼベルの霊が働きかけてきて、造り主である神に対して、反逆し、高ぶっていた事が明るみとなりました。私は、自分が神の御前で尊い作品であり、神が愛して、大切に造って下さり、そのままの私でいいと言って下さっている事を忘れて、“もっとこういう顔に生まれたかった”“綺麗な顔立ちはこうだ”という、救われる前の古い自分の美学や、固定観念を握り、コンプレックスから人と自分を比較して、裁いたり妬んだり、自己卑下になる事を繰り返す日常生活を送り続けてきたのです。
そんな私を、イエス様はみことばと、牧師に与えられた霊を見分ける力によって解放して下さいました。

ローマ9:14〜24
『では、わたしたちはなんと言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。 神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。 ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。 聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。 だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。 そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。 ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。 陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。 もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、 かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。 神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。』

私は、なぜ自分が容姿コンプレックスに至り、イゼベルの霊に門を開けてしまったのか振り返ってみました。
救われる前の古い自分は、周りの人の事を考えずに、自己中心的な本当に最悪で最低な人間でした。好き嫌いが多く、ワガママで、人から注意を受けるとすぐに口答えをしたり、反抗したり、相手の立場にたつ事など考えた事がない人でした。言葉遣いも悪く、口を開けば人の悪口や文句ばかりを言っており、嫌な事をされたら根に持つタイプで、すぐに態度にも出ていました。特に、人を見かけで判断し、自分なりの“綺麗、かっこいい顔はこうだ”“体型が細ければ何でも似合うし可愛い”という固定観念がありました。“顔が良ければ全て良し”と思っていたため、人の容姿を見て、判断して高ぶっていた私でしたが、その反面、自分の容姿にコンプレックスを抱え、周りと比べて生きてきました。幼い頃から、身長も人より倍ぐらいに大きく、よく「体格が良いね」と言われてきました。“体格が良い=太いって言いたいんでしょ”と、思ってきたため、言われるたびに太いんだなと思っていました。顔立ちに関しては、父方に似ているのだと母にはずっと言われてきていたので、自分が思っていた綺麗な顔立ち(パッチリ二重で鼻が高く、顎ラインもスッキリとしている小顔の母方)とは正反対な自分の顔立ちに対して、鏡を見るたびにもっと綺麗な顔立ちにならないのかなぁと思っていました。素顔を隠し、理想の顔立ちに近づけるようにと、雑誌を見ては長時間かけて化粧をし、小顔に見せるために常にロングヘアーを保っていました。服装は、細く見える黒色ばかりを着ていました。
そこから、神のあわれみでイエス様に救われてからは、神が愛して、大切に造られたのだという事が語られ、解放され、付けまつ毛をはずし、髪型や服装も変えられて歩んできていました。しかし、神の子とされ、そのままの私で良いのだと神が言って下さっていたのにも関わらず、相変わらず古い自分を忌み嫌う事をせずに、神と自分との関係が第一ではなく、人と自分との関係が第一と思わせる女預言者イゼベルの霊力(情欲)にまかれ、人からどう思われるのか、人からの称賛、歓心を得る事ばかりを考え、この世と姦淫し、自分の思いのままに生活してきていました。
それがよりハッキリと明らかになったのは、友人から勧められたインスタグラムというアプリからでした。
この友人は、私が一度イエス様に救われて、集会にも行かずにイエス様から離れていた時期に出会った友人でした。その友人も救われて、会った時には絵本やトラクトも渡していました。しかし、その後からは誘われたら、ただただ楽しんで肉の欲を満たすだけで、全てが福音の為にと、相手がイエス様に立ち返る事ができるように、影響を与える神の子として交わってはいませんでした。福音をしている時は喜びに満たされ、何時間でも話せているのですが、福音のためにという気持ちで向き合っていなかったため、一緒にいる事が疲れる事もあり、短時間だけ会うようにしていました。自分がしっかりクリスチャンとして、聖別されてたっていない時にインスタグラムのアプリを勧められてやり始めましたが、私もどんなアプリなのかを知らないままとってしまっていました。その、インスタグラムに、数多くの写真を載せてきていましたが、その時に、自分がどんな気持ちで載せ、どんな言葉のやりとりをしていたのかを、聖霊のタイミングで牧師が見て下さり、自分が気付かないうちに、どんな霊力にまかれて霊的におかしくなり、体にも刈り取っているのかを教えて下さったのです。

まず、インスタグラムを初めた時は、“写真を載せて何が楽しいんだろう”と思っていました。しかし、段々と友達が増えていく事で、“見てくれている人が沢山いる”と、意識し始めた自分がいました。その日のコーディネートを自分で撮って載せていたり、外出先での景色や、オシャレなお店に行っては、料理を載せたり、美容の事など様々な写真を載せていました。写真を載せる事で、“いつもオシャレな服着ているね!似合う!よく色んな所に出掛けているけど、お洒落なお店や、オススメな場所を教えてほしい!”などという声をかけられ、私は他の人より、色々知っているんだと思っていました。そして、コンプレックスを抱いていた私にとっては、“可愛いね綺麗だね”と、言われる事が何よりも嬉しく、その言葉を言われるたびに、周りの声にものせられ、段々と人に見てもらう事が楽しくなっていき、私の投稿を見てと、自慢や高ぶり、自己満足や自意識過剰な思いがつのり、人からの称賛や歓心ばかりを気にしていました。その反面、他の人の写真を見ては、“この人は本当に綺麗細いから何でも似合うし、オシャレだな”と、古い自分の価値観や固定観念がでてきてしまい、人と自分を比べて、“自分は何て駄目なんだ!もっと自分もこうなれたらいいのに!”と自己卑下、自己憐憫になったり、人を妬んだり、羨んだりしていました。まさに、女預言者イゼベルの霊に翻弄されていました。
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ヨハネ黙示録2:20〜23
『しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。 わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。 見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。 また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。』

女預言者イゼベルの霊については、このヨハネ黙示録に書かれているのですが、日常生活で自分では気付かないうちに、女預言者イゼベルの霊が色んな物や人、やり方を使って、私達を愛して造って下さった神の存在や愛を見えなくさせてくるのです。そして、人対人との関係が第一となり、常に周りの人からどう思われるのかを気にして生活してしまうのです。私は今回、女預言者イゼベルの霊は、古い自分がずっと抱いていたコンプレックスに働きかけてきて、周りと比べる事によって自己卑下に落とさせ、翻弄してくるのだと身をもって体験しました。体験しないと分からないぐらいに、女預言者イゼベルの霊は、巧みに私達人と人との間や自分が握っているものをつかって翻弄させ、神の存在や愛、何が大切であるのかをいつの間にか、見えなくさせてくる事も分かりました。

女預言者イゼベルの霊に翻弄されてきた私は、自分の事を全て知っておられる神に頼るのではなく、この世のやり方や声、自分なりの考えで解決しようとしていました。肌荒れをした際には、どうしたら良いのかをまずイエス様に聞くのではなく、この世のやり方であるエステに通うようになりました。肌の事を相談した方も、綺麗な顔立ちをしており、肌もとても綺麗だったので、こんなに綺麗になれるんだと相談をし、その方を偶像礼拝するようになりました。その方や周りのスタッフさんもインスタグラムをやっていたため、より深入りしていきました。

私が、インスタグラムで発するコメントの返しの言葉を見た牧師は、【あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。 あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである。】(‭‭マタイ12:36〜37)のみことばを私に語ってくれ、口から出す言葉の大切さも改めて語られました。コメントのやりとりでは、上っ面でお世辞ばかりの言葉を言っては、自分も同じような言葉掛けをされてやりとりを交わしていました。自分の口から発する言葉や、周りの人からかけられる言葉によって、どんどんサタンにチャンスを与え、もちあげられ、高ぶり、自分偶像礼拝となっていました。本当に無益な言葉ばかりのやりとりをしていました。それと同時に、いつもコメントをやりとりしてくれている人から反応がないと、“いつもしてくれていたのに、何で今回はしてくれてないんだろう⁈私はしているのに。”と、自分勝手に相手を裁いてしまっていました。毎回面識のない男性からもコメントがきて、こわくて気持ちが悪いと思っていても、この世に対して遊女となっていた私は、構わず載せていました。そして、牧師はイエス様に聞き、私が翻弄され、見えていない事を訓戒して下さり、解き明かしもしてくれました。

私に対しては、この世との姦淫、この世の物を愛し、握り、外見ばかりを気にするパリサイ人であり、自意識過剰な状態でこの世の遊女となっているのだと戒めて下さいました。神の愛が全く見えなくなり、信仰がこの世の富に惑わされて、奪われていた、クリスチャンとは言えないぐらいに、今まで学んできた事も全てが分からずにまかれた状態である事も語ってくれました。そして何よりも、この世の人達に対して自慢し、見せびらかして評価を求める事がサタンに踊らされ、すでにおかしな状態であり、それが私が長年に渡って慣れ親しんできた古い自分、女預言者イゼベルの霊力にまかれているのだと語られ、訓戒を受けました。

私は、あまりにもこの世を愛し、どっぷりとつかってまかれていたため、どれだけ自分がサタンに踊らされているのか、何をしてきたのかすらも分からず、命にも関わる危ない状態にいました。実際体の不調が続き、疲れていたのにも関わらず、夜中に写真を載せたり、コメントを返していました。疲れの癒しでエステには行っていましたが、疲れが取れるわけではありませんでした。神の栄光のためにではなく、全て自分のためにであったとハッキリと分かりました。
さらに、先月末に、姉妹達と東京に行ったのですが、救われる前の古い私は、東京に行く事が嫌で、体も不調にならないかと心配や不安、思い煩いばかりがありました。実際に、今回も東京に行く事に嫌な思いがあり、行く前からお腹の調子が悪かったり、熱が出たりと体調がよくありませんでした。当日も、東京駅に着いた瞬間に体調が悪くなり、旅先中でも膝が痛くなったり、フラフラしたり、食事も皆と同じようにとれない状態でした。体調の事一つとっても、サタンに弱みを握られると、そこばかりを攻撃されてくる事、まさに、古い自分が迫害してきていました。その時の集会で語られたのは、一番攻撃してくるのは救われる前の古い自分であり、自分自身をも血肉でみて、裁いてはいないかと、タイムリーに必要な事が語られました。私が東京が嫌だと言っていた事も、実は、東京はインスタグラムの題材であるファッションやグルメの都であり、私が握り、コンプレックスを抱え、解放されていない状態でのまれてしまう霊力を東京はもっていたためで、体調に現れてきたのも汚れた霊からだと示されました。

また、霊的におかしい状態は、神に与えられた働きに対してもあらわれていきました。私は、毎週子ども達と聖書を学び、交わった事をブログに書き表してきていました。最近の子ども達との交わりに関しても、霊を試す事なく、新聞から題材を探しだし、自分のやり方、力で頑張って交わりをしてきていました。本来は、集会で語られている事を子ども達にも分かりやすく、噛み砕いて教えたり、子ども達の私生活の事を聞き、みことばに戻って学んでいく事、必ず大人の集会で語られている事と、霊の一致がある事も語られてきましたが、霊を試す事なく、イエス様に信頼せずに、自分の力、やり方で交わってきていたため、一致もない状態でした。そんな中で、自分で選んできた題材を基に交わった内容を書いたブログに、コメントを下さった方がいました。そのブログに読者が反応してきた事からも、牧師を通して、読み手を意識してオリジナル性を出してブログを書く高ぶりの霊が私に入ってきていると語られました。私自身もすぐに聖霊によって、“インスタグラムで見てくれる人を意識して載せているからだ!!”と示されました。その日の夜に、牧師が私のインスタグラムを見る事になり、訓戒して下さったのです。この聖霊の導きに、本当に感謝でした。

自分のやり方や自分の力で高ぶって交わっていたため、子ども達に対して語っている私も、常に、“クリスチャンとして成長している子ども達に対して、間違った事を教えていたらどうしよう、今週語った事は大丈夫だったのかな”といった、不安や恐れ、占いの霊が入り、喜びに満たされていませんでした。イエス様の声を聞いて信頼して交わる事ができていなかったのも、霊的なあらわれでした。私はすぐに載せていた写真を消したのですが、牧師から語られていた通り、どれだけ自分が自意識過剰で自慢したくて、自分で写真を撮って載せていたのかと、とても恥かしくなりました。そして、どれだけサタンに翻弄されていたのかと笑えてくるほど日に日に解放されていきました。
それと同時に、自分がイエス様の声だけを聞くのではなく、イゼベルからの声を聞いてきた事、何を第一にして、大切にしてきたのか、握りしめてきたものがいかにちっぽけなものだったのかが分かりました。そして、神が尊い作品として私を愛し、造り、救われてクリスチャンとなり、そのままの私で良いと言って下さった事がどれだけの愛であって宝であったのかを悟りました。その神に対して私は、古い自分を忌み嫌う事もせず、どれだけ高ぶって、反逆してきたのかを、イエス様に悔い改め、示された悪霊を追い出し、祈り、みことばに立ち返りました。
みことばをいただき、みことばを通しても自分がどんな状態にいたのかをイエス様に教えてもらいました。

ガラテヤ4:8〜11
『神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ならぬ神々の奴隷になっていた。 しかし、今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに、どうして、あの無力で貧弱な、もろもろの霊力に逆もどりして、またもや、新たにその奴隷になろうとするのか。 あなたがたは、日や月や季節や年などを守っている。 わたしは、あなたがたのために努力してきたことが、あるいは、むだになったのではないかと、あなたがたのことが心配でならない。』

‭‭ガラテヤ6:14〜15
『しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。 割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。』

‭‭ガラテヤ5章
『自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。 見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。 割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。 律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。 わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。 キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。 あなたがたはよく走り続けてきたのに、だれが邪魔をして、真理にそむかせたのか。 そのような勧誘は、あなたがたを召されたかたから出たものではない。 少しのパン種でも、粉のかたまり全体をふくらませる。 あなたがたはいささかもわたしと違った思いをいだくことはないと、主にあって信頼している。しかし、あなたがたを動揺させている者は、それがだれであろうと、さばきを受けるであろう。 兄弟たちよ。わたしがもし今でも割礼を宣べ伝えていたら、どうして、いまなお迫害されるはずがあろうか。そうしていたら、十字架のつまずきは、なくなっているであろう。 あなたがたの煽動者どもは、自ら不具になるがよかろう。 兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。 律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。 気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。 もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。 もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。 互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。』

ヤコブ1章
『神と主イエス・キリストとの僕ヤコブから、離散している十二部族の人々へ、あいさつをおくる。 わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。 あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。 だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。 あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。 ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。 そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。 そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。 低い身分の兄弟は、自分が高くされたことを喜びなさい。 また、富んでいる者は、自分が低くされたことを喜ぶがよい。富んでいる者は、草花のように過ぎ去るからである。 たとえば、太陽が上って熱風をおくると、草を枯らす。そしてその花は落ち、その美しい姿は消えうせてしまう。それと同じように、富んでいる者も、その一生の旅なかばで没落するであろう。 試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。 だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。 人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。 欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。 愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。 あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。 父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。 愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。 人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。 だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。 おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。 これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。 もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。 父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。』
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アーメン☆
ガラテヤの6章のみことばに、【イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは断じてあってはならない】と書かれていましたが、どれだけ自分の感情のままに生き、肉の欲を満たし、神から与えられている御霊の実以外の思いにとらえられていたのか、神の国をつぐことなどできない者となっていたのかが分かりました。そして、ヤコブのみことばからは、自分の握りしめてきた物や欲にひかれ、自ら悪の誘惑に陥っていたのだと悟りました。改めて、みことばから語られ、イエス様に悔い改めました。

ヤコブのみことばに書かれていた、【だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。 】という箇所からも、今回解放されてみことばを読んでいった時に、今まで以上にみことばが自分の霊にしっかりと入り、力ある事だと体験しました。

今回私は、イエス様に救われ、霊にみことばを蓄え、意志をむけて実践した時、どんな時でも共にいて下さる神の愛を体験してきたにも関わらず、救われる前の古い自分の価値観や固定観念、思いのままに従い、女預言者イゼベルの霊、情欲にまかれてしまいました。その結果、クリスチャンとして救われた事の恵みや、神の愛が全く見えなくなり、神の御前で自分の言動がどうであるのかを考える事もしなくなりました。神は決して、インスタグラムやエステやオシャレやファッションを駄目であるとは言っていません。神はつかまえてでも祝福し、与えて下さる神であるのにもかかわらず、それを握り、頭にしてしまった瞬間、サタンにチャンスを与え、自分ではどうしようもできない所まで霊的にもおかしく翻弄させられ、体にも刈り取りをしてきてしまっていました。そこから解放されるには、古い自分を忌み嫌い、神のことばである聖書のみことばと、自分の内側を照らし合わせ、悔い改め、自分を翻弄させてきた悪霊と戦い抜くしかなく、その権威が私たちクリスチャンには与えられている事と、みことばには人を解放する力がある事も改めて語られました。

聖書のみことばは7つの角度から語られ、その時々によっても語られ方は違うと教えられてきました。今回、私は、牧師を通して語られたみことばに対して、みことばの捉え方が違っていた事も集会で示され語られました。私は、毎週子ども達と共に交わりをしてきました。今回のインスタグラムの事からも、女預言者イゼベルの霊に翻弄され、この世を愛し、この世と姦淫し、様々な写真を載せ、働き人としても隠れて何をしてきていたのかと戒めを受けました。その時にルカのみことばから語られました。

ルカ12:47〜48
『主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。 しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。』

私は、このみことばを語られた時に、“子ども達に聖書の事を教えていく働き人なのに、私は一体何をしてきてしまったのだろうか。働き人という神からの仕事を与えられているのだから、もっとしっかりして、働いていかなければいけないんだ!”と、働き人というバッチをもらってつけていると思っていました。
しかし、集会で牧師を通して語られた事は、様々な悪霊に翻弄されて、罪人だった私を、イエス様は救ってくれて、解放して下さり、新しく生まれ変わったクリスチャンとして下さったという事、それだけ神が多くの事を与えて下さったのだという事、だからこそ、神の愛を受けてきた自分達が、もっとイエス様につかえて、周りの人達に宣べ伝えていかなければならないという事でした。私は、このみことばを肉的にただそのままうけていましたが、牧師を通して語られて、ハッとしました。どれだけ自分が最悪で最低な人間であったのか、自分が偉かったから働き人になれたのでもない、どこから自分がイエス様によって救われて今があるのかと今まで体験してきた証を思い出し、イエス様の為につかえていこう!と立ち返る事ができました。それと共に、自分がどれだけ忠実となって、全てをイエス様に捧げて歩んできてなかったのかも語られ、悔い改めました。聖霊によって示された事を忠実に語って下さった牧師に感謝でした。
今回体験してきた事をしっかりと益にし、古い自分を忌み嫌い、何一つ握る事なく、神に喜ばれる聖なる者となって歩んでいきます。イエス様のための自分として、今まで体験してきた事、同じように苦しんでいる人達の為に、自分の器を明け渡して、福音を宣べ伝える神の僕として、立ち上がります。

第1コリント1:17〜31
『いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。 すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。 兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。 それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。』

使徒行伝26:16〜18
『さあ、起きあがって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしに会った事と、あなたに現れて示そうとしている事とをあかしし、これを伝える務に、あなたを任じるためである。 わたしは、この国民と異邦人との中から、あなたを救い出し、あらためてあなたを彼らにつかわすが、 それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである。』
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ヨハネ14章
『「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。 わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。 トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。 もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。 ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。 イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。 わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。 わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。 よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。 わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。 何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。 もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。 わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。 もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。 その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。 わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。 イスカリオテでない方のユダがイエスに言った、「主よ、あなたご自身をわたしたちにあらわそうとして、世にはあらわそうとされないのはなぜですか」。 イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。 わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。 これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。 わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。 『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている。もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。 今わたしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである。 わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。 しかし、わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである。立て。さあ、ここから出かけて行こう。』

第2コリント5:16〜17
『それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。』

第一ペテロ1:13〜16
『それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。』
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アーメン☆
全ての栄光はイエス様に帰します。


証を書き終えて・・・

証の冒頭に、「今回私は、自分を支配していた女預言者イゼベルの霊を知る事になりました。イエス様に救われ、新しく生まれ変わった神の子とされたにもかかわらず、古い自分が抱いてきた容姿コンプレックスに、女預言者イゼベルの霊が働きかけてきて、造り主である神に対して、反逆し、高ぶっていた事が明るみとなりました」と書きましたが、牧師を通して、「女預言者イゼベルの霊が働きかけてくる」という認識では、まだこのイゼベルの霊を理解できていないと語られました。
私が抱いてきた容姿コンプレックスそのものがイゼベルの霊なのです。ここまでの私の認識であれば、イゼベルの霊を追い出しても、コンプレックスは残ります。私が、付けまつげをはずし、髪型や服装といった外見を変えていっても、結局一度も解放されなかったのは、イゼベルの霊をなすがままにさせていたからだと語られました。そして、私の場合は、イゼベルの霊から解放されていない自分に、インスタグラムという形で<誘惑>が来たのであり、その事を通して14年間なすがままにさせていたイゼベルの霊が思いっきりあらわれたのだと解き明かされました。イゼベルの霊にまかれていたが故に、神とこの世に仕える二心者となり、神の存在を自分の頭や口の言葉によって小さくする不信仰となっていたのです。私たちクリスチャンは、全ての霊を信じることはせず、その霊が神から出たものなのか、あるいは<誘惑>であるのか試さなければなりません。霊を試すことなく交わった友達を通して、私は誘惑を来たらせてしまいました。
また、神から出たものなのかを知る場合も、独り善がりになっていないか吟味しなければならないと語られました。【主の祝福は人を富ませる、主はこれになんの悲しみをも加えない。】(箴言10:22)と書かれてあるように、自分にとって祝福だと思っていても、その祝福は自分に神の栄光を輝かせているか、誰が見ても祝福されているかどうか、偽キリスト=女預言者イゼベルの霊によるものではないか霊を見分けることが重要であると語られました。


最後に、私が頂いたみことばの中で、牧師が解き明かして下さったみことばを紹介します。


ガラテヤ5:7~9【あなたがたはよく走り続けてきたのに、だれが邪魔をして、真理にそむかせたのか。そのような勧誘は、あなたがたを召されたかたから出たものではない。少しのパン種でも、粉のかたまり全体をふくらませる。】を通しては、イゼベルの霊にまかれている人は、たくさんのパン種を持っていることが語られました。

ガラテヤ6:14【しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。】を通しては、この世に未練や、目の欲、肉の欲、持ち物の誇りを持たず、イゼベルの霊から解放されて聖別されたクリスチャンの姿を語られました。

ヤコブ1章を通しては、イゼベルの霊が覆っている世界の中で与えられているものに満足したり、当たり前だと思っているのではなく、【疑わないで、信仰をもって願い求めること】が大切であると語られました。そして、父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことであるのだと再確認しました。

ヨハネ14:23に【もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。】と書かれてあるように、イゼベルの声に聞き従うのではなく、イゼベルを足の下に踏み砕いたクリスチャンに対して、最高の祝福と最も素晴らしい繁栄が与えられるのだと語られました。