“当たり前”からの解放
~主の霊のあるところに自由がある~

 
 

本当に些細なこと、肉で生きたら、“当たり前”と通り過ぎてしまうところにこそ、イゼベルが巧みに仕掛けた罠があります。その罠にかかったら、自分を“こんなものだ”と小さくして、神の召しに応えることができなくなる事、イゼベルの霊の中にいると、こうでなければならない、こうしてはならない、という律法(自分の作り上げた“当たり前”という計画)に縛られ、宗教的になり、主にある自由な動きを封じられる状態に繋がるのです。

ぶどうの木は今月(8月)で丸10年が経ち、来月からは11年目のスタートです。ジョナサン・デイヴィッド博士を招いてのカンファレンスに参加した私は、メッセージの中で「次世代のために祈る」ということを言われた時、「次世代=ソロモン」であると語られ、改めてこの群れの始まりの時に母である牧師が「ダビデ」であり、自身が「ソロモン」であるという命を受けていた事に戻されました。

私は、イゼベルの霊にまかれ、この土地の霊力が当たり前だと思い込み、自分で自分の将来の計画やぶどうの木の将来の計画を握っていたために、“現代のパウロ”になって全世界に福音を宣べ伝えるのだという、自身に与えられていた神からの召しと選びをいつの間にか盗られていました。そんな自分の霊的状態が決定的に分かったのは、ぶどうの木の兄弟姉妹達が、浜松から離れるかも知れない、という話を聞いた時でした。これからもずっと浜松の地で、共に群れを守り、福音を宣べ伝えていくものと思っていた私にとって、それは、自分の計画という青天の中で、いきなり、しかも予想外に鳴り出した神の計画という雷・・・まさに青天の霹靂の話だったのです。そのような自分を霊の目で見せていただき、自分が群れのあり方や未来を握っていたこと、イゼベルにまかれていたことがはっきり分かりました。
実はこの日の集会に至るまでの10日間は、私にとって、ヨハネの黙示録2:10にあるように「試され、精錬され、変えられていく」期間=イゼベルからの解放の期間でした。
私を捕らえてきたイゼベルは、この土地にどっぷりと浸からせようとする「浜松の霊」でした。私たちは、霊的にパウロであれ!と語られており、実際に群れの兄弟姉妹達と訪れたトルコ旅行を通しても、パウロの霊を受けて信仰のバトンを受け取った者と示されていました。生まれた土地に留まることなく、様々な場所に出て行き、この世に対して賢く知恵を持ち、反対する者を論破し、愛にあって真理を語り、各地にキリストの体となる教会を建てあげたのが現在のトルコにあるタルソ地方出身の使徒パウロでした。(神の働きのためには、その土地に根ざして選ばれた、使徒ペテロの役割を果たす肢体もあり、実際に群れの中でも役割は様々です。)
しかしイゼベルは、私をパウロのように働かせるのを阻止するために、この浜松という土地に留めさせるように巧みに動き、浜松の霊力で縛っていました。
10年前、「浜松から日本が変わる、リバイバルが起こる」という預言がありました。その頃、私が一粒の麦となり信仰によって長年の夢であった幼稚園教諭の仕事を辞めて、「ダビデ」と「ソロモン」というみことばに従い母娘で献身したことにより、幼稚園時代に出会った、後にぶどうの木の長老となる家族が救われました。そしてそれによってぶどうの木の土台ができあがりました。私はその一つひとつを大切にしており、この先もずっと、集められてきた神の家族とともにこの地で真理を宣べ伝えていくのだ!と思ってきました。何時しか、ぶどうの木の兄弟姉妹との出会いの場所である幼稚園や幼稚園教諭になるために通った学校という“場所”も、イエス様が与えて下さったものとして私にとってとても大切なものとなっていました。そして、もう一つ、母である牧師を通して、福音のためにどこにでも出て行ける体づくりの大切さを示され、スポーツジムに通うようになりました。そこでも出会いがあり、新たな兄弟姉妹が神の家族に加わりました。私はそのことをイエス様に感謝しました。そして私にとっての大切な場所がまた一つ増えました。私はそのジムは、イエス様が与えて下さった場所と喜んで、毎週曜日を決めて通い続けていました。
また私は、浜松の土地から真理を宣べ伝える事を大切にして、毎週のブログを週の初めに発信することや、そのブログを韓国語に翻訳して日本人だけでなく韓国人にも読めるようにするという与えられた働きを、毎回欠かさずに忠実に行ってきました。だんだんと、この日はこれをする日、この日はジムへ行く日、この日は・・・と日々の過ごし方が"当たり前“のようにルーティン化されていきました。
ところがある日、牧師を通して、私が「浜松の霊力」=イゼベルに捕らえられており、このままでは、働きを小さくしてしまい、パウロになれないのだと語られました。それを聞いた私は非常に衝撃を受けました。何がいけないのかが全く分かりません。「なんで?自分が大切に思っているものはイエス様が与えて下さったものなのに、それを否定するの?兄弟姉妹と出会った幼稚園の何がいけないの?ジムの何がいけないの?牧師でもあるお母さんに従ってきたのに、私の人生を全否定するなんて、そんなふうに言うなんて、ショック!」と混乱していました。そして、これまでの自分の歩みは、「私は母親の言いなりになってきた過保護のカホコだった!」と思いだし、牧師を裁いていきました。
イゼベルの霊=情と欲にまかれているために、口から出る言葉は既に感情の言葉(そんなことを言われてショック)であり、情でしか相手を見ることができなくなり(お母さんに言われたから従ったのに)、血肉の戦いに持ち込まれ、相手を裁いていました。
私は、イエス様に導かれて実がなった“場所”を良いものとして大切にしていたのですが、それは霊的には「握っている」のだと示されました。信仰から始まったものが、イゼベルという大きな霊力の中で、いつの間にか握っているものに変えさせられていたのです。そしてその中で、主にある自由を失ってしまっている状態にあったことを牧師が聖霊によりキャッチしたのです。

私にとっての大切な場所で起こった事は、一つの杭です。主がその場所に導き(その場所を使い)打たせて下さったのです。しかしたとえ、主が導かれた場所であっても、その場所そのもの、その全てが良いもの、安全な場所とは限らないのだと語られました。なぜならすべての場所・空間・人・ものは、天から地から発せられるイゼベルの霊力の中に包まれているからです。
私は、はとのような素直さを持っていましたが、この日本全土をすっぽり覆っているイゼベルの霊力の中では、もっと慎重に、一つ一つの霊を試して進むこと、すなわち、へびのような賢さを持ち合わせなければ危険であると語られたのです。「父のみまえに、清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つこと」(ヤコブ1:27)と聖書に書かれてあります。たとえ、「イエス様に言われてやっています!」「イエス様のために○○しています!」と言っても、イゼベルの霊の中にいる状態にあるならば、いつの間にかそれは世の汚れに染まっていることになるのです。クリスチャンは、日々自分の立ち位置をしっかり定めてこの世と聖別されていなければ、力がありません。

私は10日の間、これまでの自分の日常を吟味しました。イエス様が与えて下さったところだから良いものだと思い込み、これまで“当たり前に”係わってきた人、“当たり前に”出入りしてきた場所などについて、その一つひとつをもう一度イエス様の前に置いて聞いていきました。すると、これは深入りしすぎていたなと気づかされる事や、人とのつきあい方はここまでで良いなど、様々な事が語られ、それに気づく度に、だんだんと自分に負っていた荷が軽くなり、自由になっていくのを感じました。その時、「主の霊のあるところには、自由がある」(Ⅱコリント3:17b)というみことばを真に体験体得したのだそうです。と同時にこれまでどれだけの“当たり前”を握りしめて日常を送ってきたか、全てを“当たり前”として受け入れてしまえば、自分の予定がそれで埋まってしまい身動きがとれない、重荷を負った状態になってしまう事に気づき、自分がその“当たり前”をもたらすイゼベルの奴隷になっていた事を思い知りました。
さらに目が開けてくると、自分がこれまで大切に思ってきたものは、霊的に自分が握っていたという状態だったということがだんだん分かってきました。ぶどうの木という群れのあり方と未来を握り、自分の日常のあり方(例えばこの曜日にはここに行く、これをする、これは毎週当たり前に続くこと)や自分の将来(結婚相手は主のご用のために都合の良い人が最善、浜松の地にいて共に宣教できる人)を握っていた自分の霊的状態がはっきり示されました。そして、どんなに、「主のためにやっている!」と言ってもイゼベルの中に浸かっていたら何も広がっていかないのだということを悟りました。   
私はこの解放の期間に、これまでの“当たり前”をすべて取っ払い、整理して日々を過ごしていった時に、聖霊により全ての事がスムーズに進むという体験をしました。 
そして、日々の生活は“当たり前”というルーティンで繰り返すものではない事、神は生きておられて、その日その日が毎回新しい一日であること、同時に霊の世界は刻々と変化している事を覚えなければ、世界を取り巻くイゼベルに簡単にのまれてしまうのだと語られました。
今日、良かったからといって、明日も同じように安全だとは限らないということ、みことばに「すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くの偽預言者が世に出てきているからである。」(Ⅰヨハネ4:1)とあるように、毎日、毎回、毎瞬間、霊を試すことを怠ってはならないこと、それが、牧師を通して言われていた「国籍が天にある者としてイゼベルの霊を忌み嫌う歩き方」なのだということを学びました。

私たちの国籍は天にありますが、肉体はイゼベルの霊力の中に取り置かれている、という状態にあります。では、具体的にどのようにこの地上で生きていったら良いのか・・・この10日の間に、イエス様は一つの出来事を通して、クリスチャンの歩き方を再確認させて下さいました。
牧師と私は、ジムで「バレトン」というエクササイズに参加しました。実際に体験してみると、ヨガのポーズをとる場面がいくつかあることが分かりました。そして調べていくと、バレトンとは、フイットネス・バレエ・ヨガが組み合わさったものだということを知りました。私たちは、ヨガはカルト的な霊力を持っているものだということは知っていたので、進んでヨガを選ぶような事は無かったのですが、今回はさらに、イエス様によって「ヨガのポーズは悪魔偶像礼拝である」ことを知らされました。牧師は、「私はヨガにこのような意味合いがあることを知ったからには、バレトンに参加することはできない、しかも、今この時期(群れとしても様々な戦いに置かれている時、いっそう用心深く霊を見極めなければならない重要な時)にそこに自分の身を置くことは霊性を汚され危険。もう一度バレトンをイエス様の御前に置く」と言いました。それに対して私は、「普通に、体幹を鍛えるためのただのポーズだと思えば良いと思う。みことばには、神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。それらは、神の言と祈とによって、きよめられるからであると書いてあるし・・・。だいたい、イゼベルが天から地から覆ってきている霊力なら、これを避けて通るなんて無理だし、あれもだめ、これもだめなんて、そんなこと言っていたら、この世の中で生きていけないよ!」と反発しました。
「自分の聖さのために、一度立ち止まる」という牧師と、「イエス様が導いて下さったジムという場所でのエクササイズなのだから、何事も感謝して受ければよい」という私・・・。私もみことばを頂いていましたが、この時点での私はまだイゼベルがどのように働くかを見極められず、その霊力にどっぷりと浸かっていたので、その祈りが果たしてみことばどおり、「きよめられる祈り」であるのか吟味しなければならない霊的状態にありました。また、そのみことばを肉でもらってきているものかどうかも同時に吟味しなければなりませんでした。私はサタンに門を開いている状態だったので、一度立ち止まってイエス様に聞く、という牧師を裁き、イエス様が示して下さる正しい道が見えず、あれもだめ、これもだめと、制約ばかりがあると感じ、ならば一体どうすればいいのだ!どこにも行く道なんかない!逃げ場がない!と、閉鎖的な気持ちになっていました。
しかし、イエス様に聞いていった時に、新しいエクササイズのクラスがあることが示されたのです。それはヨガの霊力と交わることのないようにと、最初からイエス様が私たちに用意してくださっていた道、イゼベルの霊に覆われている場所の中でも、クリスチャンが聖さを保つ事ができる道でした。
この歩みの証から、私たちが握っているものを捨てて、その都度どうすれば良いかをイエス様に聞くのならば、必ず応えてくださる方であり、この世の旅人であり寄留者である私たちにとっての避け所を備えてくださっている生きておられる神であることが語られ感謝しました。

自分がどんなふうにイゼベルの霊にまかれていたのかを知ることは悪霊の策略を見破り、勝利する聖霊の力によってしかできません。聖霊によってそれを示される時、それは、「神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。」(ヘブル4:12)とみことばにあるように、霊と魂(肉)を切り離すための霊的手術の時です。イゼベルにまかれていた分その衝撃は大きいですが、クリスチャンはその治療を経て精錬され、造り変えられることによりキリストと似たものとなり、この地上で「あらかじめ用意されたあわれみの器として神の栄光を輝かす者」(ローマ9:23)として使っていただけるのです。
牧師は、肉的に「全てを否定された、自分は母親の言いなりの過保護のカホコであった」と落胆していた娘の私に、ぶどうの木ができる前に母娘に与えられた「ダビデ」と「ソロモン」について書かれてある歴代誌上のみことばから、これまでの歩みの霊的解き明しを語って下さいました。『10年前、私がダビデ、あなたがソロモンと言われ、二人でこの浜松で献身していく日々が始まった。それは、みことばのとおりに神の仕事を成し遂げるためであった。このみことばによって始まった以上、ここまでの歩みは、ただの母娘の関係の中で言いなりの人生だったなどという肉的なことでは無い。霊的に、これまでの10年の歩みは母親(父ダビデ)の神(イエス様)の命令を娘(子ソロモン)が守る歩みであったこと、それは神の仕事を成し遂げるための定めとされていた事であり、ソロモンはその命令を守ってきた。遣わされるべき場所に遣わされ、会うべき人に会い、関係を繋いできた事、日々の働き、トラクトや絵本の出版といった、ここまでやり遂げてきた一つ一つの事柄が打ち込まれた杭です。そして遂にこの時、これまでイエス様に教えていただいた事の集大成として、世の中に真理を知らせる、書籍(「齋藤諒の生きる力」)の発刊という大仕事を成し遂げる事ができたのです。』
私は、その解き明かしによって、ここまでの歩みがみことばの中にあり、イエス様が常に共にいて下さったということを悟り、霊からの爆発的な喜びと共に完全解放に至りました。

この証をした集会で、兄弟姉妹それぞれが自分を縛るイゼベルから完全に解放され、神の定めた位置につき、どう動くかについて、牧師からメッセージが語られました。
『私たちはどこにいても国籍が天にあるこの世の寄留者であることを忘れることなく、自分の聖さを保ち続けなければなりません。この世に出て行って、イゼベルに汚され、神の子の特権である自由を奪われないようにしなければなりません。イゼベルがもたらすこの世のやり方(結婚や、会社、学校、地域などにあるやり方)に迎合すれば、私たちの霊は汚され、しぼんでしまいます。もし、自分がチンチンの熱いストーブとなり、周りの氷を溶かせるのならば、進みなさい、もし、そうでなく、自分が周りの変化や、やり方に苦しむようなら、去りなさい。そして、導きを祈りなさい。イエス様は必ず導いて下さるのだから、焦ることなく信頼して祈り求めなさい。その土地に浸かっていたら見えないのがイゼベルです。だからこそ、自分の肉で“当たり前”を決めつけ動くのではなく、神の言をもって歩みを確認する必要があります、一つ一つの霊を丁寧に試しなさい。それが、神の子としての自分の聖さを守る方法です。』

10年前は、ぶどうの木が今のような働きをする群れになっているなどとは想像もできなかったことでした。ソロモンとされた私が主の宮の務めの工事(杭を打つこと)を全てなし終えた、丸10年という区切りを経て、いよいよ11年目を迎えます。
また、デイヴィッド博士を通しての預言からも、ここからは、これまでの10年とは違う、いろいろな事が動く年になっていくと語られました。この土地に植えられ、ダビデを通して神の命令を守った準備期間を終え、この土地の霊力であるイゼベルから解放され自由になったソロモン(私)が、遂にパウロとなって全世界に出て行く時が来たのだと語られています。群れにいる兄弟姉妹もまた、転換期を迎えています。私たちには次の10年がどのような年になり、自分がどこで、どのように用いられているのか分かりません。しかし、全ての計画は主が持っておられます。「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の御旨だけが堅く立つ」(箴言19:21)というみことばのもとに、主に信頼し、すべてを主にゆだねて大胆に動いていく年月になることを確信します。

歴代志上28:9~10  
わが子ソロモンよ、あなたの父の神を知り、全き心をもって喜び勇んで彼に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いを悟られるからである。あなたがもし彼を求めるならば会うことができる。しかしあなたがもしかれを捨てるならば彼は長くあなたを捨てられるであろう。それであなたは慎みなさい。主はあなたを選んで聖所とすべき家を建てさせようとされるのだから心を強くしてこれを行いなさい」。

歴代志上28:20~21
ダビデはその子ソロモンに言った、「あなたは心を強くし、勇んでこれを行いなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。主なる神、わたしの神があなたとともにおられるからである。主はあなたを離れず、あなたを捨てず、ついに主の宮の務のすべての工事をなし終えさせられるでしょう。見よ、神の宮のすべての務のためには祭司とレビびとの組がある。またもろもろの勤めのためにすべての仕事を喜んでする巧みな者が皆あなたと共にある。またつかさたちおよびすべての民もあなたの命じるところをことごとく行うでしょう」。

歴代志上29:1
ダビデ王はまた全会衆に言った、「わが子ソロモンは神がただひとりを選ばれた者であるが、まだ若くて経験がなく、この事業は大きい。この宮は人のためではなく、主なる神のためだからである。

歴代志上29:19
またわが子ソロモンに心をつくしてあなたの命令と、あなたのあかしと、あなたのさだめとを守らせて、これをことごとく行わせ、わたしが備えをした宮を建てさせてください」。

アーメン。