秩序正しい神―M兄弟の昇天―

 
 

1月14日の集会後に、ぶどうの木のM兄弟が51歳で召天しました。突然の事で、本当に驚きました。彼は救われた後も、神に逆らい、男義の象徴としてぶどうの木に置かれ、自身は、肉にまいたものを肉から刈り取り続けていました。神はねたむ神です。神はずっとM兄弟の心を見られ、ご自分だけに心を注ぎ出す事を求めておられました。そして、M兄弟が罪を悔い改め、悪霊と戦い、みことば=神・イエス様に意志を向けた時には、すぐに身体を攻撃してきていた悪霊が去り、癒しの奇跡が起こりました。その姿を通して、私たちには、目に見える世界よりも霊の世界が現実的である事と、キリストの権威に間違いはないという確信が与えられてきました。

亡くなるまでの1年間は、彼にとって本当に肉は辛く苦しい日々だったと思います。しかし、そうなることも、神はみことばを通して、はっきりと教えて下さっていました。
2016年12月16日に、M兄弟自身がエレミヤ13:22を頂きました。

エレミヤ13:22
あなたが心のうちに、『どうしてこのようなことがわたしに起ったのか』というならば、あなたの罪が重いゆえに、あなたの着物のすそはあげられ、はずかしめを受けるのだ。

当時、M兄弟はどういう意味なのか分かっていませんでしたが、みことばを確認した牧師も兄弟姉妹も驚き、神を畏れました。このみことばをもらった事を機に、M兄弟の体の状態がどんどん悪くなっていきました。もちろん彼には神の御手が何度も伸ばされ、再び健康な体を得るチャンスが与えられていました。信仰の仲間でもある家族も、そばにいて、どんな状態であってもイエス様の名前を呼ぶ事と、戦う事を教えました。しかし、痛みの霊や怠惰な霊に負け、なかなか自分の足で信仰に立つ事が出来ませんでした。

2017年8月6日の集会で、M兄弟に2冊の本が与えられました。それは信仰の言葉によって得る祝福と、信仰によって勝ち取る癒しについての本でした。先に本を読んだ長老と教師が、集会中に本の内容を説明し、ここに癒しの鍵があると伝えました。さらに、集会の終わりにイザヤ40章1節~11節が与えられました。今から振り返ると、この日の集会が神のあわれみで癒しを得る最後のチャンスだったと分かります。神は、彼が2冊の本を読む事が出来るよう、本が与えられた日曜日から3日間健康な体を与えて下さいました。しかし、彼は本を読む事に意志を向けられませんでした。その心を見た神は、再びサタンに彼を攻撃することを許し、彼の体の状態は急激に悪くなっていきました。

2018年1月14日、彼は突然吐血をし、心臓が止まりました。彼の歩みを近くで見て、ずっととりなしの祈りをして来た肉の家族も、私たち神の家族も、正直、「天国に帰れたのだろうか?」と思いました。
「救われたら天国に行ける」と教えている教会が多いですが、私たちが信じているものは、そんな気休めの棚ぼた式のご利益宗教ではありません。イエス様を受け入れて救われるとは、天国行きの切符を頂いただけで、そこから自らの意志で神の教えを学ぶために改札を通り、天国行きの電車に乗らなければなりません。そして、神に喜ばれる者となるために、みことばに従う事を求められ、様々な訓練も受けます。心を試されます。それでも決して電車から降りる事なく、終点まで乗っていた者が永遠の命をもらって天国に行けるのです。私たちは福音をして、その人に天国行きの切符を与えることはできても、神に従う意志を向けて乗車するのはその人自身です。だから、聖書には天国に行けるのは14万4千人と書かれています。(黙示録14:1)天国の門は狭いのです。

マタイ7:13~14
狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。

マタイ7:21~23
わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

アーメン。

たとえ、預言をしていても、悪霊を追い出していても、神の御旨(自分の義ではなく、神の義)を行っていなければ地獄であり、「イエス様を信じている。愛している」と言っていても、それが本当かどうか、神はお見通しです。
真理を知っているからこそ、やはりM兄弟は地獄に行っただろう・・・と、私たちは勝手に審判を下していました。神は愛ですが、裁き主でもある事をこれほど痛感したことはありませんでした。
しかし、私たちクリスチャンの特権は、「なぜ!?」と神に問える事です。
「イエス様、M兄弟はなぜこんなにも早く亡くなったのですか?彼は、天国に行けたのですか?みことばで教えて下さい」と牧師は尋ねました。翌日1月15日に、お別れ会という名目で葬儀をする事となり、牧師が聖書を開くとイザヤ40章でした。
特に1節~2節が目に留まりました。

イザヤ40:1~2
あなたがたの神は言われる、「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」。

このみことばを通して、M兄弟はもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受け、その服役の期を終え、とががゆるされて天国に帰ったのだと語られました。彼には、もう一度健康な体を取り戻して生きる道も残されていたでしょう。彼がこの地上で生きる事に意志を向けていればです。しかし、刑罰は厳しく、彼は「死にたい」と口にしていました。その言葉もすぐに兄弟姉妹でもある家族が、神の御前で取り消し、執り成しましたが、彼の意志が尊重され、神は地上からM兄弟を取り去られました。

亡くなった直後は、「もっと生きて欲しかった。死ぬなんて思わなかった」と家族は戸惑いましたが、神が定めたM兄弟の寿命であるならば、それに対して文句を言う事は高ぶりになります。偶然はなく、2017年8月6日の集会の終わりに与えられたみことばも同じイザヤ40章であり、すでに神は私たちに語っておられた事も分かりました。

さらに解き明かしがありました。彼は一人で家にいる時に、血を吐きながら、部屋中の電気をつけて歩き回り、倒れました。彼の血は、彼の左半身についており、家中が血だらけでしたが、彼に心臓マッサージをした家族には一滴もつきませんでした。ヘブル9:22の【血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない】というみことばも与えられ、3代~4代に渡る汚れた血は、本人だけが浴びる事になり、血を流す事によってM兄弟の罪が許されたのだと語られました。

また、電気=光を求めた彼の行動は、死の使いが来て真っ暗闇になっていく恐怖から、光=イエス様を求めたのだと語られました。一人で亡くなった事に、かわいそうだと思うのが人間の情ですが、あえて誰も介入できない、介入してはいけない、神との交わりの時間がその時に与えられたことが分かりました。M兄弟を一番愛しているのは、肉の家族でも、神の家族でもなく、神・イエス様です他者が介入してはいけない神との一対一の関係(縦の関係)が全ての人間にあります。それは、神が人間に与えた尊厳です。彼はその時最期の悔い改めの機会を得たでしょう。

お別れ会はイザヤ40章をもって行われ、仏教に熱心なM兄弟の親族や友人、知人を前にキリスト教式で行われました。ただお坊さんがお経を読んで、悲しみに沈むのが仏式の葬儀ですが、私達クリスチャンの信仰は永遠の命にありますから、お別れ会は天に召された事を喜ぶ場であり、参列者に対して福音をする場です。
牧師は、M兄弟がたくさんの罪を犯した人生から10年前に救われ、一つ一つ悔いて、生き方を改めた10年間であったと話しました。その証を彼が書き残している事も伝えました。生きている間、誰がその証に興味を持ったでしょうか。友達であっても、聖書を学び始めた彼に関心を持った人が、どれだけいたでしょう。
以前、牧師が私たちに「毎週日曜日に聖書を学び、自分の人生を振り返り、悔い改め、御言葉に従って生きようとするあなたたちは真面目だ」とおっしゃいましたが、M兄弟も、救われてから、神が望まれる生き方と真反対の人生を歩んできた事を確かに悔いました。その後、何度も罪を犯しましたが、その都度みことばによって自分を正していたのは事実です。10年間、真面目に生きようとした心も神はご存じだったでしょう。
神を神として認めようとせず、自分の手で偶像をつくり、拝んでいる日本人ですが、神を知って生きるという事は、与えられた命の使い方を真剣に考えて生きる事なのだと、牧師は参列者にも強く語りました。

イザヤ40:12~31(リビングバイブルより)
神様以外にだれが、手で海を支え、巻き尺で天の大きさを測ったでしょう。神様以外にだれが、地球の重さと、山や丘の重さを知っているでしょう。だれが神の御霊の助言者となり、神様を教え、相談役になったでしょう。神様は人間の助言を必要としたでしょうか。何が正しく、何が最善であるかを知るために、だれかの指示を仰いだでしょうか。そんなことは絶対にありません。人間はだれも、神様と比べたら無に等しく、バケツの中の一滴の水、はかり皿の上のちりにすぎないからです。神様は島々を、少しも重さのないもののように、いとも軽々と持ち上げます。レバノンの森林の木をぜんぶ集めても、神様にふさわしいいけにえを焼くたきぎにも足りません。そこの獣を一匹残らず集めても、いけにえとするには、とうてい数が足りません。すべての国々は、神様の目から見れば無に等しいのです。
神様をどう説明したらいいでしょう。神様を何と比べることができるでしょう。型を取り、金をかぶせ、首に銀の鎖をかけた偶像でしょうか。高価な神々を買えない貧乏人は、腐らない木を見つけ、それに顔を彫ってくれる人を雇います。こうしてできた動くことさえできないものが、神となるのです。
あなたがたは、何も知らないのですか。世界が造られる前からあった神様のおことばに、何も聞こえないと決め込んでいるのですか。一度もおことばを聞き、理解したことがないのですか。神様は地球のはるか上におられます。下界の人間など、まるでいなごのように見えることでしょう。神様は、天をカーテンのように引き伸ばし、ご自分の住まいとします。世界中に名の知れ渡った偉人を手玉にとり、いてもいなくても同じ者にします。やっとの思いで仕事に取りかかり、根を張ろうとすると、神様に痛い目に会わされ、事業は挫折します。そのうえ風が吹いて、彼らをわらのように巻き上げるのです。「おまえたちは、わたしをだれと比べるというのか。わたしと肩を並べる者がいるか」と、きよい神様は問いかけます。天を仰いでみなさい。星は、いったいだれが造ったのですか。羊飼いは群れを導き、それぞれの愛称で呼び、一匹でもいなくなってはいないかと数えます。同じように神様も、星をぜんぶ数えます。
ああ、ヤコブよ。ああ、イスラエルよ。神様は苦しみを見て見ぬふりをしているから不公平などと、どうして言えるのですか。まだわからないのですか。全世界を造った永遠の神様は、絶対に疲れたり、ふらついたりしません。神様の理解の深さを推測できる者は、一人もいません。神様は疲れた者に力を、弱い者に活力を与えます。若い人もくたくたになり、若い男もまいってしまいます。しかし神様を待ち望む者は、新しい力がみなぎり、わしのように翼を張って舞い上がります。いくら走っても疲れず、どんなに歩いても息切れしません。

アーメン。

そして、神の家族である私たちも、M兄弟の死を通して、長生きする事が必ずしも幸せなのではなく、人間にとって大事なのは“どう生きるのか、主にあって何を成したのか”なのだと語られました。聖書を知ると、何のために生きているのか、死んだらどうなるのか、全て分かります。自分の人生を聖書と照らし合わせる時、自分に欠けていた大事なものが見えるようになります。その上で、自分の命を大事に使う事、神を畏れ敬って生きる事、聖書に従って神が求めておられる生き方(モーセの十戒を守る)をする事、明日が来るのが当たり前ではないのだから、一日一日を大切に生きる事。そうでなければ、救われていても地獄です。自分は大丈夫か?天国に行ける生き方をしているのか?・・・まずは自分の救の達成に努めなければならないと強く思いました。
そして、私たちは、この世の旅人であり、寄留者です。神の言によって誕生したこの地上で、神によって生まれ、生かされ、死にます。M兄弟が亡くなってから3度与えられたみことばがありました。

主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの言葉はとこしえに変ることはない。(イザヤ40:7~8、第1ペテロ1:24~25)

草は枯れ花はしぼみます。人間は生まれたら、いつか死にます。しかし、みことば=イエス様は永遠に生き、神のみことばは変わる事がありません。そして神は、みことばに基づいて秩序正しく、時にかなって美しく事を行なわれます。生るるに時があり、死ぬるに時があり・・・神は人の心に永遠を思う思いを授けられましたが、私たちは神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできません。(伝道の書3:1~11)

「なぜクリスチャンなのに死んだの!?」と言う人もいましたが、M兄弟の死に対してみことばが与えられ、神が介入して下さった事を知る時、決して私たち人間が死に方を見て、悪い事が起きたと決めつけることはできません。

イエス様は、ローマ14:8【わたしたちは生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。】も与えて下さり、M兄弟は結果的に主のために死ぬことができたのだと教えて下さいました。なぜなら、M兄弟の死(お別れ会)を通して、福音に耳を傾けて来なかった人や、聖書に対する知識がなかった人が福音を聞く事ができたからです。
また、M兄弟の事を裁いたままぶどうの木を離れて行った兄弟が、聖書を持ってお別れ会に駆けつけてくれました。M兄弟は、自分が肉に悪いものを刈り取った時、一番謝りたい人として、その兄弟の名前を出しました。彼にひどい事をしてしまったと心悔いており、謝りたいと思っていたM兄弟でしたので、彼が来た事は、M兄弟の悔い改めが本物であり、神が良しとされたのだと分かりました。彼も人を裁いたままでは、天国には行けないので、和解の場を与えられ感謝でした。

M兄弟の死によって成就した事を通して、改めて彼は主のために一粒の麦となって死んだのだと語られました。そして、ここから豊かに実を結ぶ神の計画があるのだと語られ、この死を決して無駄にしてはならないと、家族の思いも一致しました。

ヨハネ12:24
よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。

アーメン。

私たちが救われて生かされているのは、福音を宣べ伝えるためです。長生きして地獄に行くよりは、短くてでも太く、主にあって実りある人生を送って天国に行く事の方が幸せです。私たちには、一人でも多くの人に天国行きの切符を与え、正しく導き、天国に行かせる使命があるのだと改めて語られました。
イエス様は、私たちの「なぜ!?」に応えて下さいました。納得できるまで、御言葉を通して語って下さいました。ここには書ききれないぐらい、他にも様々な角度から語って下さいました。もちろん、クリスチャンであっても、イエス様に尋ねた時、はっきりと地獄に行ったと言われる人もいますが、神は、私たちのとりなしの祈りも聞いて下さり、それもふまえてM兄弟を召天して下さいました。私たちの情でそう思い込む事ではなく、みことばによって教えて下さった事を神・イエス様に感謝し、みことばにとどまります。

人の死、特に大事な人の死は悲しい事です。医者は吐血の原因は不明だと言いました。でも、私たちは、直接神から死の理由を聞くことができました。本当にすごい事だと思いますし、M兄弟が神に知られ、愛されている事を最も知れる時ではないかとも思います。そして、これは、残された者に対しての最大限の神の愛です。神は生きている者の神だからです。
ですから、天に帰った人の事は神にお任せして、残された者は、前だけを見て生きる事ができます。いつかまた天国で会えるのですから。お墓もない、仏壇もない、供養もない、法事もない・・・クリスチャンの死は身軽です。日本人が福音を聞いた時に心配するのがお葬式と、死んだ後の事ですが、何の問題もありません。M兄弟はぶどうの木の執事でもありました。最後に、M兄弟は執事としても、自分の死をもって、その事も教えてくれました。

そして、今回の召天を機に、助け手であったY姉妹がローマ16:1~2をもって執事となりました。

ローマ16:1~2
ケンクレヤにある教会の執事、わたしたちの姉妹フィベを、あなたがたに紹介する。どうか、聖徒たるにふさわしく、主にあって彼女を迎え、そして、彼女があなたがたにしてもらいたいことがあれば、何事でも、助けてあげてほしい。彼女は多くの人の援助者であり、またわたし自身の援助者でもあった。

アーメン。

イエス様はみことばや啓示を通して、今も私たちにたくさんの事を語って下さっています。M兄弟が、小さなメモにたどたどしい字で「悔い改めます ごめんなさい」と書いたメモも出て来ました。天国に行った事へのさらなる確信となりました。居場所が変わっただけで、信仰の勇者たちは、私たちを雲のように囲み、見ています。M兄弟も、パウロと一緒に私たちを囲み、見ているでしょう。私たちも、神のもとに帰るその日まで、勝利の戦いを走り抜きます。

第1ヨハネ1:7~10
神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。

マルコ1:15
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。

M兄弟は、このみことばによってつくられた賛美歌が好きで、お別れ会でも歌いました。

♫時は満ちた 御国は近づいた 悔い改めて光の中を歩こう 十字架の血のあがないがすべての不義から清めて下さった 命の御霊の法則が私達を自由にした

一人の人が悔い改めるならば喜びが天にあふれる 天使たちに喜びが沸き起こる ハレルヤ ハレルヤ 全ての栄光はイエス様に帰します♫

アーメンです。