真実の愛と情の愛の違い~情欲の霊からの解放~

 
 
私は、浜松在住の26歳女性です。
私は高校2年生の時、ぶどうの木と出会い、私も私の家族も全員イエス・キリストを信じ救われました。救われる前の私たち家族は、いわゆる「キリスト教」を信じ教会に通っていました。私が生まれる前から、母を中心に家族皆教会に行っていましたが、各自が何故教会に行くのか、聖書の御言葉が日々の生活にどう根付いているのか分からないまま生活をしており、今振り返るとわかるのですが、それはただの力ない宗教にしかすぎませんでした。
 
私の家族が教会へ行くきっかけとなったのは、両親の不仲でした。
私の両親は私が生まれる前に、一度離婚をしていました。しかしその後、私の両親は知人を通して聖書と出会い、御言葉に従い互いに和解し復縁することになりました。その両親の復縁があって、二番目の兄と私が誕生したのです。
 
第一コリント7章10~11節a
更に、結婚している者たちに命じる。命じるのは、わたしではなく主であるが、妻は夫から別れてはならない。(しかし、万一別れているなら、結婚しないでいるか、それとも夫と和解するかしなさい)。
 
しかし、あくまでも“決まり事”でしか御言葉を受け入れていなかった私の家族は、“決まり事”(律法)の奥義には及ばず、聖書が一番伝えている「互いに愛し合い許しあう家族」にはなっていませんでした。むしろ、その宗教心(宗教の霊)が互いのつまずきとなって、いつも家族の意見がバラバラになり、一つになるどころか破壊へと繋がっていきました。
 
テトス1章10~16節
実は、法に服さない者、空論に走る者、人の心を惑わす者が多くおり、とくに、割礼のある者の中に多い。彼らの口を封ずべきである。彼らは恥ずべき利のために、教えてはならないことを教えて、数々の家庭を破壊してしまっている。クレテ人のうちのある預言者が「クレテ人は、いつもうそつき、たちの悪いけもの、なまけ者の食いしんぼう」と言っているが、この非難はあたっている。だから、彼らをきびしく責めて、その信仰を健全なものにし、ユダヤ人の作り話や、真理からそれていった人々の定めなどに、気をとられることがないようにさせなさい。きよい人には、すべてのものがきよい。しかし、汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている。彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である。
 
両親が復縁しても結局は互いに裁きあい、私は生まれた時から1度も両親が仲良く会話をしている姿を見たことがなく、愛し合っていると感じたことはありませんでした。また、物心ついた時から、両親が一度離婚していることを知らされ、そこから復縁して今の私がいるという感謝よりも、両親は一度互いを憎み離婚したという事実や、そこから生まれてきた私は本当に愛されて生まれてきたのだろうか…という思いを抱え、幼い時から自分は愛されていないと思い続けてきました。
 
また、“このような家庭環境で育ってきたから、きっと自分も同じような結婚生活を送って離婚をしてしまうのだろう”と思うようになり、幼い頃から愛を感じてこなかった私は「幸せな結婚」に対して人一倍憧れを抱くようになり、また「真実の愛」ということについて誰よりも答えを求めて生きてきました。
 
私の名前は、当時教会に通っていた母が“キリストのかおりを放つ娘になるように”と聖書の御言葉から「かおり」と名付けられました。
 
第二コリント2章14~17節
しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである。いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか。しかし、わたしたちは、多くの人のように神の言を売物にせず、真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語るのである。
 
このような家庭環境の中においてぶどうの木と出会い、イエス様は“宗教”ではなく今も生きておられ、いつも私の内におられ、家族一人一人を救い、一つにして下さる唯一の神であることを体験体得してきました。
 
しかし、私以外の家族は聖書の御言葉に対し古い教え(単なる“決まり事”として御言葉を捉える教え)が残っていた為、肉に打ち勝てず、この世の情欲に負けてぶどうの木から離れていってしまいました。特に、長年聖書を学んでいた母は、ぶどうの木の冊子「神の国は力である~あなたの霊があなたに語る~」の最後のページ<実録>に「今までの教会は“私”を見て責め、時には追い出されたが、ぶどうの木は私を追い出すのではなく、私の中にいる“サタン”を追い出し、とりなして下さった」という証を書いたのにも関わらず、情欲の霊に捕われてぶどうの木を出て行き、否定をするようになりました。
 
そして、最終的に私だけが残り、高校・大学と主の導きにあって卒業し、この様々な社会問題が飛び交う世の中において、私はキリストのかおりを放って霊において聖く肉において清く生きていくことに対するサタンの攻撃とその策略、またそれに打ち勝つ聖霊の力とイエス様の愛と守りを体験させて頂きました。
 
 
2014年4月 私は社会人生活をスタートすることとなりました。勤務先は全国に拠点を置くとある会社の営業職であり、配属は感謝なことに私の地元である浜松支店となりました。
クリスチャンの私は就職先を決める時も、一つ一つイエス様に聞きながら就職活動を行い、その会社の内定を頂いた2013年12月24日には、ここからの歩みに対し御言葉を頂きました。
 
へブル11章10節
彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。
 
私はこの御言葉を頂き、その会社への就職は、“神がもくろむ都”であると語られ、この御言葉を握りしめ、初めての社会人生活を希望と喜びを持ってスタートしていきました。
クリスチャンとして社会に出ていくということは、どのような歩みなのか‥。自分より何年も先に既に社会人として日々生活を送っている兄弟姉妹の姿勢から学んできました。
 
第一コリント10章31~33節
だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。ユダヤ人にもギリシヤ人にも神の教会にも、つまずきになってはいけない。わたしもまた、何事にもすべての人に喜ばれるように努め、多くの人が救われるために、自分の益ではなく彼らの益を求めている。
 
第一テモテ4章12~16節
あなたは、年が若いために人に軽んじられてはならない。むしろ、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい。わたしがそちらに行く時まで、聖書を朗読することと、勧めをすることと、教えることとに心を用いなさい。長老の按手を受けた時、預言によってあなたに与えられて内に持っている恵みの賜物を、軽視してはならない。すべての事にあなたの進歩があらわれるため、これらの事を実行し、それを励みなさい。自分のことと教のこととに気をつけ、それらを常に努めなさい。そうすれば、あなたは、自分自身とあなたの教を聞く者たちとを、救うことになる。
 
これらの御言葉と兄弟姉妹の歩みから、何事をするにも福音の為に遣わされており、まだイエス様を知らない職場の人など仕事を通して出会う人たちに福音をしていこう!という思いで、日々社会に出て働いていました。
 
そんな中、私は一人の男性(Aさん)と出会いました。
Aさんは、私の直属の上司であり、当時新入社員で社会人になったばかりの私にとって、とても仕事ができ、面倒見も良く、頼りがいのある存在でした。Aさんには奥さんとお子さんがいました。一緒に上司部下として仕事をしていく中で、ある日Aさんから夫婦関係が上手くいっておらず不仲であることを聞きました。
私は、かつて自分自身も両親が不仲だったことで幼少期辛い思いをしてきたことや、そこから家族全員が救われ一度は一つになり、今の自分があるという体験から、Aさんもイエス様に救われ家族が一つになって欲しいとの思いを抱き、福音をしました。
 
福音を聞いたAさんは、最初「それが良いと思う人もいれば良いと思わない人もいる。だから、最初からその道が正しいかのように決めつけて言ってくるのは良くない」と言いました。
しかし私は、いつか御言葉こそ真理でありAさんやAさん家族にとって一番幸せな道であることを分かる日がくる!と信じ、救われるよう祈ってきました。
 
そんな中ある日、Aさんから二人でと食事に誘われました。それまでの私は、“既婚者と二人きりで食事なんてあり得ない。どこで奥さんや周りの人に見られ、何か関係があるのかと変に誤解されるも嫌だ”という思いがあったので最初は断ろうと思っていたのですが、先日福音をしていたこともあり、もしかしたら家族の問題等あまり多人数では話せないことなのかもしれないと思い、二人で食事に行くことを了承しました。しかし、二人で食事をしていく中で元々のAさんの肉の部分(ボディタッチが多い・思わせぶりな言葉等)をそのまま受けてしまい、私自身も霊のこと(福音)より気づいたら肉の思い(頼りがいのある男性・不仲でかわいそう)が強くなり、結果、情欲の霊によって私はAさんと不倫というサタンの罠にひっかかってしまいました。
 
今まで世の中の不倫報道に対し“不倫なんてありえない!不倫する人はどうかしている。私は既婚者と二人きりで食事さえも無理!”と思っていたのにも関わらず、気付けば情欲に負け、上司と不倫関係になってしまっている自分に対し、“どうしよう…。何てことをしてしまったんだ”と、仕事中も家にいる時間も自分を責め、どうしようもない思いや、現実逃避をしたい気持ちに浸っていました。
サタンの策略以前に、人としてあり得ない事と我にかえって理性が思えば思う程、こんなこと恥ずかしすぎて人になんて話せないという自分のプライド(プライドの霊)から、家族や友人、ぶどうの木の兄弟姉妹にも相談できずにいました。
 
Aさんとの関係も、最初はAさんがどんなに口では私の事を好きと言ってきても、所詮私は遊び相手なのだろうと思っていたのですが、次第にAさんが自分の母親に私のことを話し、Aさんの母親も今の奥さんと離婚をして私と一緒になることを希望していることを知りました。また、奥さんにも別居したいと話していることから、Aさんは私に対し本気であるのだと理解して、“どうしよう”と思いながらも、気づけば私自身もAさんとの将来を本気で考えるようにまでなってしまいました。
 
霊では、“不倫は絶対にいけない。幸せになんかなれない。何より奥さんとお子さんの気持ちを考えれば胸が苦しくなる。両親が不仲で苦しむ子供の気持ちは体験してきた私自身が一番分かっているはずなのに、今となってはその環境を他の家庭に作ってしまい私は何てことをしているのだ”と思い、口ではAさんに対し何度も、「まずは家族としっかりコミュニケーションをとって奥さんと話し合うように」と言っていました。しかし、結局私の内側は肉の快楽・情欲に負けてしまい、これまで3代4代の霊力の中で両親に対して抱いてきた頼りなさや寂しさを、頼りがいのあるAさんの存在で埋めようとしていました。
 
しかし、次第にAさん自身が、家庭をとるのか私をとるのかをはっきりしない状況や、いつも自分のどこかでこの道は間違っているという思い(霊の思い)がくることに対し、Aさんへの情(肉の思い)が強すぎて霊の思いを無視してしまっていることがとても苦しく、休憩時間になれば一人でトイレやお店で泣いていました。
 
そんな中、仕事の合間に、近くで働いているぶどうの木のM兄弟と偶然は無く道で会いました。私はM兄弟の顔を見た瞬間、涙が溢れ出てしまいました。その夜は、ちょうどぶどうの木の兄弟姉妹が集い交わる日であったこともあり、すぐに皆と会って話す時間が与えられました。
私はその時、牧師や兄弟姉妹に「クリスチャンは離婚した人となぜ結婚したらいけないのですか!そんなにいけないことなのですか!」と無心で投げかけていました。
 
そのような発言をした私の状態を、牧師はイエス様に戻って聞いて下さり、翌日「聖霊が二つの御言葉を通して、あなたの今の状態を教えてくれた」と話して下さいました。
 
箴言17章25節
愚かな子はその父の憂いである、またこれを産んだ母の痛みである。
 
箴言18章1~3節
人と交わりをしない者は口実を捜し、すべてのよい考えに激しく反対する。愚かな者は悟ることを喜ばず、ただ自分の意見を言い表わすことを喜ぶ。悪しき者が来ると、卑しめもまた来る、不名誉が来ると、はずかしめも共にくる。
 
第一テサロニケ4章3~8節
神のみこころは、あなたがたが清くなることである。すなわち、不品行を慎み、各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲をほしいままにせず、また、このようなことで兄弟を踏みつけたり、だましたりしてはならない。前にもあなたがたにきびしく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて、報いをなさるからである。神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためである。こういうわけであるから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、聖霊をあなたがたの心に賜わる神を拒むのである。
 
牧師は聖霊により、これらの御言葉を持って「Aさんと恋愛関係にあるでしょ?」と私に問いただしました。私はそう言われた瞬間、涙が止まらずこれまでのことを正直に話しました。
 
私は、その日の前日に、あまりの苦しさにAさんに別れを告げていましたが、御言葉を通して、今の私が霊的にどんな状態にいるかを牧師に示してくださったイエス様の愛とあわれみにより、これまでの自分がしてきたこと、不倫というサタンの罠にはまってしまっていたことを明るみにし、悔い改めることができました。
 
第一コリント6章15~20節
あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。それとも、遊女につく者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。しかし主につく者は、主と一つの霊になるのである。不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。
 
そして、改めてAさんにも、私はクリスチャンであり、聖書には「離婚してはならない。もし、離婚したとしても元の妻と和解しなさい」と書かれてあるから、Aさんとは絶対に一緒にはなれないことや、ご家族とのことも御言葉に従った時に必ず一つになれるからもう一度しっかり家族と向き合うべきだと話をしました。そしてもう一度私自身の証も話し、ぶどうの木の「一つになろうよ!!~命の絵本・命の糸に出会う本~」の絵本を通し、Aさんはイエス様を信じ救われました。
 
また、Aさんと牧師が直接話す機会も与えられ、牧師は徹底的に、聖書には悪霊の存在が書かれてあり、Aさんが好きになった私は“キリストのかおり”ではなく、遊女の霊に導かれて不倫に至らせ、時間とお金と優しさを奪う“遊女のかおり”であったことを話して下さいました。
また知性においても、今後不倫をして結婚したとしても絶対に上手くいかないことを話して下さり、何より人間は死んだあとに天国か地獄かの永遠の世界があり、不倫をしていたら地獄行きであること、だから徹底的に不倫はいけない、ましてや一度離婚した人がクリスチャンの私と一緒になることはできないことをAさんに話して下さいました。
 
これらの言葉と教えは、救われたAさんの中に強く突き刺さり、何の反論もすることなくすんなりとその言葉を受け入れ、ダメなものはダメ!このままいったら地獄行き!という真理(御言葉)に立ち、その時を境に以前のような不倫関係にならないようにと聖霊が働いて下さり、現実的な男女の情欲関係からは解放されました。
 
しかし、私に対するサタンからの攻撃はここで終わらずにいました。それは、Aさんの奥さんからの訴え・200万円の慰謝料請求でした。
 
結局、これまでの不倫関係はAさんの奥さんにも知られており、ずっと探偵をつけられ、証拠写真まで撮られていました。
訴えられた私は、当時仕事がとても忙しかった為、弁護士へ相談に行く時間も無く、相談に行ってもお金が都度発生し、とても何回も相談へは行けない状態でした。だからといって、周りの友人や神の家族にも、“こんなこと恥ずかしすぎて話せない”という自分のプライドの方がまたもや優先し、次なる敵の矢・お金の問題に対して、又、話せずにいました。
ちょうどその時期に、私は神の家族と共に聖書の舞台となったトルコへの旅行が主にあって与えられたのですが、当時私はまさに裁判の最中であったのにも関わらず、その事を皆には話せずに一人で抱え、いつ弁護士から電話がきても出られるようにとそのことばかり気にしていました。
 
私は、生きていく中で世の中の誰にも言えない思いを抱える辛さや、訴えられたことで、“結局Aさん家族は元々円満であり、Aさんが言っていた不仲も嘘だったのか。世の中から見れば、私との再婚を勧めてきたAさんのご両親は一切悪くなく私だけが悪いと判断され、皆で私をはめていたのか!Aさん家族のことも、Aさんとは話してきたつもりなのにそれは何一つ分かってもらえず結局お金なのか!”と納得のいかない思いによって、行き場のない憎しみや裁き、妬みを抱え、まるで“鬱状態”のようになり、仕事中も突然涙が出てきては止まらず、何度もトイレに行っては泣くという生活を繰り返していました。
会社から帰宅する時や家に入る時も、まだ探偵がいるのではないか、誰かに付きまとわれているのではないかという強迫観念に襲われ、何度も後ろを振り向きながら歩いていました。
 
このように、訴えられ慰謝料を請求された時から、私の中でこれまでの22年間全てが爆発して崩壊したかのような思いになり、AさんやAさんのご家族、この世の中への憎しみでいっぱいで全てがどうでも良くなり、会社の中でも平気でAさんと口論をするようになりました。
 
同じ職場の人たちにも不倫関係であった事が知られてしまい、その噂は他の部署や支店にまで広がっていきました。
 
その後Aさんが他の支店へ異動となり、職場は別々となりましたが、私の支店には匿名で「あなたの会社には上司と不倫をしていた社員がいる。証明させるべきではないのか。会社としてどう受け止めているのか」といった電話がかかってきたこともあり、私にばかりこれでもかと攻撃がきました。
それに対し、新たな環境に移り過去の不倫に対しても職場でふれられることなく働いているAさんやAさん家族を許せず、もうどこの誰が言い広めているかも分からないという思いから、会社の人はもちろんのこと、世の中で出会う一人一人を最初から疑い、占うようになっていきました。
ここまでひどくなっていても神の家族にも言えないまま、だからと言って毎週会うことも辛くなり、突然無断で集会へ行くことを辞めてしまいました。私の家族同様、私も3代4代の情欲の悪霊についにやられて、闇の世界に転落した瞬間でした。
ぶどうの木とも離れ、完全に孤独となり、よく世の中で耳にする“墓場まで持っていく”ということはこういうことなのかと、まさに私はこの言葉のように一生誰にも話さず、墓場まで持っていくのだと思いました。
 
200万円の慰謝料は、Aさん自らが、自分が悪かったからといって銀行から借りて支払ってくれましたが、私は自分の義で、Aさんが毎月銀行へ返済する金額の半分は自分も払うと決めていました。
当時の私は、大学費用を両親が立て替えて払ってくれていた為、毎月5万円ずつ両親へ返済をしていましたが、慰謝料請求・Aさんへの支払いにより出費が増え、お金にも追われるようになりました。
 
食欲も無く、食べても太らず、一気に体重が8キロも落ちてしまいました。
便秘にもなったり、血便の日々が続いたりと、身体も、そして精神的・金銭的にも、全てがどん底であり、当時22歳の私にとって一人で抱えるにはとても大きな問題で、押しつぶされそうになりました。サタンはクリスチャン(羊)を群れから離し、一人孤立させ、ヤギにして滅ぼします。まさにそこにおとされていたのです。          
 
ぶどうの木と繋がり御言葉を握りしめて歩んでいた頃の私は、いつも世の中のことはイエス様かサタンからかのどちらかであり、サタンからの思いは戦うことを教えてもらってきました。ですが、今回自らのプライドによりぶどうの木と離れてしまい、何がサタンからかも分からずに、世の中のことや一つ一つの思いをそのまま受ける=サタンの放つ矢に当たり放題の歩みしかできず、世の中とは、各自がこんなにも自分のことで精一杯であり、とても孤独な世界であるということを味わいました。
私自身も、ちょっとしたことでいらつき、誰に対しても“この人は表面上笑ってはいるけれども、心の中では絶対に違うことを思っているはず”と最初から人に対し占い、警戒心を持ち、裁くようになりました。
 
また、ぶどうの木では、聖書から皆がキリストの肢体であり教材であると語られ、牧師はイエス様に聞きながら兄弟姉妹それぞれが日々語られたことの報告メールを、一人一人にも転送してくださっているのですが、私がぶどうの木から離れてからも、牧師は私に転送メールを送って下さり、群れに戻ることを呼びかけて下さっていました。
霊の自分は、この真っ暗闇の世の中で、牧師からの転送メールに書かれてあることだけは真実であることが分かり、求め、読まずにはいられませんでした。メールには、兄弟姉妹皆がそれぞれ日々の生活の中でイエス様からではない言動・サタンからの攻撃を素直に正直に明るみに出し、悔い改めて誠実に前進している内容がたくさんありました。
 
私は、いつもその転送メールを見ながら、「私も、自分がしたこの過去の過ち全てを明るみに出して、イエス様の御前でごめんなさいと悔い改め、クリアにして真っ白な人生を歩み直せたらどんなに気持ちが良いのだろう。毎日泣いてばかりの生活から、毎日笑っていられる生活に変わる日はくるのだろうか」と、いつもぶどうの木の皆の歩みが羨ましく、当時の私にとっては眩しすぎる程の歩みでした。
その反面、もうここまでの過ち、しかも社会的にも罪のある過ちを犯してしまった私は、今更無理という思いが強くあり、いつも霊の思いと肉の思いに挟まれ悶々としていました。しかし、ずっと私を神の愛で追いかけて下さる牧師や兄弟姉妹に対し、まずは人として本当の理由を話し謝罪をしなくてはと思い、約半年ぶりに牧師に会いにいきました。
 
牧師を見た瞬間涙が止まらず、これまでの期間に起きたこと(訴えられたことや社内で受けてきたこと)を話し、挙句の果てには「私だけが悪いのですか?家族って何ですか?夫婦ってなんですか?結婚って何ですか?」と牧師に訴えました。
当時の私は、不倫がいけないことは分かっているつもりでした。しかし、心の底から納得できておらず、本気で誰かを好きになる気持ちがこんなにもいけないことなのかと、不倫以前に人を本気で好きになるという気持ちさえ全否定されている気持ちになりました。また、愛の無い夫婦でも「夫婦」と言い、お金までも請求する権利があるのか。結局お金で繋がっていても夫婦としての特権があり、家族なのか。ならば、愛が無くてもたった法律上繋がっているだけで守られるというのか!と、納得がいかず、なんで!?という思いでいっぱいでした。
そのような状態の私に、イエス様は兄弟姉妹を通してこの御言葉を与え、当時の私の状態を示して下さいました。
 
箴言30章11~20節
世には父をのろったり、母を祝福しない者がある。世には自分の目にみずからを清い者として、なおその汚れを洗われないものがある。世にはまた、このような人がある-ああ、その目のいかに高きことよ、またそのまぶたのいかにつりあがっていることよ。世にはまたつるぎのような歯をもち、刀のようなきばをもって、貧しい者を地の上から、乏しい者を人の中から食い滅ぼすものがある。蛭にふたりの娘があって、「与えよ、与えよ」という。飽くことを知らないものが三つある、いや、四つあって、皆「もう、たくさんです」と言わない。すなわち陰府、不妊の胎、水にかわく地、「もう、たくさんだ」といわない火がそれである。自分の父をあざけり、母に従うのを卑しいこととする目は、谷のからすがこれをつつき出し、はげたかがこれを食べる。
わたしにとって不思議にたえないことが三つある、いや、四つあって、わたしには悟ることができない。すなわち空を飛ぶはげたかの道、岩の上を這うへびの道、海をはしる舟の道、男の女にあう道がそれである。遊女の道もまたそうだ、彼女は食べて、その口をぬぐって、「わたしは何もわるいことはしない」と言う。
 
この御言葉を持って、牧師は私に、「“自分”ではなく、遊女の霊にまかれて起きたことであり、他の人はサタンがあなたを滅ぼすために使っている駒にすぎない」と語って下さいました。そして、「自分とイエス様との関係の中で、あなたはイエス様を裏切る不倫をした時点で、その先にどんな事があろうと、全て間違っているし、刈り取ることになる。不倫相手やその家族が、慰謝料をとって上手くいっていると思うのか。そんなわけないでしょう。彼らはイエス様を知らなければ、一生サタンに翻弄されて生きて、死んだら地獄行き」と語られ、私はハッとしました。
まさに、その時の私はこの御言葉通り、「何も悪いことはしていない」と言っており、心底不倫はなぜいけないのか、このままいったらどんなに危険な道であったか分かっていませんでした。そしてこの御言葉から、まだまだ遊女の霊に捕われていたことが明らかにされました。
 
知性においても「どんな言い訳をしても、どれだけ人のせいにしても、不倫は絶対にやってはいけない事。あなたは人のご主人を奪おうとした。向こうはどんな状態であろうと国(上に立つ権威)が認めている夫婦であり、家族です。他人と言われて当然です。門を開いて、サタンにチャンスを与えてしまったあなたが悪いのです。戦うことへの怠惰、肉欲におぼれて、そこに足を踏み入れた時点で、まいたものを刈り取ります」と語ってくださり、霊においても知性においても何故不倫はいけないのかしっかりと理解し目が覚め、これまで自分が抱いてきた思い全てを悔い改め、自分を捕えてきた遊女の霊をはじめ、様々な悪霊を追い出しました。
そして、「神殿は3日で建て直せる」という御言葉通り、もう一度自分の人生をやり直したい!と宣言し、AさんやAさん家族を愛し許し祝福し尊敬し、再出発を切ることができました。
 
マタイ7章1~2節
人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
 
ローマ12章14節
あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。
 
ヨハネ2章18~22節
そこで、ユダヤ人はイエスに言った、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか」。イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。
 
慰謝料の支払いも、もともとAさん自ら払うと言っていたこともあり、牧師を通して「Aさんが払うと言って払ったのだから、自分の義でしゃしゃり出て払うことはしなくていい。払うことで、それが終わるまで2人の間の悪霊力が切れない。慰謝料は、Aさんが払うと言葉にした時点で、彼と妻との問題で、彼の罪に対する謝罪料。しかしながら、夫婦として夫が、借金をして利息を払い、妻にお金を返済する事自体、共有財産を失い、神は妻にも、愚かで損する罰を与えておられる」と語られました。そして私がすべき事は、大阪での大学時代、私がしっかりとぶどうの木=イエス様と繋がり、自分とイエス様との関係を築くようにとイエス様がぶどうの木を通して4年間与えて下さった交通費(約240万円)に対し、しっかりと誠意をもってイエス様の恩に報いること=イエス様との関係を築き、繋がり、御言葉に従って忠実に歩むことの方が大切であると金額を通しても語られ、Aさんへ払うことを辞めました。
私が払わなくなってからもAさんから請求されることは一切無く、結局私はAさんに1回返済しただけで金銭的にも守られ、これまで通り思い煩うことなく両親への返済も続けられるようになりました。
 
家族に対しても、特に母親とはいつも隠し事ばかりで、どうせ怒られる・・という相手への占いと思い煩いで話せずにいましたが、もう一度イエス様に繋がった時、姉妹も共に立ち会って下さり素直に正直に誠実に、肉の甘さのゆえにサタンの策略により不倫をしてしまい、その後訴えられたことやAさんも救われ関係をしっかり断つことができたことを話すことができました。今まで親子間において隠し事は当たり前であった関係から、全てを包み隠さず話せる関係へと変われたことは本当に嬉しく、また一つ重荷がとれた瞬間となりました。
 
会社では、不倫をしていた過去に対し陰口を言われることもありましたが、それはサタンの仕業であると御言葉を握りしめ、その人を見ずに悪霊を縛り上げ、許し執り成す訓練の日々でした。
 
第一ペテロ3章8~9節
最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛を持ち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。
 
ローマ12章19~21節
愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。
 
社内にいる時は、嫌な思いになる事が多くありましたが、幸いな事に、主にあって働く時、職種自体は本当に楽しく、働くことが嫌になったり苦痛と感じることは一切ありませんでした。
 
そんな中2016年10月、私に名古屋支店への転勤の辞令が出ました。
ずっと環境を変えたかった私にとってはとても感謝なことでしたが、その名古屋支店にはAさんが既にいました。私は、Aさんが名古屋支店にいると気づき、“最初はなんでまた同じ職場?嫌だな‥”と思っていましたが、もう既に終わったことだし、嫌な思いはサタンと戦えばいいことと思い、重要な事とは捉えずに神の家族にも話していませんでした。
しかし、改めて当時を振り返った時、結局私の中にまだAさんへの思いが残っており、だからこそもう既に終わったこととして切り替えなくてはやっていけないと思い、神の家族に対しても、プライドの霊により又もや!素直に話せず、更には自分自身をも血肉で見てしまい、こんな思いが残っていることを何て思われるのだろうか…といった占いの霊に捕われていたことに気づきました。そんな私の行きつく先は、結局またヤギ、いつも孤立でした。
 
そのような状態での名古屋での生活でしたが、仕事面においては、仕事量も幅も増えたくさんの経験をさせて頂くことができ、両親への返済も滞りなくできていきました。
しかし、私の過去の不倫についてはすでに多くの人に知れ渡っており、飲み会になれば当たり前のように周りからからかわれ、管理職の方たちからは仕事中もからかわれ、どうしても仕事上Aさんと話さなくてはいけない時も、その姿を見て陰で笑われることもありました。
 
この状態もこの世的に言えば全て自業自得、これまで社会人として会社に迷惑をかけてしまった分、耐えて精一杯働かなくては!もっともっと頑張れる。職種自体はとても楽しいし、それなのに人間関係が嫌だからという理由は単なる逃げではないか。それに私は両親への返済があるから今のお給料でなくてはやっていけないし…という思いだけで乗り越えてきました。
 
2017年1月、お正月に牧師達と交わった時、牧師から「職場はどう?」と聞かれ、その時私は聖霊により、実はAさんと今同じ職場であることを初めて話しました。 本来すぐに話さなくてはいけない大事なことなのにも関わらず話してこなかったこと、話さなくなってしまう自分の霊的状態を吟味し、悔い改め、今までは社内の状態も一人で戦ってきましたが、牧師兄弟姉妹も共に戦って下さり、Aさんとの関係も守られるよう祈って下さいました。
 
そこからの1年、Aさんと同じ職場という環境は変わらないまま、日々サタンからの思いと戦い、それでも毎日が楽しい!と思い一生懸命働いてきました。
 
プライベートでは、様々な男性との出会いがありました。
そんな中、私と同じ職場の後輩(男性)との出会いがありました。 私はその彼が私に好意を抱いていることを周りの人たちを通して知り、彼自身も私によくアピールをしてきていました。しかし、彼は学生時代に付き合ってもいない女性と関係を持ち、妊娠・中絶させたという過去があることを私は耳にしていました。 彼と交わっていく中で、彼自身がその過去に対しどう思っているのかを改めて聞き、私もかつて神の家族にしてもらったように、サタンの存在や、知性においてもどれだけいけないことであり危険であることかを証をもって語り、彼は悔い改めてイエス様を信じ救われました。
 
私はそれまでずっと福音の為と思い彼と向き合ってきていたのですが、彼が救われてからも連絡を取り関係は続いていました。そんな私に牧師や兄弟姉妹から、彼を結婚相手として考えられるのか?と聞かれました。
 
改めて振り返った時、私にはいつも“私の過去の過ち(不倫)を理解し、その過去もひっくるめて私のことを好きになってくれる人がいい。その過去を忘れさせてくれる人がいい”という思いがありました。それは、彼に対してだけでなく、不倫後新たに出会った男性全員に対しても求めていたことでした。
彼の場合、すでに職場が一緒の為、噂を通して私がかつて不倫をしていたことを知っていましたし、私も証として話していました。なので、その事も理解した上で好意を抱いているものだと思っており、それが良いことだとも思っていました。
彼の過去(中絶)に対しても、“私も過去に過ちを犯してしまったから彼の気持ちが分かる。それに、相手の女の子も可哀想…”と、情で彼を見たり、相手の女の子側の気持ちになって彼を裁いてしまっていました。見方がすべて肉で、この世の人と何ら変わらない、完全に霊がめくらつんぼの私でした。
本来、私自身は過去の不倫に対し、霊的にも肉的にも語られ、なぜいけなかったのか心から悔い改めて、もうそこにはいない!二度とサタンの策略にはかからない!全てが新しいキリストのかおりであり、いつもその第三の天に立って相手と向き合える特権に預かっているのにも関わらず、彼との出会いによって情で古い自分・過去に捕われ、またしてもその霊的状態の中で人と向き合っている自分の現状が明るみにされました。
 
このような霊的状態の中で、もし彼と結婚し彼との間に子供ができた時、私はきっと「彼にとっては初めての子供ではないんだ・・」と相手の過去を攻めるのだろうと思いました。
また、きっと彼も今の霊的状態の私のままであった場合「過去に不倫した人だから」と互いの間にサタンが動き、お互いの過去がつまずきとなり、互いを攻める武器となってしまうのだろうと思いました。
 
第一コリント6章12節
すべてのことは、わたしに許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは、わたしに許されている。しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。
 
いつも私に最高のものを与えて下さる神が、今回彼に対し福音の為に遣わされたとしても、彼を結婚相手として与えるだろうか・・。私自身も、もっといい人がいるのではと思うようになり、イエス様からの思いでは無く、周りの声に踊らされてきたことにも気づきました。そして、このまま彼との交わりを続けていくことは互いの益とはならないと語られ、彼にも素直に正直に誠実に自分の思いを話しました。
 
彼が過去の犯してきた罪を悔い改め、救われる為に私を使って頂けたことは万事が益となり、一クリスチャンとしてとても感謝なことでした。そして、その後も関係が続いたことで私の内側にあった、まだまだ解放されなくてはいけない部分・自分の過去に対して自分をグサグサと刺し許せない思いや自己卑下があることを示されました。
 
Aさんに対しても同じ職場で顔を合わせる中で、今度は自分の内側に“もしあの時不倫関係になっていなければ、元上司・部下として周りの人達のように普通に会話ができていたのかもしれない”という、過去への後悔やAさんへのなかなか消え切らない思いがあることに気づかされました。
これまでの人生で初めて本気で好きになってしまった相手が既婚者であったことや、当たり前ではありますがそれでも叶わず、人生で初めて弁護士から手紙が届いたり、探偵に後を付けられたりしたことに傷つき、AさんからもAさんのご両親からも結婚まで言われ、本気で真剣に向き合って覚悟を決めようとした私のあのころの純粋さと、まっすぐに人を好きになる気持ちを返して!という思いがありました。
子連れで歩く夫婦を見ては心から喜べなくなってしまった自分、人をすぐ疑う自分…。全てAさんとの不倫と、奥さんからの訴えによって私は変わってしまったのだと決めつけ、全てを返して!という気持ちがふとした時に出てきてしまう状態であり、まるでこの世的に言えば“後遺症”かのような思いがきてはサタンと戦い、それでもまた攻撃してきて‥の繰り返しでした。
 
そのような状態の私に対し、牧師は「あなたにとってイエス様はどこにいるのか!何の力も無い。そんな状態にさせられて自分が熱いストーブ(聖霊の炎)となって周りの人の救いの為に影響を与えられない環境になっているのならば、環境を変えないとね!」と話して下さいました。
 
環境を変える…それは、今の職場を変えることでした。最初は、どうやって?と思いました。今まで、仕事に対し、まだやれる!もっと頑張らなきゃ!と思ってひたすら走り続けてきた為、私はこの会社での社会人生活に区切りをつけることを一度も真剣に考えたことはありませんでした。というよりも、両親への返済にずっと縛られていた為、とても考えられる状況ではありませんでした。
そんな私に、牧師からの言葉により、初めて一度立ち止まりこれまでの約4年間を振り返る時が与えられました。そして、今後についてイエス様に戻って聞いていった時、3つの御言葉を頂きました。
 
箴言4章10~27節
わが子よ、聞け、わたしの言葉をうけいれよ、そうすれば、あなたの命の年は多くなる。わたしは知恵の道をあなたに教え、正しい道筋にあなたを導いた。あなたが歩くとき、その歩みは妨げられず、走る時にも、つまずくことはない。教訓をかたくとらえて、離してはならない。それを守れ、それはあなたの命である。よこしまな者の道に、はいってはならない、悪しき者の道を歩んではならない。それを避けよ、通ってはならない、それを離れて進め。彼らは悪を行わなければ眠ることができず、人をつまずかせなければ、寝ることができず、不正のパンを食らい、暴虐の酒を飲むからである。正しい者の道は、夜明けの光のようだ、いよいよ輝きを増して真昼となる。悪しき人の道は暗やみのようだ、彼らは何につまずくかを知らない。
わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、わたしの語ることに耳を傾けよ。それを、あなたの目から離さず、あなたの心のうちに守れ。それは、これを得る者の命であり、またその全身を健やかにするからである。油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。曲った言葉をあなたから捨てさり、よこしまな談話をあなたから遠ざけよ。あなたの目は、まっすぐに正面を見、あなたのまぶたはあなたの前を、まっすぐに見よ。あなたの足の道に気をつけよ、そうすれば、あなたのすべての道は安全である。右にも左にも迷い出てはならない、あなたの足を悪から離れさせよ。
 
ヘブル11章6~10節
信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。
 
第一ペテロ2章3~6節
あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。聖書にこう書いてある、「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終わることがない」。
 
私はこれらの御言葉を通して、今ある自分の道が私にとって霊的に“悪しき者の道”であり、そこを離れ、信仰によって受け継ぐべき地(仕事を辞め、浜松へ戻り新たな環境)に出ていくことだと示され、確信を得ました。そして、これまでずっと楽しいと思って働いてきたつもりの今の仕事に対し、本当はとても辛い4年間であったという思いに気づかされました。
 
第一ペテロ2章11節
愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。
 
肉では辛く、何度も環境を変えたく、それでも変えられませんでした。“ただただ歯を食いしばって働くことが会社員。セクハラ・パワハラ発言を受けても耐えなきゃいけない、それが会社員”そう思って働いてきました。福音の為に働きたくても、そこに至るまで沢山の思いが邪魔をし、なかなか福音の為にと突き抜けて働くことができなくなっていました。
 
またAさんとの関係も、切れていたはずなのにも関わらず、また名古屋で再会することになってしまった事も、その時の私の中にはまだAさんへの気持ちが残っていたことから、Aさんと完全に切れることを心のどこかで寂しいと思い、神ではなく、人(Aさん)に頼り、求めてしまっていました。その為、私の中に残っていた「情欲」によりサタンに門を開いてしまい、その結果またAさんと名古屋で再会し、もっと悪い環境へとなってしまいました。
私は名古屋へ転勤になった直後、同じ職場の方に傘をわざと盗まれるといったことがありました。傘とは霊的に「守り」を意味しており、その傘(守り)を盗まれたことから、霊的に、自らイエス様の守りの外に出てしまったのだと、牧師を通して解き明かされました。
 
このように魂に戦いをいどむ苦しい約4年間であったという自分の気持ちをだまして無理やり我慢し、見えなくさせられ、更には自ら守りの外に出てしまっていた私に、御言葉がもろ刃の剣となり、私の情欲を刺し通し、光となって本当の私の思いを照らして下さいました。そして、初めて自分の魂がどれだけ大変だったのか、これからは、イエス様だけを信頼し、命の泉が流れ出る心を守らなければならないと気付かされました。
 
会社を辞めることも、これまでは自分の価値観=3代4代に渡って植え付けられてきた律法で、「辞めることは逃げ」と捉えてきました。もちろん何でも辞めることが良いこととは思いませんが、今回の私のようなケースの場合、明らかにAさんと同じ環境でいることは良い方向に繋がっておらず、会社が使われて、そのような状況をからかい面白がっている状態では、私自身はもちろん、Aさんや周りの同僚にとっても良い環境とは言えずサタンの思う壺です。自分だけでなく、周りの状況も見渡した時、今回辞めて新たな環境へ移ることは賢い選択の一つなのだと兄弟姉妹を通し語られ、初めて‟辞めてもいいのだ”と新たな選択肢が与えられたことにより、とても自由な身になりました。
 
そして、内定を頂いた日からちょうど丸4年後の2017年12月24日、私はやっと本当の自分の思いと向き合い、退職することを決心しました。
住まいについても、それまで私は会社の社宅を利用していた為、会社を辞めるということは社宅も出なくてはいけません。浜松に戻ってからの住まいもイエス様に戻り聞いていた時、ちょうどぶどうの木のある姉妹が引越しをし、新たなアパートへ導かれることになりました。
そのアパートは、すぐ近くに牧師たち家族がいたり、週に1度神の家族が集まり交わりを持つ場として提供されていたりと、いつも神の家族が共にいて祈り支えて下さる環境であり、ちょうど1部屋余っていることからも、イエス様は私が会社を辞め浜松に戻ることも全てご存知であり、住まいも思い煩うことの無いよう、又、姉妹との初めての同居で二度と孤立してヤギにならないようにと、全て備えて下さっていました。
 
退職の旨を上司へ話すタイミングも、最初は次の仕事を決めてから辞めるべきだと思っていた為、早く新たな職場を見つけなければならないと思っていました。
しかし、イエス様が私におっしゃったことは、新たな職場を見つけることよりも、まずは私にとって悪しき者の道となってしまっている今の環境(職場)を離れ、浜松へ帰ることでした。
これまでの私は、次の職場が見つかってもいないのに辞めるだなんてどうやって生活をしていけばいいのだろうか‥という不安や焦りがありましたが、頂いていた御言葉が全てであり、気付けば私自身1日でも早くその職場を離れたいという思いでいっぱいで、いろと言われてもいられない状態になっていました。肉に主導されてきた歩きが、聖霊により、神の御霊に導かれ、真に神の子とされていました。
 
何より、この会社への就職が決まった際に頂いていた「神のもくろんだ都」の御言葉に対し、私はこの会社で働くことを握り、それが神のもくろんだ都とも捉えていた為、ここでこの会社を辞めてしまったら頂いていた御言葉に対し不忠実であり、単なる刈り取りではないかという思いがありました。しかし、牧師を通し、「それは、全てを手放し、“海を渡る信仰”で一歩踏み出して仕事を辞めた時に解かることだよ」と語られました。
 
マタイ14章25~33節
イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。 しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった。舟の中にいた者たちはイエスを拝して、「ほんとうに、あなたは神の子です」と言った。
 
この御言葉を通して、様々な不安や思い煩いに目を向けることは、まさに弟子たちが“風を見て恐ろしくなっている”状態と同じであると示され、そうではなくイエス様だけを仰ぎ見て歩む信仰を語られました。そして2017年12月25日、上司へ退職を希望する旨を話しました。
 
上司へ、これまで楽しいと思って働いてきたが改めて立ち止まり振り返った時、かつての不倫相手と同じ環境で働いていることによって周りから受けてきたことがどれほど辛かったか、人生の中で全く新しい環境で働けるチャンスがあるならばその道を歩みたいと思い、それは今しかないという思いから辞めることを決心したということを、素直に正直に誠実に話しました。
上司からは謝罪を受け、辞めることを止められたり、せめて3月末まではいて欲しいという声もありましたが、最終的には最短の1ヶ月後の退職を理解して頂き了承を頂くことができました。
 
退職が決まってからも、サタンが今後の将来に対しての不安や、職を失うことの焦り等、様々な思いを持ってきては私を攻撃してきました。
ふと、なぜそのような思いを抱くのかと考えた時、これまで私は“その会社の為の自分”になっており、仕事を握り、知らず知らずのうちに会社に属していることが全てかのようになっていました。
その為、会社に属さなくなることへの焦りと不安に追われ、気付けばその会社のカラーに染まっている自分がいました。そして、その会社の価値観・雰囲気・やり方が当たり前かのようにまで思うようになり、一つ一つの物事への価値観も周りから「おかしいよ!」と言われる程、狂ってしまっていたことに気づかされました。
 
そのような自分に対して霊に戻った時、“私は私。どこに属していようが、誰といようが関係無い。私は、自分の体を持って神の栄光を現し、このGOOD NEWSを宣べ伝えるキリストのかおりなのだ”と改めて強く語られ、退職後の生活に対しての不安や焦りも一切無い伸び伸びとした自由な生活へと変わりました。
そして、再びキリストのかおりとして立ち上がった時、退職までの残り1ヶ月間、私の思いを遙かに超えた神のやり方で、一気に職場の方たちへ福音する機会が与えられました。
 
多くの方たちが送別会をして下さり、感謝なことに毎日が送別会のような日々だったのですが、その場を生かし、私自身これまで色々なことがあったが、いつも聖書から人として社会人としてどうあるべきかを学んできたことや、その中で今自分がどんな環境に置かれているか、また本当の気持ちを教えられ、環境を変え新たな場所で1から頑張りたいと思い退職を決めたことを話し、福音をすることができました。
福音をしていく中で、皆それぞれが、本当は辞めたいと思っていることや、今回の私のように辞めると決断できる勇気が羨ましいなど、一人一人の本音も聞くことができ、皆に必要な証であることも改めて感じました。こうして万事が益となり、最後の最後まで福音の為に使って頂き、喜びの内に退職を迎えることができました。
最終出勤日も、多くの方達からプレゼントや個別に連絡を下さったり、部署や支店を超えて退職を惜しむ声を頂いたりと、これでもかというほど、会社全体の皆さんから沢山の好意を頂きました。
 
最後はAさんからも、「4年間ご苦労様でした。そして、色々と申し訳なかった。ご家族やぶどうの木を大切にね」と声をかけられ、私も「本当にお世話になりました。そして私もすみませんでした。また新たに1から頑張ります」と言葉を交わすことができました。Aさんの口から“ぶどうの木”と出たことも、やはりAさんの霊は神の子であり、ぶどうの木=イエス様はどこまでもAさんを追いかけておられるのだと語られ感謝でした。
これまで私自身も「Aさんとは、話したら駄目!少しでも汚れたくない」と勝手に決めつけ、自分だけでなく相手をも裁き獄に閉じ込めてしまっていましたし、そう思わなければ同じ職場でやっていけないと思っていました。そんなお互いの関係に対し、最後の最後に和解の時が与えられたことは、本当に感謝なことであり、私にとっても荷がとれたようなとてもスッキリした気持ちで退職をし、互いの古いものを捨て去り、全てが新しい新たな人生へのスタートを切ることができました。
 
第二コリント5章16~17節
それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
 
そして、牧師を通しイエス様から、私が“この会社を辞める!”と決心し行動に移したことが、この会社に遣わされた目的であると語られました。さらに、ここまでとらわれ、また家族をイエス様から離した情欲の霊を知り、内にあったプライドの霊と自己卑下の霊を足の下にし、そこから完全に解放されたことこそが、内定が決まった時に頂いていた「神のもくろんだ都の成就」と語られました。私が海の上を歩く信仰でイエス様だけを仰ぎみて歩む時、必ずイエス様はすべて答えを与えて下さいます。時にかなって美しく、やっとここまでの4年間全てが私の益でしたと語れる自分となることができました。
 
ローマ8章28節
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
 
 
現在、私は4年間働いてきた仕事を捨て、新たに示された神のもくろんだ都・浜松で姉妹との共同生活をスタートしています。
姉妹との共同生活も、救われる前の自分にとっては、絶対に無理!とあり得ないことでした。しかし、イエス様に戻った時、私にとって新たな住まいでのスタートについても御言葉を持って教えて下さいました。
 
詩篇138篇8節
主はわたしのために、みこころをなしとげられる。主よ、あなたのいつくしみはとこしえに絶えることはありません。あなたのみ手のわざを捨てないでください。
 
使徒行伝28章30~31節
パウロは、自分の借りた家に満二年のあいだ住んで、たずねて来る人々をみな迎え入れ、はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。
 
ローマ11章26b~27節
「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう。そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、彼らに対して立てるわたしの契約である」。
 
私はこれらの御言葉を頂き、イエス様は私の為にみこころをなしとげられると約束され、住まいもすべて福音の為に使われ祝福されていくのだと語られ、喜びに満たされました。
姉妹との共同生活に対しても、互いがコミュニケーションをとり、いつも受けるより与える方が幸いで、互いの益の為にどうすることが良いか考えて行動することは、社会に出ていく中でとても大切であり、土台となることだと思い、日々訓練と捉え喜んで生活をさせて頂いています。部屋も、真っ白な壁で、まさにこれまでの全てが真っ白になり新しくスタートするにふさわしい神の幕屋であると、部屋の作りからも語られる日々です。
 
26年間生きてきた中で、仕事を辞めるということは一番大きな決断でしたが、だからこそ手放してみて初めて気づくこと、得ることが沢山ありました。 
当時の私は、この世の決まり(法律・善悪の判断)を頭では分かっていても、感情の方が優先してしまい、サタンの策略にはまり、気づいたらとんでもないところにまでいってしまっていました。不倫をしていた時は、いつ妊娠してもおかしくありませんでしたが、イエス様に守られ、そのまま妊娠をして出産や中絶をすることも無く、Aさんとの関係を切ることができました。
そして、結局Aさんのことも本当の愛ではなく、頼りになる=自分には無い地位・名誉・お金に惹かれていただけの単なる情欲にしかすぎず、サタンによりAさんのことを“好きにさせられていた”ことに気づかされました。
 
知性も心も全てが崩壊し、善悪の判断までしっかりとできなくなってしまうほど狂わされるという体験から、頭ではいけないと分かってもしてしまう、いつまでも消えない“情のしつこさ”を思い知らされました。それと共に、そんな私の目を開き、その状態を断ち切り解放させて下さったのは、家族でも友人でも仕事でも無く、御言葉(イエス・キリスト)と神の家族の愛だと分かり、ずっと私が求めていた「真実の愛」に対して答えを頂きました。
 
ヘブル4章12節
というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。
 
いつも御言葉がその時その時の私の状態を照らして下さり、私の内に突き刺さり、裸のようにされました。そして神は生きておられる神であり、この世の中の問題や、そこから続いていく裁きや憎しみ、行き場の無い思い、現実逃避したくなる思いに対し、人はイエス様に従った時、いつからでもどこからでもその悩みや問題をクリアにし、全ての人と和解して新しい人生を送れることを体験体得させて頂きました。そして、イエス様はその愛と憐れみ深さを、神の家族を通して私に示して下さいました。
 
私には、私のことをいつまでも“過去に不倫をした人”ではなく、いつも“新しく生まれ変わったキリストのかおり”として何も無かったかのように私と向き合い続けてくれる神の家族が傍にいます。
私がサタンにまかれ自分で御言葉に戻れずにいた時も、神の家族がイエス様に聞き、示された御言葉により目が開き、解放へと至ってきました。日々の生活の中で、サタンの策略にかかりそうになっている時には、時には厳しく愛を持って、霊でも知性でも分かるように戒め、正しい道へ歩めるよう導いて下さいます。この神の家族の愛を受け、いつまでも生い立ちや3代4代の中での固定観念を気にしながら生きる必要は一切なく、日々新しい自分となり、いつもイエス様が私を愛し許し共にいて下さることを、神の家族を通してあらわして下さいました。そして、解放されて終わりではなく、今度は自分が人と接する中でどう向き合わなくてはいけないか、自分が受けてきたことを、今度は世の中の人たちへ与える側となって向きあう姿勢を教えて頂きました。
 
また、私の中に残り、完全に忌み嫌ってこなかった「情欲の霊」によって自ら守りの外に出てしまった名古屋での1年半においては、情欲にまかれてこの世(人やもの、お金)に頼って生きても、その先に何も良いものは無かった!と教えられ、神が私に「すべて私(イエス様)に頼りなさい。私を信じてあなたの全ての道を委ねなさい。この世や肉の一時的な誘惑に騙されてはならない」と徹底的に語って下さった学びの期間であったと語られました。
 
本当に波乱万丈の4年間ではありましたが、それも全て「自分」ではなく、私を“キリストのかおり”として立たせまいとするサタンの策略であったのだと、こうして全てを手放した時はっきりと分かるようになり、本当に全てが益となり、いつも公明正大に明るく楽しい毎日を過ごすことができるようになりました。
そして、悔い改めてイエス様=御言葉に従って歩む時、いつまでも自分や周りを責める必要はなく、いつも第三の天から物事を見て歩めることこそ、“この世から救われている”という意味・特権なのだと改めて語られました。
 
第二テモテ2章21~22節
もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。
そこで、あなたは若い時の情欲を避けなさい。そして、きよい心をもって主を呼び求める人々と共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい。
 
ガラテヤ5章16~26節
わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。
 
エペソ6章10~12節
最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いある。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身に着けなさい。
 
 
改めてこの4年間、私が不倫の罠に陥り、ここまでの体験をするに至った理由を振り返った時、「家庭環境」が大きく影響していました。                                  
私は、両親の不仲に苦しみ、何歳になっても両親からの真の愛情を求めて生きてきました。
その愛を感じることなく、まるで両親との関係は大学費用の返済が全てかのようになってしまっている状況に対し、「それが愛?もっと親子の関わり方はあるんじゃないか」と思うようになっていました。返済に対しても、両親への恩として“月々の返済は必ず守らなきゃ”と、どんなに苦しくても続けていく覚悟や両親への思いで行ってきた反面、‟きっと返済が滞ったら両親は怒るだろう”と相手を血肉で見て裁き、“きっとこうなる”と占って決めつけてきました。
その結果、返済できるだけの十分な給料が与えられる会社だからという理由により、その会社を離れることはできず、だからといって職場においても家庭環境においても何も良くならず、むしろ自分だけがどんどん傷つけられ、孤立させられていくという環境へ追い込まれてしまっていました。
 
かつての不倫に対して、当時の私が牧師に無心で問いかけた「夫婦とは!?家族とは!?結婚とは!?」も、このような生い立ち・家庭環境からきており、“お金で繋がる関係は本物とはいえない!愛があるかないかが重要であり、愛があってこそ成り立つということを証明して!”という、私の中に根強く残っていた思いからきていたものであると分かりました。
そして、肉的にも何もかもを家庭環境や生い立ちのせいにするのではなく、一社会人として、一人の人間としての良識がどうであったかも問われ、御言葉や神の家族を通して語って頂き学ぶことができました。
退職後、私は自由な時間も与えられ、この4年間をゆっくりと振り返っていく中で、改めて「自分とイエス様との関係」がどうであったかを語られ、気づかされたことがありました。 
それは、この世に出て仕事をしていた4年間、いつもイエス様と繋がり100%明け渡して聞き従うという歩みができておらず、気付けば私を誰よりも愛し、いつも共におり、全ての解決策を与えて下さる神よりも、この世(仕事や人、お金)に頼り、この世からの解決策を求めてしまっていたということです。
何事をするにも福音の為にと働いていたつもりでも、気付いたら「忙しくて~」が口癖かのようになり、ある時はイエス様に聞けていても、ある時は自分のやり方で行っていたという生活をしていました。そして次第にイエス様よりも、この世の地位・名誉・富・他者との関係によって自己を確立するようになってしまっていた自分がいました。
 
それこそが「この世」であり、そのサタンの支配下であるこの世の中でイエス様の守り無しで生きていくことが、いかに人を破滅につなげているかを体験体得した4年間でした。
だからこそ、イエス様はそのサタンの支配下の中で犯してきた罪の身代わりとなって十字架にかかって下さり、助け主聖霊も与えて下さいました。
今回私が体験した「頭では分かっていてもできない」という自分の内側に根付いてきた情のしつこさ(3代4代に渡って血の中にある呪いたたりの霊・女預言者イゼベルの霊)や、かつての私の両親がそうであったように「離婚してはいけないと聖書は教えているから復縁したが、心から愛せない」という問題に対しても、それに打ち勝ち真に心が変えられ、互いに愛し合い許し合える力(聖霊)を与えて下さっているのです。私は、その特権を頂いている恵みを無駄にしていなかったかと問われハッとし、どんな時もすぐにサタンからの誘惑・情欲と戦い、御言葉に戻り信仰で立ち続けることができなかった自分の肉の甘さを気づかされました。
 
そして、全ての上におられる方・イエス様はいつも私たち人間に対し、「あなたの創造主である神を知りなさい。あなたの初めの愛としてわたし(イエス様)を知るようになりなさい。向き直ってわたしに従いなさい。そうすれば、わたしがあなたに新しい生き方を示そう。わたしが、人間の心のすべての切望に対する絶対的な答えであり、わたしはすべてを知っている。わたしがあなたの心を変え、あなたの思いを新しくする。わたしにはそれができる。わたしはそうしたいのだ!」と言って下さっており、どんな時も両手を広げて待っていて下さっているその神の愛に立ち返らされました。
 
どんな生い立ちや家庭環境であっても、皆この神の愛に包まれ生かされており、この愛に基づいて生きていく時、いつでも誰でも人生が愛に満ち、それが他者への愛にも繋がること。どんな両親であれ神が与えて下さった大切な両親であり、両親も神の尊い作品であること。私が今回不倫というサタンの罠に陥り霊も肉もぼろぼろにされ、この世に染まって生きた4年間であったように、両親にとっても苦しいここまでの人生であったこと。イエス様にあって許され、今生かされているように、私も両親を許し、いつまでも自分の占いや裁きで相手を“不仲な両親”という獄に閉じ込めてしまってはいけないこと。そのことを、肉的にもしっかりと理解し、一人の大人として両親と向き合っていく上でとても大きな経験となりました。
 
そして、こんなにも偉大で温かく、永遠に続く神の愛が傍にあったのにも関わらず、この肉の甘さ・情欲の霊により盲目とさせられ、この世に答えを求めていた自分がどれほどちっぽけであったか気づかされました。いかに世の中が情欲に溢れ危険な世の中であるか、その霊力にまかれどん底にまで落とされるサタンの策略や、そこから守り打ち勝つ御言葉=イエス様の力を体験してきたこの4年間が益となり、ここからの人生、一人でも多くの人がこのようなサタンの策略に陥ることなく歩めるよう使って頂けたことを感謝します。
そして、これからの人生、どんな環境においてもぶれることなく、この命から命に至らせる真のキリストのかおりを放てたことを感謝し、全ての栄光をイエス様に帰します。