金銭を愛する悪根っこの霊への勝利の証

 
 
私は、2008年11月に救われ、ぶどうの木に導かれました。当時、私は大学4年生で卒業を間近に控えていましたが、卒業が危うい状況にありました。それは、卒業課題が締め切りに間に合わないかもしれなかったからです。就職も決まらず、卒業も危ういことに対し「なんて自分はだめな人間なんだろうか」と思い悩む日々でした。その時にクリスチャンのクラスメイトを通してイエス様と出会い、私は救われました。はじめは疑っていましたが、祈ってみよう!だめだったらやめればいい!と、からし種一粒の信仰(どんな種よりも小さいからし種のように小さな信仰)で祈り始めたところからいくつもの奇跡が起こり、私は無事に大学を卒業することができました。祈りは聞かれるんだ!イエス様って本当にいるんだ!と神の存在を感じた体験でした。このことは私のはじめの愛、証となりました。
 
大学を卒業し、主にあって無事に就職もできました。イエス様が一人暮らしのためのアパートも与えてくださり、そのアパートには8年以上住みました。ですが、2017年の冬にイエス様から引っ越すことを示され、同じ市内でしたが引っ越しをすることになりました。引っ越しが決まった後、ぶどうの木の姉妹も共に住むことが決まり、新たな神の宮に2人で住むことになりました。共に祈り、神のために働く姉妹と生活できることはとても感謝なことでした。そして後に、この新たな神の宮への引っ越しは、神の愛に溢れ、私の命を守るとても重要な出来事だったと気がつきました。
クリスチャンは、聖霊に従って歩かないと神が定めた祝福の道を歩くことができません。ですが、私はその聖霊に反し真反対の地獄へつづくサタンの呪いの道を歩いていました。
 
新しい部屋を契約してから引っ越しまでは1ヶ月以上猶予がありました。ですが、引っ越しに向けての準備は、あまりはかどらず、結局引っ越し当日までバタバタしてしまいました。時間はかけましたが、効率が悪く、やらなければならないと思っていたカーテンの洗濯やゴミの処分が間に合わず、新しい宮に汚れた物を持ち込むことになってしまいました。時間は十分にあったのに、なぜ間に合わなかったのか…
以前から、私がやることには必ず最後に誤算が生じます。間に合わない!こんなはずじゃなかった!もっと早くから始めればよかった…と悔やみます。思い返すとイエス様の愛を体験した大学の卒業課題の制作もそうでした。受験勉強、テスト勉強も電車も集合時間にも間に合わないことばかりでした。それは救われてからもそうでした。ですが、その答えは明確でした。聖霊に聞き従わず、自分のやり方、判断に聞き従って来たからです。私は、卒業が危なかった時も、救われてから9年経っても、聖霊に聞き従った『時間の使い方』ができていないと牧師に言われて、自分の『時間の使い方』にはじめて目を向けました。
 
私の『時間の使い方』が自分のやり方(肉の思い)に従ったものになっていることは、引っ越しをして姉妹と共に住むようになったことで次々と明らかにされました。
 
引っ越しと同時期に、群れに「Bride of Christ Prepare Now! キリストの花嫁—今、備えなさい!」という本が与えられました。1冊しかなかったので群れの中で回して読んでいました。金曜日に行われた交わりの際に、牧師から「明日は仕事は休みですか?この本を読みますか?」と聞かれました。翌日の土曜日は仕事が休みだったので、その本を借りて読むことにしました。私の霊には「牧師が休みかどうか確認してから貸してくださった」ということが残りました。
ですが私は、その土曜日に本を読まずに、共に住む姉妹と新居に置く時計を買いに出かけ、その後フィットネスジムに行き、さらにその後バレンタインデーに会社の同僚にあげるチョコレートを買いに、デパートに出かけるという時間の使い方をしてしまいました。今日は本を読まなくては!ということは霊ではわかっていましたが、私は毎週土曜日はフィットネスジムに行き運動をしていたので、その日もジムで運動をしたいという肉の思いがありました。私はその肉の思いを優先させてしまいました。その決断に姉妹から「本を読まなくていいの?」と問われました。聖霊が姉妹を使って私をノックしました。私の霊は「そうだよね!牧師は私が休みだと確認までして貸してくれたし」とわかっていたのですが、私は「夜に読むからいい」と外出を決めてしまいました。さらにバレンタインデー間近だったこともありその時期に近くのデパートで開催されていたチョコレートのイベントにも行きたいと思っていたら、姉妹がジムの後にそのデパートに用事があるからジムからバスでデパートまで行く(姉妹は車を持っていないので)と言いました。私はちょうどいい!と思い、私もデパートに行きたいと思っていたから車で乗せて行ってあげるよ!と一緒に行くことにしました。その時も私の霊は「それでいいの?帰って本を読まないと」とすべきことがわかっていました。さらにまた姉妹が使われ「バレンタインとか友チョコは情だよね」と問われました。霊では、確かに情だと思いましたが、「でも毎年同僚に友チョコをあげているし…」と最終的には肉の思いに従ってしまいました。
私は、土曜日の夜と日曜日の午前中に借りていた本を読みましたが、読み終わりませんでした。私の霊は「日曜日に本を返さないと」とわかっていたのですが、読み終えることができなかったので本は返しませんでした。
後日、私の土曜日の過ごし方が牧師の耳に入り、神から言われたことを後回しにして、肉の思いに従ったことに対しどのような『時間の使い方』をしているのかと戒めを受けました。そして牧師から、私が休みである土曜日に本を読み終えて日曜日に本を返せば、集会の時にまた別の兄弟姉妹に貸すことができたと言われ、やはり私は聖霊に反し時間を無駄にしたのだとはっきりとわかりました。ですが、それは今回に限ったことではありませんでした。今までも、聖霊に反し肉の思いを優先させ、後からやはり間違えたのだと気づくことがたくさんありました。
例えば、ダメージ加工され必要以上に肌が見えるジーンズを履いたり、肩が露出する服を着たり、伊達眼鏡をかけたり…服を選ぶ時に「この服は着るべきではない」と聖霊に止められるのですが「私はこれが着たいから着る!」と肉の思いを貫き、後で牧師から「その服装はよくない」と注意を受け続けてきました。霊の思いをわかっていながらも、聖霊に逆らい肉に従うことは許されないことだと聖書にも書かれてあります。
 
マタイによる福音書12:31〜32
『だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。』
 
ローマ人への手紙8:5〜7
『なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。』
 
ガラテヤ人への手紙5:16〜17
『わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。』
 
肉と霊は死と命ほど真反対!であると語られてきました。「自分でしようと思うことを、することができないようになる」と言われているのに、霊に言われていることに対して「私(肉)はこれをやりたいからやる」と拒否することができてしまうことは、どれだけ肉の思いが強く、高慢で強情なことでしょうか!神をあざけり、一切真理に従っていないということになります。サタンの支配下のこの世で、イエス様に救われているクリスチャンがそれをすることは、サタンからの攻撃を自ら受けに出るようなものですし、神に対する“きよさ”が全くないことは本当に恐ろしいことです。
  
そして、『時間の使い方』について、別な現れからも私の霊的状態がますます明らかにされました。
引っ越してすぐに、台所に置く食器棚と炊飯器などを置く棚が必要となり、買いに行くことになりました。その際に近くに住む牧師と副牧師がイエス様に聞いて、買った棚を運ぶには普通自動車の方がよい(私の車は軽自動車なので)と気遣ってくださり、車を出して買い物にも付き添ってくださいました。台所のスペースのサイズを測ってから、聖霊に導かれて家具屋に行きました。するこそこに、同じ種類でちょうど良いサイズの食器棚と収納棚が同じ値段で売られていました。一緒に住む2人が1つずつ買える(後に別々に住むようになっても1つずつ分けることができる)、私たちにぴったりの棚でした。ですが私は「この棚は部屋に合うかな、本当にサイズが合うだろうか」と心配になり「写真を撮って帰り、家で考えてまた買いに来よう。ネットや他の店を見たらもっと良いものがあるかもしれない」と言いました。すぐに牧師に「不信仰」だと指摘されました。全てのことをご存知のイエス様は、いつも私たちに最高の物を与えようと導いてくださいます。牧師たちがイエス様に聞き従って付き添い、導きの上で与えられた物に対して、「それよりもっと良い物があるかも」と言うのは不信仰であり、買う時間と運ぶ車も与えられているのだから、また出直して来るというのは、その神の導きも時間も無駄にすることになるのだと戒めを受けました。
結果、その家具を買うことしました。ですが、購入の際、店員から「このサイズだと乗ってきた車には乗らないと思います。配送料を払って配送にするか、トラックを貸し出しているのでそれで運ぶようにしてください」と言われました。今から家と店を二往復して運ぶことや、後で私が自分の車を出してもう一度来店するか…などと話していましたが、牧師はイエス様に従って決めたことだから「絶対に乗る」と確信し、店員に乗ってきた車に乗せてみてほしいと頼んでくださいました。すると、見事に乗ったのです。店員は「乗りましたね」と驚いていました。二度に分けて運ぶ時間も配送料もかかりませんでした。
さらに、次の日にその家具を姉妹と組み立てようとしたのですが、時間もかかりうまくできませんでした。ですがその日偶然はなく、普段は忙しくてあまり家にいらっしゃらない牧師のご主人が家にいらっしゃり、お願いすると快く組み立ててくださいました。
聖霊に従い、あのタイミングで購入し、車で運び、次の日には組み立ても済み…と、一切の無駄がなくスピーディーに問題が解決されました。まるで、次々とパズルのピースが組み合わさり、あっという間に完成するように見事でした。それが聖霊に従った『時間の使い方』でした。
 
さらに、牧師をとおしてイエス様が解き明かしてくださったことがありました。
私は、引っ越した新しい家に時計を用意しませんでした。引っ越す前は、時間を知りたくなったら携帯電話やテレビ画面に表示される時計(デジタル時計)を見ながら生活をしていたので、引っ越し後もそのように生活をすれば良いと思っていました。後に、そのデジタル時計のみの生活では、実際に指針の動きを見ていないため、時間の流れの感覚が薄れてしまうことが示されました。時の流れの感覚など考えたこともなかったので、時計を置くことを重要視していませんでした。ですが、共に暮らし始めた姉妹に「兄弟姉妹も訪れる家に時計がないのは困るから時計を買おう」と言われ、買うことになりました。イエス様から読むように言われた本を読まなかった土曜日、私は時計を買いに行き、壁掛けの時計を購入しました。ですが、家に帰りいざ壁に取り付けようと電池を入れたはいいものの、時計は全く動きませんでした。別の電池に変えたりもしましたが、結局時計は動きませんでした。そして次の日に、交換をしに再び店に行きました。しかし、店員が電池を入れると前日には動かなかった時計が、何事もなかったかのように動き出しました。これには何の意味があるのかとイエス様に聞きましたが、その時はわかりませんでした。ですが、後日牧師が霊的な意味を解き明かしてくださいました。
それは「あなたの時が止まっていた」のだと語られました。聖霊に逆らって時間を過ごし、さらに返品をしに行く無駄な時間を使わされ、今までもどれだけ自分のやり方をやって無駄な時間の使い方をしてきたのか!また、今まで聖霊に逆らい、自分の肉の思いを貫いてきたことで、自ら神からの祝福を止めていたことにも繋がり「(クリスチャンとしての)あなたの時が止まっていた」と言われました。また、大学を卒業できた際にも『時間の使い方』を吟味することを言われていたのだと思いますが、そこには目を向けずそのままにしてきたこと、すでにそのときから私のクリスチャンとしての時間は止まっていました。
自分を吟味せず、イエス様との信頼関係を築かず、神からの最高の祝福を拒否し、自分の肉(この世)が良いと思う物を握りしめて生きてきたことは、何の益にもならない無駄な『時間の使い方』でした。
 
また、私は、以前から食べ物の賞味期限を切らしてしまうことがよくありました。賞味期限が切れることも、その切れた物を食べることにもなんの抵抗も問題も感じていませんでした。ですが、今回の引っ越しで、神の宮でもある新居にたくさんの賞味期限切れの食材を持ち込んだことが、引っ越しを手伝ってくれた姉妹たちによって知られるところとなり、牧師からそれは『貪欲の霊』だと語られました。
賞味期限を切らす…それも聖霊に全く聞いていないことの現れでした。聖霊に聞く歩みをしていれば、食材を無駄に購入することも使い切れないこともなく、一切無駄がでません。ですが、自分の考えや欲のままに購入し生活していたら、無駄ばかりでただ浪費するだけです。買ったけれど期限内に食べることができず賞味期限が切れ、でももったいなくて捨てられないと握ることは『貪欲の霊』です。
 
コロサイ人への手紙3:5〜6
『だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために、神の怒りが下るのである。』
 
“悪欲”“貪欲”は、“自分なりの偶像礼拝”なのだと教えていただきました。みことばの中で『不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲』と書かれてあり、“悪欲”という言葉も牧師を通してイエス様から示されました。自分の肉のままに生きることは、“悪欲”であり、そこには微塵の“きよさ”も“自制”も“信仰”もありません。
それは、食べ物だけに限った話ではありませんでした。福音や神の仕事においても、普段の生活でも“情欲”“悪欲”“貪欲”により、聖霊に従わずにタイミングを逃す=賞味期限切れ なのだと解き明かされました。私自身、振り返ると賞味期限切ればかりでした。自分のやり方を一つでもすればタイミングを逃し全てが狂い、滞ります。手遅れになることもあります。神のご計画は全て秩序正しく、スムーズに進みます。何かうまくいかなければ、それは神側の問題ではありません。私たちが聖霊に聞き従わずにタイミングを逃しているからです。言われた時に言われたことをやらないということも、聖霊に逆らった『時間の使い方』をしていることになります。
 
引っ越しを期に『時間の使い方』が語られましたが、『お金の使い方』ということについても戒め、語られました。
当たり前のことですが…引っ越しの際には、引っ越し代や新しい家の敷金礼金がかかります。神が定めた引っ越しだったので、お金の問題ではないことはわかっていたつもりでしたが、新居に住むにあたっての契約の際に、あれもこれもと金額が加算されていく契約金を目の前にし、今後予定されている姉妹の結婚式や車検でお金がかかることを自分のやり方で考え、不安になり、思い煩うようになりました。クリスチャンがイエス様に従って信仰で始めたことならば、イエス様に祈り信仰で進みます。そうすれば、神は私たちの心を見て必ず顧みて道を整えてくださいます。ですが、私はイエス様に祈ることなくただお金だけを見て思い煩いました。ここで私には信仰がないこと、今まで信仰で歩くという歩みができておらず、イエス様に祈り頼むのではなくお金に頼ってきたことが示されました。つまりは、イエス様が頭ではなく、お金が頭でした。お金が頭になると大切なことが何も見えなくなり、目先のことだけでいっぱいになってしまいます。心が石のように頑なになり、神に対する恐れもなくなります。恐れがないというのは神をあざけっているということで、どんどん驕り高ぶります。そして、喜びも感謝もなくなるという、聖書の真理とは真反対の反キリストの歩きをしていました。それはとんでもなく大きな悪でした。
 
牧師は、この引っ越しのこともお金のことも忠実にイエス様に聞いてくださり、新しい宮にかかる費用を教会で負担してくださることになりました。感謝なことに、このことがあり私の内側の悪がますます明るみになりました。
 
実は、私には、この引っ越しのためにイエス様が備えてくださっていたお金がありました。「主の山に備えあり」でした。
私は実家に帰省するたびに、肉の家族に聖書の話や神の家族の証、悪霊の話、自分自身の解放の証などを話していました。家族はそれを喜び、母や祖母が、ありがとうと言って何かの足しにとお金を包んでくれました。そのお金は、「感謝のお金」だとイエス様から語られました。家族の祝福になるようにと献金をし、自身の語学のためなど神の役に立つために使う思いが入れられました。ですが、その後も(その前ももらっていましたが)お金をもらい続け、私の中で「感謝のお金」が、ただの「お金」になってしまいました。そのお金は生活費や服やバッグなどの自分の欲を満たすために使いました。自分の貪欲を忌み嫌わず、聖霊に逆らい浪費を続けサタンに門を開き続けてきた者が、お金を前にした時に、そのような思いになるのは納得できることでした。
引っ越しの話が出た時に、イエス様は牧師を通してそのお金を感謝して使ったらどうかと私の内側をノックされました。その感謝のお金を出した母や祖母、叔母の祝福にもなるということも語られました。引っ越しの際に私がもらっていたみことばピリピ4:3にも『ついては、真実な協力者よ。あなたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい。彼らは、「いのちの書」に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである。』と書かれていました。牧師はイエス様に忠実に私に問いかけてくださいました。3度も。ですが、私はそこで霊の思いではなく、そのお金を握り、お金を出すことをためらい、さらに神に対して文句をつぶやきました。私は3度神に心を見られましたが、3度とも従いませんでした。
 
ルカ22:34
『するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。』
 
さらに、しっかりお金を握った私は、イエス様が導いてくださった引っ越し自体に対しても「好きで引っ越したわけではないのに、なぜ(敷金や礼金など)こんなにお金を払わないといけないのか」と神に対して文句をつぶやきました。感謝もなく、天に向かって唾をはいたのでした。引っ越すことで、今までより職場への通勤時間が短くなり、部屋も新築同然の部屋でセキュリティも万全で、とても感謝な部屋でした。さらにこの引っ越しは、遠くはなれた肉の家族を浜松に呼ぶきっかけにもなりました。そして、最も大きかったことは、牧師の家とも近くなり今後神の仕事(トラクトなどを作る)をしていく上で、やりとりがしやすくなるということでした。引っ越しが決まった後に牧師を通して、イエス様はもっと私を用いたいと思ってくださっていると語られ、とても嬉しく感謝しました。そこには私の頭では考えきれない神のご計画や大きな愛がたくさんありました。しかし、お金が頭になってしまった私は、その神に対して文句をつぶやき、ただ目先のお金が減ってしまう!という煩いの気持ちでいっぱいになりました。みことばに留まることができませんでした。
 
テモテ第一の手紙6:3〜10
『もし違ったことを教えて、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教に同意しないような者があれば、 彼は高慢であって、何も知らず、ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である。そこから、ねたみ、争い、そしり、さいぎの心が生じ、また知性が腐って、真理にそむき、信心を利得と心得る者どもの間に、はてしのないいがみ合いが起るのである。しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。』
 
テモテへの第二の手紙3:7〜9
『彼女たちは、常に学んではいるが、いつになっても真理の知識に達することができない。ちょうど、ヤンネとヤンブレとがモーセに逆らったように、こうした人々も真理に逆らうのである。彼らは知性の腐った、信仰の失格者である。しかし、彼らはそのまま進んでいけるはずがない。彼らの愚かさは、あのふたりの場合と同じように、多くの人に知れて来るであろう。』
 
お金が頭で、まずお金に頼ることは『金銭を愛する悪根っこの霊』に翻弄されており、みことばに『富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。』とあるように情欲に満たされ、金銭を愛したその先には滅びしかありません。そして、この2つのみことばから「知性が腐っている」ということも語られました。お金が頭だと、目先のことしか見えません。判断基準は全て自分の損得になり、全てにおいて自己中心、自分勝手になります。そして、プライドばかり高くなり、まずへりくだることができません。神に対してもへりくだることができず、みことばに聞き従うことも決してできません。まさにクリスチャンとして「信仰の失格者」です。
 
私は、子供の頃から金銭的な不自由は一切ありませんでした。両親や祖父母が自分たちのことを後回しにして、備えてくれていたからでした。大学生の時も一人暮らしをしていたのですが、父が奨学金を借りなくていいように学費を全て出してくれ、母親が生活費として通帳に常に30万円というお金を入れてくれていました。なので、自身のアルバイトのお金は自分の洋服や趣味に使っていました。しかし、私は社会人になってからも母親が通帳に入れてくれたお金を当てにしていました。通帳にお金を振り込んでくれたり、帰省した際に母や祖母や叔母がお小遣いをくれました。私はそれに甘え、仕事をしているにも関わらず、生活費が足りなくなったり、欲しい物があった時にそのお金を使っていました。社会人としても人としても、そしてイエス様が経済的にも祝福してくださるという信仰の上で生活していくクリスチャンとしても、全てにおいて甘えた考えでその悪を良しとしてきてしまいました。そこには、支配と依存の霊力が働き、私は全く自立できず足萎えになっていました。
 
テサロニケ人へに第一の手紙4:11〜12
『そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう。』
 
お金をもらうことが悪いわけではなく、受け取る私の心一つでそのお金がイエス様が備えてくださった祝福のお金になるか、自らの情欲をみたすためのサタンに使われるお金になるか、と変わることを牧師を通して教えていただきました。そこにイエス様に対する“感謝”があるか、相手の思いを汲む“真心”があるかということです。
 
ですが私は、イエス様が頭ではなく、どこまでも情欲が頭でそのお金に頼り、助けてもらっていました。どこまでも『不信仰』で神が祝福してくださるという信仰に立てませんでした。それは神ではなく肉の母や家族を頼る『情欲の霊』にまかれていたからでした。実家に帰る度に金銭面の心配をされ、口では「私にはイエス様がいるから」とは言いつつ、そのお金に頼って使ってしまうという矛盾した歩きを続けてきました。そして、母が私の通帳にお金を振り込んでくれることもあり、「マイナスにならない通帳」としてその母からのお金が入っている通帳を2つのクレジットカードの引き落とし先にしていました。クレジットカードは、ネットショッピングや通っていたフィットネスジムの会費の引き落しのために使っていました。しっかり管理してこなかったことと、自分に甘いお金の使い方をしてきたので、後から振り返った時に何を買って引き落とされたのか思い出せませんでした。その口座はイエス様から「秘密の口座」「サタンとの姦淫の部屋」と言われ、それを良しとしてしまった私の甘さ悪、愚かさは「あざとい」者だと指摘されました。今まで神からの経済面での祝福を受けることができなかったことも、不信仰で土台がイエス様ではなかったからであり、『お金の使い方』もこの世が頭のお金の使い方をしていたため、長老を通しみことばをいただき「悪い求め方をしているから与えられない」のだと語られました。
 
ヤコブの手紙4:1〜10
『あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。それとも、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。』
 
みことばにある『二心者である』ということは、神にも富にも兼ね仕えている!と、私自身ずっと言われてきたことでした。そして『不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。』という箇所はリビングバイブルでは、『あなたがたは、まるで、夫の敵に媚びるふしだらな妻みたいです。この世の快楽という、神様の敵と馴れ合うのは、神様を敵に回すことを意味します。念を押しますが、もし不信仰なこの世の快楽を第一に求めるなら、神様の友になど、なれっこありません。』とあります。私が困った時に駆け込んで助けを求めるのは、この命をくださったイエス様(花婿)ではなく、肉の母や家族、そしてその家族がくれるお金でした。キリストの花嫁になりなさいと語られ、教えを聞いてきたにも関わらず、花婿を一番にしない『ふしだらな妻』になっているとイエス様に言われました。
 
さらに、私の最大の悪は、肉の家族から与えられたお金を浪費するだけではなく、イエス様のお金も浪費してしまっていたことです。
 
イエス様は、大学卒業後に就職先と、就職先に近い新築のアパートの一部屋を私に与えてくださいました。一人で住むためには広く、家賃も高かったのですが、ぶどうの木で週に1回神の家族の集まりを開くための場所として一部屋を用いてくださることになり、その分の家賃をぶどうの木(イエス様)が負担してくださることになりました。そしてその家は「シオン」と呼ばれる神の宮になりました。(ぶどうの木は“教会”と呼ばれる建物を持っていないので、トラクトを郵送する際など差出人の住所としても用いられました。)シオンに住む際に詩篇132篇とピリピ4章のみことばをいただきました。神からの祝福が書かれてあり、絶えず喜びなさい!と言われました。
 
詩篇132篇11〜18
『主はまことをもってダビデに誓われたので、それにそむくことはない。すなわち言われた、「わたしはあなたの身から出た子のひとりを、あなたの位につかせる。もしあなたの子らがわたしの教える契約と、あかしとを守るならば、その子らもまた、とこしえにあなたの位に座するであろう」。主はシオンを選び、それをご自分のすみかにしようと望んで言われた、「これはとこしえにわが安息所である。わたしはこれを望んだゆえ、ここに住む。わたしはシオンの糧食を豊かに祝福し、食物をもってその貧しい者を飽かせる。またわたしはその祭司たちに救を着せる。その聖徒たちは声高らかに喜び呼ばわるであろう。わたしはダビデのためにそこに一つの角をはえさせる。わたしはわが油そそがれた者のために一つのともしびを備えた。わたしは彼の敵に恥を着せる。しかし彼の上にはその冠が輝くであろう」。』
 
ピリピ人への手紙4:4
『あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。』
 
私は、その「シオン」の管理人として、とても素晴らしい働きをイエス様からいただきました。
その部屋は毎週金曜日に兄弟姉妹が集う場になり、遠方から月に1度集会に集う姉妹の宿泊の場にもなりました。イエス様を知らない友人が泊まりにくることもあり福音の場にもなりました。
家は神が私たち一人一人に与えてくださり、住まわせてくださっている“神の宮”であり、好き勝手に扱ってよいわけではありません。しかも私の場合は、教会と共同で使う場でもあったので、その管理を任されている責任もありました。家の主人はイエス様です。掃除も整理整頓も怠ることはできません。家だけでなく自分の体も“神の宮”であり、同様のことが言えます。
ですが、私は生活をしていく中で、「シオン」の管理や使い方、私の服装や持ち物などについて戒めを受けることが何度もありました。それは、神から管理を任された者として神からの働きを軽んじ、感謝もなくクリスチャンとしての“きよさ”に欠けることでした。先にも記したとおり、聖霊に従った歩きをしていませんでした。
ぶどうの木に家賃を負担していただいて「シオン」に住んでいながらそのような暮らしを続けてしまいました。しかも、私は、一方でぶどうの木から支援を受け、もう一方で肉の家族から自分の欲を満たすためのお金をもらっていたので、私のしてきたことはイエス様と神の家族に対する大きな裏切りでした。ぶどうの木から受けた家賃の支援の総額は270万円になりました。とても大きな額です。献金は、経済的に苦しい兄弟姉妹を支援したり、一番は福音のために用いるための神のお金です。では、私はその分の神に喜ばれる働きをしていたか?そこも不忠実であり、聖霊に反発しイエス様からの指令に不忠実でした。私が「シオン」に住めていたことは、ただただ神のあわれみ、寛容さのゆえであり、決して当たり前のことではありませんでした。それが、傲り高ぶり全て当たり前になってしまい、口では感謝していると言っていましたが、喜び、心からの感謝がないと指摘されました。
 
マルコによる福音書7:6〜8
『イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。』
 
シオンの管理人になったことは私がよかったからでもできていたからでもありません。むしろその逆で、何もできていない羊であったから、どうしようもない羊だったから神の家族が訪れる場に置かれ、ヤギ(一人自分勝手に肉欲のまま走り回る)になって滅ぼされないように守られたのだと今ならわかります。
 
ルカによる福音書13:1〜9
『ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。
それから、この譬を語られた、「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。
 
マタイによる福音書3:10
『斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。』
 
ぶどうの木で教えを聞いているから良いわけでも、集会に毎週参加しているから良いわけでもありません。救われて尚悪を抱え続けてきた私は、いつ滅んでもおかしくないところにいました。そして、群れにずっと居座って教えを聞いていても肉を優先させて従わず、支援を受け続けていた私は、イエス様とぶどうの木に対して、時間と優しさとお金を奪う遊女であり、ぶどう園のいちじく(大きく育ち人一倍養分を吸収するが実がならない)であったのだと、牧師を通してみことばが与えられ気づきました。そして、悔い改めて悔い改めにふさわしい実を結ばなければ、この先は永遠の死であると語られました。
 
ガラテヤ人への手紙6:7〜8
『まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。』
  
感謝がなくなっていることは、私の言葉や判断など全てに現れでていました。
新しい家を借りるにあたり、一緒に住む姉妹とぶどうの木と私で家賃をどのように割るかといことをイエス様に聞いて決めるように言われました。以前牧師がきっちり3等分にすることをおっしゃっていたので、私は1円単位まで3等分した金額を提示しました。ですが、牧師はじめ、長老、執事、教師にたてられた働き人たちの霊は、それを良しとしませんでした。ぶどうの木(イエス様)からも家賃を出していただくにあたり、1円単位まで請求するのはどうなのかということも言われました。わたしは、きっちり3等分と言われたことに従ったつもりでだったので、言われた通りにしたのに何が悪かったのかわかりませんでした。さらに、牧師が改めて私が金額を書いた紙を見ると、数字が1つ違っていました。牧師を通してイエス様からもう一度吟味し直して出すよう言われました。前に3等分という話をしていたじゃないか!なのにどうして3等分ではダメだという話になるのかと、牧師や働き人を裁きました。では姉妹が一緒に住むことが決まる前に決めていた金額を私が出せばよいのか、などとその後も何度か金額を変えて提案しました。ですが、それは偽善だと言われたり、共に住む姉妹のことをちゃんと考えているのかと問われたりとなかなか決まらず、私はどうしたら良いのかわからなくなりました。
私の判断は全て良しとされない!と私が悩んでいると、牧師から「クリスチャンに正解、不正解はないので、全てあなたの心一つで変わります」と言われました。私が心から感謝していれば、はじめの3等分した金額でも皆の霊は納得したはずであったと。私の判断や計算の仕方には感謝が全くないのだと教えていただきました。1円単位の計算もそれを現していました。確かに牧師はきっちり割ることをおっしゃいましたが、感謝があれば用意しにくい金額を提示するのではなく、用意しやすい金額でお願いするという配慮があったのではないか、それが、真心なのだと言われました。確かに、目の前のお金しか見えていなかったので、損得勘定が判断の基準になっていました。
ぶどうの木では、群れで冊子を購入する際は、群れから代金を出していただいています。ですが、それに対して、感謝して冊子代を払う兄弟姉妹もいます。牧師や働き人たちの労苦に感謝して献金とは別に“義の実”や“寄付”という形でイエス様に聞いて捧げる兄弟姉妹もいます。それらは、福音宣教や支援のために用いられます。そのように、『受けるより与える方が幸いである』というみことばに立ち、喜び感謝して与える側に立つことができるのがクリスチャンです。では、家賃を決めた時の私にその感謝の思いがあったのか…私は自分がいくら払うかというところしか見ていませんでした。
感謝と信仰で金額を決めていったとき、例え現状では難しい金額であったとしても、神が心を見てそこに祝福がついてくるのだと語られました。牧師が「あなたの心一つ」とおっしゃっていたことがわかりました。
私は、改めて今まで受けてきた恵み、そして今の現状に感謝してイエス様に聞き、金額を再度提示しました。感謝と喜びのうちに金額が決まりとてもハレルヤな思いで、改めて新たな生活をスタートさせることができました。
 
コリント人への第二の手紙9:6〜8
『わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。』
 
コリント人への第二の手紙4:15
『感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。』
 
私は、聖霊に従わず傲り高ぶっていたことで、日々の感謝もなくなり、全てが当たり前になってしまっていました。それを来らせたのは、私がイエス様との信頼関係を築かず、みことば=イエス様を愛さず、自分の肉を打ちたたかずにきたこと以外の何ものでもありません。肉の思いのままに生活をしていたので肉は楽でしたが、それらは体にも表れ、霊は御霊に反していることをわかっているので、霊に逆らえば逆らうほど苦しくなりました。みことば=イエス様を軽んじ、より好みをすればするほど、全て自分に返ってきました。そのように、みことばを軽んじてきたことも、以前も私に対して神はみことばで指摘されていたと教会の姉妹を通して思い出されました。
 
ヨブ記33:20
『その命は、食物をいとい、その食欲は、おいしい食物をきらう。』
 
このみことばは、『みことばを嫌っている』ことを言っています。みことばは、イエス様です。つまりは、イエス様を嫌っていたのだということです。そして、イエス様は花婿。私はキリストの花嫁とならなければいけないのに、花婿を嫌っている…「あなたはサタンの愛人になっている!」とイエス様に言われ、みことばを通して『ふしだらな妻』と言われていたこととも繋がりました。
 
テトスの手紙1章11〜16
『彼らの口を封ずべきである。彼らは恥ずべき利のために、教えてはならないことを教えて、数々の家庭を破壊してしまっている。クレテ人のうちのある預言者が「クレテ人は、いつもうそつき、たちの悪いけもの、なまけ者の食いしんぼう」と言っているが、この非難はあたっている。だから、彼らをきびしく責めて、その信仰を健全なものにし、 ユダヤ人の作り話や、真理からそれていった人々の定めなどに、気をとられることがないようにさせなさい。きよい人には、すべてのものがきよい。しかし、汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている。彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である。』
 
そしてここまでの私は、ずっとこの世や自分の古いところにも良いものがあったと、古い革袋を大切にし悪を忌み嫌わず、怠けて戦ってこなかった怠け者。内側は悪と汚れでドロドロとなり、偽善者、霊的パリサイ人(表面ばかり取り繕い、内面は汚れている)になっているということも言われました。
 
ルカによる福音書5:37〜39
『まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋もむだになるであろう。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。まただれも、古い酒を飲んでから、新しいのをほしがりはしない。『古いのが良い』と考えているからである」。』
  
イエス様は、ぶどうの木の牧師や兄弟姉妹を通して、今まで必要の一切を語ってくださっていました。学生時代の奨学金を返すためにイエス様に祈り求め、奨学金が返せる分のお給料がもらえる会社に高倍率の中就職できた姉妹や、両親から借りていた学費を返すために、返済をして残った分で生活をやり繰りして忠実に返済し続けている姉妹もいます。冬に暖房も付けずに節約しながらも、喜び感謝して生活している兄弟もいます。私は、そこから自身を吟味し学ばなければなりませんでした。特にお金に関することについては、無関心で自分のことには一切置き換えず、吟味をするというところには至っていませんでした。それは、キリストの肢体として兄弟姉妹の証や見せられる姿といった恵みを無駄にしていたことになります。
 
そして、私がお金に対し戒めを受けたタイミングで、会社の同僚が金銭を頭にした結婚をしようとしていることを聞かされました。彼女はずっとお金に振り回された人生を歩み、誰にも頼ることができないところにいました。そして、今日明日のお金も工面できなくなり一歩も進めなくなりました。そこで、好きでもない相手と結婚し養ってもらう道を選ぼうとしていました。その結婚はお金が頭であり、その後、絶対に苦しい思いをすることは目に見えていたので、私はその結婚を止めました。彼女自身も情欲の霊力にまかれ結婚相手を利用しようとしていることや、結婚の大切さや、これからの将来の大切さについて全く見えていないことがわかり、彼女を通してもお金が頭になると目の前のことしか見えず、とても危うい姿が見せられました。肉の母を頼り、お金に頼ったためにこのまま行ったら地獄だと語られ一歩も行けなくなった私自身のこともあり、サタンの支配下のこの世で、人もお金も当てにはならない!と伝えました。イエス様に頼り求めれば、私たちの髪の毛の数までご存知のイエス様が必ず助けてくださることを話し、彼女はイエス様を受け入れ救われました。神は、人が意志さえ向ければ、人の頭では考えつかない方法で問題を解決してくださることを彼女に話しながら、自身の内に刻まなければいけないことだと思いました。私は、肉の快楽・この世と姦淫するためにお金を握りました。ですが、彼女は今日を生きるためにお金を握ったことを思うと、自分の生き方の甘さも改めてわかりました。
 
ヘブル人への手紙12:15〜17
『気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。』
 
たくさんの戒めのみことばが次々に臨むのですが、完全に解放されていなかった私は、肉では辛くどうしたらよいのかわかりませんでした。神を恐れ、徹底的に悔い改め悪を忌み嫌い戦いなさい!と言われましたが、神に対する恐れもなく、何が徹底的な悔い改めになり、悪を忌み嫌っていることになるのかもわからなくなっていました。ですが、このままでは滅び(地獄)しかないことと、今がその滅ぶか生きるかの分岐点に自分がいることはわかりました。
 
ヘブル4:12〜13
『というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。 そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。』
 
一杯の食のために…力もなく仕様もないものを握って永遠の地獄にいくのか…私が握っていたのは『情欲』、お金と家族への情、この世の目の欲、肉の欲、持ち物の誇りでした。情欲(お金・この世)を頭にすると、口から出る言葉は感情の言葉・偽善の言葉であり、全ての人を血肉でしか見れず言われたことも血肉でしか聞けず、相手を裁きます。情欲の霊にまかれて、肉では一歩も進めない時に肉の母と話すと涙が出ますし、イエス様に忠実に語ってくださる牧師や働き人たち、兄弟姉妹に対しては文句をつぶやき、裁いてしまいました。そしてますます心が頑になり、孤独になり、どうしたよいのかわからなくなりました。
 
そんな時に、救われて間もない姉妹に与えられたみことばが牧師からメールで送られてきました。それは、私にぴったりのみことばでした。
 
ルカによる福音書18:18〜30
『また、ある役人がイエスに尋ねた、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」。すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである。イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねると、イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。ペテロが言った、「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」。イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。』
 
そのメールを受け、引っ越して共に暮らすようになった姉妹が「あなたにぴったりのみことばだ」と、その場で読んで聞かせてくれました。ですが、お金が頭であった私にはそれが理解できず「(自分で稼いだお金はほとんど残っていないから)私は富んだものではない。どうしたらよいのか?」と姉妹に尋ねました。「富む」ということは聖書の中ではお金に限ったことではありません。そのことは、今までも語られてきましたが、私はそれらの教えをサタンに盗られ、さらに目先のお金しか見えていなかったので、わからなくなっていました。すると、姉妹が「全てを捨てます!とまずは言葉にしないと」と促してくれました。私は「全てを捨てます!」「イエス様ごめんなさい」と言葉にして祈り、今までのことを悔い改めました。すると、それまでどうしたら良いのかわからず混乱していたのが、冷静に自分を見れるようになりました。
そして、もっと自分の口で告白しなければいけないと思い、牧師に連絡をしました。牧師は徹底的に訓戒し「今までのことが、全て違っていたと認めなさい」と導いてくださり、私は「全て間違っていたと認めます」と言葉にしました。
 
箴言28:13〜14
『その罪を隠す者は栄えることがない、言い表してこれを離れる者は、あわれみを受ける。常に主を恐れる人はさいわいである、心をかたくなにする者は災に陥る。』
 
すると、ずっと私の胸に詰まり、みことばや牧師、兄弟姉妹からの言葉をストレートに受けることの妨げになっていた物が、スコーンととれ、自分が今までどれほど愚かな歩きをしてきてしまったのか、今までいただいたみことばに私の全てが書かれてあったこと、いかに感謝と喜びがなかったか、牧師、兄弟姉妹がクリスチャンとして、人としてかけてくださってきた言葉もやっと理解でき、解放されました。
解放されるまで、時間がかかりました。その要因の一つは、お金を情欲に任せて使っていた数々の罪や、牧師、兄弟姉妹を裁いたことなど、自分の悪をすぐに光りに出さず、時間が経ってから小出しにして悔い改めていたからです。後に、「会堂から追い出されることをおそれて、口を開かなかった」と聖書にも書かれあるように、神に対するきよさより人の顔色を伺っていたからだと語られ、それは、神へのあざけりだとも語られました。
 
解放された後、自分がいつサタンに命を取られてもおかしくないところにいたのだと気づきました。また、今日、世界中で携挙が言われていますが、もし携挙がすでに起こっていたら、「金銭を愛する悪根っこの霊」「この世を愛する悪根っこの霊」「情欲の霊」「貪欲の霊」「高ぶりの霊」「自己愛・自己憐憫の霊」「裁きの霊」「ねたみの霊」「遊女の霊」「あざけりの霊」…を自分の中で遊ばせていた私は絶対に携挙されませんでした。確実に地獄の炎に焼かれていました。そこから、悔い改めの時間をいただき、再び命の道(天国)に入るチャンスをいただいたのだと思いました。イエス様に命を与えていただいたのだと感謝しかありません。
 
全てのことは、第三の天から見た時繋がっています。
『時間の使い方』や『お金の使い方』は、『命の使い方』であると語られました。
 
引っ越す前に8年以上住んでいた「シオン」は、3階建のアパートで1階がクリスチャン書店、2階と3階が賃貸の部屋になっていて、各階に1部屋(2DK)ずつある建物でした。私は、その3階に住んでいました。住み始める際に牧師から3階のこの部屋は「第三の天」(第一、第二はサタンの支配下の地上を意味する)の意味があると教えていただきました。このアパートは、1階のクリスチャン書店のオーナー(アパートの大家さん)とぶどうの木の牧師、副牧師が知り合いで、私の就職が決まった日に新築であったそのアパートの鍵の取り付けが完了したということを聖霊が知らせ、牧師たちが紹介してくださったことで与えられました。
ぶどうの木の副牧師は、イエス様の導きにより以前このクリスチャン書店で店長として働いていたことがあり、その際に牧師も一緒に店に出て、多くの方々に真理に導きました。その牧師たちの忠実な働きがあり、繋がったことでした。
その繋がりがあったことと、私の就職のタイミングに合わせ備えられたその「シオン」の部屋を誰よりも早く見せてもらい、すぐに決まりました。
クリスチャン書店のオーナーは、何十年も教会に通うクリスチャンです。彼は、数年前80歳後半で体調を崩されて入院されました。それまでは、県内唯一のクリスチャン書店として「聖書を手にできる場がないと!」というオーナーの思いで毎日書店は開いていました。彼の入院以降オーナーの息子さんが仕事と掛け持ちで店番をし、週に1回開くようにになりました。
今回の引っ越しを期に、長い間住まわせていただいていたのでオーナーにご挨拶に行くことになりました。ちょうど齊藤諒兄弟の本「生きる力」の朗読CDが完成したことも重なり、そのCDをオーナーにお渡しすることも兼ねて、牧師、副牧師と3人で病院を訪ねました。お会いするのは3〜4年ぶりでしたが、オーナーは覚えていてくださり、ひまわりが咲いたように満面の笑顔で迎えてくださいました。彼は様々な手術により、(その都度「私はまだ主のために働く!」と驚くべき復活をされてきました)気管切開していたので、喋ることができなくなっていましたが、諒兄弟の本やCDの説明をし、多くの方に喜ばれ購入されていることを伝えると、とても喜んでくださいました。
そして、皆で祈ることになったのですが、オーナーが祈り始めると、声は出ずとも彼の祈りは次から次へと溢れ、熱心な祈りは長く続きました。私はその姿を見て、彼のイエス様への強い思いに感動し、胸が熱くなり涙が出ました。
携挙が近いと叫ばれている今、オーナーも92歳ということもあり、祈りの中で牧師は彼が天国に行けるようにと聖霊のバプテスマを授ける祈りをしました。(オーナーの教会は聖霊を信じない教派)それは、イエス様から彼への最高の贈り物だと思いました。
私は、金銭が頭で大切なものが何も見えなくなっていたところから解放された時、私がシオンに住むことになったことは、彼に聖霊のバプテスマを授けるこの日に繋がっていたのだと気づきました。私はずっと不忠実な羊でした。神は何度も、オーナーの救いのために、そして彼が通っていた教会のために私を使われようとしました。ですが、私はそのときも聖霊に逆らい忠実に行いませんでした。それでも、ロバでも使われる神は、彼とぶどうの木の牧師を繋ぐ糸として私を使ってくださっていました。それに気づいたとき、神がオーナーを(オーナーが通っていた教会も)どれほど愛されているか、自分のことしか見えていなかった私はその愛の大きさに感動しました。そこには、牧師たちが祈り続けてきた忠実な働きもあり、神はその祈りとオーナーの神を思う心を見られたのだということもわかりました。
そして、私が住んでいた場所は、当たり前にあった場所ではありませんでした。オーナーの今までのクリスチャンとしての信仰と忠実さ、彼の『命の使い方』と、牧師たちの『命の使い方』の上にあったものだったことにも気づきました。私の命はそのクリスチャンたちの『命の使い方』により繋がりました。その恵みと、自分が浜松や日本にとどまらず、世界の兄弟姉妹が霊でつながり、神の緻密なご計画があることも理解でき、「第三の天」と言われた「シオン」に住まわせていただいていたことへの感謝をますます感じました。
『命の使い方』は『真心の使い方』つまりは常にキリストの思い=愛に満たされることなのだと語られました。
 
悔い改め、今まで受けてきた愛と哀れみ、恵みを悟ったとき、イエス様はみことばをくださいました。
 
エゼキエル18:30〜32
『それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたを、おのおのそのおこないに従ってさばくと、主なる神は言われる。悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。』
 
ヨハネの黙示録3:18〜22
『そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。』
 
ここまで、たくさんのみことばをいただきました。全てその時その時の私を現すみことばで、反発しようにも反発できないほどぴったり合うみことばばかりでした。今更ですが、救われて今日に至るまでの私の一切が聖書に全て書かれてあることに気づかされ、驚き、感謝し、感動しました。イエス様は全てご存知でした。その上で、私を救い、ぶどうの木に導き、シオンを与え、不忠実な僕で失敗ばかりするにも関わらず何度も神の働きのために使ってくださり、惜しみなく施し、引っ越しに導き、悔い改めの時間をくださいました。何一つ当たり前のものはありませんでした。全ての上におられるのは神であり、神なしでは何一つ存在しないとわかりました。全てが神の御手の中なのだ!と、ずっと語られてきたことにやっと気がつくことができました。
ここまでのイエス様の愛と哀れみと寛容に、牧師、兄弟姉妹の労苦と忠実に感謝しかありません。
 
使徒行伝17:28a
『われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。』
 
新たな神の宮、新たな「シオン」への引っ越しにあたり、5つのみことばをいただいていました。
 
ルカによる福音書5:10〜11
『シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。』
 
使徒行伝13:47
『主はわたしたちに、こう命じておられる、『わたしは、あなたを立てて異邦人の光とした。あなたが地の果までも救をもたらすためである』」。』
 
ローマ人への手紙15:1〜21
『わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。 わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ「あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりであった。これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである。どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ、こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように。こういうわけで、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。わたしは言う、キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕となられた。それは父祖たちの受けた約束を保証すると共に、 異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである、「それゆえ、わたしは、異邦人の中であなたにさんびをささげ、また、御名をほめ歌う」と書いてあるとおりである。また、こう言っている、「異邦人よ、主の民と共に喜べ」。また、「すべての異邦人よ、主をほめまつれ。もろもろの民よ、主をほめたたえよ」。またイザヤは言っている、「エッサイの根から芽が出て、異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みをおくであろう」。どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。さて、わたしの兄弟たちよ。あなたがた自身が、善意にあふれ、あらゆる知恵に満たされ、そして互に訓戒し合う力のあることを、わたしは堅く信じている。しかし、わたしはあなたがたの記憶を新たにするために、ところどころ、かなり思いきって書いた。それは、神からわたしに賜わった恵みによって、書いたのである。このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである。だから、わたしは神への奉仕については、キリスト・イエスにあって誇りうるのである。わたしは、異邦人を従順にするために、キリストがわたしを用いて、言葉とわざ、しるしと不思議との力、聖霊の力によって、働かせて下さったことの外には、あえて何も語ろうとは思わない。こうして、わたしはエルサレムから始まり、巡りめぐってイルリコに至るまで、キリストの福音を満たしてきた。その際、わたしの切に望んだところは、他人の土台の上に建てることをしないで、キリストの御名がまだ唱えられていない所に福音を宣べ伝えることであった。すなわち、「彼のことを宣べ伝えられていなかった人々が見、聞いていなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりである。』
 
ピリピ人への手紙4:1〜9
『だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ。このように、主にあって堅く立ちなさい。わたしはユウオデヤに勧め、またスントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いになってほしい。ついては、真実な協力者よ。あなたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい。彼らは、「いのちの書」に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである。あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。』
 
ピリピ人への手紙4:19
『わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。』
 
アーメンです。ここから、まだイエス様を知らない人たち(異邦人)のために自身を捧げて主のために働きなさい!そして共に住む姉妹とぶどうの木の兄弟姉妹と、日本中、世界中にいる兄弟姉妹と一つ思いになりなさい!と、みことばを通して語られました。また、ローマのみことばにある「他人の土台の上に建てることをしないで、」という部分は、イエス様と自分の信頼関係を今一度しっかりと築き、動かぬ信仰の上に立ちなさい!と言われていると思いました。そして、はじめのシオンに住む時にもいただいていたピリピのみことばからは、改めて、必要の一切は神が与えてくださるのだから、主にあっていつも喜びなさい!と語られました。
 
私の歩きはこれからです。気づかされたことを一つ一つ悔い改め180度真反対に変えていかなくてはいけません。ですがそれがどれほど感謝なことか!「悔い改めて、翻って生きよ!」と再び救っていただいた命を、聖霊に従った『命の使い方』により、多くの人の命を繋ぐために使っていただきたい!そのように生きることができる恵みを喜び感謝します。