韓国で語られたこと

~血筋(3代4代に渡る呪いたたりの悪霊)による強迫観念からの解放~
 
 
<はじめに>

私は高校2年生の時にぶどうの木と出会い、イエス様を信じ救われ聖書を学び実践する歩みをしてきました。聖霊のバプテスマを頂き、霊の存在を知り、霊から180度変わり神の子として生きるということについて自分では分かっているつもりであり、証を通して一つ一つ解放されていると思っていました。しかし、今回私は本当に解放されなくてはいけない部分がまだ残っていたことに気づかされ、霊から変わり神の子として生きるということがどういうことかをより深く語られ、真に解放されるという体験をさせて頂きました。
私の真に解放されなくてはいけない部分…それは自分の生い立ち、「血筋」からくる社会での差別意識や、自分自身へのコンプレックス・強迫観念(恐れや裁き)についてでした。

私は、イエス様に救われた後、大学時代に交際をした彼が日本で理不尽な差別を受けてきた部落出身であることを知りました。当時の私は、これまで部落という言葉さえ聞いたことが無く全く知識が無かったのですが、彼の住んでいた地域・住居がとても暗く汚く今まで見たことのない独特の雰囲気だったことから、私はその状態だけを見て衝撃を受け判断し、“暗く汚い地域=差別されてきた人たちが住むところ”と、決めつけてしまっていました。私の両親も正しい知識が無いまま状態だけを見て判断していた為、「そのような相手とわざわざ結婚を考える必要はない」と私に言ってきました。私はその言葉をそのまま受け、“彼の血筋は結婚を考えてはいけない血筋なんだ”と思いました。後に牧師を通して、悪霊によって、そのように刷りこまれたのだ(悪霊の策略)と語られました。
私が彼と交際したことをきっかけに、母は自ら部落について調べるようになったのですが、自分の血筋も部落出身であったことを知り、自分が発した裁きの言葉が自分に返ってきて大きなショックを受け、プライドの霊と自己卑下の霊によって、その話を無かったことにして誰も知らないところに身を置きたいと思うようになり、ぶどうの木を出ていってしまいました。
また私の苗字(父方)が、在日韓国人に多い苗字と言われていることから、勝手に私は在日韓国人の血をひいているのだと決めつけ、彼らに対して何の知識もないのに嫌悪感を抱いていました。そして、古い自分の固定観念により勝手に部落や在日韓国人を疎外し、差別してしまっていました。
それでも、聖書を学んでいく中で、血筋は関係ない、イエス様に救われた者は皆同じ神の子であると語られ、証もしていく中で、私自身はその差別やコンプレックスという霊力から解放されていたつもりでいました。しかし、大人になり社会に出て、住宅産業に身を置くようになったら、人との出会いにおいて部落・在日問題は、無意識のうちに一つの確認すべきポイントかのようになり、日本という国の歴史に据えられた悪魔の呪いとして、両方に関わりのある自分には避けては通れない現実問題にまでなっていました。そのような状態の私に対し、イエス様はぶどうの木を通して初めての韓国行きを与えて下さいました。
私は、そこで出会った神の家族の愛と交わりによって、自分のルーツや日本での差別問題に悩んでいた自分がどれだけ愚かであったか気づかされ、ありのままの自分と向き合うことができたのです。

私は、韓国行きに対して3つの御言葉を頂きました。
ローマ11章26b~27節
「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう。そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、彼らに対して立てるわたしの契約である」。

ピレモン1章4~7節
わたしは、祈の時にあなたをおぼえて、いつもわたしの神に感謝している。それは、主イエスに対し、また、すべての聖徒に対するあなたの愛と信仰とについて、聞いているからである。どうか、あなたの信仰の交わりが強められて、わたしたちの間でキリストのためになされているすべての良いことが、知られて来るようになってほしい。兄弟よ。わたしは、あなたの愛によって多くの喜びと慰めとを与えられた。聖徒たちの心が、あなたによって力づけられたからである。

イザヤ45章4節
わがしもべヤコブのために、わたしの選んだイスラエルのために、わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。

私は、韓国行きの前にこれまでの歩みを振り返って<本当の愛と情の愛の違い~情欲からの解放~>の証を書き記しました。すでにその証は韓国の神の家族も読んで下さっており、私はその証とこれらの御言葉を握りしめ、ヤコブ=ユダヤ人・宗教をしている人の救いの為、そして神の家族との信仰の交わりを強める為に、韓国に行くのだと語られました。
また、韓国行きの目的は、単なる観光ではなく、諒兄弟の証「生きる力、赦す力」の韓国語版冊子を韓国にいる神の家族へ牧師たちと共に届けることであり、その群れの働きに私も同行させて頂くという形でした。

私は韓国に着いて早々、空港からソウル市内までの道中の景色や雰囲気を通して、すぐに“暗い!住めない”と感じてしまいました。それは私の中で、韓国といえばよくテレビで目にする韓国アイドルや俳優など明るく派手なイメージがあり、また韓国の兄弟姉妹もいつも明るかった為、韓国は街の様子も人も皆明るく陽気な人たちばかりなのだと思っていたからです。しかし、実際に韓国で目にする韓国人や街の雰囲気は私が想像していたものとは違って暗く感じてしまい、自分の持っていたイメージとのギャップに衝撃を受け、勝手に“住めない”とまで思ってしまいました。
しかし、そのような思いになったことから、自分の内側にあった真に解放されていない部分・自分で自分を騙し苦しめられてきた部分がどんどん光に照らされていきました。そして、そのような私にイエス様は韓国での沢山の人との出会い・交わりを通して、霊的にそして肉的にもあらゆる角度から語って下さり、私は4泊5日間の滞在中に自分の思いが180度変えられて益々解放されるという体験体得をさせて頂きました。

 
<K家族(D姉妹C兄弟夫妻)との交わり>

 K家族は、ぶどうの木のブログや交わりから日々の武具を得て家族で毎週集会を持ち、韓国人の救いの為に韓国で立てられている家族です。今回家に招待をして下さり、C兄弟が作っているお餅を食べさせて下さったり、韓国ならではの食堂にも連れていって下さり、初めての韓国であった私を1日中もてなして下さいました。

そして交わりの最初から、K家族の次女であるHちゃんが(2才)自ら私のところへ来てとても懐き、どこへ行くにも私の手を引っ張って一緒に行動をしていました。私は前職で情欲の霊に捕われて不倫に陥り、不倫相手の家族には小さなお子さんがいたことから、不倫後もまるで後遺症かのように、子連れの家族を見ては「私は過去に子供を傷つけるようなことをしてしまったのだから、こんな自分が子供と仲良くなってはいけない」といつも闇の思いを抱え、“自分は子供に近づいてはいけない人間”と決めつけ、自己卑下の霊に捕われて、自ら子供を避けるようにまでなってしまっていました。
しかし、今回証を通して情欲の霊や自己卑下の霊から解放された時、韓国語で“神の真理”という意味を持つ名前のHちゃんが使われ、霊的に神の真理に手を引っ張られる=導かれて1日を過ごし、気づけば一切過去に支配されずに心から楽しむ自分へと変えられ、子供に対しての思いさえも古いものは過ぎ去って新しくされている!と実感しました。そして、私の中でずっと消えないと思っていた自分の内側の思い(闇)に対して、まるでそのような思いがあったことさえ忘れる程にまで消し去って下さる聖霊の力の素晴らしさに感謝と喜びで満たされました。

また、K家族と交わる中でC兄弟がとらわれてきた「アルコールの霊」についての話になりました。C兄弟はいけないと分かっていても、お酒に逃げ、結果飲みすぎてしまい、後から後悔し悔い改めるという日々を送っていました。
私の父も夫婦の不仲や仕事でのストレス、家庭においてのやるせない思いや孤独感からお酒に逃げ、それによって乱暴な口調になる時がありました。そのような父の豹変した姿に母は恐れを抱き、余計に夫婦間に争いと裁きが増え悪循環になっていました。
私も情欲の霊に捕われていた時は、不倫がいけないと分かっていてもしてしまい、後から後悔するという日々でした。これまでの親子間で満たされない思いや寂しさをこの世(不倫相手)に求め、それでも何一つ満たされず、虚しさだけがいつも残っていました。学生時代は、友達を握り都会での生活にまかれて背伸びをし、日々の生活に刺激を求めてクラブに行き始めました。次第にクラブ通いは依存症のようになり、週に2回はクラブに行かないと気が済まないと思うようにまでなり、10代の時からお酒も飲んでいました。その時は楽しいと思っていても、益になるわけではなく、最終的に“クラブに行きたい”という思いが自制できない自分になってしまったことへの虚しさと後悔だけが残りました。
そして、そのようなこの世の汚れに染まっていたことから原因不明の蕁麻疹が出て、一生薬を手放せないという状況にまでなってしまったのですが、まず神の国と神の義を第一にする=集会へ行くことを牧師から示され、従った時、蕁麻疹が完全に癒されるという体験をしました。そして、私の本当の思い(寂しさ・虚しさ)を知り、あわれみの涙を流す兄弟姉妹の姿から、この世の世界に染まるのではなく、本当の自分を知ってくれる神の家族の存在・イエス様=御言葉に向き合うことを真の私(霊の私)は求めているのだと分かるようになり、クラブへ行くことを止め、真剣に聖書を学ぶようになりました。

このような体験から、改めてC兄弟へも、この世のものへ逃げるのではなく自分の思いは全てイエス様に持っていけること・イエス様ご自身が持ってきなさいと言って下さっていること、この世(アルコールの霊)の先にあるのは滅びしかないことを証しました。そして牧師を通して、お酒に逃げなくてもいいように日常生活の中で他の楽しみをイエス様に求めていくこと、仕事も福音の為に働いていった時ストレスを感じることなく喜びしかないことを語られました。知性においても、お酒によって病気になったらどうするのか、一家の主としても自覚と責任をもって、もっと御言葉を蓄え信仰に立つことが大切であると語られました。

詩篇119篇9~11節
若い人はどうしておのが道を清く保つことができるでしょうか。み言葉にしたがって、それを守るよりほかにありません。わたしは心をつくしてあなたを尋ね求めます。わたしをあなたの戒めから迷い出させないでください。わたしはあなたにむかって罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました。

そして私はその日の夜、C兄弟へ御言葉を頂きました。

ガラテヤ5章16~26節
わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。

C兄弟は韓国で餅屋を営んでいるのですが、そのお店を始める時に頂いていた御言葉は、当時私が就職した時に頂いていた御言葉と同じ箇所であり、互いが置かれたところでその御言葉を握りしめ、仕事に励んでいました。

ヘブル11章10節
彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。

私自身、この“神がもくろむ都の成就”に向けて沢山のサタンの攻撃を受けました。だからこそ、C兄弟への攻撃「アルコールの霊」も“C兄弟”ではなく、サタンの攻撃であることを霊でも知性でも知って欲しいと思いました。もちろん何もかもが悪霊のせいといえるわけではありません。私がこれまで語られてきたように、なぜお酒に逃げることがいけないのか知性においてもしっかりと理解し、自制しなくてはいけないこともC兄弟は牧師を通して語られ、C兄弟がアルコールの霊を足の下にして解放され神の召しと選びが成就したことを感謝し、皆で祈りました。

また、交わりの中で愛にあって真理を語っているC兄弟の妻・D姉妹の姿勢からも語られました。
救われる前のD姉妹はタロット占いで生計を立てていましたが、holygirl牧師との出会いを通して本当の神・イエス様を知り救われたことで180度変えられ、今では1人のクリスチャンとして、また一人の女性・母親・妻として、聖書やぶどうの木のブログから一つ一つ学び、自分がヤギにならないよう牧師=イエス様への報連相を忠実に行い、その都度語られたことを韓国で実践しています。
今回夫であるC兄弟や、韓国の牧師さんへ語っているD姉妹の姿からも、裸の王様に裸と伝える真の愛で自分が学び体験体得してきたことを真っすぐに伝えなければならないこと、どんな霊力のもとにいても自分が熱いストーブ(聖霊の炎)となって相手に語る時、全ての頭はイエス様であり、御手の中であること、そして、私が今回韓国での交わりを通して語られたように、全てが聖霊により見せられていることなのだと分かる時、全て自分の訓練であり、自らはそこに染まらず清い器でなくてはいけないこと、そこに立って語る時、相手をその霊力から引っ張りだすことができること等、クリスチャンとしての姿勢の大切さを改めて語られました。
交わっている間も注文の電話がC兄弟へ次から次へときており、店もイエス様にあって祝福され、福音の為にも使われていました。その中で出会ったA牧師と私は今回初めてお会いすることになり、交わる時間が与えられました。

 
<A牧師との交わり>

A牧師はお会いした時から私の証に対し「証できる勇気が凄い」と感想を話してくださり、共に喜んで下さいました。また、美味しい食事をご馳走して下さったり、韓国が初めての私の為に韓国村に連れて行って下さったりと、もてなして下さいました。しかし、交わっていく中で証に至ったことへの背景にある「聖霊のバプテスマの必要性」についての話になった時、聖書の解釈の違いでA牧師は救われた時に聖霊を頂いているのだからそれで十分だとおっしゃり、一致することができませんでした。                    私はA牧師の話を聞きながら、改めてこれまでの自分の歩みを振り返ってみました。

私はぶどうの木と出会い聖霊のバプテスマを受け聖霊を頂きましたが、それまでの18年間はいわゆる“宗教・キリスト教”の教会へ通い、聖霊というものさえも知らなかった為、聖霊のバプテスマを受けていないまま聖書を学ぶ日々でした。
今思えば、その18年間は聖霊に満たされていないことは何の力も無いということを体験した期間でした。聖書が何を伝えたいかも分かっておらず、御言葉一つ一つに対して“そんなの無理、綺麗事ばかり”と思っていました。18年間母に連れられ4つの教会を転々としてきましたが、聖書が伝えている「許すこと、愛すること、イエス様の為に生きること」を教会の誰が実践していたか・・。“誰もできていない”という印象しか私には残っていませんでした。家庭内では、いつまでたっても両親の不仲は解消せず、争いばかりで、その問題に対し牧師や兄弟姉妹は一見関心があるように見えても、結局は解決できずに他人事。教会から一歩外へ出れば世の中の問題に振り回されてばかりで、それならば教会へ行く意味はあるのか、時間の無駄とまで思うようになりました。幼いながらに私にとって教会とは、ただ真面目に聖書を学んでいることを各自が誇り、結果日常生活の中で何がどう変わったのかという証が無い、ただの地域社会のように見えました。そのため18年間教会へ通っても、“もっと聖書を知りたい、学びたい”という思いは一切芽生えず、それどころか反発心ばかりが年々大きくなり、それにより親子間での争いも大きくなっていきました。この教え(宗教・キリスト教)と決まり事(御言葉)が無ければどんなに家族は平和でいられたか‥と思ったこともありました。

そんな私はぶどうの木と出会い、聖書には悪霊の存在とそれに打ち勝つ聖霊の力があることを知り、聖書には全ての問題の解決策が書かれてあるのだと気づきました。そして、私が初めて牧師を通してイエス様から言われたことは、「両親に従いなさい」の御言葉でした。当時の私は、その御言葉を聞いた時「また決まり事か。言われて従えていたら前から従っていた。私は両親を親とも思っていないし、今更どう従うのか分からない」と最初思いましたが、牧師は続けて、両親に従うとはどういうことかを具体的に教えて下さいました。それは、私の大学行きに反対していた両親に対し、素直に正直に誠実に、なぜ大学へ行きたいのか自分の思いを伝えるということでした。

私にとって、御言葉を日常生活の中でどう実践していくのか(聖霊の賜物の一つである知恵の言葉)を教えてくれた牧師は18年間の中で初めてでした。そして、聖霊を頂いている私は何事も「主にあってできる!」のだと知り、内側から自然と“やってみよう”と思うようになり、両親へ自分の思いを伝えました。そして、その変化した私の姿に両親の心が変えられて大学への道が開け、両親も一つ思いになり仲良くなりました。そして、18年間一度もできなかった両親と3人で出かけることや、大学入学に備えて親子3人で話し合って住まいを準備したり、揃って食事をすることもでき、これまでの心の傷が一瞬にして消え去るという体験をしました。

このような体験から今がある私にとって、聖霊の存在は決して否定できず一番大切な教えであるという確信がありました。それは、この世の中は常に聖霊対悪霊であり、聖霊によらなければ、御言葉を日常生活で実践することは困難であることを体験してきたからです。聖書に書かれてあることは決まり事でしかないと思っていた私が、聖霊の賜物である<知恵の言葉>の存在を知り、気づけば御言葉を頂けるようになり、今まで私にとって世の中で一番嫌いな本であった聖書が、今では印だらけの一番大好きで大切な本へと変わりました。聖霊のバプテスマを頂いているからこそ「何事も主にあってできる!」と御言葉を握りしめ、目の前の様々な壁を乗り越えて今があり、その先に今回のA牧師との出会いがありました。だからこそ、聖霊のバプテスマを否定する教えはサタンの思う壺、策略なのだと分かり、一日でも早くこの聖霊の力を体験して欲しいと思いました。

韓国の教会に限らず、殆どの教会がこの聖霊の存在と力を見えなくさせられたり、否定していたりしていると思います。かつての私がそうであったように、この聖霊について知るタイミングは人それぞれではありますが、それも全てイエス様の御手の中であること。ただ、御言葉に書かれてあることにアーメンをし、幼子のように「そうなんだ!聖霊の力って凄いんだ!私も聖霊のバプテスマを受け入れてみよう!」と素直に求める姿勢が必要なのだと思いました。そこに攻撃をしてくるのが、プライドの霊・男義の霊であり、その先にあるのは自己卑下・恥です。そうならないように、聖霊のバプテスマを受けることの必要性を御言葉と証を持って愛で伝えることの大切さと、聖霊に満たされた時、C兄弟に対して頂いたガラテヤの御言葉にあるように、初めて御霊によって歩むことができるのだと改めてA牧師との交わりを通して語られました。


<R兄弟との交わり>

R兄弟とは今回初めてお会いしました。しかし、私は救われた時からR兄弟のことはよく耳にしてきました。
初めてR兄弟のことを知ったのは、私がぶどうの木を通して救われ聖霊のバプテスマを頂いた日でした。当時の私は、聖書の教えを聞く時(牧師たちと交わる時)はいつも母が傍にいて、“母を通しての聖書”“母に連れられての交わり”といつもそこに母親からの支配の霊力がありました。そのような私が、初めて親元を離れて牧師2人と交わることになりました。当時観光業に興味があった私に、牧師たちはドライブをしながらまだ知らなかった地元の観光地を案内し、私の視野を広げて下さいました。その交わりの最中に突然、当時日本にいたR兄弟から牧師へ、韓国へ帰るとの連絡がきたことがきっかけで私はR兄弟の存在を知りました。
その時は「R兄弟という人がいるんだ」という程度でしか認識がありませんでした。しかし、両親が仏教徒であり特にその母親の影響で仏教を信じているR兄弟と、母親がキリスト教を信じていたことで母親に連れられて教会へ行っていた私の境遇が重なることや、私の誕生日(1月6日)がカタカナにするとイ・ムでR兄弟の苗字(イムさん)であり、Rさんが捕えられている「仏」であること、R兄弟の出身地と私の苗字が同じ漢字であること、R兄弟からの電話があった日の交わりの先にあった大学進学の集大成となる卒業式の前日にR兄弟が救われたこと等、一つ一つが偶然とは思えない繋がりがあることを知らされました。まだ直接会ったことはありませんでしたが、私は9年間R兄弟のことを心にとめて祈り、いつか直接会って交わりたいとイエス様に求めていました。そして今回その願いが叶い、R兄弟と直接交わる機会が与えられたのです。

食堂を営むR兄弟は仕事中にもかかわらず私たちと一緒に席につき時間を作って下さり、R兄弟のお店の料理を頂きながら一緒に日本語で交わりました。私は、初めてR兄弟とあった時、とても暗いオーラが出ている人という印象を受けました。実際、R兄弟はビジネスが上手くいかずに借金を抱え、人間関係にも疲れ、まるで人生のどん底にいる状況で、ずっと口癖かのように「結婚って何ですか。僕の人生は孤独です」と言っていました。「早く今の仕事を辞めて自由になりたい。一から仕事を見つけたい。でもまずはこのお店が売れなくてはいけない」と言うR兄弟の姿を見て、これまでの古い私と同じだと感じました。
私も救われる前は、人生のどん底であり、全てに余裕がなく、結婚なんて無縁だと思っていました。人生に対しても、きっと私は何をしても不幸となり悲しみがつきまとうのだろうと占い、全てにおいて自信がなく、自分の尊厳を完全に失くし、自分なんてどうでもいいと思っていました。私の気持ちは誰にも分かってもらえないと思い、初めて牧師たちと出会った時も、泣きながら「あなたたちに私の気持ちなんて分からない!」と訴え、自分は孤独の中で育ってきたから、きっと将来は同じような境遇の子の為に孤児院で働くのだろうとまで思っていた程でした。
そのような状況にいた私がぶどうの木を通して救われ、大学進学の為に大阪へ引っ越す時に、holygirl牧師から手紙を頂きました。その手紙には、「あなたは決して一人ではない。いつもぶどうの木の神の家族、両親・兄弟がいる。皆の愛に守られている」ということが書かれており、距離も利害も関係なくいつも私のことを無条件で愛し、祈り、支えてくれる家族がいることを知りました。
社会人になり、社会の荒波でサタンの策略により苦しんでいた時も、何よりも両親への学費返済を握らされていたことでいつもお金に追われ、仕事を辞めたくても辞められず、いつもこの環境から離れられたらどんなに自由なのだろうと思っていました。しかし、そんな私に牧師を通して御言葉が突き刺さり、まず仕事を辞めて浜松へ戻ることが示され、全てを捨てて一歩を踏み出した時、全てが添えて与えられ自由な身となりました。そしてその先にずっと求めていた今回の韓国行き・R兄弟との出会いも与えられました。

今回そのようなどん底にいるR兄弟に対して、牧師は一つの知恵の言葉を与えました。それは「タバコに逃げることを辞めること」でした。R兄弟は、タバコを握り、今やタバコが唯一の友達だと言う程にまで依存し、タバコを吸いたくなれば貧乏ゆすりをしてしまう程でした。
実際、私の二人の兄も何年もタバコを吸い、辞められずに生きてきました。これまで私が兄たちに聖書の教えを語ってもすぐに煙に巻かれて大事な部分が見えなくなっていました。自分自身の体はもちろん、周りの人達にも害が及ぶのにも関わらず、それでもタバコを吸い続ける兄たちは、自分の欲・タバコへの義・やり方を貫く男義と自己愛の強さによって、どんどんイエス様から離れていってしまいました。
聖書には悪霊の存在が書かれており、タバコは「ニコチンの霊」という悪霊であると教えられてきました。R兄弟はすでに救われそのニコチンの霊に打ち勝つ力も頂いており、後はR兄弟の意志が問われることを、今回牧師を通してR兄弟へ再度語られました。

私も、まず両親に従うこと=素直に正直に誠実に自分の思いを伝えるという<知恵の言葉>を頂き、実践するという一歩から人生の全てが変わりました。救われたばかりの頃は、自分のコンプレックスに対してつけまつげをつけたり、カラーコンタクトをしたり、エクステをつけたり、平気でピアスを開けたりしていました。しかし、御言葉を蓄えていく中で、自分は神の作品であり自分の体は神の宮であることを知り、ありのままの自分を大事にしなくてはいけない!大事にしたい!と思うようになり、当たり前のようにしてきたことができなくなりました。

第一コリント3章16~17節
あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。

何より、「親」というフィルターを通して神を見ていた私が、聖書が伝えている神とは個人的な神であり、自分とこの世を造った唯一の神・イエス様との関係を築くということがどういうことかを知りました。
「神」を宗教でしか知らなかった時は、「親が信じているから」というただそれだけの理由で何となく信じていました。しかし、私はぶどうの木を通して自分を造り自分の全てを知っている唯一の神=イエス様の存在を知り、それは家族や友達に左右されるものではなく、自分とイエス様との関係を築くことが大切であると教えられてきました。だからこそ、自分を造り全てを知っておられる方は何と言っているのだろうかという思いから、少しずつ聖書を開くようになり、聖霊によって歩みたいという思いが芽生え、気付いたら180度自分の内側も人生も変わっていたという歩みを与えられてきました。

R兄弟と交わる中で、古い私と同じであると感じると共に、「R兄弟は一人じゃない!イエス様がR兄弟の内におり、私たち神の家族もいる。主にあって何事もできる!」と内側から強い思いがきました。私がそう思えることも、ただ単に聖書に書かれてあるからという理由だけではなく、御言葉を実践し自ら体験した証があるからだと改めて私自身も語られました。牧師を通して今の自分がどこにいるのかをはっきりと愛で教えられ、何をしなくてはいけないか道を示してもらったR兄弟は、最初は暗い印象がありましたが、次第によく笑う明るい青年へと変わっていき、最後の写真ではダブルピースをするほどにまで変えられていました。

今回R兄弟の店を訪れるにあたって、最寄り駅にある「聖心堂」というパン屋さんで揚げパンを買い、皆で食べながら交わりました。このお店は、1956年に創業され、当時農夫であった創業者がお腹を空かせている人々に無料でパンを分け与えていたことから“命のパン”と呼ばれて有名となり、今では地元で一番のブランドとなっているそうです。人々を助ける為に使われたその“命のパン”を買ってR兄弟と交わったことも、後に牧師を通して、R兄弟は「囲いにいない羊」であり、私たちはR兄弟がその店の名前の通り“聖い心”となる為に、そしてイエス様の守りの中に入るよう、“命のパン”を届ける役割に使われたことを御言葉と共に解き明かされました。

ヤコブ1章27節
父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。

ヨハネ10章7~18節
そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。

最初にR兄弟の最寄駅に着いた時は、駅や街の至るところに私の苗字と同じ読み方の漢字がありました。私は自分の苗字に対して在日=差別されてきたことをあらわしている苗字とまで思い“自分の古い血筋だから忌み嫌わなきゃ”と思っていた為、どこを見てもその漢字が目につく街並みに対し“なんか嫌な感じがする。もう見たくない”とまで思ってしまっていました。しかし、その地へ行ったことでそこでしか出会えなかった“命のパン”を知ることができ、最後の最後までイエス様が私の為に愛で語って下さっていることを感じ、自分の苗字・ルーツに対しても裁きではなく愛で満たされました。

 
<S牧師・P姉妹との交わり>

S牧師とP姉妹は韓国の教会へ通っている姉妹たちです。初めて韓国にきた私に美味しい御馳走でもてなして下さり、自宅に招いて下さったり、お土産まで用意して下さいました。今回S牧師とP姉妹にもあらかじめ私の証を送り読んで頂いており、その中で「証」についての話になりました。韓国の教会では、証をすることに対して、自分のこんな恥を話すだなんて・・と捉え、皆の前では話さず、話す場合は牧師にだけ話すのだという現状を知りました。

私は今回韓国へ行く前に、自分が社会人として4年間どんなところにいたか、サタンの策略とそれに打ち勝つ力(聖霊)についての証として、ブログを通し世の中へ発信してきました。今回の姉妹たちの言葉を聞きながら、“果たして証に書かれてあることは恥なのか…”と改めてイエス様に戻った時、私は証を話す時一度も恥だと思ったことはないと改めて思いました。それは、万事が私の益と言えるからであり、生きているのはもはや私ではなくキリストが私の内に生きておられることの証明であり、全てイエス様の栄光の為にしていることだからです。

ガラテヤ2章20節
生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。

ヨハネの黙示録12章11節
兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。

確かに、私がサタンの策略に翻弄されてしてしまったことは、この世でいえば恥であり聖書の中でパウロも言っていたように糞土のようなものです。しかし、そこで終わるならば、それは証ではなく単なる「報告」であるとこれまで語られてきました。聖霊を頂いているというならば、そこから御言葉や身の回りのことを通してあらゆる角度から語られ、いかにサタンに翻弄されていたか、そこにあったサタンの策略にどう打ち勝ってきたかを霊でも知性でも理解することができます。そして、二度とそこにはいかないという決心・決意・覚悟・決断を込めて証をしていくことで自分自身の解放はもちろんのこと、自分と同じところにいる人達の解放の為にも使われていくものとなります。今回私も証を書くまでは、自分はすでに解放されていると思っていましたが、いつもどこかスッキリせず、もやもやしており、すぐにサタンが耳元で囁いてきては古いところへ戻そうとしてきていました。しかし、皆の前で証をすることでどんな策略があったか、3代4代の血筋からきていることも明らかになり、その根っこを縛り上げた時にこれまで消えなかった「過去の闇」が一瞬にして消え去り、全てが新しいと思える自分へと変わり、いかに「自分」では無く、サタンに翻弄されていたかが分かるようになり、真に解放されるという体験をしました。

S牧師やP姉妹の話を聞きながら、喜んで笑い飛ばすぐらいの勢いで証できない状況ならば、韓国の教会は人の顔色を覗い情欲に翻弄される肉の交わりになっていると感じました。そこにいたら、羊は何の解放も無いどころか、自分の自慢話など良いことだけを話し、「誇る者は主を誇れ」ではなく自分を誇り、何の力もない交わりになってしまいます。御言葉ではなく、いかに人間の善悪の基準と情が頭となってしまっているか、その現状を知ることとなりました。

 
<帰りのタクシーで>

最終日は、ホテルから空港までタクシーに乗ったのですが、運転手さんはクリスチャンであり、奥さんは長老、過去に長年芸能界にいて日本の芸能界や報道関係とも繋がりのある方でした。
道中で現在の韓国宗教や政治についても話しをし、朴槿恵前大統領がいかに洗脳され、その結果生涯を刑務所で過ごすことになってしまったこと等の話にもなりました。そのような話の中で、今回の韓国での交わりや「韓国宗教」を振り返った時、どれだけ韓国宗教がカルト化しているか、牧師が立てられている意味と責任の重要性、その向こうにいる羊がヤギとなりサタンに翻弄されて何の力も無いこと、それらすべての根っこにあるのが人の顔色を覗い神よりもこの世の人間関係・地位・名誉・富を握る情欲の霊であることを改めて語られました。そして、御霊によって歩む時、今回の旅での全ての出会い・交わりから語られたことが何一つ無駄無く、空港迄の短い帰路の間の会話においてでさえ見事に繋がってくるのだと感じ、この旅の内にずっと臨在していた聖霊の導きの素晴らしさを最後に改めて実感しました。そして、運転手さんとの出会いにも感謝して「一つになろうよ~命の絵本・命の糸に出会う本~」の絵本と諒兄弟の冊子を、この種が彼の日韓両国にあるつながりにおいても芽を出すことを祈りプレゼントしました。


<まとめ>

このような4泊5日間を過ごさせて頂く中で、韓国行きに対して頂いていた3つの御言葉通り、韓国宗教をしている人達の救いに向け、聖霊のバプテスマ・力の必要性と証の力を伝える務に使って頂いたのだと語られました。そしてイエス様はそこで終わりではなく、私に対してもっともっと大きく深い「キリストの奥義」を体験体得させて下さったことを、韓国での兄弟姉妹との交わりにより生まれた自分自身の中での大きな気持ちの変化によって更に気づかされていきました。

今回兄弟姉妹たち皆が、何をするにも喜んでもてなして下さり、ありのままの姿・食文化・生活を見せてくれました。言葉も違えば食事や文化も違い、それぞれの霊的状態の中で状態だけを見れば驚きと衝撃を受けるようなこともありました。しかし皆が愛で温かく迎えもてなして下さり交わらせて頂く中で、気づけば私にとって見える状態は関係のないものとなりました。見える状態よりも、同じ霊をもちイエス様を頭として霊の交わりができる神の家族であることがとても嬉しく、ありのままの兄弟姉妹の姿に対しとても大切でかけがえのない存在であることを感じる日々でした。
今回牧師たちと共に行かせて頂いたことでいつも牧師が隣で一つ一つ霊的にどういうことか解き明かして下さり、最初韓国に対し「暗い。住めない」という思いも、私が大学時代に見せられた部落の地域と似ていたことから、その時の衝撃とそこから植え付けられた強迫観念により抱いた思いであり、それは「住めない」と思う程にまで高ぶり、裁いていたことが明るみとされました。なぜ日本において在日・部落というものが生まれたのか、そもそも韓国とはどういう歴史がありどのようなサタンの策略で今の韓国国民がいるのか、食生活や毎回の食事一つとってもいつもイエス様に戻り「何を私に語って下さっているのですか?」と聞いていく時、すべて見たとこ聞いたところの状態ではなく、韓国がどういう霊的状態にあるのかいつも「霊」から知り、その上で自分のルーツ・血筋を見つめ全てを許し解放されなさいと牧師の一つ一つの知恵の言葉・解き明かしを通して語られる使徒行伝をさせて頂きました。そうしていく中で、ありのままの兄弟姉妹を大切に感じ、その兄弟姉妹がいる韓国に対しても心から好きと思えるようになり、最終日には「まだ日本に帰りたくない」と思う程にまで気持ちが変えられていました。そして、全て自分が悟り解放される為に、イエス様から「見せられている」ことなのだと語られ、気づいたら韓国の兄弟姉妹との交わり全てが私の鏡であったことを悟りました。

Hちゃんが使われて神の真理が私を導き共に歩む時、気づけば自分の内側の思いさえも180度変えられ過去の闇が過ぎ去り、真理に従う歩みは必ず180度自分が変えられることを実感するところから始まった今回の交わりがあり、その中で、A牧師との交わりを通して語られた聖霊のバプテスマの必要性、聖霊により何事もできる!聖霊を頂いている者に不可能なことはない!という教えや、実際に救われる前と180度変えられたD姉妹の姿・たった5時間の交わりで聖霊により変えられたR兄弟の姿から聖霊の力の凄さを教えられてきました。と同時に、果たして私はこの血筋に対し聖霊によって変えられたと言える自分なのか、不可能と言っていないか問われ語られていることに気づきました。
S牧師とP姉妹の交わりを通して語られた「証」についても、自分自身この血筋に対し笑い飛ばして証できる程にまで果たして完全に解放されていたのか、この問題だけはどうしようもないと勝手に決めつけ、真理に力が無いと言ってサタンの支配下に閉じこもってしまっていないか問われました。

自分の肉は苗字に対し勝手に裁き、嫌だと思っていましたが、その苗字と同じ読み方の漢字である土地でしか出会えなかった“聖心堂・命のパン”を知ることができたことで、裁きの思いから愛に変わり満たされました。私はどれだけ肉で自分のルーツ・苗字に対しても勝手な認識の中で裁き、愛が無かったのか問われました。
最初韓国に着いてすぐに“暗い。住めない”と感じた私ですが、私も、周りからは明るい人に見えていても、内側には“どうしようもない問題”として自分の血筋についての闇を抱えていた暗い人間でした。「自分は差別されている血筋によって生まれた人間」と、自分で自分を差別し裁いていたのです。韓国を通して見せられた状態は、私の霊的状態でした。実際、R兄弟と会った時に、牧師がR兄弟に私を紹介する中で「この子の苗字はこの土地と同じ読み方の漢字だから、もしかしたら元々ここの土地の人だったかもしれないのよ!」と明るく普通に伝え、そのことにR兄弟は驚いていたのですが、自分の苗字=在日・差別されてきた苗字と勝手に捉え裁いていた私は、そんなにも韓国人のR兄弟にこの苗字のことを普通に伝えられることなのか!と驚きを感じてしまう程、血筋に捕えられている自分の内側に気づかされました。

このように、自分の中にあったコンプレックス・一番嫌!と思い、握らされてきたこと(血筋を感じる苗字や暗い雰囲気)に対し、あえて360度その環境に置かれた時、私は自分で思っていた以上に自分の血筋についてサタンの支配下にどっぷりと浸かり、状態だけを見て勝手に決めつけて差別をし、ありのままの自分を大切に思う=尊厳など考えたことが無かったことに気づかされました。
そして、私はこの「尊厳」について語られた時、一つの御言葉を頂きました。

ユダ17~25節(リビングバイブル)
愛する皆さん。主イエスの使徒たちから教えられたことを、思い出してください。 終末の時代には、主をあざける者たちが現れるはずではありませんか。彼らの生きがいは、思いつくかぎりの悪を行うことです。 彼らはこの世の悪を愛し、人々をあおりたてて議論をしかけ、分裂させます。彼らの心の中には、聖霊が住んでおられないのです。 しかし、愛する人たち。あなたがたは、今のきよい信仰を土台として、自分の生活をしっかり打ち立てなければなりません。そして、聖霊の力と励ましを受けて祈り、 いつも神の愛のうちにいなさい。そうすれば、神から祝福がいただけます。永遠のいのちに至らせる、主イエス・キリストの恵みを待ち望みなさい。 偽教師の惑わしに悩まされ、神の真理を疑う人々を心にかけなさい。そういう人々を、地獄の火から奪い取って救い出しなさい。あるいは、親切にして、彼らが主を見いだすよう助けてあげなさい。しかし、彼らの罪に引きずられてはなりません。罪人である彼らに心はかけても、罪そのものは憎みなさい。 あなたがたをつまずきから守り、罪のない完全な者とし、大きな喜びをもって栄光に輝く神の前に立てるようにしてくださる方に、すべての栄光がありますように。私たちの救い主であるただひとりの神に、栄光と尊厳、あらゆる力と権威が、今も、これから後も、いつまでもありますように。アーメン。

最初この御言葉を頂いた時、聖霊の必要性や、自分はこの世の人たちに対し地獄の火の中から救い出す働きとして立たされていることを改めて語られているのだと思っていました。しかし、ふとリビングバイブルで読んでみようという思い(霊の思い)になり読んでみた時、口語訳では「栄光、大能、力、権威」と書かれている箇所に「尊厳」という言葉が加わっていることに気づかされました。そしてその時、“今自分にタイムリーに語られている「尊厳」について、イエス様は御言葉を通しても語って下さり凄い!本当に私の全てをご存知でこんなにもタイムリーに語って下さるんだ!”と改めてイエス様と共に生き、歩めていることの素晴らしさを強く実感し、私の全てを知り、御言葉を通して愛で語って下さる神がいること、その神の子とされ、キリストの花嫁とされていることに喜びに満たされました。
そして、私はイエス様にあってこの世に誕生し、神の子として生かされているものであるのにも関わらず、何故いつまでもサタンが作りだしたこの世のシステム(どんな環境で生まれたか、血筋や生い立ちやそこからくるコンプレックス)の中に留まって握らされ、自分の尊厳を失わされているのかと、そんなところにいた自分がばかばかしく思え、自分の全てを知っている「神」を知り、その神から尊いと言われていることの素晴らしさに言葉に言い表せない程の喜びで満たされました。

ヨハネ1章9~13節
すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。

第一コリント6章19~20節
あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。

また偶然は無く、空港へ向かう車の中で私は牧師達に「きみは愛されるため生まれた」という韓国で作られた曲の話をしていたのですが、この曲は私が幼少期に通っていた教会に毎年来ていた韓国の大学生クリスチャンチームがよく歌った曲であり、韓国語を話せない私でもその歌詞だけは全て韓国語で歌えるということを牧師たちに話していました。後に、この曲のタイトルからも自分は愛される為に生まれたことを語られていたことや、ずっと前から神は私にこの歌詞からも私に必要な尊厳・愛されている尊い存在であることを語って下さっていたことに気づかされました。このような体験から、韓国行きに対して最初に頂いていたイザヤ45章4節にあるように、まさに私はイエス様に呼ばれて韓国に行かなければ気付けなかったこと、解放されなかったことがあったことを全てイエス様はご存知であり、だから呼ばれたのだとはっきりと分かるようになりました。
そして、改めてこのイザヤの御言葉を読んでみた時、その先の御言葉に目が行きリビングバイブルでも読んでみようという思いになり、読みました。

イザヤ45章4~13節(リビングバイブル)
この仕事のためにあなたを名ざしで呼んだのはなぜか。それは、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルのためだ。あなたがまだわたしを知らない時、わたしはおまえの名を呼んだ。わたしは主である。わたしのほかに神はいない。たとえあなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くし、どの戦いにも勝利を得させる。すべての人々に、わたしのほかに神はいないことを知らせる。わたしが主、ほかにはいない。わたしは光を呼び、闇を招き、時代を良くも悪くもする。わたしは、これらのことをするものである。天は窓を開き、空は正義を降らせよ。救いと正義が地から共に芽を出すようにせよ。わたしが、それらのものを造ったのだ。」創造主に敵対して戦う者は、災難に会います。つぼは、それを作る者と言い争うでしょうか。粘土が細工する者に、「待ってくれ。作る物が違っているのではないか」と言ったり、つぼが、「なんと不器用なんだ」と文句を言ったりするでしょうか。ああ、自分の両親に、「なぜ私を産んだのか。産んだのは間違いではないか」とわめきたてる者よ。イスラエルの聖なる方、イスラエルの創造者である主は語ります。「どんな権限があって、わたしのすることに口をはさむのか。わたしの仕事にあれこれと注文をつけるあなたは、いったい何者なのだ。わたしは世界を造り、その上に住む人間を造った。自分の手で天を引き伸ばし、無数の星に命令した。わたしの目的を果たすためにクロスを起こし、彼の進む道を整える。彼はわたしの都を再建し、捕虜になったわたしの民を解放する。わたしは、そのための代価を求めない。」

この御言葉を読んだ時、偶然はなくその週の集会で聖書には「尊厳」について陶器師と粘土の関係に例えられることが語られていたことを思い出されました。御言葉や集会での学びを通して、私たち人間は皆、陶器師=神に大切に造られた尊い作品であり、この世の血筋・生い立ちによるコンプレックスや裁きの思いがいかに自分を造った神に対して文句を言っていることになるのか語られ、今こうして神と自分との関係を見出す歩みをさせて頂いていること、集会での話とも重なりタイムリーに私の霊が私自身に語って下さることを実感し、イエス様への感謝の気持ちで満たされました。

そしてもう一つ、口語訳では「雲は義を降らせよ。地は開けて救いを生じ、また義をも、生えさせよ」と書かれている箇所に「正義」という言葉が加わっていることに気が付かされました。
かつて私たち家族が自分たちを捕えてきた血筋について知るきっかけとなり、私が大学時代に交際していたS兄弟は、後にイエス様を信じ救われぶどうの木にも導かれたことがありました。彼は、その初めての集会で牧師を通して「血筋に捕われ差別されてきた人たちの“正義”となる働きがある」と示され、御言葉から預言を頂いていました。そして、偶然はなく彼が預言を受けたその集会は、今回韓国で交わった神の家族との出会いの始まりとなる、holygirl牧師の韓国留学への壮行会をした日でもあり、私と母はholygirl牧師へ「義の実」を渡していました。
今回韓国行きに対して頂いていた御言葉の先から“正義”と示されたことで、私も血筋に捕われ苦しんでいたところから解放されたこの韓国行き・証を通して、捕虜になっているこの世の人々の正義となり解放に使われていくのだと語られました。まさか頂いた御言葉の先から私の召しと選びの解き明かしにまで繋がっていくのか!と驚き、この4泊5日の韓国での交わりが自分の思っていた以上に、とても大きく深いことであったのだと気づかされました。
そして、その気づきや証を牧師へ話していく中で、今回の私の韓国行きや牧師たちと共に行ったことは決してたまたまでは無く、全て神が私の為に備えて下さっていたことであり天地ができる前から私に与えられていた神の愛であること、韓国での兄弟姉妹との出会いや交わりも全て私の為に用意されたこと、更にさかのぼるならば韓国で神の家族が生まれるきっかけとなったholygirl牧師の韓国留学も、自分の血筋について知るきっかけとなった大学時代のS兄弟との出会いも、全て神が私の為に備えて下さっていたことであると語られました。イエス様に繋がって歩む時、全て自分が主役であり、神が私の為に備えて下さり、全てが偶然とは思えない、まさに「神業」で行われていたことだったのです。

更に牧師から「あなたは自分自身が差別されてきたのでは無く、むしろ何不自由無く、血筋による差別問題の影響も一切受けることなく生活をさせてもらってきた。それにも関わらず、こんなにも自分の血筋を気にしてがんじがらめにさせられてきたのは、両親からの言葉『そのような相手とわざわざ結婚をする必要はない』によってサタンがあなたにその思いを刷り込み、強迫観念へと変えられていったからです。まずは両親を許しなさい。」と言われました。その解き明かしを受けた時、私の中に“両親を許す?”と疑問が生じました。
当時の私は、男義と情欲の霊にまかれ変わってしまったS兄弟と別れることになり、肉ではとてもショックを受けましたが、時間が立つにつれ「やっぱり両親の言う通り、全て違ったんだ。彼のような血筋の人とあえて一緒になることは違う。お互い育ってきた環境も違うし、わざわざそのよう相手と結婚して互いの益となるのだろうか。彼を結婚相手として見て交際したことは違ったんだ」と思うようになり、その言葉をイエス様にもっていくこともなく、仲が悪かった両親が一致してした発言であったということが自分の中に大きく残り、そのまま受け入れてしまっていました。その為、牧師からの解き明かしにより私の中に生まれた「なぜ両親を許す必要があるのか、両親は間違ったことを言っていないのに・・」という思いが明るみにされ、両親を許す=サタンの策略であったと全く気付かないまま彼を裁き、血筋についても“こんな気持ちになるならば知らなければよかった”という恨みに変わってしまっていたことに気づかされたのです。
そのような思いを持ったまま大学を卒業し社会に出ていった私は、人に対しても最初から相手の血筋や住んでいる地域について気にするようになっていき、彼に対してのあの頃のまっすぐで純粋な私はもういない、社会に出ていったら少しは霞んでいくし、社会的な知識によって物事を判断すること、それが大人になるということだと思うようになっていきました。

詩篇14篇1節
愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない。

第一ヨハネ4章18~21節
愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている。

しかし、そのような状態でどんなに聖書を学んできても、この血筋からくる強迫観念の霊からはずっと捕えられ、「神に不可能なことは無く、血筋によらず全てが新しい神の子とされている」という聖霊の力を自分の肉(愚かさ)によって小さくしていたことで、この御言葉のように、愛が全うされていない「偽り者」であり、「神はない」と言っている状態でした。両親自身も自らが発した言葉によって自身をも獄に閉じ込め、私自身も自分や彼を獄に閉じ込めていたのです。
後に牧師や姉妹を通して示された御言葉からも、そのようなこれまでの私の状態は、神のいましめ(聖書の教え)よりも人間の言い伝え(親がこう言ったから…、相手はこういう人だから…、社会的にはこうだから…)に留まり、これまでの歩みが真の神の愛によってでは無く全てが偽りの「偽善者」であると示されました。

マルコ7章1~8節
さて、パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。そして弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。

マルコ7章13節
こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている。

そして、これらの牧師の解き明かしと、御言葉を通してはっきりと示されたこの7年間の自分の愚かさを悔い改めると共に、両親やS兄弟のことも許し、改めてS兄弟に対して御言葉を頂きました。

ヤコブ5章19~20節
わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち、真理の道から踏み迷う者があり、だれかが彼を引きもどすなら、かように罪人を迷いの道から引きもどす人は、そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、知るべきである。

私は、これまでの7年間ずっと彼に対して「もう二度と会わない」と勝手に決めつけてしまっていましたが、この御言葉によって、彼が迷いの道から真理の道へ戻れるように私を使って下さいというキリストの思いに満ち、イエス様から語られたこの証を伝え彼と和解したい!それが自分に与えられた召しと選び「正義を伝える働き」の第一歩であるのだ!という思いに満たされていきました。彼への伝え方も、最初、別に直接会わなくてもメールや電話で伝えればいいか…とも思っていました。その時、以前私が牧師に証を確認して頂いた際に、牧師から「あなたの顔を見て直接伝えたいことがある」と言われ、私は、そんなに直接会って話す程大事なことが語られるんだ‥と思ったことを思い出しました。実際にその週に牧師と会い、いかに部落や在日などこの日本にある差別問題が、サタンが作り出した理不尽なことであったか、私たちクリスチャンはそのサタンの支配下にはおらず、全てに勝利されている方によって新しく生まれ変わった神の子とされていること、いつまでもそのサタンが作り出した血筋の中に留まり続けることが、いかに愚かなことであるかを聞けたことで、更に私は解放されました。
その体験から、私も彼に会いに行き、直接顔と顔を合わせてこの証を伝えることが、彼との出会いから沢山のことを学ばせてもらった一人の人間として、また彼を救いに導いた一クリスチャンとしての誠意であり、聖書の中でヨハネが伝えている「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」ことなのだと思い、直接会いに行くことを決めました。実際、転職先の候補として応募しようとしている企業から、卒業証明書の提出が求められていて大学に出向く必要があったので、思い切って大学の近くに住む彼に連絡を取ると、快く承諾してくれ、会う約束ができました。仕事を辞めていてもすぐに会いに行ける程、金銭面や時間に余裕があることも、全てイエス様によって備えられていることでした。

最初韓国から帰国してからここまでの証を書き上げる時間の中で、この世の現実問題に捕われ「早く働きたい」という思いになったり、「大学時代に語学の取得や留学をやり残してしまっていたから、今から挑戦したい」という思いになり、毎日心の中が落ち着かず“何かしなきゃ”という思いになっていた時がありました。しかし、まずはこの証を書き上げることを示され、書き上げていく中で、何度も今回一緒に使徒行伝をさせて頂いた牧師とholygirl牧師との出会い・私が救われるきっかけとなった「大学進学」について思い出させられました。
ぶどうの木と出会った頃の私は、観光業に興味を持っていたことで「国際観光学部」がある一つの大学が気になっており、そのことを牧師たちに相談したところから私と牧師たちとの関係は始まっていきました。その中で、偶然は無く、その大学のパンフレットに載っていた卒業生が牧師の知り合いの方であったことから、ますますその大学に興味を持ち受験することを決めました。話しを進めていく中で牧師を通して、「いくら観光について知識を深めても、しっかりとコミュニケーションが取れる人間でなければ国際社会において通用しない」と語られ、私はその大学の「国際コミュニケーション学部」を受けることに決め入学しました。その学部は、真の国際人になる為の教養を学ぶ学部であり、語学だけ学んでも真の国際人とは言えずその「言葉」を支える幅広い国際的な教養「異文化理解」があってこそ真の国際人であると教え、語学に加え国際文化やメデイア・心理学なども学ぶカリキュラムになっています。私はこの学部で、国際人とは・・を学びながら、毎週日曜日は浜松へ帰り聖書を学ぶという4年間を過ごし、その中でイエス様によってS兄弟との出会いがありました。
毎週浜松へ帰りぶどうの木で聖書を学んでいく中で、様々な角度から「国際人」と「地球人」の違いについて語られ、「国際人」はまだ人間が造り出した線(国境)が残っている状態であることを教えられてきました。私自身、今回の韓国での神の家族との交わりを通し、全く国境を感じない交わりをしていた自分がいたことや、日本国内においても私が捕えられてきた“人間が造り出した差別・レッテル=線”に対し、イエス様はその線を失くす為にこの地上に来られ私を救って下さったことに気づかされた時、この世が教える「国際人」と聖書が教える「地球人」の違いがはっきりと分かり、内側から真に変えられていくという体験をさせて頂きました。
そしてそれらの体験を通し、私にとって本来大学の4年間は、「国際人」となる為に必要な教養を学びながら、毎週の聖書の学びから神が伝えている「地球人」とはどういうことか、その違いをしっかりと学ぶ期間であり、その中でのS兄弟との出会いを通して、「国際人」止まりでは乗り越えられない壁も、聖書が教えている「地球人」としてなら乗り越えられることを自分自身が実践し、体験体得する為に与えられたのだと気づかされました。
そして、私が大学でやり残したことは語学の取得でも留学でもなく、もっともっと大きな視野・聖書が伝える地球人としてしっかりと立ち上がり、彼との出会いの中で壁となりまた私の家族をここまで苦しめてきたその血筋に対する強迫観念から完全に解放され、真の和解をすることなのだと語られました。その為に、8年前に神が家族皆を救い、私を大学へ送りだして下さいました。私や彼の解放の為だけでなく、私の家族の解放に向けても、私は家族代表として遣わされたのです。それが私の家族がきっかけとなりできた絵本「一つになろうよ~命の絵本・命の糸に出会う本」の真意・絵本の裏表紙に書かれてある御言葉「この小さな始まりを軽んじるな」ということなのだと悟ることができ、ここまでの計り知れない神の愛と御計画にイエス様への感謝で涙が溢れました。

ここに至るまでの道のりの中で、途中何度も自分の肉の甘さや、正しい知識も無いまま勝手に自分の判断で自分や相手を決めつけ裁く自分の愚かさにより、気づけば彼との出会いから7年が経ってしまっていました。たくさんの刈り取りもあり、時には“聖書には万事が益となると書かれていても、過去にこんな思いを抱いてしまって…こんなことをしてしまって…万事が益でしたと言えるのか?”と思った時もありました。しかし、神の計画は決して変わらず、どんなに私が遠回りをしてしまっていても、もう一度イエス様に意志を向けた時、過去も全てひっくるめて私に語って下さる大きな愛の内に生かされていることを改めて実感しました。
そして、今回大学へ卒業証明書を取りに行くタイミングでS兄弟と再会することも偶然は無く、この学びを経て7年という、聖書では“完璧”を表す年月の中で“真の卒業”となることも語られました。大学卒業後「神がもくろんだ都の成就」という御言葉を頂きこれまでの歩みがあることも、これまでの全てが繋がり、全てが!私の益であり、決して遅くなることなく成就されたことなのだと語って下さる神のやり方・聖霊の素晴らしさを実感し、感謝と喜びに満たされました。

この世=サタンの支配下に生きていたら、私のこれまでの7年間のように、どうしようもない過去や嫌なことに対し「もう無かったこと・違っていたこと」として捉えると思います。人間の力・頭では、どうすることもできないのです。国際人と地球人の違いも、人間の頭だけでは結局線のある「国際人」止まりでしか理解できないのです。しかし私は、救われ聖霊を頂いたことで聖書を通して、何年たっていても、たとえ自分の頭は忘れてしまっていても、過去への思いも全て神はご存知であり、必ず過去に対してもそして現在や未来に対しても答えを下さる方であること、自分自身にも相手に対しても何一つ壁を持つ必要は無く何にも縛られない自由な世界があること、絶対に神に不可能は無いことを体験体得させて頂きました。

第二コリント3章17節
主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。

社会に出てこの世に巻かれてしまっていた時は、気づけばこの世からの称賛やお金しか見えなくなり、次第にイエス様から心が離れていき、毎日仕事と家の往復で何のご飯を食べたかもわからないほど忙しい日々を送り、次第にそれが社会人だと思っていました。どんどん自分の心がすさんでいき、人に対しても「深く関わるだけ無駄。自分が疲れるだけ」そう思うようになったこともありました。人の心も世の中の情勢もどんどんと変わっていく中で、私は心のどこかで何か一ついつの時代もどんな時も変わらない真実のものを見つけ、それを大事に握りしめ続けられるだけの心の余裕があればどんなに幸せなのだろうと思うようになりました。どんなに働いても、どんなにお金を稼いでも、出費は多くなるばかりで、何か自分に残るわけでもなく、人生とはこんなものか、このままなんとなく生きて、なんとなく働いて、なんとなく結婚をするのかと思うようにもなりました。そこから、神の家族の支えによりもう一度聖書に戻り、今の私にとって職場環境がどういうものになっているか示して頂き、信仰で仕事を辞め環境を変えたところから全てが変わりました。
仕事を捨て自由な時間ができたことで今回の韓国行きが与えられ、ゆっくりと一つ一つ丁寧に自分自身と向き合いながらこの証を書き上げ、毎日イエス様に語って頂きながら解放の時間を与えて頂きました。聖霊により、どこにいてもイエス様が私に語って下さっていることが日々の生活から分かるようになっている自分や、それを感じられる心の余裕があり、この証を書ける自分となれたことが本当に嬉しく、それはどんなに会社に貢献しても、高いお給料を頂いていても、沢山の友達がいても手に入らないものであり、ずっと私が求めていたものだったのだと気づかされました。捨てたら100倍と聖書に書かれてあるように、イエス様に信頼して信仰によって全てを捨てた時、何一つ失うことなく、それどころかお金では買えないかけがいのないものを沢山与えて頂きました。

イザヤ40章8節
草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない。

マルコ10章29~30節
イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。

大学入学時にholygirl牧師から頂いた手紙の中に「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」という御言葉が書かれてあったのですが、まさに私の心に思い浮かびもしなかったことをこのタイミングで、一つ一つの糸の繋がりの中で私に語って下さり、全て備えて下さっていたことなのだとはっきりとわかるようになりました。だからこそ自分は神に造られた尊い作品であり、全て自分が主役であることを、イエス様はあらゆる角度で語って下さいました。

第一コリント2章6~16節
しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。

第一コリント9章19~23節
わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。 律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。 福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。

ガラテヤ5章1節
自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。

4泊5日の韓国行きについて書いていた証が、気づけばこんなにも深く大きなことが語られた証となり、イエス様から沢山の愛のメッセージを与えて頂きました。
今回牧師たちと使徒行伝で韓国に行かせて頂き、韓国の兄弟姉妹との交わりがあってこそ、韓国も、そして自分自身も好きになり、次から次へとキリストの奥義が語られ解放に至ることができました。
今回韓国へ届けた諒兄弟の書籍版の帯に「運命を変えて天命を生きる」と記されているように、私にとっての運命(一生血筋に捕えられ、強迫観念を抱えながら生きる生き方)を変えて、天命(血筋や生い立ちに捕われ、コンプレックスや強迫観念を抱いてきた人たちの正義となる働き)を生きることなのだと語られ、私が長年捕えられサタンによって作り出された運命と、私を造った神が定めておられる天命を知るきっかけとなった韓国での一人一人との交わり、国境を超え共に祈り、戦い、支えあえる神の家族との出会いに感謝の気持ちでいっぱいです。
これからの日々も、私を真の解放に導いて下さったこの神の愛によって、一地球人として自分の尊厳を大切に、益々一人でも多くの人の救いの為に使って頂けたことを感謝します。そして、日本や韓国において、一人でも多くの人が宗教・情欲の霊、血筋や生い立ちからくる差別意識・強迫観念から完全に解放され、皆が聖霊によって新しく生まれ変わり一つとなったことを感謝し、全ての栄光をイエス様に帰します。