ぶどうの木教会との出逢いと
イエス様が下さった初めの愛の証

 
 
1. はじめに
この証では、ぶどうの木教会と出逢い、御霊を受けて御霊とともに歩むクリスチャンとなった私が、今回主によって与えられた様々なことを通して、自分の間違いを認め、真に、聖書の御言葉を土台とした信仰に立つことができたことを証するものです。

2. ぶどうの木との出逢い
 私が、ぶどうの木教会と出会ったのは、2017年10月23日のことです。私は大分県に住んでおり、2007年に受洗し、クリスチャンとなって10年目を迎える年にぶどうの木教会と出会いました。ぶどうの木教会も設立してから10年目を迎えると聞いて、何かの縁を感じています。
 私がぶどうの木教会に連絡をとったのは、私が2017年1月より大分の聖会にて按手を受けて後、霊的な体験を経験し、その半年ほどして体調に問題をきたすようになり、助けを求めてのことでした。霊的な体験とは、自分の意志とは関係なく歩いたり、言葉を発したりという体験であったり、偽りを筆記したりという体験でした。また、その体験の中には当座は自分にとって“良い”と思われるものも存在していましたが、按手を受けた日から、嘔吐、ゲップ、半年ほどして、咽頭の変形、頭痛、精神疾患を患い、私を酷く悩ませることとなりました。このような人にも公言できないような症状であったため、病院ではなくて、私の内に悪いものをもたらした悪霊を追い出すことのできる教会を探していたところ、holygirl牧師のブログ「ぶどうの木 Good News」の悪霊についての記述に関心をもち、悪霊の追い出しを依頼することになったのでした。元々、holygirl牧師とは知人ではなかったので、見ず知らずの私がブログのメッセージ欄から連絡をして果たして引き受けてくれるのかと不安でしたが、holygirl牧師は私のことを大変気にかけて優しく接してくれたことを今でも覚えており、とても感謝しています。牧師とholygirl牧師を交えた悪霊の追い出しの様子に関しては、以下のholygirl牧師のブログに詳細な記述がありますので、そちらをご覧ください。
目に見えない世界こそ現実的
さて信仰とは―

 牧師とholygirl牧師から悪霊の追い出しをしてもらう最中に、牧師より「救われて、聖霊のバプテスマも受けているみたいだけど、もう一度一からやり直しましょう」と言われて、“救いの告白”をし、“聖霊のバプテスマ”を受けました。その直後、「異言が変わった」と言われました。牧師が言うには、それまでの私の異言は悪霊から使われた異言であり、それは私が10年前に発した“救いの告白”が不十分なもの(イエス様の復活の内容が欠如していた)であったと指摘されました。私が10年前に“救いの告白”をし、その約4年後に聖会で按手(分与)をうけて聖霊のバプテスマを受けましたが、聖霊のバプテスマを受けた直後、「オーッ」という低い雄たけびが出て、普段の自分の声帯とは異なる声だったので驚いたのを覚えています。これは、牧師から頂いた本、「悪霊を追い出せ!」(〇〇出版)P27の記述をみると、宗教の霊の行動例だとわかりました。私がイエス様を現実のものと思わず、恐れずにいて自分のやりたいことをしていたために宗教の霊が私に居座ってしまったからだと思います。聖霊を正しく受けておらず、悪霊を居座らせていたのですから、この聖霊のバプテスマの後も、私には何も良いことはありませんでした。
その頃、私は関西でエンジニアとして働いていました。給与は良かったですが、上司とぶつかることが多く、体力面においても忍耐を要する会社で、何のためにここにいるのかわからないような気持ちで仕事をしていました。不平・不満・つぶやきがいつもあり、私と仲の良い同僚も不思議と不平・不満・つぶやきを言う方が多かったです。関西で通っていた教会内でも牧師や兄弟姉妹と衝突してしまって、教会に最後は行かなくなりました。また、情欲的で風俗に行ったり、交際女性とは長続きしなかったりで、その後、不眠となりました。仕事も大阪と滋賀を行き来する体制へと変わり、精神的にも肉体的にも限界となり、生活を続けていくことが難しくなりました。どうしようかと考えていたところ、実家の酒蔵が行き詰っており、戻るならラストチャンスだと言われ、私もずっと自営業をしたいと思っていたので、大きな決断ではありましたが、地元の大分へと戻ることにしたのでした。
冒頭で、大分の聖会にて按手を受けた内容を書きましたが、その2,3カ月前より真面目に聖書を読むことが増え、今までイエス様の戒めを守れずにいたけれども守れる自分になりたいと思う気持ちが強くなっていました。その頃も不眠がひどかったですが、その聖会の当日は珍しく体調が良かったのを覚えています。イエス様が私の心をみて、立ち直るための機会をこの日に与えて下さったのではないかと思います。そうでなければ、私はぶどうの木教会とつながることもなかったですし、正しく“救いの告白”をし、“聖霊のバプテスマ”を受けることもなかったと思います。こうして、初めの“救いの告白”から10年目にして御霊とともに歩むクリスチャンとなることができたのです。また、御霊を受けたその晩、御言葉をもらいました。

マタイの福音書3:17
また、天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

マタイの福音書4:19
イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。

3. 悪霊の追い出し~病の癒し
浜松のぶどうの木教会から大分に戻って、私が患っていた病がすぐに改善されたかというとそうではありませんでした。牧師たちに祈ってもらった直後は、身体が楽になり、舌(咽頭)にあった違和感がなくなったのですが、すぐに戻ってきた状態に対して、「治っていない」と心の中でつぶやくようになりました。そんな中でもぶどうの木教会の兄弟姉妹は私のためにとりなして祈ってくれたり、悪霊との闘い方を教えてくれたり、「癒しは、霊→魂→体へあらわれます。霊の世界でサタンを縛り、自分の魂を御言葉に留まらせ守り抜いてください。口から出る言葉は、心から溢れ出てくるものです。不信仰な言葉を出せばそれが成就してしまいます。信仰の言葉を宣言し通す!事も、霊の世界での戦いの一つです」と、アドバイスをしてくれ、私を励ましてくれました。また、holygirl牧師からは、「“悪霊を追い出せ!”の本は完読しましたか?この本を読めたのであれば、すでにあなたを捕えていた悪霊に力はありません。悪霊にやられている人は、”悪霊を追い出せ!”の本を1ページも読むことができませんから。まずは、最後までしっかり読み、あとは神側にいる事を感謝して喜んで過ごして下さい!フィーリングに惑わされる事がないように!」とアドバイスを頂いていました。“悪霊を追い出せ!”の本を真面目に読んでいた私ですが、本を読み進める中でも手が震えたり、咽頭付近で筋肉が硬化したりと体の反応があり、holygirl牧師の言われていることに疑いを持ちつつも本を読む日々を過ごしていました。
私は2017年11月2日に”“悪霊を追い出せ!”の本を完読しました。その直後、holygirl牧師に浜松に再度伺って悪霊の追い出しをしてもらえないだろうかという相談をしたのですが、戒めを受けて再度、イエス様によって既に勝利していることを信じる信仰に立ったのでした。そんな中で、大学院時代の友人で私を最初に信仰の世界へと導いてくれた、友人S君から今回の件で連絡を受けました。S君はアフリカの国ガボンの留学生として来日し、今は日本で就職しています。彼には、私がこれまで苦しんできたことを全て打ち明けており、その都度私に適切なアドバイスを与えてくれた友人です。彼は信仰深い人で、私が最も信頼を置くクリスチャンでした。holygirl牧師のブログから、私の内にいた悪霊の追い出しの記事を読んでもらい、また、その後の近況も話す仲となっていました。 “悪霊を追い出せ!”の本を完読した11月2日の晩にS君より連絡を受けました。「実は、君には言ってなかったのだけど、一週間位前に夜寝ていると、ドンドンと叩く音がして、目が覚めると、「勝利した!」という声を聞いた。『あれ?自分何かそういうことあった?』と考えてみたけどなくて、よく考えてみたら、あれは君のことだったと思うよ」と言われました。一週間位前といえば、浜松で悪霊の追い出しをしてもらった日と重なります。その連絡を受けてから、『そうかぁ、勝利してたんだ』と思ったら、 『勝利した』という心の声が大きくなって、大笑いが始まりました。『喜んでる』と思って、聖書の御言葉を開いてみると、以下の御言葉を頂きました。

マルコによる福音書16:16,17
「わたしの名で悪霊を追い出し」
「信じて」

テサロニケ人への第一の手紙5:16
「いつも喜んでいなさい」
「感謝しなさい。」

この御言葉を頂いて、癒しを頂きました。

次の日にはさらに以下の御言葉ももらいました。

コリント人への第一の手紙15:57
「しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜ったのである。」

これらのことを通し、牧師、holygirl牧師、S兄弟の間でイエス様が秩序正しく働いて病に対する癒しが与えられたことに驚くとともに、信仰を持ち続けることで、イエス様のタイミングで豊かな実をならせるのだということを知りました。

4. ぶどうの木教会への転会
 大分に戻ってから、これまで通っていた大分の教会に疑問をもつようになりました。私が体調に問題をきたすようになってから、大分の教会では1時間超を要する“マラナタの祈り”を毎日祈ることを推奨し、また、この祈りをもって癒しが与えられ、祝福されるのだと教えていました。しかし、一時的に改善されたように見えても結果的にみれば改善されてはいなかったのでした。さらに、ぶどうの木教会に伺う2カ月程前より、ユースパスターK牧師の妻・A伝道師が精神的な病で実家に帰られるということも重なっていました。
 そのような時に、主任牧師であるM牧師より転会申込書に関する話がありました。「この教会に通うようになって、1年超になるので、そろそろ正式にこちらの信徒として励んでほしい」とのことでした。また、「君もそろそろいい歳なので、結婚して益々うちの教会の信徒として励んでほしい。転会の後に、紹介したい女性信徒がいる」との話も合わせていただきました。ぶどうの木教会から戻ってきて、大分の教会に疑問を持ち始めた矢先の話で、「聖書の御言葉と御霊により頼んでまたお返事します」と言ってその場は帰りました。その次の朝、次のような御言葉を頂きました。

詩編119:113
わたしは二心の者を憎みます。しかしあなたのおきてを愛します。

ヤコブの手紙1:13
だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。

ヤコブの手紙4:8
神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。

これらの御言葉を頂いて、ぶどうの木教会と大分の教会の2つの教会に繋がっているこのときの私をイエス様は“二心の者”と呼んでおり、このような私をイエス様は“憎む”と語っているのでした。また、転会の話と併せて“結婚”の話もありましたが、この話もイエス様から来ていないことを御言葉から知ったのでした。このことをholygirl牧師に相談すると、その週のぶどうの木の日曜礼拝でもヤコブの手紙4:8より御言葉をもらっており、御霊の一致をみたとの連絡を頂きました。“御霊の一致”という概念は、それまで私が歩んできた既成教会にはないものでしたが、ぶどうの木教会では牧師より同じ霊を与えられているのであれば、御霊は一つで同じことが語られるというものでした。
さらに、二日の後に次の御言葉をもらいました。

マタイによる福音書24:4,5
そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。

I列王記20:36,37
彼はその人に言った、「あなたは主の言葉に聞き従わないゆえ、わたしを離れて行くとすぐ、ししがあなたを殺すでしょう」。その人が彼のそばを離れて行くとすぐ、ししが彼に会って彼を殺した。彼はまたほかの人に会って言った、「どうぞ、わたしを撃ってください」。するとその人は彼を撃ち、撃って傷つけた。

これらの御言葉から、私が通っていた大分の教会では偽キリストの霊がはたらいているため、ぶどうの木教会を選び、“二心”を早急に解消する必要があることを悟りました。そして、次の日曜礼拝の後に、M牧師は福岡に奉仕に行かれていたので留守でしたが、ユースパスターK牧師とN副牧師に、イエス様からもらった御言葉を伝え、その日限りで大分の教会を離れることをお話しました。その晩、御言葉をもらいました。

テモテへの第一の手紙6:12
信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。

 この御言葉をもって、これが主の御心であったことを知って喜んだのでした。しかし、その日M牧師が不在で、十分な説明もなく教会を離れたことに関してはぶどうの木牧師より訓戒を頂いていました。また、私が患っていた病は癒しが与えられたが、舌~咽頭の違和感が残っていてなぜまだ残っているのかもぶどうの木牧師には相談をしていました。ぶどうの木牧師からは以下の御言葉に添えて、メールを頂いていました。

箴言15:4
優しい舌は命の木である、乱暴な言葉は魂を傷つける。

「あなたの舌でどれだけの人を裁き、妬み、呪い、審判者になってきたか、言葉にはして来なかったとしても、神は私の心の奥底までみています。確実に許せていますか?もらった御言葉だけを突き付けて裁いているとしたら、肉の刈り取りがある。乱暴な言葉は魂を傷つけ、相手を裁きの獄に閉じ込めてしまう。優しい舌は命の木ですから、御言葉を頂いた真意、自身が体験した事を誠実に主任牧師に伝える事が、主任牧師の解放にもつながり、教会の皆さんの解放にもつながり、あなたの癒しにもつながる。」
 この言葉を受けて、大分の教会の件は既に終わったものと思っていた私でしたが、もう一度イエス様に立ち返って、教会やM牧師を裁いていたこと、M牧師に直にお話ししないといけないという想いになったのでした。また、日常生活を過ごす中にも、大分に戻ってからも仕事の関係者に憤りを感じて裁いていることや家族に対してもイエス様のことを信じない、自分の言うことを信用しないことに腹を立てて、自分の義を押し通していることに気が付きました。
M牧師にはすぐに電話して、翌日の夕方にM牧師と妻・N副牧師と交わりました。まず、今回の件でM牧師や教会のことを裁いてしまったことを謝罪し、今後私がぶどうの木教会と繋がって信仰生活を送ることを伝えました。M牧師はもう連絡等ないと思っていたので私からの電話を「正直、嬉しかった」と話していました。また、今回の私の件で、イエス様から頂いたと思って、信徒に語っていた御言葉が信徒にあてて語っていたことに気づいたという話もされ、私の行動が牧師や教会の益につながったことも知りました。先生方が今後の私の信仰生活についても本気で考えておられることもよく感じられる時間で、先生方とのお別れの時間をいい形で過ごすことができたのでした。

5. 主の訓練~酒ラベルの作成~
5.1 デザインルーム・S社への仕事の依頼
 大分の教会からぶどうの木教会に転会してすぐに、ぶどうの木教会に2度目の訪問をしました。この訪問は、ぶどうの木牧師がイエス様に聞いて、私を浜松に招待してのことでした。最初に会食したレストランから次の交わりの場所であるY姉妹・Y姉妹・R兄弟の家に車で向かう途中、ふいにお店の外の酒瓶が目に入って、私の家業の話になり、その頃、家業の清酒銘柄“丹誠”のパッケージの作成が思うように進まずに困っていることを牧師やholygirl牧師、N姉妹に話していたところ、N姉妹がデザイン会社に勤めており、その件についてN姉妹に後日相談するという流れになりました。このことが、イエス様のご計画であることを私はそのとき全く知らずにいたのでした。
 浜松から大分に戻って、N姉妹から自身の勤め先であるデザインルーム・S社(以下、S社と呼称)の紹介を受けました。うなぎパイで有名な(有)春華堂等の仕事を受けているデザイン会社で問題ない会社だと思いましたが、私にはその前に仕事を依頼していた親戚の叔父さんのデザイン会社があったため、S社に仕事を依頼する前にお伺いを立てました。私の考えでは、親戚の叔父さんの会社には書に優れた方がいらっしゃるので書体を提供して頂き、S社にはそれ以外のデザインを依頼するつもりでいました。その際、叔父さんからは「他のデザイン会社は絶対に入れないでください。」と厳しい内容のメールが返られてきたため、やむなくN姉妹には断りの連絡をいれました。牧師からは、N姉妹に仕事を依頼することが神の計画であると語られていて、私もそれが分かるように祈っていました。その後、私は聖書から以下の御言葉をもらいました。

ヨハネによる福音書12:26
もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。

ヨハネによる福音書12:28
わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう。

ヨハネによる福音書12:43
彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである。

この御言葉から、人の顔色を伺って情に流されるのではなく、牧師=イエス様と考え、そこに従えば、イエス様はそこに報いて栄光をあらわして下さることがわかりました。そこで、次の日に叔父さんに電話をいれて、「他のデザイン会社にこれ以降の仕事をお願いしたい」ということを伝えると、「問題ない」という回答で前とは全く違っていたので驚きましたが、イエス様に意志を向けるとき困難だと思った道も開かれ、晴れてS社に仕事を依頼することになりました。

5.2 期限内の酒ラベルデザインの完遂
 S社と仕事をする際に、初めに私が企画書を提出して、ラベルデザインに対する私の要望、予算、納期などを伝えました。ラベルデザインについては、銘柄を“丹誠”とした複数の商品に対して、銘柄名のつく表ラベルに統一性をもたして、肩ラベル・裏ラベルで違いを作るという点を伝えました。予算については、当初デザイン費に10万円(税抜)と考えていましたが、叔父さんの会社に中途でS社に仕事を依頼しても10万円(税抜)を支払うよう依頼されていたため、S社には当初仕事を引き受けてもらう際に約束していた10万円(税抜)より安くできるか社内で検討いただけないかとお願いしました。しかし、後に、聖書の御言葉から歴代誌上21:24「じゅうぶんな代価」を語られ、当初約束していた金額10万円(税抜)をS社にお支払いしました。納期に関しては、今年度最初の新酒のでる1月中にラベルができるようにデザインを年内で完遂してもらうように依頼しました。
 また、今回はラベルデザインと併せて、看板デザインも依頼しました。看板は助成金を用いて建設するつもりであり、納期は助成金の制約で依頼して約一週間後と短期であったことから、まず、こちらを先に仕事として着手していただくように依頼しました。
 依頼したことについては概ね理解していただいて、仕事がスタートしました。S社とまず話をしたのが、清酒の銘柄名となる“丹誠”の字体です。ラベルや看板のメインとなる字体で重要であり、これが決まらないとデザインが決まらないというものでした。私はS社に依頼する前に、叔父さんの会社からいくつもの“丹誠”の字体を頂いていたので、叔父さんと話して決めた字体をメインに据えたいと考えていました。しかし、浜松での交わりの中で、家族が気に入っているとして示した“丹誠”の前掛けの字体について、牧師は「この字体が気になる。また、N姉妹を通じて前掛けの字をラベルの字体として復元も可能であるという知恵も頂いているのだから、これを採用すべきだ」と語られていました。『叔父さんの意見も採用しないと』という想いから、叔父さんの会社が提供した字体をメインに据えたいことをS社にお伝えしたところ、牧師やN姉妹より「貴方の会社の上に立つ権威は叔父さんなのか。完全にこの世のやり方にまかれている。いまだに二心者で、神と富とに仕えている」ということを語られ、そこで再度イエス様に戻って吟味しました。既に、S社に仕事を依頼する際にもらった御言葉であるヨハネによる福音書12:43と、今回の仕事は主が導いた仕事であるので、牧師に従うべきと再度想いを新たにし、ようやく前掛けの字体をラベルの字体として採用することができました。その夜、次の御言葉をもらいました。

ヨハネによる福音書5:44
互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。

ヨハネによる福音書5:38
また、神がつかわされた者を信じないから、神の御言はあなたがたのうちにとどまっていない。

S社に仕事を依頼する際に私を躓かせていた情というものに、またしても躓いてしまっていた自分に気づき、イエス様と私の間に情欲がどれほど大きく働いて、私の判断を妨げているのかを知りました。
私はこの仕事が主によって導かれた仕事であるので、日々、N姉妹やS社の社員の方々のためにとりなしの祈りをささげていましたが、N姉妹も一つ一つのことをイエス様に問いかけながら仕事を進めていたそうです。そのようにして仕事を進めたおかげで、必要なタイミングで必要な想いや人・物が与えられたと思っています。必要なタイミングでデザインするために必要な酒瓶をS社に送ることができたり、仕事を依頼すべき印刷会社が私の会社に訪ねてくれたりといったことがあり、その都度イエス様に感謝しました。
 また、S社より提示された看板のデザイン3案の中で、私が選んだ看板デザインは一番お酒好きのデザイナーが作成した案だったということで、このことにもイエス様の導きを感じました。ラベルデザインは提示された6案のうち、看板デザインを踏襲したデザインを最善と考え選択しました。デザイン校了までは、時にN姉妹と衝突することもありましたが、それがイエス様からのものかどうかも吟味し、悔い改めもしながら進めることができました。年度内のN姉妹の最終出勤日である12月28日にデザインを終えることができたのも、秩序正しいイエス様によるものであって、感謝したのでした。

5.3 酒ラベルデザインの決定
 年が明けて、私は丹誠ラベルが出来上がったら取引を開始したいとお話ししていた酒販店に今回の丹誠ラベルについて意見を伺いました。すると、「これでは売れない。もう一度考え直した方がいい」と思ってもみないことを言われ、私は困ってしまいました。また、そのようにして丹誠ラベルをみると、確かにこれは違うかもしれないという想いが生まれ、N姉妹に再度仕事のお願いをしたところ、再度の仕事の依頼ということであれば一旦ここまでで一区切とし、金額、期間について新たに契約する必要があると言われました。これらのやり取りのせいで、年内のデザイン校了のはずがずるずるとさらに1カ月を過ぎようとしており、また、N姉妹の様子から、S社の社内の中でも不穏な空気が流れていることが分かり、追い詰められた状況へ陥ってしまいました。
 ちょうどその頃、「ぶどうの木教会のY姉妹の証が今のあなたに必要な証であるので益にしてください」とholygirl牧師より連絡がありました。Y姉妹の証では、御霊の導きで家具を買いに行ったにもかかわらず、『他にもっといいものがあるかもしれない』と占い、大事なタイミングを逃す(=賞味期限が切れる)ところだったというものでした。これを読んだ時に、今の私と重なり、御霊の導きで始めた仕事なのに、『もっといいラベルができるのではないか』と占い、最後は肉(知性)で仕上げようとしていると悔い改め、イエス様に立ち返って吟味しようという想いに戻ることができました。そして、次の日に聖書の御言葉をもらいました。

ローマ人への手紙11:33,34,35
ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。
「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。

ローマ人への手紙12:2
あなたがたは、この世と妥協してはならない。

この御言葉を受けて、今の私には分からなくともイエス様が与えたものであればそれを信じる信仰によって年度内に校了した丹誠ラベルを採用しようと思いました。こうして、ようやく丹誠ラベルのデザインが決まりました。
また、今回の丹誠ラベルの仕事を通して、N姉妹のように一つ一つのことをイエス様に聞いて行っていれば人の意見に惑わされることもなく、時間を無駄に使うこともなかったため、仕事に限らず、こうした姿勢が大事なのだと思ったのでした。

5.4 デザインルーム・S社との和解
 丹誠ラベルのデザインが決まり、S社との仕事は終わったものの、N姉妹からはS社(この世の人々)にとっては今回の仕事の進め方によって栄光ではなかったと聞きました。そのため、イエス様に聞いて、浜松に行くタイミングを2月24日とし、印刷ラベルがまだ完成していなかったもののS社を訪問し、社会人としての対応をしっかり示すことにしました。 浜松に行く前日に、holygirl牧師より示されたダニエル書9章から聖書の御言葉をもらいました。

ダニエル書9:7
主よ、正義はあなたのものですが、恥はわれわれに加えられて、今日のような有様です。すなわちユダの人々、エルサレムの住民および全イスラエルの者は、近き者も、遠き者もみな、あなたが追いやられたすべての国々で恥をこうむりました。これは彼らがあなたにそむいて犯した罪によるのです。主よ、恥はわれわれのもの、われわれの王たち、君たちおよび先祖たちのものです。これはわれわれがあなたにむかって罪を犯したからです。あわれみと、ゆるしはわれわれの神、主のものです。これはわれわれが彼にそむいたからです。

この御言葉から、御言葉を信じる信仰に立たずに、人の誉れを愛した、つまり、情にまかれたことが、S社に対する問題を引き起こし、それを主は“恥”であると言われているのでした。ただ、この御言葉を理解はしたものの、内心をいうと、このタイミングでS社に訪問することには気が引けていて、本心から行って謝りたいというよりは牧師から言われたから行くという気持ちの方が強かったです。
次の日、大分から浜松に行く道中、名古屋を過ぎた時点で、何者かが私に語りかけました。「あなたに言葉を与える。主にゆだねよ。」そして、浜松駅に着いて、迎えに来てくれたN姉妹とともにS社に行きました。S社では、主にゆだねて話しをしたつもりで、なぜ私がN姉妹と知り合いなのかというところから、ぶどうの木教会との出会いや、私が悪霊の追い出しをして癒されたこと、牧師からの導きで丹誠ラベルをS社に依頼することになったことなどを話しました。S社の方は丹誠ラベルについて、模倣ではなく無から有を作り出す苦労があったことや会えてよかったことなどを話されていたことから、私は和解できてよかったと思っていました。しかし、その後、N姉妹からは、『悪霊の追い出しをして癒されたが、まだ、癒されていない部分がある』という信仰に立っていない言葉があった点や、S社の方が信仰をカルトのように受け取っていた事、謝罪の気持ちが十分伝わらずに、社会人として大丈夫なのかといった声があったこと等を聞きました。信仰に立つ言葉とは、その時の自分の状態がどうあれ、一度御言葉をもらったなら、それを握りしめ信じぬくこと、もしそうでなければ、再び悪霊の介入を招き、自ら撒いたものを刈り取ってしまうのだと牧師より語られていました。
そして、大分に戻ってすぐに聖書の御言葉をもらいました。

ヘブル人への手紙12:5~7
「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。
あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。

ヘブル人への手紙12:10~17
肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。

主は私の益のために訓練を与えていること、そしてそれを軽んじてはならないこと、弱りはててはならないこと、苦い根がはえ出ることのないように和解すること、タイミングを逃してはならないことが語られていました。N姉妹の報告からS社と和解ができたとはいえない状況であったため、再度、出来上がった丹誠ラベルを持参して、S社に行くことになりました。
また、今回、新幹線の中で、「あなたに言葉を与える。主にゆだねよ。」と語られていたにも関わらず、不信仰の言葉が出てきたこと、S社の方に信仰をカルトと受け取られたことなど、自分の中でも疑問が残りました。大分に戻ってから、聖書を開いて御言葉を読む際に、読みたいところではないところに視線が動いて本来の意味と異なる解釈をさせられたことがあり、カルトの霊が私に作用していることがわかりました。そして、今回のS社との交わりによって、牧師からは、「今のままではいけない、自分が今まで間違った道を歩んでいたことを認め、正しい道に立ち返りたい、変えられたいとイエス様に願いなさい」と語られ、電話越しでしたが教会の集会の場で祈りを捧げました。そして、これまでのようなフィーリングによる信仰ではなく、御言葉(=イエス様)を土台とした信仰を一から築いていくことを語られました。その際に宿題として、“聖霊とあなた(デニス・ベネット著)”から1章、2章を読むことを語られ、読みました。そこには、イエスを自分の救い主として受け入れたものは、すばらしい喜び、愛、平安、それに神ご自身の栄光によって満たされるとあり、内住する御霊の生ける水の流れに、からだも魂もゆだねるとき、わたしたちは新しいいのちによって生気を取り戻すとありました。不眠や咽頭の病で苦しむ自分との違いを感じました。このことはまさに自分の信仰が誤った道に進んだものであり、牧師から語られたように御言葉を土台とした信仰を築いていかなければならないという想いを新たにしたのでした。聖書の御言葉からも語られました。

ヤコブの手紙1:22
御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。

箴言4:13
教訓をかたくとらえて、離してはならない

箴言4:20~23
わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、わたしの語ることに耳を傾けよ。それを、あなたの目から離さず、あなたの心のうちに守れ。それは、これを得る者の命であり、またその全身を健やかにするからである。油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。

ヤコブの手紙4:7
神に従いなさい。

それからの1カ月間は、仕事が多忙を極め、4月からの丹誠の発売に向けて仕込みが急ピッチで行われ、また、印刷会社と細かい仕様や価格交渉、納期の調整がぎりぎりまで続きました。加えて、酒蔵開きのイベントも重なり、ほぼ休みなく仕事を行う状況でした。従業員からは4月からの発売は厳しいのではないかという声もあがりましたが、酒販店にも4月からと明言し、また、今回も人の声に惑わされて自らの意志を曲げることは許されない、これもまた主の訓練だと考え、この信仰によって4月の発売に期限通り間に合わせることができました。出来上がった丹誠の商品の一つ一つを眺めると、ラベルデザイン・ラベル紙・酒瓶がどれをとってもぴたりと嵌まっていて、主の栄光だなと思いました。また、こうして出来上がった丹誠を眺めると、S社に対する感謝の気持ちが心から溢れ出て、この喜びを共有したいという思いになりました。そして、4月に発売を控えた前日の3月31日にS社に再度訪問しました。私が浜松駅に着くと、改札には前回の訪問時には会うことができなかったS社の社長とN姉妹が迎えに来てくれていました。S社の社長はその日は休みだったらしいのですが、私のためにわざわざ足を運んでくださったことが感謝で、別件があるとのことで短い時間でしたが、嬉しかったです。その後、N姉妹とともに、前回訪問時にもお会いした従業員の方と交わりました。従業員の方にも丹誠ラベルに対する私の喜びが伝わったようで、皆さんと心から和解をすることができたことは、主にあって本当に良かったです。

6.おわりに
これまで、私は証をもたないクリスチャンでしたが、ぶどうの木教会と出逢い、御霊とともに歩むクリスチャンとなって、日常生活の中にイエス・キリストという神様を身近に感じるようになりました。痛い目にあってみて、イエス様を心底恐れるようになって、御言葉(=イエス様)に従うことの大切さも知りました。イエス様に従うことは、目にみえないものを信じる信仰が試されるので、怖かったり、うまくいくのかと占うことも多いですが、御言葉を信じて進むことで良い実を結ぶことを今回の体験をもって証できたことに感謝して、全ての栄光をイエス様にお返し致します。