今週のぶどうの木メッセージ

 
 

「齊藤諒の生きる力」本日発売!!
2017/9/1 ブログより

 
本日、「齊藤諒の生きる力 四肢麻痺と人工呼吸器装着の僕が伝えたいこと」が、全国書店にて発売されます!!amazonでもお買い求めできます!
 


 
運命を変えて、天命を生きる!
16歳という若さで四肢麻痺となった著者が綴る、渾身のノンフィクション。
「死んだましだ!だからといって自分で死ぬこともできない・・・・・・この前まで、大好きな野球に明け暮れていた自分が、こんな身体になるなんて!」
絶望の淵から救ってくれた「聖書」の教え。
苦しみの中で希望を得た著者が今、この時代を生きる人たちにもっとも伝えたいことを書く。


著者の齊藤諒兄弟からです。

待ちに待っていたこの日がいよいよ来ました。

イエス様は僕にとって新たな一歩を与えてくれました。

マタイによる福音書5章14節~16節
あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

聖書は真っ暗だった僕の心に光を与えてくれました。

今度は僕が聖書の光を伝え広げていきます。

イエス様、文芸社の皆さん、ぶどうの木の神の家族たちに、感謝です。ありがとうございました。

これからも感謝し福音していきます。

全ての栄光をイエス様に帰して。

アーメン。


ぶどうの木10年目最後の日という素晴らしいタイミングで、イエス様はこの本を出版させて下さいました。
読者の皆さんに「生きる力」を与える一冊です!!
ぜひ、ご一読ください。

イザヤ12:3~6
あなたがたは喜びをもって、救の井戸から水をくむ。その日、あなたがたは言う、「主に感謝せよ。そのみ名を呼べ。そのみわざをもろもろの民の中につたえよ。そのみ名をあがむべきことを語りつげよ。主をほめうたえ。主はそのみわざを、みごとになし遂げられたから。これを全地に宣べ伝えよ。シオンに住む者よ、声をあげて、喜びうたえ。イスラエルの聖者はあなたがたのうちで大いなる者だから」。

アーメン!
 
 
 
 

断食して完全に自分の肉を明け渡す祈り人
2023/11/27ブログより

 
 
holygirlです。
 
先週のブログで聖書の改ざんについて書きましたが、聖書の一番最後、ヨハネの黙示録22章18節~19節には、【この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。】と書かれてあるほど、恐ろしい罪です。それにもかかわらず、数えきれないほどの改ざんがされており、神の言の真意を分からなくされているのです。
今週の集会でも、改ざん箇所の一つであるマタイ17章21節が取り上げられました。
 
マタイ17:21
〔しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない〕」。
 
私たちが使っている口語訳聖書では、かろうじて〔 〕がついて残っていますが、他の聖書(新改訳2017や、新共同訳)では21節ごと削除されていることに驚きました。このみことばは、次のような場面の最後に出てくるイエス様の言葉です。
 
マタイ17:14~21
さて彼らが群衆のところに帰ると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて、ひざまずいて、言った、「主よ、わたしの子をあわれんでください。てんかんで苦しんでおります。何度も何度も火の中や水の中に倒れるのです。それで、その子をお弟子たちのところに連れてきましたが、なおしていただけませんでした」。イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか。その子をここに、わたしのところに連れてきなさい」。イエスがおしかりになると、悪霊はその子から出て行った。そして子はその時いやされた。それから、弟子たちがひそかにイエスのもとにきて言った、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。〔しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない〕」。
 
アーメン。
イエス様はてんかんの子の悪霊を追い出せない弟子たちをおしかりになり、悪霊を追い出せなかったのは、信仰が足りないからであるとおっしゃいました。【この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう】とは、富士山のような山が移る云々の話ではなく、自分の目の前に立ちはだかる山のような問題(病気)も、イエス様の御名とみことばを信じ、無条件の愛とゆるしで向き合うなら、移る、なくなるのだと語られました。しかし、このたぐいは、祈りと断食とによらなければ、追い出すことはできないとイエス様はおっしゃったのです。この箇所が[ ]であったり、削除されていることから、主に向き合って祈りと断食をすることを、サタンがどれだけ嫌がっているのか分かります。
 
祈りと断食は、多くのクリスチャンたちが行なっていると言うでしょう。熱心に祈り、文字通り飲食を断つ断食経験のあるクリスチャンの話はよく聞きます。韓国ではイエス様の荒野の訓練と同じ40日40夜の断食を行なったこと(水は飲んでよい)を誇っている人も少なくありませんでした。ぶどうの木牧師も、母教会にいた時は、土曜日から日曜日の集会が終わるまで毎週断食を行っていました。夏場であっても、水一滴飲めません。目的は、日曜日に牧師がメッセージを語れるように油の注ぎを祈るためのものでしたが、当時の母にとって断食は苦しい修行のようなもので、月曜日から木曜日までは自由という気持ちになり、週末が来ると“今週も無事に乗り越えられるだろうか”という圧迫が襲ってくる日々でした。土曜日に日が変わる0時前には、必死に水分をとり、他の用事をしていて0時を過ぎていることに気付くと、水を飲まずに日を越えてしまったことに絶望しました。また、家族が揃って食卓を囲める週末に断食をする事は、家族につまずきを与えるものでした。そうなってくると、完全にカルトでした。
 
それでも、万事が益となり、牧師はこのような経験を通し、人間の肉がいかにうるさいかを思い知ったとおっしゃいました。スマホ、テレビといった外界を断ち、ただただ祈りに専念することに意思を向けようとする時、のどが渇く、おなかがすく、トイレに行きたくなる、眠くなる、“~しなければ、あれはしたっけ?断食が終わったら何を食べよう?”などと、色々な思いが次々と出てきます。冷蔵庫を何度も開ける自分がいます。それだけ、人間の肉は神の声を聞かせないように、神の言に意思を向けさせないように働いているのです。牧師は、集会の中で「自分の肉を知るために、一度、3日間の断食をしてみたら良い」ともおっしゃいましたが、それを聞いてすぐに無理と思うのが、人間の肉の弱さでしょう。
 
飲食を断つ肉の断食は、本当に主に促されて行なうなら意味がありますが、ただ義務的に行ない、神に対して「これだけ断食をしているから、祈りを聞いてください」という物々交換になっているなら、神に喜ばれる断食とは言えないと思います。ですから、ぶどうの木では、肉の断食をしなさいと勧めてはいません。それよりも、神がクリスチャンに求めておられるのは、霊による断食だと教えています。飲食を絶つとは、霊で解き明かしていくのなら、肉を断つ、この世(のもの)を絶つということです。それは、マタイ4章でイエス様が荒野の訓練によって聖別されたように、この世との聖別を意味します。霊による断食を行うクリスチャンは、完全に自分の肉を明け渡しています。隣人の話を親身になって聞いてあげる時、また、何時間にも及ぶ悪霊の追い出しをする時、飲み食いの事など考えません。完全に霊の人となって向き合う時は、異言の祈りにもなっていき、異言が止まるまで、時間を気にせずひたすら祈りに専念します。日常生活に煩わされることなく、司令官であるイエス様の指示に徹底的に従います。
ぶどうの木牧師は、肉の断食を経験し、自分の肉の弱さを悟り、肉の思いは死であり霊の思いは命と平安であることを体験したからこそ、常に霊の断食をしています。ですから、聖霊の賜物が豊かに働き、人間をだまし、縛っているサタンの策略を見分け、悪の縄目をほどき解放に導いていくことができます。また、自分の肉の思いからではなく、神の霊・キリストの思いを持って交わり、言葉を出し、働きかけていくことができます。これこそが主イエス様がおっしゃった祈りと断食であり、原本の聖書に忠実な英語版からは、“地獄の破れ口に立つ断食した祈り人”の姿であるのだと語られました。
 
クリスチャンになったからと言って、肉がなくなるわけではありません。生きて行くために肉(魂・体)は必要です。だからこそ、肉を打ち叩いて、霊の思いに従わなければならないのですが、サタン、悪霊は、私たちの心に入りこむ隙をいつも狙い、日常生活の中で巧みに誘惑してきます。特に今週は、箴言5章に書いてある遊女の霊に気をつけなければならないと語られました。
 
箴言5:1~6
わが子よ、わたしの知恵に心をとめ、わたしの悟りに耳をかたむけよ。これは、あなたが慎み(←クリスチャンとしての品位)を守り、あなたのくちびるに知識を保つためである。遊女のくちびるは蜜をしたたらせ、その言葉は油よりもなめらかである。(←上手に迫ってくる。自分の肉が求めていることを言ってくる。)しかしついには、彼女はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭くなる。その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむく。彼女はいのちの道に心をとめず、その道は人を迷わすが、彼女はそれを知らない。(←遊女の霊に捕われている自覚がない)
 
そして、箴言6章では遊女の霊に導かれているあらわれについても教えています。
 
箴言6:16~19
主の憎まれるものが六つある、否、その心に、忌みきらわれるものが七つある。
すなわち、高ぶる目(自分の義を貫く)、
偽りを言う舌(状態ばかり言う、信仰によらない言葉を出す)、
罪なき人の血を流す手(裁き、悪口で相手を追い込む)、
悪しき計りごとをめぐらす心(目には目、歯には歯をする、相手の感情や自分自身の未来を占う)、
すみやかに悪に走る足(光に来ず、闇側に入る、公明正大ではない)、
偽りをのべる証人(うそつき、イエス様から来ていない事を言う)、
また兄弟のうちに争いをおこす人(つまずきを置く、一つ思いになれない)がこれである。 
 
アーメン。
神学では、箴言に書かれている遊女は、男女の間に働く霊として解釈されています。しかし、助け主聖霊によって読むと、遊女の霊は、男女間だけではなく、人との間に働く霊であり、救われる前の人間は皆、遊女の霊に捕われていたことが分かります。そして、救われた後も、あたかも、“聖霊の導き、良さそうなこと”と思わせるような巧みな策略で人間一人一人を惑わし、神のもとから引き離すのが遊女の霊です。この声に聞き従うなら、私たちは、気が付いたらとんでもない道に迷い込んでいます。遊女の霊が死の使いになっていることもあり、死に直結する危険もあります。
 
遊女の霊の声は、肉に働きかけ、耳元でささやくヘビの声です。この世の中の物事や人を使ってクリスチャンに働きかけてきますから、交わりには気を付けなければなりません。この世の人との交わりにどっぷり浸かっていくと、真理の教えに対して、「本当かな・・・やりたいことをさせてもらえないし、カルトかもしれない」という疑いが生まれたり、「イエス様からかな・・・」と確信が持てなくなり、みことばをもらおうとしてももらえず、不安定な歩きになっていきます。
現代は、「コミュニケーション障害(コミュ障)」という言葉が生まれるほど、自分をうまく表現できず、人と関わることが苦手な若者が多いようです。親に自分の気持ちを全部言えずに育ったり、愛に飢え渇いている人々は、ネット社会の中では、違う自分になったり、アニメのキャラクターに扮して声も変え、言いたいことを言い、なりたい自分になり、そんな自分への称賛の声に満足しています。完全に人格を変えること、女装して話す男性芸能人のように、違う自分になれば言いたいことが言えるというのも悪霊の仕業、遊女の霊です。
 
今週の集会で、悪霊に支配されている人間の姿は3パターンあると学びました。
1.耳元で悪霊がささやく声を聞いている
2.悪霊に上から覆われている・・・周りが見えず自分の世界だけで生きるようになる
3.悪霊に体を乗っ取られる、憑依される・・・知性、感情を奪われ、自分で自分をコントロールができなくなる。善悪の判断もできず、してはならないことをしてしまう。
 
悪霊の追い出しをする時、本人に福音を聞く意志、解放されたい意志があれば、悪霊は出て行かざるをえません。しかし、変わりたくない!と思っていたり、悪霊に体を完全に乗っ取られている場合には、悪霊が内側ですさまじく抵抗し、体が宙に浮いたり、野獣のような声を出したり、悪臭をはなったり、暴力的になったりするのだと、私たちは牧師が見て来た様々な悪霊の追い出し体験を通して知りました。
私たちクリスチャンは、イエス・キリストと一体であり、どうするべきかの答えは霊がある腹から聞こえます。そこにはみことばが伴った平安があります。みことば以外の声を遊女の霊によって聞かされていることを忘れてはなりません。私たちはどんな時も、すべての事柄をイエス様の御前に置き、みことばとイエス様の血によってサタンを縛り、霊を試す祈りによって、遊女の霊ではなく、聖霊に導かれて歩く安全な道を選び取らなければなりません。近づいてくる悪霊を見極められるように、神の宮である自分の内側を聖く保ち、主にある知恵と悟り(みことば)を求め蓄えておかなければならないと語られました。
悪霊の力を甘く見てはいけない、無知でいてはいけない。霊の世界を歩くために、クリスチャンとしての賢さと、思慮深さを求められているのです。
 
ホセア14:1~3
イスラエルよ、あなたの神、主に帰れ。あなたは自分の不義によって、つまずいたからだ。あなたがたは言葉を携えて、主に帰って言え、「不義はことごとくゆるして、よきものを受けいれてください。わたしたちは自分のくちびるの実をささげます。アッスリヤはわたしたちを助けず、わたしたちは馬に乗りません。わたしたちはもはや自分たちの手のわざに向かって『われわれの神』とは言いません。みなしごはあなたによって、あわれみを得るでしょう」。
 
ホセア14:9
知恵のある者はだれか。その人にこれらのことを悟らせよ。悟りある者はだれか。その人にこれらのことを知らせよ。主の道は直く、正しき者はこれを歩む。しかし罪びとはこれにつまずく。
 
アーメン。
遊女の霊の声を聞くと、集会への参加も気分次第になっていき、せっかく席が用意されていても、自ら特権を放棄することになります。何度サタン・悪霊の巧みな策略について学び、肉で絶対行きたくない、やりたくないと思った時ほど、行きなさい!やりなさい!と語られていても、アーメンと言える潔さ、悟り、悔い改め、意志を向けて自分を変えることができない羊は、知恵ある者、悟りある者とは言えません。彼らは自分の不義によってつまずいていきます。
問題がある、誰かと分派分裂して許せない思いがあるなら、まずは自分を吟味です。相手のせいにするのではなく、自分の目から裁きの梁を取りのけなさいとイエス様はおっしゃいます。(マタイ7:1~5)ぶどうの木は、神の無条件の愛と無条件のゆるしを学ぶ場であることも、相手に対する自分の言葉、態度が変わり、「こうなったことを感謝します」と良くなってもらいたいという愛とあわれみの心で向き合う時、その心を神が良しとしてくださって、相手を変えて下さるのだということを再確認しました。
 
箴言5:7~23
子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの口の言葉から、離れ去ってはならない。あなたの道を彼女から遠く離し、その家の門に近づいてはならない。おそらくはあなたの誉を他人にわたし、あなたの年を無慈悲な者にわたすに至る。おそらくは他人があなたの資産によって満たされ、あなたの労苦は他人の家に行く。(←何の祝福も来ない)そしてあなたの終りが来て、あなたの身と、からだが滅びるとき、泣き悲しんで、言うであろう、「わたしは教訓をいとい、心に戒めを軽んじ、教師(イエス様、聖霊)の声に聞き従わず、わたしを教える者に耳を傾けず(←遊女の霊によって頑固にさせられている)、集まりの中、会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」と。
あなたは自分の水ためから水を飲み、自分の井戸から、わき出す水を飲むがよい。あなたの泉を、外にまきちらし、水の流れを、ちまたに流してよかろうか。それを自分だけのものとし、他人を共にあずからせてはならない。あなたの泉に祝福を受けさせ、あなたの若い時の妻を楽しめ。(←持っているもので満足する)彼女は愛らしい雌じか、美しいしかのようだ。いつも、その乳ぶさをもって満足し、その愛をもって常に喜べ。(←イエス様=みことばにとどまる)わが子よ、どうして遊女に迷い、みだらな女の胸をいだくのか。人の道は主の目の前にあり、主はすべて、その行いを見守られる。悪しき者は自分のとがに捕えられ、自分の罪のなわにつながれる。(←まいたものは刈り取り、握ったもので滅ぼされる)彼は教訓がないために死に、その愚かさの大きいことによって滅びる。
 
箴言6:20~24
わが子よ、あなたの父の戒めを守り、あなたの母の教を捨てるな。つねに、これをあなたの心に結び、あなたの首のまわりにつけよ。これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを守り、あなたが目ざめるとき、あなたと語る。戒めはともしびである、教は光である、教訓の懲しめは命の道である。これは、あなたを守って、悪い女に近づかせず、みだらな女の、巧みな舌に惑わされぬようにする。
 
アーメン。
 
改めて、私たちは牧師を通して、自分の肉には何の良いものはないと悟れているかと問われました。救われる前の私たち人間と神の間には、もともと罪という溝・隔たりがあり、そこにイエス様が来られ、十字架上でその罪を帳消しにして下さることで、人間と神とをへだたてているギャップに橋渡しをして下さいました。多くのクリスチャンは、その十字架=イエス様だと思い、何かあればイエス様に祈る偶像礼拝をしていますが、それでは肉そのものは変わりません。イエス様はみことばです。私たちクリスチャンは、肉を打ち叩いてみことばを行なうことで、神に近づき、繋がって生きることができるのです。
ぶどうの木では、みことばに従えていない羊に対しては、イエス様が牧師を通してその羊の悪・肉を、徹底的に戒めます。握っているものがあるなら、それを手放すことが祝福であると教えます。自分の肉(生い立ちの中で培ってきたもの)に対して集会の中で指摘され、戒めを受けると、その時点で肉の思いに支配されている羊は、“針のむしろだ!みんなで私のことを悪く言って、集団いじめだ!”とサタンに思わされます。そして、厳しく戒める牧師の言葉や、兄弟姉妹からのメッセージも、“人格否定だ”と思い、その状態・その場から逃げ出そうとします。実際に逃げ出して行った羊もいます。それほど、「これが私!」とサタンに思い込まされているのです。
 
ガラテヤ6:5~10
人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。御言を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい。まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。
 
アーメン。
 
クリスチャンとは、肉の自分が霊の自分へと180度生まれ変わった者です。肉と霊は真反対であり、何一つ一致するものはありません。肉の自分で生きてきて、肉にまいたものを刈り取り、どうしようもなくなって救われた人間が、なぜ救われた後も、肉の自分を大事にして生きようとするのか。肉の自分は全て、サタンの支配下で得た価値観と常識で成り立っていることを私たちは悟らなければなりません。牧師の訓戒は、“人格否定”ではなく、「それはサタンからの価値観でしょ?考え方でしょ?」と教えているのであって、すぐに「アーメン!悔い改めます!」と言って認めることのできる羊は、成長が早いです。握ったものを手放すなら、100倍にして返して下さるのが神のやり方であることも知ることができるのだと語られました。
 
目の欲、肉の欲、持ち物の誇りを捨てられなかったら、この世・金銭を愛する悪根っこが生えていたら、主が再臨された時に、天に引き上げられません。牧師は、神の言葉を伝えている管です。もし牧師が個人の意見・考え・思いを話している教会ならば、何の実も結びません。何より牧師が神に裁かれます。
牧師を裁く罪は、最大の罪の一つです。牧師を人間と見て裁くならば、一気に迷います。牧師が個人の見解を自分に言っていると思った途端に、〇〇牧師にコントロールされていると思い、何も聞けなくなってしまいます。地獄の破れ口に立つ断食した祈り人である牧師を裁いて、自ら地獄に突き進むことのないよう、改めて、自分の肉を制し、悪霊との戦いであることをわきまえ知り、悪魔の策略に対抗していかなければならないと語られました。
 
エペソ6:10~20
最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。
 
アーメン。
 
既成教会の教団教派によっては、悪霊の追い出しをする教会を、「異端」と言っているそうですが、これこそ、サタンの大きな策略にかかっていると言えます。真の神の力を得ず、悪霊の存在が分からぬまま無防備に生きているクリスチャンたちがどれだけいるでしょうか。数年前、ある女性が「私の中に悪霊がいるのが分かるから追い出してほしい」と連絡を下さいました。彼女はクリスチャンホームに生まれ、自ら信仰を持って歩み始めて30年のクリスチャンでしたが、聖霊の働きを信じず、悪霊と戦う事もしない(教えていない)教会にいました。
彼女の悪霊の追い出しによって姿をあらわしたのは、「律法の霊」と「ユダヤ教(のラビ)の霊」、「宗教の霊」でした。救い主イエス様の力と働きを信じず、律法的に聖書の言葉を守り、イエス様と言うよりは天の父と直接繋がることを求めて来た霊力でした。牧師が出て行くように命じると、「分かりました。もうこれ以上はやめてください」と土下座をしたり、突然、牧師に拳をあげて攻撃して来ようとしました。その時、牧師が咄嗟に「イエスの血!」と言うと、拳は牧師に届くことなく、へにゃへにゃと力をなくしました。彼女を捕らえる悪霊は何度も牧師を殴ろうとしましたが、一発も当たることはありませんでした。まさに、イエス様の御名と血の力による勝利でした!最後には「てめぇ、なめんなよ!!」と暴言を言い、悪霊は去っていきました。約2時間の悪霊の追い出しを通して、霊の世界は現実的であることを教えられる体験となりました。
 
私たちが、いつの時代も変わることなく守られてきた聖書のみことばをそのまま信じ、聖霊の力によって行うなら、神の力が働き、サタン・悪霊は敗北するしかありません。しかし、「私はこう思う」と自分の意見をいつまでも貫こうとするなら、悪霊の誘導、策略にまんまとのり、滅ぼされてしまうでしょう。集会は、神の義を学ぶ場所です。人間の義は全て不義です。不義によってつまずいてきた人生であったことを認め、神を愛し、隣人を愛して、正しく歩もうとする者が集ってこそ、世に対して神の栄光をあらわしていくことができます。私たちは世の光・地の塩となっていかなければなりません。そして、完璧な人間は一人もおらず、全世界の人間が聖書・神の義を学ばなければなりません。
感謝なことに、絵本「1つになろうよ!」出版から1か月が経ち、重版が決まりました!!聖書は宗教本ではなく、日常生活、人生に根差した本であることを教える1冊です。絵本を通しても、聖書真理が世の光となり、神の義を求めて生きる選びの民がますます導かれてくることを祈ります。