今週のぶどうの木メッセージ

 
 

「齊藤諒の生きる力」本日発売!!
2017/9/1 ブログより

 
本日、「齊藤諒の生きる力 四肢麻痺と人工呼吸器装着の僕が伝えたいこと」が、全国書店にて発売されます!!amazonでもお買い求めできます!
 


 
運命を変えて、天命を生きる!
16歳という若さで四肢麻痺となった著者が綴る、渾身のノンフィクション。
「死んだましだ!だからといって自分で死ぬこともできない・・・・・・この前まで、大好きな野球に明け暮れていた自分が、こんな身体になるなんて!」
絶望の淵から救ってくれた「聖書」の教え。
苦しみの中で希望を得た著者が今、この時代を生きる人たちにもっとも伝えたいことを書く。


著者の齊藤諒兄弟からです。

待ちに待っていたこの日がいよいよ来ました。

イエス様は僕にとって新たな一歩を与えてくれました。

マタイによる福音書5章14節~16節
あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

聖書は真っ暗だった僕の心に光を与えてくれました。

今度は僕が聖書の光を伝え広げていきます。

イエス様、文芸社の皆さん、ぶどうの木の神の家族たちに、感謝です。ありがとうございました。

これからも感謝し福音していきます。

全ての栄光をイエス様に帰して。

アーメン。


ぶどうの木10年目最後の日という素晴らしいタイミングで、イエス様はこの本を出版させて下さいました。
読者の皆さんに「生きる力」を与える一冊です!!
ぜひ、ご一読ください。

イザヤ12:3~6
あなたがたは喜びをもって、救の井戸から水をくむ。その日、あなたがたは言う、「主に感謝せよ。そのみ名を呼べ。そのみわざをもろもろの民の中につたえよ。そのみ名をあがむべきことを語りつげよ。主をほめうたえ。主はそのみわざを、みごとになし遂げられたから。これを全地に宣べ伝えよ。シオンに住む者よ、声をあげて、喜びうたえ。イスラエルの聖者はあなたがたのうちで大いなる者だから」。

アーメン!
 
 
 
 

神の愛対裁きの霊・審判者の霊・妬みの霊
2022/8/9ブログより

 
 
holygirlです。
 
マタイ7:1~5
人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
 
アーメン。
 
裁きとは、最初からその人を罪に定めることです。嫌い、憎いという感情は、分かりやすく裁きを教えてくれますが、例えば、「この人はいつも同じ失敗をするから」「この人に言ってもどうせ何もしてくれないし、変わらないから」と定めたり、あきらめていることも裁きです。また、「この人は放っておいてもできる人だから」と、あたかも相手を尊重しているようで、実際は関わって自分が面倒をかけられたくない、できれば関わりたくないと思っていたり、“これを言ったら、きっと相手が怒ってこう言ってくる。自分さえ我慢していれば、揉める事はない”と相手の心や動きを占うことも、裁きです。
家庭環境や生い立ちが違う人間同士が関われば、必ず生まれてくるのが裁きです。そして、人は自身の家庭環境や生い立ちの中ですでに、親や兄弟、親戚を裁いている事もであるでしょう。牧師は、「この親じゃなければ、私の人生は違っていたのかもしれない」と、親に不平不満を持った若者たちのカウンセリングもしてきました。親に愛がない、経済力がない、学歴がない・・・親の不倫・離婚によって家族が崩壊・・・親のアルコール依存、ギャンブル依存・・・親に犯罪歴がある・・・親に学歴と家柄があることで親に敷かれたレールを歩まされて自由がない・・・親が新興宗教に入信・・・育った環境のせいにして、自分の人生をあきらめてしまっている若者たちに、牧師は、先週語られた3代から4代に渡る呪い祟りの霊をイエス様の御名前と血の力によって断ち切り、“個”となれることを教えてきました。そして、「親も子供。親にも両親がいる。年を取ったら大人になれるわけではない。年齢がその人を育てるのではなく、人生を真面目に生きる中で感じ、考え、体験してきたことがその人間を育てるのです。だから、あなたが大人になりなさい。親を越えなさい」と語ってきました。
親の人生を見て、どうせ自分も同じ人生を歩むのだと思わなくて良いのです。もちろん、親の考えや価値観によって子どもは育てられていくので、勉強よりもスポーツに力を入れる家庭、学歴よりも早く就職してお金を稼ぐことの方が大事だという家庭で育てば、将来その価値観で自分の子どもを育てるでしょう。母親が男性関係にだらしなくできちゃった婚をしていれば、娘も同じ感覚でできちゃった婚になったり、タバコを吸う家庭の子はタバコを吸うのが当たり前にもなるでしょう。ですから、子どもは子どもの意志で、何を大切にしてどんな人生を歩みたいかを考え、神の御前で清くありたいと願って神の戒めに従っていくことが必要です。
 
そして、裁きと共に動くのが、審判者の霊です。家庭環境や生い立ち、自分の価値観・自分の義で物事を判断して、他者を見下したり、“この人はこういう人”とレッテルを貼ること、イエス様の御言葉よりも、自分の判断、感じ方、意見が一番正しいというルシファーのパン種が、審判者の霊です。そこには愛も、イエス様に対する信頼もなく、神の戒めである【互いに愛し合い、許し合うこと】とは真反対です。
今週の集会では、群れの中でこの裁きから生まれる審判者の霊を絶対に動かしてはならないと語られました。
 
ぶどうの木には、様々な問題を抱えた人たちが集っています。救われる前の家庭環境、生い立ちを見れば、互いに交わる事のなかった人同士であったともいえるでしょう。趣味や価値観、考え方の一致をもった肉の集まりではなく、ただ神の一方的なあわれみによって選ばれ、集められたわけですから、肉の思いで互いを見始めたら、簡単に審判者の霊が動きます。
特に、信仰とは人に言われて育つものではなく、自分自身で体験して育つものであり、信仰による行いも、すぐにできる人とできない人がいます。できない人に対して、「なぜ何回言われてもできないの?」という思いが入れば、ずっと審判者の目でその兄弟姉妹を見ることになります。また、昨日まで一緒に主を賛美して共に学んでいた兄弟姉妹であっても、サタン・悪霊が動けば、ある日突然群れを出て行ってしまうこともあります。“あんなに一生懸命やってあげたのに”という気持ちに満たされたら、突然群れの皆に対して裏切り行為をした人間を許せず、「もう知らない。どうにでもなればいい!」と、すぐに怒って見捨てる言葉が出てきます。たとえ、“初めの愛を忘れて、イエス様に対する感謝がないのか!”と、一見イエス様を思っての聖なる怒りだと言っても、離れていった人のために、その初めの愛を思い出させてあげる言葉、イエス様がどれだけその人を愛し、思っておられるかということを語ってあげられないのであれば、やはり裁きの思いから審判者になっているのだと語られました。
しかし、まず神の国と神の義を求めて自分を捧げているクリスチャン、イエス様=愛を追い求めているクリスチャンは、どんなに悪態をつく相手であろうと、肉的にはひどい裏切り行為をした人であろうと、聖霊が臨めば関わらずにはおれません。なぜなら、迫害されているのはイエス様であり、イエス様は全ての人の罪のために十字架に架かって下さり、無条件の愛と無条件のゆるしを私たちに与えて下さった方だからです。イエス様が愛している相手を、私たちが裁くことなどできないのです。
 
ローマ14:4
他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。 
 
マタイ6:14~15
もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。
 
ルカ6:37
人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。
 
ヨハネ20:22~23
「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。
 
ヤコブ4:11~12
兄弟たちよ。互に悪口を言い合ってはならない。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟をさばいたりする者は、律法をそしり、律法をさばくやからである。もしあなたが律法をさばくなら、律法の実行者ではなくて、その審判者なのである。しかし、立法者であり審判者であるかたは、ただひとりであって、救うことも滅ぼすこともできるのである。しかるに、隣り人をさばくあなたは、いったい、何者であるか。
 
アーメン。
牧師は自分に悪態をつく羊や、呼びかけに対して無言の羊に対しても、神の愛、忍耐と寛容の富をもって向き合ってこられ、その姿勢を私たち兄弟姉妹に模範として示してきて下さいました。あと一歩背信行為をしたら地獄に落ちるというギリギリのところ、地獄のやぶれ口に立って、手を広げ、「これ以上行ったら危ない!地獄行きですよ!」と警告し、体当たりでぶつかって下さってきた牧師によって、群れにいる羊たちは、どうしようもない人生を回復してくることができました。ですから、自分のことを棚にあげて審判者になるのではなく、過去の自分と同じように苦しみ、悪霊の声を聞いて背いてしまっている兄弟姉妹のために、牧師にならって、愛を注ぎ出し、全力で向き合うのが神に求められている神の家族のあり方であると語られました。イエス様につながって神の愛で向き合うなら、相手の屁理屈を論破する力・油の注ぎも受けて、神の思いを伝えることができるのです。
 
そして、聖霊の声は小さく、静かですから、自分の肉の思いが静まっていなければ聞こえません。例えば、イエス様が自分に対して、「彼女のところに行って、語ってあげなさい」とおっしゃった時に、「でも、私なんかが牧師を差し置いて語るのは違うでしょ」という思いになることも吟味しなければなりません。実際は、関わりたくない、何と言ったらいいか分からないと思っているなら、言い訳をして逃げているだけになるからです。思いが入ったのなら、牧師に伝えて、今自分が動いてよいのか霊を試します。私たちは、聖霊の声に忠実に動けているか、改めて問われました。
 
また、兄弟姉妹に対してだけではなく、家庭や学校、職場といった置かれた場所で、怒ったり、憎んだり、苛立ったり、悲しんだりした感情を、次の日に持ち込んでいたら、聖霊の声など聞こえるはずがありません。昨日の感情と同じ感情を今日も持たないために、例えば大喧嘩をしたなら、自分の罪を悔い改め、二人の間に動いた悪霊を縛りあげて追い出し、十字架の血で自分と相手を清めてから寝ます。その霊的聖餐式によって、全てが新しい朝を迎えることができ、謝るべきことは謝って、愛と喜びをもって接することで、聖霊が働いて下さって、相手の態度も変わります。日常生活の中の瞬間、瞬間でサタンは動くため、喜べないことを引きずるのではなく、毎瞬「私は神の子だ!」と宣言して断ち切っていかなければならないと語られました。
救われてきたばかりの羊や、学び始めて1年ほどたった羊が、「救われても何も変わらない。学んでいても自分の状況は変わらないし、周りの人も変わらない」と言うことがありますが、【わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある。】(第2コリント13:8)と約束されているのですから、まずは神の御前で何らやましい事はないと言える自分であるか吟味しなければなりません。牧師に言われたことを何も考えずにやっただけ、“どうせAをやった方がいいんでしょ?Bはダメなんでしょ?なら色々言われたくないから、Aをやる”という占いと打算、神の家族への裁きの思いが入っているなら、その人自身にクリスチャンとしての成長はありません。イエス様が牧師を通して語って下さったことを、自分の知性で考え、心で感じて、肉の思いを打ち叩いて行いに移す、サタンと戦ってAの道を貫き通すのであれば、聖霊が働き、真理に従った力を体得していけるのだと語られました。
 
そして、悪霊の声を聞いて群れを離れていく兄弟姉妹の共通点は悪い交わりです。【「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。】(第1コリント15:33~34a)と書かれてある通り、クリスチャンになっても交友関係が変わらず、救われる前と会話する内容が変わらない、聞く曲や、観るもの(テレビ、漫画、映画)が変わらない、神仏行事に関わり、仏教神道に関わる地域との付き合いを断っていないなら、どれだけ学んでいても、証を得ていても、築き上げてきたものが見えなくなり、崩れていきます。特に救われてクリスチャンになれば、神に愛されているが故にサタンには憎まれ、妬まれますから、サタンの支配下にいるこの世の人たちからも、知らず知らずのうちに妬まれています。「人の不幸は蜜の味」という言葉がありますが、これは、人は他人の喜ばしい話より、不幸話を聞く方が好き、他人の不幸は嬉しいという意味です。救われる前の自分はどうだったでしょう。人が幸せになっていくことに対して、表向きは一緒に喜んでいても、内心では妬ましく思ったり、不幸になることを望んでいなかったでしょうか。自分が辛い時、なぐさめ一緒に泣いてくれる友人よりも、自分が嬉しい時、心から共に喜んでくれる友人の方が信頼できる親友になれると、私の祖母は言っていました。
また、妬みの霊は友人間だけではなく、家族間でも動きます。例えば、イエス様を知らずに大変な人生を歩んできた母親が、イエス様によって祝福された人生を歩んでいる娘を見て妬ましく思い、イエス様から離れるようにと迫害してきたという事が実際にありました。自分と同じ人生は歩んでほしくないと思いながらも、実際、自分とは違う人生を歩み始めた娘を見たら、母親以前に一人の女性としての妬みが生まれてきたのです。
 
相手がクリスチャンでなければ、その交わりは情欲がカシラになっていきます。嫌いな母親であっても、情が通い合えば、娘は母の言うことに従っていきますし、友人に嫌われたくないと思えば、友人の言葉に同調して自らを汚していってしまいます。たとえ、クリスチャン同士であっても、相手の間違いを正すことができずに、見て見ぬふりをしたり、「ここだけの話ね。牧師には内緒ね。みんなには言わないでね」と言いながら二人だけの秘密を持つなら姦淫をしているのであり、互いにつまずきを与える情欲の交わりになります。そして、相手の悪を示されているにもかかわらず隠すことは、愛ではありません。光に出してあげることが愛なのだと語られました。神の御前で、いやしい事、やましい事を持たない人間になることが、聖書を学ぶ意義です。
私たちクリスチャンは、イエス様がカシラであり、神の存在、神がいつも見ておられるという縦の関係を常に意識した上で、横の人間関係を築いていかなければなりません。横の繋がりが先になった瞬間、神の目から見たら悪い交わりとなり、良いならわしをそこなっていくのだと語られました。
 
ヤコブ4:1~4
あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。
 
アーメン。
 
そして、クリスチャンとして、神の家族として忘れてはならないのは、裁いて審判者になるのではなく、とりなし祈ってあげることです。とことん祈り、神の霊に満たされている者は、語るべきことを語る器にもなっていけるでしょう。群れの中で、魂に戦いを来たらせる羊に対して、皆が裁きと審判者の目を持っていたら、その羊は群れに居づらくなりますし、出て行った羊も戻ってくることができません。
神は愛です。「神は愛なら、強引にでも正しい道に導いて、皆が天国に行けるようにしたらいい!」と言う人がいますが、神は愛だからこそ、人間に自由意思を与えておられます。最終的には、その人間に与えられた自由意思をどこに向けるかであり、神との一対一の関係があるわけですが、私たちは神がもういいとおっしゃるまでは、全力で滅びに至らないように働きかけることができます。もういいという限界は、自分の肉の思いでは決めれません。このままでは滅ぼされると分かっているのに、神をあざけって「地獄でもいい」と言う羊に対しても、ならば、たとえ片目片足を失ってでも、瀕死状態になってでも、神から受けた愛を思い出して、神を畏れて立ち返ることができるように、もっととりなし祈るのが、牧師、神の家族の務めです。神は私たちの心も見ておられること、御言葉に従ってどのように行ないに移すのかを見ておられることを忘れてはならないのだと語られました。
 
何事もあきらめたら終わりです。群れを出て行って音信不通になり、居場所も分からなくなるならば、神にゆだねるしかありませんが、メールや電話が繋がり、どこにいるのかが分かるのであれば、こちらから関係を断つことはせずに、聖霊に思いを入れられた時には忠実に従って働きかけ、いつでも帰ってこれる門を開いている状態にしておかなければなりません。そして、【善にさとく、悪にうとく】あることです。一度でも、神に従いたい善なる気持ちをもって、行いに移し、神に喜ばれて証を得た羊であるなら、神は決して見捨てないでしょう。私たちも、今見せられている“反キリストの状態”にとどまるのではなく、「あの時はこうだったのに、なぜ今はこんな風になってしまった?」という思いで、一体何がこの羊をこんな風にしたのか、この羊を捕らえている悪霊は何か、イエス様に聞いていくことができます。決してサタンに、血肉の戦いにもっていかれてはなりません。
牧師は導かれてきた羊一人一人に対する引き出しをもっており、聖霊によってその羊がどんな歩みをしてきたか、カウンセリングする時には思い出されるのだと語ってきて下さいましたが、私たちも、聖霊によって一つ一つ見聞きしてきたことを大事にし、いつも善にさとくなって、互いに交わりを持たなければならないと語られました。
 
最後に、聖書には確かに神に対して背信行為をした者は、滅ぼされると書かれています。悪い交わりによって、正しい道からはずれ、世の汚れに再び巻き込まれて征服されるならば、後の状態は初めよりも悪くなると警告されています。背信、背教はもっともひどい地獄に行きます。
 
第2ペテロ2:12~22
これらの者は、捕えられ、ほふられるために生れてきた、分別のない動物のようなもので、自分が知りもしないことをそしり、その不義の報いとして罰を受け、必ず滅ぼされてしまうのである。彼らは、真昼でさえ酒食を楽しみ、あなたがたと宴会に同席して、だましごとにふけっている。彼らは、しみであり、きずである。その目は淫行を追い、罪を犯して飽くことを知らない。彼らは心の定まらない者を誘惑し、その心は貪欲に慣れ、のろいの子となっている。彼らは正しい道からはずれて迷いに陥り、ベオルの子バラムの道に従った。バラムは不義の実を愛し、そのために、自分のあやまちに対するとがめを受けた。ものを言わないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂気じみたふるまいをはばんだのである。この人々は、いわば、水のない井戸、突風に吹きはらわれる霧であって、彼らには暗やみが用意されている。彼らはむなしい誇を語り、迷いの中に生きている人々の間から、かろうじてのがれてきた者たちを、肉欲と色情とによって誘惑し、この人々に自由を与えると約束しながら、彼ら自身は滅亡の奴隷になっている。おおよそ、人は征服者の奴隷となるものである。彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。ことわざに、「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く」とあるが、彼らの身に起ったことは、そのとおりである。
 
アーメン。
しかし、これは神の御心ではありません。神は、ひとりも滅びることがなく、全ての者が悔い改めに至ることを望んでおられます。裁いて、審判者になることは簡単ですが、私たちはキリストの思いを持っています。忍耐して、もう一度イエス様=ぶどうの木に繋がることができるように、祈り求める特権も与えられています。それを放棄することなく、滅びゆく魂のために全身全霊で向き合い、しみも傷もない安らかな心で、神の御前に出られる自分でなければなりません。
今週の集会では、群れから離れた羊たちのことを思い、彼らを裁いていた兄弟姉妹はまず悔い改めて、もう一度彼らがイエス様と繋がれるように、真理に至れるようにと一致の祈りをしました。早速、私たちの祈りがきかれ、今日悔い改めて、群れに帰ってきた兄弟姉妹がいたことを喜び、感謝します!
 
第2ペテロ3:8~15
愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。
愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。
 
ローマ12:9~21
愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。
 
アーメン。