◆「齊藤諒の生きる力」本日発売!!
2017/9/1 ブログより
本日、「齊藤諒の生きる力 四肢麻痺と人工呼吸器装着の僕が伝えたいこと」が、全国書店にて発売されます!!amazonでもお買い求めできます!
運命を変えて、天命を生きる!
16歳という若さで四肢麻痺となった著者が綴る、渾身のノンフィクション。
「死んだましだ!だからといって自分で死ぬこともできない・・・・・・この前まで、大好きな野球に明け暮れていた自分が、こんな身体になるなんて!」
絶望の淵から救ってくれた「聖書」の教え。
苦しみの中で希望を得た著者が今、この時代を生きる人たちにもっとも伝えたいことを書く。
著者の齊藤諒兄弟からです。
待ちに待っていたこの日がいよいよ来ました。
イエス様は僕にとって新たな一歩を与えてくれました。
マタイによる福音書5章14節~16節
あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
聖書は真っ暗だった僕の心に光を与えてくれました。
今度は僕が聖書の光を伝え広げていきます。
イエス様、文芸社の皆さん、ぶどうの木の神の家族たちに、感謝です。ありがとうございました。
これからも感謝し福音していきます。
全ての栄光をイエス様に帰して。
アーメン。
ぶどうの木10年目最後の日という素晴らしいタイミングで、イエス様はこの本を出版させて下さいました。
読者の皆さんに「生きる力」を与える一冊です!!
ぜひ、ご一読ください。
イザヤ12:3~6
あなたがたは喜びをもって、救の井戸から水をくむ。その日、あなたがたは言う、「主に感謝せよ。そのみ名を呼べ。そのみわざをもろもろの民の中につたえよ。そのみ名をあがむべきことを語りつげよ。主をほめうたえ。主はそのみわざを、みごとになし遂げられたから。これを全地に宣べ伝えよ。シオンに住む者よ、声をあげて、喜びうたえ。イスラエルの聖者はあなたがたのうちで大いなる者だから」。
アーメン!
神の御心をわきまえ知って生きる魂を持て!
2025/1/5ブログより
あけましておめでとうございます。
holygirlです!今年も、イエス様に忠実にブログを書いていきます!よろしくお願いします。
今年最初の集会は、箴言13章のみことばから始まりました。
箴言13:1〜25
知恵ある子は父の教訓をきく、あざける者は、懲らしめをきかない。善良な人はその口の実によって、幸福を得る、 不信実な者の願いは、暴虐である。口を守る者はその命を守る、くちびるを大きく開く者には滅びが来る。なまけ者の心は、願い求めても、何も得ない、しかし勤め働く者の心は豊かに満たされる。正しい人は偽りを憎む、しかし悪しき人は恥ずべく、忌まわしくふるまう。正義は道をまっすぐ歩む者を守り、 罪は悪しき者を倒す。富んでいると偽って、何も持たない者がいる、貧しいと偽って、多くの富を持つ者がいる。人の富はその命をあがなう、しかし貧しい者にはあがなうべき富がない。正しい者の光は輝き、 悪しき者のともしびは消される。高ぶりはただ争いを生じる、 勧告をきく者は知恵がある。急いで得た富は減る、 少しずつたくわえる者はそれを増すことができる。望みを得ることが長びくときは、心を悩ます、 願いがかなうときは、命の木を得たようだ。み言葉を軽んじる者は滅ぼされ、戒めを重んじる者は報いを得る。 知恵ある人の教は命の泉である、これによって死のわなをのがれることができる。 善良な賢い者は恵みを得る、しかし、不信実な者の道は滅びである。おおよそ、さとき者は知識によって事をおこない、 愚かな者は自分の愚を見せびらかす。悪しき使者は人を災におとしいれる、しかし忠実な使者は人を救う。貧乏と、はずかしめとは教訓を捨てる者に来る、しかし戒めを守る者は尊ばれる。願いがかなえば、心は楽しい、 愚かな者は悪を捨てることをきらう。 知恵ある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害をうける。災は罪びとを追い、正しい者は良い報いを受ける。善良な人はその嗣業を子孫にのこす、しかし罪びとの富は 正しい人のためにたくわえられる。貧しい人の新田は多くの食糧を産する、しかし不正によれば押し流される。むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。 正しい者は食べてその食欲を満たす、しかし悪しき者の腹は満たされない。
アーメン。
箴言は、人としての在り方、神の教訓をとても分かりやすく語られます。クリスチャンでない人が読んでも、確かにそうだと理解できる内容ですので、聖書を初めて読む人には、箴言から読むことを勧めています。ただし、これは、神という創造主を信じて生きる人間か否かを基準に書かれているのであり、神を信じて生きる者に伴う祝福と、神の教訓を捨てて生きる者に伴う呪い、滅びを教えていることを心に留めて読む必要があります。
【知恵ある者】とは、神の言を教える牧師であり、神の教訓に従って生きるクリスチャンの事を言います。【知恵ある人の教えは命の泉である、これによって死のわなをのがれることができる。】(14節)、【知恵ある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害をうける。】(20節)と書かれてあるように、神の言・教訓を聞いて行い、様々な事で良い実・証を結ぶ人もいれば、自分偶像礼拝者で自分の判断、意見が一番正しいと思っていたり、いつもこの世の人の声を聞き、顔色を見て判断することで、神の恵みを遠ざけ、害を受け、持っていると思っているものまで取り上げられてしまう人もいます。
今、日本のオピニオンリーダーと言われる人たちが、“神”という存在に目を向け始め、聖書の預言や聖書の神が多く取り上げられるようになりましたが、彼らの結論は、「日本の宗教が世界をリードしていく!一神教の神(聖書の神)を拝んでいる人は人として偏っている。日本人は八百万の神々を信じてきたが、一つ一つの神に対して、その神々が宿る物に対して、感謝をもっている」であり、大和魂を誇り、日本独自の神観こそ世界に必要であると主張しています。戦後復興も、八百万の神々への信仰があったからだと・・・それは違うでしょう。敗戦したのです。原爆投下されたのです。敗戦し、「神風は吹かなかった」ところからの復興は、命のつながり、親への感謝という精神が日本人にあったからこそできたのだと思います。しかし、このような考えを持つ人々がいるのは、クリスチャンたちの責任でもあり、クリスチャン自身が神の御心を分からず、自分の信仰を表明することなく、この世に妥協して生きてきたからであると言えます。
「唯一真の神、救い主であるイエス様を信じなければ地獄行きだ」とはっきり言えず、情に流されて日本ならではの神仏行事に参加したり、世の中の人と変わらない価値観を持って生き、平気で悪口を言い、嘘をつき・・・けれども日曜日の礼拝や、平日の集いには神妙な顔で参加している・・・傍から見れば、クリスチャンて何?自分たちと何が違うの?と思われている存在ではないか。逆に「聖書にこう書いてあるからやらない、行かない」と言ってみたり、「神に言われたからやります!」と言ってみたり、何でも神に従い、自分の意見がない、心がない人のように思われていないか。
今週の集会では、法事への参加についての話があがりましたが、長年神仏に対して熱心で、八百万の神々をまつってきたところから救われた80代の兄弟は、「相手の信仰に合わせるのがクリスチャンではないか。心は貸さないが、向こうの信仰に歩み寄る。遺された親族のために参加する」という考えをもっており、妻であるA姉妹が信仰を理由に法事に参加しなかった事に激怒し、群れを離れている現在です。A姉妹は、「聖書に法事に参加することは罪と書いてありますから、私は参加しません!貴方にも参加してほしくない」と語るのですが、激怒しながら「皆が参加してほしいとお願いしているのになぜ参加しない!?」と言う夫に真実の愛で丁寧にクリスチャンとしての信仰について語ることができず、「当日仮病を使って休めばよいか」という二心者の考えを持っていました。
クリスチャンであるため法事には参加しない事を伝えに息子夫婦と相手先に出向いた際には、下を向いたまま信仰表明もできず、息子夫婦の信仰を快く受け入れ、故人と遺された家族に対する慰めと励ましの言葉に感動してくださった親族であったにもかかわらず、A姉妹に対しては、最後に「線香をあげていって」と言ったそうです。サタンに嘲られ、挑戦され、神に試されたのでした。
息子であるB兄弟も、ずっと父親に語るタイミングを逃してきましたが、今回また法事への参加の話が出たことで、父親の疑問に一つ一つ答え、最後は「地獄に行ってほしくないから伝えている!」とバシッと愛で伝えることができました。聖書には、【イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。】(ヨハネ14:6)と書かれてあります。すると、激怒していた父親の表情が変わり、サタンが去ったのが分かったそうです。父親は、救われる前にまつってきた神々を、救われ集会に参加する意志を向けた時に、捨てたことで祟りが起きるのではないかとずっと思ってきたそうですが、B兄弟から、「まつっていた時の方が色々災いがあった。両親そろって病気にもなった。救われてからは、皆が健康に、仲良く平安に暮らせている」と語られ、「そうだな・・・」と納得したそうです。それでも、法事への参加をやめるとは言わなかったそうですが、後日、B兄弟が妻と買い物に出かけると、法事先のご夫婦とばったり会い、父親の気持ちをふくめ、クリスチャンとしての信仰を改めて伝えることができ、まさに聖霊の導きでした。
A姉妹に対しては、牧師から、「“聖書に書いてあるから”という理由だけでは、宗教的で相手は納得できないでしょう。自分たちがクリスチャンとなり、イエス様にどれだけのものを与えられてきたか、そのイエス様が仏教ビジネスの1つである法事への参加をするなとおっしゃっているのだから裏切りたくない、クリスチャンはいつも命の繋がりを思い感謝して過ごしているのだから、法事にわざわざ参加してその時だけ故人を思い出す必要もないと語れるのではないですか?先日ご主人は血栓ができて命を落としそうになったばかりであると聞きました。神、イエス様を思っているとは言っても、群れを離れ、自分なりの信仰で立っているご主人ですから、いつ何が起きてもおかしくないです。法事への参加は命取りになることもあります。向こうの信仰に歩み寄ることは、この世では素晴らしいと賞賛されることですが、神の御前では高ぶりです。心は貸さないから大丈夫!と本人が思っていても、線香をあげ、お経を読み上げる場の魔力、霊力は、すごいです。この世の神であるサタンの力をなめてはいけません。神に止められているのに足を踏み入れたら、どうなるか分かりません。B兄弟夫妻が、ご遺族に会って先に話が出来ている事も神の愛、聖霊の導きであり、これに反することは罪ですね。これだけのことを伝えても、まだご主人が行くと言うなら、自らの身に刈り取って知るほかないですが、まずは、A姉妹がイエス様との一対一の関係の中で、信仰を試され、問われていますね。A姉妹には、イエス様に対する感謝、本物の信仰が育っていますか?情で遺族のために参加すると言っていても、結局は人に悪く思われたくないという事でしょ?それよりも神に悪く思われたくない、裏切りたくないと思うのがクリスチャンです。A姉妹が家族皆と一つ思いとなってご主人に向き合わなければ、奪還はできませんよ!」と訓戒があり、A姉妹は何が神の御心であるのかを知り、悔い改めて語っていく決心をしました。
一神教の神(聖書の神)を信じる者は、人として偏っている・・・もし周囲の人にそのように思われるなら、クリスチャンとして神の御心が分っていないのです。神の御前で神を畏れて生きていないのです。神を信じる者は、神に喜ばれ、かつ人にも受け入れられます。自分の信仰を丁寧に説明するなら、良識のある日本人は受け入れてくれます。神と人間がこんなにも近い関係で生きていけることを日本人は知りません。守護霊とは違い、神の内に生き、動き、歩んでいることを日々実感する人生であることを、クリスチャンである私たちが自身を通して体現していかなければならないと語られました。
また、【むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。】(24節)と書かれてあるように、事なかれ主義は愛がありません。本当に相手のためを思っているなら、間違っている事は正し、懲らしめなければなりません。群れにおいては、それが牧師の働きであり、家庭では親、会社では上司、学校では先生の役割です。もちろん兄弟間、同僚、友人同士であっても、見て見ぬふりをせず、無関心にならず、相手に良くなってもらいたいという一心で語ることも必要です。
特に、群れでもよく話題にあがるのは、自分の子どもへの遠慮で、語るべきこと、躾けるべきことを行なえない親が多いことです。「もう大人だから・・・」と思えば何も言えず、でも実際は「良識をもった大人と言えますか?そのように育ててきましたか?」と神に問われることばかりです。
親が言うべきことを言わないことによって、子どもはどんどん我がまま、自己中になり、親に対して偉そうな態度をとるようになっていきます。親はますます腫れ物に触るような扱いになり、機嫌を伺い、機嫌を取ることに意識が向いていきます。何歳になっても、親子の関係はあり、親であるなら子をつとめて懲らしめる責任があります。
そして、昨年末に語られたように、皆自分のことを聞いてもらいたいのです。皆コミュニケーションを求めています。「プライバシーだから!自分の心(テリトリー)に土足で入ってきてほしくない!」と言いながら、神の御前では、素直に正直に自分の気持ちを語り出す人ばかりです。
ある姉妹の娘は、40歳を前にいつの間にか結婚をあきらめ、人生に対する希望を失っていましたが、最近40代の芸能人たちが出産したことを知り、「まだ私も結婚して子供を産める!」と望みをもち、気持ちが明るくなったそうです。一見とても些細なことですが、人は何を思い心を閉ざしているか分かりません。親にも言えない気持ち・・・でも親が神に祈り、御心を行ない、日々信仰と愛で語りかけているなら、霊力がいっきに変わる瞬間があるのです。
他の姉妹の娘は、推し活で毎週アイドルのコンサートに足を運んでいます。「自分の事に口出ししないで!自分が稼いだお金なのだから何をしても自由でしょ!」言われたら何も言えず・・・しかし、その娘が牧師と話をする中で、「貴女の生き方はもったいない!虚しくない?」と問われた時、突っ張っていた態度が変わり、「そうか・・・」と素直にその言葉を受け入れることができたのです。そこから、起業した姉妹から依頼された神の仕事に関わることになりましたが、両親の声掛けが変わらぬままであったため、推し活によって停滞したり、不十分な出来で終わってしまいました。到底、信頼して仕事を任せることはできないという判断になりましたが、それを伝える事も、遠慮気味の両親でした。
なぜ娘がそこまで推し活をしたいのか・・・両親がそこに向き合いきれずにきましたが、昨年、夫婦揃って集会で真理を学べるようになりました。的外れな声かけをしてきたこと、神の御心が分かっていなかったことに気付き、悔い改めに至りました。親の声掛けが変われば、家庭の霊力が変わり、娘に語る言葉にも神の力が働きます。神の御心をわきまえ知り、的を射た声掛けができているか、姉妹の親子関係を教材に、皆も自分を吟味しました。
牧師は幼い頃よく、世の中で起きる事件を目聞きしては、「なぜ大人なのにこんな事をするの?」と母親に聞いていたそうです。母親は、「体だけ大きくなった人。中身が伴っていないの」と答えてくれたそうです。そして、自分自身も、聖書を知らなければ、“今だけ、金だけ、自分だけ、家族だけ”で、他者がどうなろうと関係ない、日本がどんな状況であるかにも興味がない大人であっただろうとおっしゃいました。それは今ぶどうの木にいる皆にも言えることであり、おそらく日本人の8割はそのようにして今も生きているでしょう。日々、何をカシラにして生きているのか・・・聖書を学び、神の御心を知れば、それを行うことに邁進し、たくさんの良い実を成らしていく人生ですが、自分の意見、願望で生きるなら、挫折も多く、目標を見失い、生活していくために必死にお金を稼ぐ人生へと変わっていきます。成功していると思っていても、突然の病気、事故、死、明日の命の保障はありません。
人間は霊・魂・体でできていますが、魂は家庭環境、親の価値観、学校教育で形成され、成長するにつれて親の目、大人の目を盗んで行うこと、自分の欲を満たすことでつくりあげられていきます。我がまま、自己中と言われたり、人に無関心、上手くコミュニケーションが取れない、社会に適応していくのが困難だと感じる人は、出来上がってしまっている“魂”に問題があります。「大人なのに子どもっぽい、中身が伴っていない」と言われるとするなら、何を家庭で教わってきたか、社会で身に付けてきたか問われます。そこがクリスチャンとしての成長にも大きく関わってきます。
牧師自身もはじめそうでしたが、自分の意見の主張ばかりして、“自分は変わろうとしない”人間(日本人は皆自分を変える考えはなく、神に願いだけ要求している)が、救われてクリスチャンになっても、イエス様・聖書の教えを受けると、「私のやりたいことはできないということ?願いを言えないということ?」と思ってしまいます。そして、霊⇒魂⇒体で教えを理解し、魂を打ち叩いて服従させていくのではなく、よろずのものより偽る心・魂は神の御心を受け入れらないから殺して、霊⇒体でただ言われたことをやるだけのカルトになっていきます。考えるのをやめ、心を無にして従う事の方が楽だと勘違いします。この状態がどれだけ周囲の人々をイエス様から散らし、嫌悪感を与えることになるでしょう。まさに、神のロボットのような人間です。
しかし、結局、こうなりたい!こうしたい!という願望は捨てていない、自分を変えることに意志を向けているわけではないため、魂を殺すことに限界がくると爆発し、「もう無理!やりたくない!」という我がまま、自己中の発言が飛び出し、信仰そのものが何なのかも分からなくなってしまうのです。
当然、神が求めておられるのはそのよう歩きではありません。救われる前の自分には何も良いものはなかったと一度全部捨てて、神の御前に置く、古い皮袋は捨て、新しい皮袋をもつことを言われます。それは魂を殺すことではなく、一つ一つ神に教えてもらいながら、肉(魂・体)を打ち叩き、服従させていく歩きです。どうしようもなかった魂を持ち続けるなら、神の教えをまっすぐ受けることはできないのです。
その歩きの中で、いかに救われる前の自分が馬鹿馬鹿しいことに心を奪われ、時間を費やしていたか、他者に無関心で我がままだったか、こうなりたい!こうしたい!という願望は小さいものであり、神の御心、御計画はもっと計り知れない壮大なものであることを思い知ります。はじめて、神の目から見たら“死んでいた魂”、“使いものにならなかった魂”が生き返るのです。
詩篇23:1〜6
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、 わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。 わたしの生きているかぎりは 必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。 わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
アーメン。
私たちは、牧師を通して「本当に180度変えられていますか?魂が生まれ変わっていますか?」と問われました。「神が正しい道に導いて下さるのだから、自分の意見を言うな!」と訓戒されました。頭では無理難題と思えるようなことも、神が「やりなさい」とおっしゃる時には、主にあってできます!みことばを握りしめて行なえます!窮地に立たされた時には、こうべに油がそそがれる体験もします。だから、魂で「無理!」と断ったり、あれこれ弁明をしない事です。
また、魂を生き返らせるべきである事例も聞く事になりました。
ブログに一時期よく書いていた一つの家族の話です。子どもがいながら、父親は魔が差して犯罪を起こし、刑に服することになりました。その前から夫婦関係は破綻して離婚していました。母親は故郷に戻りましたが、子どもを養育していくことができず、児童相談所にお願いして子どもを乳児院に入れることになりました。その後、犯罪を起こし精神的に辛い状況にいた夫を思い駆け付けた妻は、献身的に支える中で、二人目の子どもを身ごもりました。中絶は考えられないからと、子どものために、二人は復縁し、父親は刑務所に入りました。この時、両親はイエス様への感謝と信仰に立っていました。執行猶予もつかない厳しい判決(4年11ヶ月の服役)で、通常よりも多額の慰謝料も要求されました。その慰謝料を、家族は到底払うことができないという事で、聖書に書かれてある通り、【善をなす力】があったぶどうの木が、貸すことになりました。しっかりと被害者と示談が成立していたこともあってか、父親は刑務所ではなく、社会復帰センターという好待遇の場所で刑に服することができました。
刑に服している間、母親の強い願いで、乳児院から上の子を必死の思いで引き渡してもらえるよう、イエス様に知恵をいただきながらぶどうの木の神の家族が一丸となって奔走しました。迎える家を大掃除し、遠方にある児童相談所と乳児院にも足を運び、子どもと面会しました。二人目の出産準備、検診の通院も手伝いました。そして、やっと思いで出産前に上の子との生活が叶ったのですが、母親は夫の実家での舅との生活に耐えられなくなり、刑務所から送られてくる夫の手紙にもDVの気を感じるようになり、子どもの下に留まることよりも、他の男性を求めて家を飛び出すことになりました。その後、水商売とホストクラブ通いで多額の借金をつくり、ぶどうの木にその都度頭を下げてはお金を借りてきました。子どものために、もう一度この家族が一つ屋根の下で仲良く生活できるようになるためにと、イエス様が出してくださったお金は総額1000万円にもなりました。現時点で一円も返済はされていません。
そこから、サタンがさらに動き、二人は面と向かって話をすることなく、離婚を言い出し、子どもの親権の話をするつもりで、過ごしてきました。両親も、それぞれ親の離婚で、幼い頃から家族の愛、家庭のあたたかさを知らずに育ってきました。自分の子どもにも同じ思いをさせるのか!?という思いで、ぶどうの木の牧師、神の家族は一貫して、子どもたちのためにも、二人は互いに許し合って夫婦としてやり直すべきであること、それが神の御心であると伝え、祈ってきました。遠方にある刑務所にも、牧師、兄弟姉妹が何度か行き、面会をしては霊に種まきをしてきました。感謝なことに、この4年間離婚には至らずにきました。
そして、昨年末、ついに父親は予定よりも9ヶ月早く出所してきました。妻ともう一度顔を見て話しがしたい思いはあるようですが、離婚への意思は持ったままです。もう一度家族4人で共に生活することは、「好きじゃないから無理、無理矢理結婚生活、家族で生活して家庭を再開することはカルト」でしょうか?父親は自分の母親のもとに引き取られ、仕事を得て、心新たに生活を始めていますが、周囲に喫煙者がいることで、すぐにタバコを吸うようになり、悪霊が入り、「皆に顔を見せ、一言挨拶しに来ないか?」という牧師の声掛けにも、「毎週集会には行けない」と言い、「多額なお金を払ってもらっている恩はないのか?」という兄(唯一ぶどうの木に繋がり続けてきた)の問いかけにも、「結局お金かよ!」と反発し、いまだにぶどうの木の皆に挨拶に来ることさえできていません。
共にいる家族はどんな声かけをしているのか?皆救われていますが、イエス様への恩はないのか?二人の子の親としての責任は?この夫婦に、人としてどうあるべきかを教える大人が周りにいないのか?彼らこそ、魂を生き返らせなければなりません!ここまでしてもらってきた神の御心をわきまえ知らなければなりません!自分の魂のまま、肉欲に従って生きてきて何を刈り取ってきた人生であったか。そこから、贖い出してくださり、神の子として生き直す権利を与えられたこと、選ばれ、これだけのあわれみをかけてもらってきたことを、本人たちが思い知る魂が必要であると語られました。確かに主イエス様にあって心が通い合い、愛が芽生え、生き返った霊魂体でイエス様の教えを共に学んでいた時間があったからこそ、霊は神の子であると信じ、家族4人の再生を引き続き祈ります。
私たちは皆、自分自身の救われてからここまでの歩みを振り返った時、絶対嫌だ、無理だと思うことをやり遂げてきました。肉を打ち叩いて服従させてきたことで、証が生まれました。年末の証の会は、一人一人が自分を必死に変えるために神に従ってきたことが分かりましたし、そのようにして変えられた喜びに満たされていました。変えられた自分に『過去』はありません。あの時こんな気持ちで苦しかった、こんな経験をしたことを分かってほしいと言う必要はなく、『今』を生きていること、生かされていることに感謝し、【古いものは過ぎ去った、見よ、全てが新しい!】と言い切ることができます。
「肉は100%変える!主にあって変えられなさい!生きているのは私ではなく、キリストになれ!チリのようにクズのようにされなければ、真のクリスチャンにはなれません!」という牧師のメッセージにアーメンでした!
今週の集会では、完全に新しく生まれ変わった兄弟2人が、自分の過去を振り返った時、いかに自分の思い・感情を優先させて愚かな言動をしてしまったか、そこから悔い改めた思い、証を話してくれました。
C兄弟は、家事をまったくしない妻を裁き離婚したのですが、長男、次男、長女の3人の子どものうち、長女だけは引き取れず、離れ離れになってしまったこと、それによって、長女が大変な生活を送ることになってしまったことを謝罪したい気持ちがあることを話してくれました。もっと早く、あの時聖書の学びをしていたら、このような事にはならなかったと悔いたそうです。長女と連絡を取りたいと思いつつ、連絡先が分からないそうですが、C兄弟の心を見て、神が働いてくださり、必ず謝罪の機会を得られるようにと祈ります。
離婚後、父子家庭で育ってきたC兄弟の長男が諒兄弟の事故の加害者になってしまい、無条件の赦しを受けてC兄弟は救われたのですが、今では、元の妻に対して無条件に許しあい、できることなら復縁してやり直したい思いになっているそうです。今までC兄弟の過去の家庭の事情については聞く機会がありませんでしたが、年末にゆるされる側の葛藤を語ってくれ、さらに解放されたことで、今回赤裸々に過去のこと、心の内を話してくれたことは感謝でした。
D兄弟は、年末に国際ロマンス詐欺にあい、大きな代償は伴いましたが、真に生まれ変わり信仰に立つことができました。無事に退職金をもらい、退職金で詐欺被害額(カードローン)を清算することができました。それによって、年末に亡き妻の実家に10年ぶりに出向くことができ、長年に渡る無礼を謝罪し、義父と共に建てた家を手放し売却する話をすることができました。そして、妻の1周忌法要以来、自分のせいで娘が亡くなったと言われているのではないかと思い、そんな声も聞こえてきた事もあり、足が遠のいていましたが、久しぶりに再会した義父は、快く迎え入れてくれ、そのまま年末年始を共に過ごすことができました。滞在中に、妻の妹家族とも再会することができ、あたたかく歓迎してくれました。無条件の愛に満たされて自分から声をかけていけば、その場の霊力は神が変えてくださいます。神に喜ばれ、人にも受け入れられる道、やり方があります。だからこそ、自分が愛だと思うことを実践していくことが大切です。
D兄弟は、自分が一方的に裁き、会わずにいた間に、義父が病気を抱えて弱っていることを知り、これから恩返しのつもりで親孝行していきたい思いになったそうです。何より魂の救いに導くことです。
一つ、家の売却の話で、土地を購入したD兄弟が半分もらい、家を購入した義父が2分の1ずつ孫にあげるという話になったそうですが、D兄弟が4分の2をもらおうとしているところにまだ欲があると牧師から指摘されました。義父も含め、4分の1ずつで良いのではないか?そこにも感謝と恩が現れると語られました。
言わなければならない時に黙ったり、裁き続けていること、裁かれていると思い続けることは、重荷となります。C兄弟とD兄弟がその重荷を降ろすことができた年末年始となり、感謝でした。
私たちは、神によってつくり変えられた自分自身を通して、人々が神を見ることができるように生きなければなりません。みことばの力を証明できるのは、霊・魂・体で聖書真理を学び、体得し、変えられた人だけです。日本人は神々に感謝しているだけではなく、変わらなければなりません。それが創造主である神が教えていることです!“すべて”が新しくなっていなければ、神の御心は分からず、行うことはできないのだということを今年1年心に留めて歩んでいけたことを感謝します。
