◆「齊藤諒の生きる力」本日発売!!
2017/9/1 ブログより
本日、「齊藤諒の生きる力 四肢麻痺と人工呼吸器装着の僕が伝えたいこと」が、全国書店にて発売されます!!amazonでもお買い求めできます!

運命を変えて、天命を生きる!
16歳という若さで四肢麻痺となった著者が綴る、渾身のノンフィクション。
「死んだましだ!だからといって自分で死ぬこともできない・・・・・・この前まで、大好きな野球に明け暮れていた自分が、こんな身体になるなんて!」
絶望の淵から救ってくれた「聖書」の教え。
苦しみの中で希望を得た著者が今、この時代を生きる人たちにもっとも伝えたいことを書く。
著者の齊藤諒兄弟からです。
待ちに待っていたこの日がいよいよ来ました。
イエス様は僕にとって新たな一歩を与えてくれました。
マタイによる福音書5章14節~16節
あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
聖書は真っ暗だった僕の心に光を与えてくれました。
今度は僕が聖書の光を伝え広げていきます。
イエス様、文芸社の皆さん、ぶどうの木の神の家族たちに、感謝です。ありがとうございました。
これからも感謝し福音していきます。
全ての栄光をイエス様に帰して。
アーメン。
ぶどうの木10年目最後の日という素晴らしいタイミングで、イエス様はこの本を出版させて下さいました。
読者の皆さんに「生きる力」を与える一冊です!!
ぜひ、ご一読ください。
イザヤ12:3~6
あなたがたは喜びをもって、救の井戸から水をくむ。その日、あなたがたは言う、「主に感謝せよ。そのみ名を呼べ。そのみわざをもろもろの民の中につたえよ。そのみ名をあがむべきことを語りつげよ。主をほめうたえ。主はそのみわざを、みごとになし遂げられたから。これを全地に宣べ伝えよ。シオンに住む者よ、声をあげて、喜びうたえ。イスラエルの聖者はあなたがたのうちで大いなる者だから」。
アーメン!
◆神は愛―私たちは天に属する者―
2023/3/20ブログより
holygirlです。
日本中がワールドベースボールクラシック観戦に熱中している間に、国会では緊急事態条項がまとまっていき、世界的にも様々な動きがありました。アメリカでは、2021年1月6日に起きた国会議事堂襲撃事件は、民主党のやらせであったことをアメリカ国民全員が知る事実となりました。また、バイデン一族のマネーロンダリング(麻薬などの犯罪や不正取引などで得た資金を、多数の銀行の口座を転々と移動させることで、資金の出所や受益者を分からなくすること)も証拠と共に暴かれています。不正選挙と、マネーロンダリングの罪でバイデン氏が大統領の座から降り、逮捕されるのは時間の問題であると言われています。そんな中で、明日21日火曜日には、トランプ氏が「FBI(連邦捜査局)に逮捕される」と自ら公言しています。さらに、プーチン氏もウクライナの占領地からの違法な子どもの連れ去りに関与したとして、ICC(国際刑事裁判所)から逮捕状を出されました。光側で働いていると言われてきたこの2人の逮捕のニュースには一瞬驚きましたが、これは世界が大きく変わる合図であり、情報開示なのだそうです。
トランプ氏の逮捕理由は、アダルト女優と不倫した際に、その女優に口止め料を支払ったという事ですが、これは闇側の策略であり、トランプ氏は、1月6日の事件の詳細が明らかにされている今、アメリカ国民に対して「民主党がいかに悪さをしてきたかもう分かっただろ!マスコミの報道は嘘!目を覚ませ!」と訴えるために、自ら逮捕予告をしていると言われています。また、プーチン氏逮捕のニュースを通して分かるのは、ウクライナ侵略当時から言われていた、「プーチン氏は、人身売買や小児性愛者の欲を満たすために誘拐された子どもたちをウクライナから救出している」ということが事実であったという事です。闇側は、子どもの救出を「連れ去り」として逮捕の理由にしているのです。同時に、ウクライナの子どもたちをロシアの家族に養子縁組してきたリボワ・ベロワ氏(女性)にも、子どもの連れ去りという理由で逮捕状が出されています。しかし、プーチン氏に逮捕状を出したICCの検察官カリム・カーンには、1か月前に有罪判決を受けた小児性愛者の弟イムラン・カーン(元英国議員)がおり、弟を刑務所から釈放しているそうです。小児性愛者から子どもを救出していたプーチン氏を逮捕しようとする検察官の弟は小児性愛者・・・日本のマスコミはプーチン氏逮捕という上辺しか報道しませんが、ここまで知らされたら、どちらが善で、正しい事をしているのか、分かるでしょう。ウクライナ戦争の真の目的を知らされぬまま、日本は多額の支援をウクライナに行なってきました。さらにICCにはアメリカもロシアも加盟しておらず、一番の出資国は日本です。日本は偽大統領・バイデン氏率いるアメリカに従属し、どこまでも闇側の策略に加担させられているのです。
明日、本当にトランプ氏が逮捕されるのか分かりませんが、トランプ氏がFBI(アメリカ合衆国の警察)に逮捕された後、バイデン氏がトランプ氏率いる“アメリカ軍”に逮捕されると言われています。また、米ドルで悪さしてきた国際金融資本家(ディープステート)とNATO(西欧10か国とアメリカ、カナダ)でしたが、ここに来て2000年代以降に著しい経済発展を遂げたBRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)が力をつけ、ドルではない新基軸通貨への移行が始まっています。BRICsの共通した特長は、広大な国土、原油や鉄鉱石などの豊富な天然資源、労働力の源泉となる膨大な人口(4国だけで世界の人口の約4割を占める)を持つことです。
そして、ずっと敵対していたイランとサウジアラビアが中国の仲介で7年ぶりに外交関係を正常化し、双方の大使館を再開させることで合意しました。中国が加盟するBRICsに、イランとサウジアラビアも加われば、脱ドルの動きが加速し、アメリカの中央銀行は破綻するでしょう。それは世界的に多大な影響を与えます。すでにアメリカの2つの大手銀行が倒産しています。この波は、日本にも押し寄せ、銀行の預金封鎖が行われると言われています。日本は1946年に一度、インフレ解消を目的とした預金封鎖を経験し、国民はわずかなお金だけ引き出すことを許され、あとは全て国に没収されました。しかし、今回預金封鎖されるとするなら、それは金融リセットの合図であり喜ばしいこと、NESARA、GESARAの始まりであると言われています。そうなれば、銀行は必要なくなります。
3年前の2020年4月に、ブログに書いていたことを紹介します
『私たちは今週の集会で、アメリカが実行しようとしているNESARA(National Economic Security and Recovery Act:国家経済安全保障改革法)と、GESARA(Global Economic Security and Recovery Act:地球経済安全保障改革法)について知りました。
コロナウイルス感染拡大の裏側で行われているのは、闇の世の主権者たちの大量逮捕だけではなく、経済の大変革なのだそうです。まずは、NESARAで、今まで闇側の一部の人間が自由に社会とお金をコントロールしてきた仕組みを壊します。それが実行されることによって、世界中で経済格差がなくなり、全ての人間が平和で平等に生きられる世の中になるそうです。
この改革法は、2001年9月9日に実行され、18か月後には法律として有効になるはずであり、9月11日には公的宣言を行う予定でしたが、911のテロ事件によって断念されることになったそうです。そこには、闇側・イルミナティのブッシュ親子(当時、ブッシュ息子が大統領)が関わっていたとされ、新しい米国財務銀行システムの開始を妨害する目的で、世界貿易センタービルの1階、2階にあった国際銀行コンピュータを破壊するために爆破を命じた(イスラム国も利用した)という陰謀説があるようです。
過去に、このディープステート支配下で意のままである経済システムを変えようとしたアメリカ大統領が二人暗殺されたとか・・・その一人がケネディ元大統領だったそうです。そして、今、3人目としてトランプ大統領が立ち上がったという事です。トランプ大統領は、ケネディ元大統領の息子(飛行機事故で死亡)と親友で意志を継いでいるとも言われています。
闇の力によって阻止されてきたこの改革法が、いよいよ実行されるのか・・・そうであれば、思いもよらなかった世界が始まります。私たちは、先週語られたように、与えられた情報を霊で受け、聖霊の知恵と知識をもって真実を見極めなければなりません。その中で、嘘と言うにはあまりにも具体的な改革案と経緯でしたので、聖霊の導きによって見たこと、聞いた事として、ここに書き記しておきます。』
アドレノクロム、小児性愛という知識の言葉から始まり、3年間聖霊によって見続けてきたことの答えが出る週となるのか・・・目に見える形で陰謀論が陰謀であったことが明らかとなり、聞かされてきたことが真実となっていく今ですが、私たちは動じることなく、平安の内に日本の動き、世界の動きを見極め、霊の世界において悪霊を縛り上げ、その働きを阻止しながら自分の身を守っていかなければならないと、今週の集会で語られました。なぜなら、人類が水で滅ぼされたノアの時代同様、今の時代は感情の洪水が押し寄せているからです。思いもよらなかった事が起き、当たり前だったことが覆され、信じてきた政府や権威、マスコミに裏切られ、握りしめてきたお金に何の価値もなくなった時、人々はどんな反応をし、どんな言葉を出すのでしょう。お金、地位、名誉を得るために学歴、職業にこだわり、権威ある人を信じてきた人は立ち直れない時代がこれから訪れます。見えるもの、聞こえるものが全て、自分の知識に頼り、自分の感情が一番大切だと思って生きてきた“肉の人”は、感情に押し流され自滅していくでしょう。しかし、すでに時代を見分け覚醒してきた人、天に属する者、“霊の人”は動じることなく生き延びることができるのだと語られました。
箴言3:1~7
わが子よ、わたしの教を忘れず、わたしの戒めを心にとめよ。そうすれば、これはあなたの日を長くし、命の年を延べ、あなたに平安を増し加える。いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。そうすれば、あなたは神と人との前に恵みと、誉とを得る。心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。
アーメン。
先に書いたように、お金をカシラに、お金を得るために生きてきた時代は終わります。クリスチャンでありながら、権威に縛られ、お金を握ってきたのであれば悔い改め、自分は天に属する者であることをわきまえ知らなければなりません。
さらに私たちは、「自分自身を握り、自分の人生を握り、自分が主役になりすぎていないか?」と問われました。そうであれば、神がおっしゃっていることや、導こうとされている道が分からなくなります。その姿はまるで顕微鏡の穴をのぞき込んでいる者のようだと牧師を通して語られました。顕微鏡で必死に物事や人を見て、あぁでもない、こうでもないと思い悩み、神が見えない、神の声が聞こえない、願いがきかれないと言ってるが、実際は神が支配されている場所で、平安の中で顕微鏡をのぞいているではないかと語られました。自分は何者なのか、どこを見ているのか、何と戦っているのか、視野を狭くしないで、もっと第3の天から物事を見聞きして、天に属する者としての生き方をまっとうしなければなりません。そして、自分がやりたいことではなく、神がさせたいことを求め、それに従って生きるなら、思いをはるかに越えた道が用意され、実をならしていくことができるのだと、今週も姉妹たちの証を通して様々な角度から語られました。
自分のやりたいことをさせてくれるのが神の愛だと思い、ご利益宗教になっていくと、自分の祈りがきかれないことに不満を抱き、我慢して神の言に従うだけの歩きになります。私の祈りを叶えて!が強くなると、神が「これをしてごらん!これをあげるよ!」とおっしゃった時に、「それはしたくない!それはいらない!」と反発します。「神は全然私の気持を分かっていない、信頼できない」と言い出します。また、第3の天から見たら、信仰で一歩踏み出した時に現状は変わるのに、なかなかそれができずに立ち止まり、逆に「どうせやっても上手くいかないから・・・」と自分の意見を言って、せっかくのチャンスを逃していることもあるのですが、自分の人生を握りすぎるとそれが分からないのです。
神は愛であり、光であり、善であり、捕まえてでも私たちを祝福したいと思って下さっている方です。私たちは神の作品であって、一人として全く同じ人間はいません。指紋がそれをはっきりと証明しています。それほど、神は一人一人を精巧に母の胎で組み立てられ、生まれる前からどんな人生を歩むことが最善であるかを御存知の上で、この世に誕生させて下さっているのです。その神が下さるものに、悪いものがあるでしょうか。髪の毛の数までご存知の神、心を探り、思いを試みる神に、分からないことがあるでしょうか。陶器師である神に向かって、「なぜ私をこのように造ったのか」「なぜこの道を歩ませるのか」と言い続けることは罪です。神に文句を言うのではなく、自分が神の御心を知った者として神が望む者に生まれ変わり、御心に従った人生を歩むことが求められているのだと語られました。神に示された時に、「私には無理、どうせやっても無駄」と後ろ向きになるのは不信仰、「やってみよう!」と一歩踏み出すのが信仰です。そこには思いもよらぬ出会いが待っているかもしれません。福音のチャンスがあるかもしれません。大切な人を救いに導くことができるかもしれません。神の愛を知り、信仰で一歩踏み出し、神の御心に忠実に従ってきた姉妹たちは、この春に志望校合格や昇進を手に入れ、家族の魂の救い、親子の信頼回復を勝ち取り、叩き続けてきた祝福の門が開いていきました。一人一人の訓練は当座は喜ばしいものではなかったでしょうが、霊が一番喜ぶものが与えられたと思います。そして、先週語られた通り、神に従うことは修行僧になって肉の楽しみを我慢したり、奪われることではありません。神は私たちの心の願いを御存じで、いつも最善のもの、握ってきた以上のものを与えて下さいます。この道で良かった!と必ず思える日が来るように、秩序正しく平安の内に導いて下さる神なのです。証を通して、希望は失望に終わらないことを再確認し、聞いていた皆の霊も喜びに満たされました。
へブル11:6
信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。
ローマ5:5
そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。
アーメン。
お金と、見える状況に翻弄されながら自分の肉の欲を満たす生き方はもう終わりです。私たちは神の子であり、天に属する者であることを忘れてはなりません。一つの時代の終わりを知らせるラッパの響きと共に、皆が眠りから覚め、新しく生まれ変わる時が来ています。この肉の時代から霊の時代への大変革の今について、私たちはコリント人への第一の手紙15章を通して霊的に語られました。
第1コリント15:42~58
死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。
兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。
「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。
アーメン。
そして、続くコリント人への第一の手紙16章の初めには、お金への清さ・お金からの解放が書かれていること、さらにクリスチャン同士の働きについてもパウロが教えてくれているので確認していきました。
第1コリント16章
聖徒たちへの献金については、わたしはガラテヤの諸教会に命じておいたが、あなたがたもそのとおりにしなさい。一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、わたしが着いた時になって初めて集めることのないようにしなさい。わたしが到着したら、あなたがたが選んだ人々に手紙をつけ、あなたがたの贈り物を持たせて、エルサレムに送り出すことにしよう。もしわたしも行く方がよければ、一緒に行くことになろう。わたしは、マケドニヤを通過してから、あなたがたのところに行くことになろう。マケドニヤは通過するだけだが、あなたがたの所では、たぶん滞在するようになり、あるいは冬を過ごすかも知れない。そうなれば、わたしがどこへゆくにしても、あなたがたに送ってもらえるだろう。わたしは今、あなたがたに旅のついでに会うことは好まない。もし主のお許しがあれば、しばらくあなたがたの所に滞在したいと望んでいる。しかし五旬節までは、エペソに滞在するつもりだ。というのは、有力な働きの門がわたしのために大きく開かれているし、また敵対する者も多いからである。
もしテモテが着いたら、あなたがたの所で不安なしに過ごせるようにしてあげてほしい。彼はわたしと同様に、主のご用にあたっているのだから。だれも彼を軽んじてはいけない。そして、わたしの所に来るように、どうか彼を安らかに送り出してほしい。わたしは彼が兄弟たちと一緒に来るのを待っている。兄弟アポロについては、兄弟たちと一緒にあなたがたの所に行くように、たびたび勧めてみた。しかし彼には、今行く意志は、全くない。適当な機会があれば、行くだろう。
目をさましていなさい。信仰に立ちなさい。男らしく(=イエス様らしく!)、強くあってほしい。いっさいのことを、愛をもって行いなさい。
兄弟たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたが知っているように、ステパナの家はアカヤの初穂であって、彼らは身をもって聖徒に奉仕してくれた。どうか、このような人々と、またすべて彼らと共に働き共に労する人々とに、従ってほしい。わたしは、ステパナとポルトナトとアカイコとがきてくれたのを喜んでいる。彼らはあなたがたの足りない所を満たし、わたしの心とあなたがたの心とを、安らかにしてくれた。こうした人々は、重んじなければならない。
アジヤの諸教会から、あなたがたによろしく。アクラとプリスカとその家の教会から、主にあって心からよろしく。すべての兄弟たちから、よろしく。あなたがたも互に、きよい接吻をもってあいさつをかわしなさい。
ここでパウロが、手ずからあいさつをしるす。もし主を愛さない者があれば、のろわれよ。マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。わたしの愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがた一同と共にあるように。
アーメン。
パウロが【もし主のお許しがあれば、しばらくあなたがたの所に滞在したいと望んでいる。しかし五旬節までは、エペソに滞在するつもりだ。というのは、有力な働きの門がわたしのために大きく開かれているし、また敵対する者も多いからである。】と言っているように、自分の思いを優先するのではなく、「もし主のお許しがあれば」と、まず神に戻る姿勢が求められているのであり、有力な働きの門が開かれているか、敵対する者はいないか、時を見分けることが必要です。そして、自分の身をどこに置くのか、何をするのか考えることが大切であると語られました。また、目を覚まして信仰に立ち、男らしく=イエス様らしく強くなって、神・イエス様の愛をもって何事も行うことのできる器とならなければなりません。皆が真実の愛に飢え、孤独を感じている世の中だからこそ、私たちには神の愛を伝える任務があります。人にはできないが神にはできる!何事も、癒しも、神に不可能はない!と断言できるのは、神の愛と力をすでに体験しているクリスチャンだけです!
イザヤ35:3~10
あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。心おののく者に言え、「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。その時、目しいの目は開かれ、耳しいの耳はあけられる。その時、足なえは、しかのように飛び走り、おしの舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、
さばくに川が流れるからである。焼けた砂は池となり、かわいた地は水の源となり、山犬の伏したすみかは、葦、よしの茂りあう所となる。そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる。汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、愚かなる者はそこに迷い入ることはない。そこには、ししはおらず、飢えた獣も、その道にのぼることはなく、その所でこれに会うことはない。
ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む。主にあがなわれた者は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。彼らは楽しみと喜びとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。
アーメン。
パウロはコリント人への第一の手紙16章の最後に、【もし主を愛さない者があれば、のろわれよ。】(22節)と書き残していますが、イザヤ書の預言の中でも、【汚れた者はこれ(聖なる道)を通り過ぎることはできない、愚かなる者はそこに迷い入ることはない。】というように、悪に対する厳しさが書かれています。神は悪を忌み嫌われます。私たちは、ヤコブの手紙から改めて世の友となろうとしていないか、肉に属する者になっていないか吟味しました。
ヤコブ3:13~4:12
あなたがたのうちで、知恵があり物わかりのよい人は、だれであるか。その人は、知恵にかなう柔和な行いをしていることを、よい生活によって示すがよい。しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。また、真理にそむいて偽ってはならない。そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。義の実は、平和を造り出す人たちによって、平和のうちにまかれるものである。
あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。それとも、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。
兄弟たちよ。互に悪口を言い合ってはならない。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟をさばいたりする者は、律法をそしり、律法をさばくやからである。もしあなたが律法をさばくなら、律法の実行者ではなくて、その審判者なのである。しかし、立法者であり審判者であるかたは、ただひとりであって、救うことも滅ぼすこともできるのである。しかるに、隣り人をさばくあなたは、いったい、何者であるか。
アーメン。
一日の中で肉になったり霊になったり、サタンに属したり神に属したりするのではなく、完全に肉と霊が聖別されて日々神に近づき、従い、悪魔に立ち向かって歩めたことを感謝して祈ります。