“自分が神”滅びの歩きからの解放

 
 
ハレルヤ。私は救われて11年になるクリスチャンです。イエス様と出会わずに救われていなければ、今の生活は何一つありませんでした。救われて今日に至るまでイエス様からたくさんの証をいただいてきました。毎週聖書の教えを聞き、みことばを覚え、家族や友人に福音し、イエス様の導きにより姉妹達と一緒に韓国や聖書の舞台のトルコにも行きました。絵本「一つになろうよ!」の絵も描かせていただきました。ですが、11年経っても完全に180度変わることができませんでした。主にあって一瞬にして180度変わることはいくらでもできたはずですが、私が変わりたいと100%思っていなかったことをイエス様はご存知でした。その結果、神の祝福をなかなか受けることができず、呪い・滅びの刈り取りが自分の身にいくつも起こりました。(私が昨年書いた証です→金銭を愛する悪根っこの霊への勝利の証①、金銭を愛する悪根っこの霊への勝利の証②)

マタイ7:21~23
わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

クリスチャンでありながら、自分に神を畏れる思いが欠けていることには気がついていました。神を畏れない人間がどうなるかは今まで学んできたので、「神を畏れる思いを与えてください」と祈ったこともあります。イエス様は忠実にその祈りを聞いてくださり、私にわかるように教えてくださったのだと思います。そして、生まれて今に至るまで、私の奥底に固く絡まっていた悪を、牧師、兄弟姉妹が無条件の愛と無条件の許し、忍耐で一緒にほどいて光に出してくださいました。

その奥底に固く絡まっていた悪が示されたきっかけは、私の部屋の天井に巣を作った小さな蜘蛛でした。
私は2年前からぶどうの木の姉妹と一緒にルームシェアをし、週に1回牧師、兄弟姉妹との交わりの場として家を使っていただいています。ある日の交わり(その日は兄弟姉妹だけの交わりで、ハロウィンのポスティングの準備をしていました)で、姉妹が部屋の天井の角に小さな蜘蛛の巣を見つけました。手を伸ばしただけでは取れない位置でしたが、兄弟が座布団を重ねた上に乗って取ってくれました。巣の中には小さな蜘蛛がいました。実は、私は以前からその蜘蛛の巣に気がついていましたが「まぁいいか…」と取らずにいました。届かないし…椅子を持ってくるのは面倒だし…と。以前、交わりに参加した別の姉妹からも指摘をされていましたが、私はうんうんと聞いただけで、取りませんでした。それが、家(神の宮)にいる蜘蛛(悪)を知っていながら取らずに放置できてしまう怠惰、そして霊性が狂っている!きよさがない!と聖霊によって示されました。そのことと、私が祝福を受けれていないことが繋がり、私の滅びの刈り取りが次々とイエス様によって明るみに出されました。

私は以前から、職場で“神からの好意”=“祝福”をなかなか受けることができないことや、長年煩っている婦人病が癒されないことなどが、教会の交わりの際にたびたび話にあがっていました。祝福を受けることができていないときは、聖霊に逆らっていること・サタンに門を開いていることがないか、絶たれていない呪いはないか…吟味する必要があります。集会で「呪い」と「祝福」について語られ、(呪いと祝福①、呪いと祝福②)私も呪いについて聖霊によって過去を思い出さされることが多々ありました。

私の祖母と母は、私が生まれる前から25年以上ある新興宗教に入信していました。子供の頃からその新興宗教のお守りをずっと持たされていたことを覚えています。年に1回、大きな講堂のようなところで教祖の講演会が催され、母と親類のおばさんと聞きに行っていました。小学生だった私は、一部分しか覚えていませんが、聖書や仏教、神道…様々な宗教が混ざった新興宗教で、大人も子供も「私は神の子です」と復唱させられていました。祖母からもことあるごとに「あなたは神の子だから」と言われていたことを覚えています。
しかし、今から16年程前に、共にその新興宗教を信じていた親類の娘さんが自殺してしまいました。それは、私の家族にも私にも衝撃的な出来事でした。なぜ信じていてこんなことになるんだ!と…親類も私の家族もそれをきっかけにその新興宗教を辞めました。呪いと祝福が集会で語られてから、その新興宗教について忘れていた些細なことも思い出され、共にその宗教に関わっていた人たちの名前も挙げて、悔い改めて十字架の血を注ぎ祈りました。

自身の家のことで、もう一点気になることがありました。
昨年、私の実家にウサギと猫がやってきました。ウサギは、姉が勤務先で世話しているウサギで、週末の間だけ世話をするために家につれて来るようになりました。猫は、近所の飼い猫が毎日遊びにくるようになり、猫好きの祖母が餌をあげたり可愛がり、まるで我が家のアイドル(偶像)のようになっていました。
以前、ぶどうの木の中でウサギと猫の霊的な解き明かしで「主にあって、一度確信したことを握りしめ前にしか進まないウサギと、情欲でふらふら気ままに行動する猫」と語られたことがあったので、実家のウサギと猫が気になっていました。義理人情を頭とさせるイゼベルの霊?仏教の霊?3~4代の呪い祟りの霊?など考えていましたが、その話を牧師に話したところ「あなたは、うさぎのように耳を立ててイエス様の教えは良く聞いているけれど、猫で現されるあなたの感情が邪魔をしています!」と語られました。実家のことだと思っていたので、私のことが示されていたのか!?と驚きました。そこから、みことばではなく自分の頭で考えて行動し、言葉を口から出していると語られました。

その後の集会で、木は実で判断することが語られ、良い木と悪い木について語られました。集会中の話を聞く程、神がおっしゃる悪い木が自分に当てはまりました。そしてその日は、2人の姉妹がイエス様に意志を向け、奇跡の祝福を受けた証をしました。その証の後、私が語る時間が与えられました。ですが、はっきり良い実を結んでいるとか、何か変化があったとか、そういったことが実だと決めつけていた私は、そのように報告できる実がない!証がない!良い実を結んだ彼女達は良い木…では、これから皆の前で話す私は?悪い木?…まるで私は悪い木の見本ではないか!?そんな自分が何を話したら良いのか?と頭で考えわからなくなり、自身が受けた呪いを中心に話をしました。(後で、私は素直に正直にサタンの策略を話し、その悪に気づかせていただいたと喜んで話せばよかったと語られました。)
もちろん3~4代の呪い祟りが様々な問題の原因になることはあります。ですが、イエス様は死にも勝利され、全てに打ち勝つ権威を私達に与えてくださっているのですから、意志一つで呪いは一瞬で足の下にすることができます。ですが、私がまだ呪いに留まっているような話し方をしたので、「呪いのせいにし続けていないか?それでは今までと何も変わらない。」と戒めを受けました。今!あなた自身は主の御前でどうなのか?と。
そして、集会の終わりに牧師から「あなたに一言言っておきます。神を畏れなさい!」と警告を受けました。クリスチャンとして牧師(=イエス様の代弁者)からそのように言われることは本当に恐ろしいことです。神を畏れることは、みことばを通してもずっとイエス様から言われていました。

ルカ12:4~5
そこでわたしの友であるあなたがたに言うが、からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。 恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。

ですが、神を畏れる思いよりも、救われて11年経つ自分が兄弟姉妹の前でそのような警告を受けていることが恥ずかしく、情けないという思いと、変に開き直り「そういわれると思った!」「どうせ私は悪い木だから」と意図的に受け入れないようにしました。私に言われていることですが、ただ私の肉体が言われていることで、心(魂)=頭では私のことではないと他人事のように斜から見ている自分がいました。私であって私でない第二の自分(サタン)が頭の中で解説をしていました。あとで牧師から「クリスチャンであるならば『神を畏れなさい』などと言われたら、居てもたってもいられず直ぐに悔い改めに牧師の元に来るはず!でも、あなたは来なかった。」と言われました。私はその時、警告を受けて恐れ、暗い顔をしていたら馬鹿みたいだと、なるべく言われたことを考えないようにして意図的に飄々と振る舞って帰りました。後にその姿は、兄弟姉妹から見たら滑稽であったと語られました。しかし、私にはそれがわかりませんでした。

実際、私は神を畏れていませんでしたし、すぐに悔い改めることなど微塵も考えていませんでした。どのように「今の自分の体裁を守るか、守れるか」を考えていました。なぜなら、私が聞き従っていたのは、神ではなく“自分”だったからです。私の中の一番は自分自身の意見・考え方・基準、それが一番大切で、正当化させたいことだったので、神に対する畏れはありませんでした。
さらにその日、私はサイズの合わない靴を履いていて歩き方がおかしいと姉妹に指摘されました。確かに少し大きく、歩いている時に脱げそうになってしまう靴でした。靴は福音のシューズと語られてきました、イエス様と共に歩くための靴です。ですが、身の丈に合わないブカブカな靴を履いて歩きにくそうにしている私の姿は、プライドや高ぶりで自分を良く見せたいという神のいない歩きでした。
恥ずかしく、情けなく、やるせないことを頭でいくら現実を逃避しても、物事は微塵も変わりません。むしろ、泥沼にはまるようにますます暗転していきます。ふと現実を頭で考えた時、救われて初めて「もう日曜集会には行きたくない!」「もうダメだ!(心が耐えられない)死んでしまいたい!」という肉の思いに支配されました。救われる前は自殺の霊や自己憐憫の塊のような人間でしたが、救われてからそのように思ったことは初めてでした。
集会後に気持ちを紛らわすために買い物に出かけましたが、買い物が終わるとどうしようもない思いに引き戻され、サタンに誘われ一人でドライブに出かけました。実際には、浜松市から隣県の愛知県豊橋市まで行き、最終的に古い自分が好きでよく行っていた御前崎市まで計200km程運転しました。自殺の霊に導かれて行った御前崎の海は、10年程前から好きな場所で、よく好きだった流木を拾いに出かけていました。救われる前は骨や流木が好きで、救われてからも拾ってきた流木を部屋においていましたが、家を訪れた姉妹が古い私が残っていることを流木を通して指摘してくれたことがありました。肉は嘆きや裁きの思いで混乱し古い自分が好きだった場所に誘われていましたが、私の霊は賛美のCDをかけ、集会でも語られていた賛美を泣きながら歌っていました。

♪『あなたの魂がいつも恵まれているように 全てのことに恵まれ すこやかであるように』

第3ヨハネ2
愛する者よ。あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。

聖霊の助けによって賛美をし立ち上がろうする霊と、もう無理だから死んだ方がいいと肉にささやくサタンが対立し、はっきりと2つの思いが自分の内にあることがわかりました。サタンが私を殺そうと入れてきた思いは、「もう無理!私には死んで地獄に行って後悔することが似合っている。きっと私は神から出たものではないんだ。私は、弟子としてイエス様とともに働き最後に裏切ったユダではないか」など、呪いの道を選んで滅びる自分の姿を想像させる思いの数々でした。以前から祝福を受ける自分の姿は想像ができないのに、滅びを刈り取る自分の姿は安易に想像ができました。
実際に入水しようと海まで行きました。夜の海は黒く、ただ満月で照らされ打ち寄せる白波ははっきりと見ることができ、リアルにこの先は地獄なのだとわかりました。生きるか死ぬかを目の前にしたとき「イエス様、私はどうしたらよいのかわかりません!」と泣きながら祈っている自分がいました。そして、もし私が自殺したら…今まで福音してきた人たちの大きなつまずきになり、彼らは二度とイエス様の元に来なくなってしまうという思いがわき上がりました。私の家族も、昔の新興宗教(偽の神)のように「信じていたのになぜ?」と本当の神を疑い、真理から離れてしまったでしょう。ぶどうの木にもカルトのレッテルが貼られてしまう…サタンにそんな使われ方をされてよいのか!?と聖霊が私をノックしました。そして内側から賛美が流れました。

♪『天で私が目覚める時 イエス様と顔を合わせて 喜びに満ちあふれ アーメン ハレルヤ』

詩篇17:15
しかしわたしは義にあって、み顔を見、目ざめる時、みかたちを見て、満ち足りるでしょう。

以前集会で歌った際に、天国でイエス様とお会いすることを喜ぶクリスチャンのとても可愛らしい賛美だと紹介されていました。死を考えていた肉とは、真反対の明るい賛美だったので驚きました。その賛美が内側から流れてきた時、『私も天国でイエス様と顔を合わせることができるってこと?』と神の愛に触れました。後で、その時に聖霊に忠実に祈っていた神の家族の異言の祈りがあったのだと知りました。
そしてそこから、なんで私は自分は呪いの道を選ぶ人間だとか、地獄が似合うとか、自分はユダだとか思っているの?誰もそんなことは言ってないし、こうなったらどうしよう!と何を思い煩っているのか?何の声を聞いているのか?と、私だと思ってきたコレは誰?今までにはなかった疑問がわきました。そして、それらのサタンが入れてきた思いは、以前からずっと語られてきた「占いの霊」(英語ではファミリアスピリット=救われる前の自分が慣れ親しんできた霊)だと気づかされました。これは本当の私ではない!そう思わされているのだとはっきりとわかりました。(サタンの奴隷にさせる占いの霊)
その後、牧師、兄弟姉妹と交わる時間をイエス様が与えてくださいました。そこで、占いだけにとどまらない私の内に残り続けていた悪について語られました。私が11年前に救われてから半年ほどたった時に、牧師を通して示されていたみことばが再び牧師を通して語られました。

サムエル記上15:22~23
サムエルは言った、「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。

「そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しい」「あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」強情で自分が神であり、主のことばに聞き従えなかった私に対し、全てをご存知の神はずっと警告されていました。そして、滅びの刈り取りの数々は、私が主のことばを捨てたからだと語られました。それは、右手に聖書を持ち、左手で自分の決めたルール本を持ち、みことばよりもそのルール本に従って来たことを表していました。

実際に、私は神のことばを捨て、自分のルール本に従ったためいくつもの刈り取りをしていました。
初めて首に湿疹ができました。(自分のルール本に従い、神に対して言い逆らってブツブツ文句を言ったから)首の湿疹は、数ヶ月前に韓国製の化粧品を使ったことがきっかけでした。聖霊は「韓国」というところから、私が以前韓国旅行の時に自分の内にあった自己愛、そして高ぶりによって『己の力を神となす!』と、自分が神であったことを韓国旅行で韓国の霊力を通して語られたことがありました。そして、その韓国製の化粧品によって湿疹というところから、韓国旅行をとおして語られた「自分のルール本に従うこと=自分が神になっている」ところに戻されていると語られました。
足の指にウイルス性のいぼもできました。(左足の中指=お兄さん指にできたいぼは、私が裁き続けてきた会社の社長だと解き明かしてもらいました)昼食でカップラーメンを食べようとして足の上にこぼし、火傷を負いました。すぐに病院に行きましたが、広範囲で真っ赤になり水ぶくれになりました。何でもできる神だから跡が残らずキレイに消えることだって有り得る!と祈ったりもしましたが治るにつれ、だんだん跡がハッキリしてきました。もちろん、罪を隠しているのでそんな祈りが聞かれる訳がありません。ああ、言い逆らっているからどうせキレイには消えないんだ…と思いました。そして、だんだんその火傷の跡がヤギのように見えるようになり、火傷をして痛かっただけでなく「お前は羊ではなくヤギだ」と地獄の刻印を押されたのだと思いました。クリスチャンは、牧者に率いられ皆で群れとなって身を守っていく“羊”と聖書にはありますが、ヤギは群れをなさず単独で好き勝手飛び回る動物というところから、“サタンに従い動く不忠実な者”として語られてきました。痛いし、ホクロ以外何もなかった足に大きな跡が残り女性として切ない思いもありました。後に、地獄の業火がその何千倍も何万倍も痛く苦しいものであることを身をもって知るためでもあったと語られました。「牧師に報告しないと!」と思いましたが、どうせ刈り取ったと戒めを受けるだろうと占い、牧師を裁きました。霊の監督者である牧師を微塵でも裁いたら、何も見えなくなる!サタンに独りにさせられ滅ぼされる!と語られてきた通り、霊的なことは何も見えなくなり、ただカップラーメンのお湯をこぼしたなんて恥ずかしい…戒められる…と誰にも言いませんでした。火傷の跡からもまさに羊が“独り”=“ヤギ”にされ、滅ぼされるところだったと語られました。

申命記28:27~30
主はエジプトの腫物と潰瘍と壊血病とひぜんとをもってあなたを撃たれ、あなたはいやされることはないであろう。また主はあなたを撃って気を狂わせ、目を見えなくし、心を混乱させられるであろう。あなたは盲人が暗やみに手探りするように、真昼にも手探りするであろう。あなたは行く道で栄えることがなく、ただ常にしえたげられ、かすめられるだけで、あなたを救う者はないであろう。あなたは妻をめとっても、ほかの人が彼女と寝るであろう。家を建てても、その中に住まないであろう。ぶどう畑を作っても、その実を摘み取ることがないであろう。

申命記28:35
主はあなたのひざと、はぎとに悪い、いやし得ない腫物を生じさせて、足の裏から頭の頂にまで及ぼされるであろう。

申命記28:58~60
もしあなたが、この書物にしるされているこの律法のすべての言葉を守り行わず、あなたの神、主というこの栄えある恐るべき名を恐れないならば、主はあなたとその子孫の上に激しい災を下されるであろう。その災はきびしく、かつ久しく、その病気は重く、かつ久しいであろう。主はまた、あなたが恐れた病気、すなわちエジプトのもろもろの病気を再び臨ませて、あなたの身につかせられるであろう。

私はここ半年の内に自分の身に起こった刈り取りは、明らかに滅びを刈り取ったとわかっていて、それを明るみに出したらどうせ戒めを受ける、こう言われるだろうと占い、そして恥ずかしいという思いが先行しました。「戒めを受けるだろう」「どうせこう言われるだろう」というのは、神が遣わした牧師、兄弟姉妹を裁いていることになります。死にたいと思った時も、「占いの霊=救われる前の自分が慣れ親しんできた霊」だと気がついた時も、裁いているので霊の監督者である牧師にも共に住む姉妹にも言いませんでした。ここまで、教えを聞いてきて自殺がサタンから来るものだと知りながら自殺を考えるなんて馬鹿みたい!占いの霊もずっと語られてきたこと、それを「また占いの霊でした!」と言うのか?と頭でグルグルと考えました。

箴言28:13~14
その罪を隠す者は栄えることがない、言い表わしてこれを離れる者は、あわれみをうける。常に主を恐れる人はさいわいである、心をかたくなにする者は災に陥る。

今までもこのみことばが語られ、“言葉にして言い表せない自分”を悔い改めてきました。言わなくてはいけないことを言わない、黙ってしまう、それを良しとしていたのは私の内の奥底で開けずにきたマンホール…極度のプライド、高ぶり、怠惰(蜘蛛の巣)でした。むしろ、光に出すどころか開けられないように、闇側に立ち隠してきました。それが私という人間を作ってきたものだと思っていたからです。

エレミヤ17:9~10
心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。

集会でも、ずっと語られてきたみことばで、もちろん知っているみことばです。ですが、それに素直にアーメンすることができず、サタンの支配下で培われてきた古い『自分の心』を何よりも大切にしてきました。では、それは良きものだったのか?いいえ、良きものなど何もありませんでした。
むしろ、クリスチャンとしてはもちろん、人としてもいらないものでした。「怒り」や「裁き」、救われる前の感性や感覚など…。聖書には、糞土と語られていますが、それを糞土のようなものだと心底忌み嫌うことができませんでした。それが「私という人間そのもの」であり、それをとってしまったら何も残らない、私が私ではなくなってしまうことを恐れていたからでした。自分が神であることは、高ぶり、そして究極の自己愛で行き着く先は自己憐憫→自殺です。(自己愛については初めて行った韓国旅行でも語られていました。仏教とは?~初韓国旅行をとおして~その1、仏教とは?~初韓国旅行をとおして~その2)

ピリピ3:7~9
しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。

クリスチャンにみことば以外の基準があってはいけませんが、私には『自分の心』=自分のルール本の判断基準を捨てることができませんでした。私の内には、幼い頃から持つ理想の自分像がありました。それは聖書でいう『自分偶像礼拝』であり『自分が神』なのですが。いつもその自分像が判断基準となり、自分への祝福はこうだと決めたり、その基準から外れると「自分は全然ダメだ」と自己憐憫になりました。自分のルール本に他者の言動を照らし合わせて、「この人は尊敬できる、できない」「この人とは合う、合わない」「この人からの話は聞きたくない!」「できていない部分を指摘されたくない」と審判者となることを繰り返してきました。

以前、自身が思い描いていたこととは違うことが起こった時「希望は失望に終わった…」とみことばを勝手に換えてイエス様に言い逆らったことがありました。本当は『そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。』(ローマ5:5)です。人知では計り知れない神のやり方、生まれる前から定められている神のご計画があり、神は愛!私達一人一人を捕まえてでも祝福したいと思ってくださっている方…ですが、私の中では自分の理想がかなわなかった時「与える神」ではなく「奪う神」でした。自分への祝福を自分で決めることはとても愚かなことです。神が用意してくださっている祝福を蹴って、わざわざ悩み、自己憐憫になることを選んでいるのですから。

自分の希望どおりでなかった時に「奪う神」と即決するのも高ぶりだと語られました。
信仰で喜んで聞き従っていったとき、人知では到底計り知ることのできない神のご計画と爆発的な聖霊の喜びがそこにあるということを恵みとして捉えていませんでした。髪の毛の数まで知っていて誰よりも自分を愛している神が、与えてくださった!と、信仰で喜ぶところに新たな道(聖霊の導き)が開かれ、恵みや召しと選びが成就していくことよりも、自分の希望が叶わないことの方が大きいこと…まさに自分偶像礼拝でした。信仰がなければ、信じ喜ぶことはできません。神のやり方を信じず、自分の義で行動してきた私は「己が神」であり、そのままだったら、地獄に行ってやっと自分の愚かさに気づいていたでしょう。

自分の理想『自分偶像礼拝』『自分のルール本』…これが私の祝福だと思い込むことで、それが起こらないと悲しみと怒りで私の肉は一杯になりイエス様が一切見えなくなりました。聖霊の声より自分の判断が優先になります。私は、その『自分偶像礼拝』『自分のルール本』を忌み嫌うことができず、ずっと持ち続けてきてしまいました。なので、私の内側の奥底は救われて尚全く変わらず、ずっとみことばを愛し聞き従う『神(天なる父)の子』=キリストの花嫁ではなく、自分のルール本に従い神に言い逆らう『この世の神(サタン)の子』=サタンの花嫁でした。悪なのにそれを持ち続けることができたのは、サタンと一体になっていた証拠です。しかも、神を恐れていないので、自分でわかるくらいふてぶてしかったです。(一つの呪いとして、昔入信していた新興宗教で「私は神の子」と唱えていたこと…そのまま『サタンの子』となってしまっていたと語られました。)神をあざけって己が神となった先には、滅びの刈り取りから刈り取りが続きます。サタンに麻痺させられ、恐れはないかもしれません。ですが、滅びは確実に訪れます。

箴言30:11~20
世には父をのろったり、母を祝福しない者がある。世には自分の目にみずからを清い者として、なおその汚れを洗われないものがある。世にはまた、このような人がある――ああ、その目のいかに高きことよ、またそのまぶたのいかにつりあがっていることよ。世にはまたつるぎのような歯をもち、刀のようなきばをもって、貧しい者を地の上から、乏しい者を人の中から食い滅ぼすものがある。
蛭にふたりの娘があって、「与えよ、与えよ」という。飽くことを知らないものが三つある、いや、四つあって、皆「もう、たくさんです」と言わない。すなわち陰府、不妊の胎、水にかわく地、「もう、たくさんだ」といわない火がそれである。自分の父をあざけり、母に従うのを卑しいこととする目は、谷のからすがこれをつつき出し、はげたかがこれを食べる。わたしにとって不思議にたえないことが三つある、いや、四つあって、わたしには悟ることができない。すなわち空を飛ぶはげたかの道、岩の上を這うへびの道、海をはしる舟の道、男の女にあう道がそれである。遊女の道もまたそうだ、彼女は食べて、その口をぬぐって、「わたしは何もわるいことはしない」と言う。

そして、このタイミングで、私が以前勤めていた会社で携わっていた仕事が聖霊によって取り上げられました。
先に記したように、私は会社でも祝福を受けることができずに来ました。以前勤めていた会社は、1年半程前に辞めたのですが、それまで7年半勤めていました。入社して1年程経った頃、市役所が地元の観光名所となっている神社の伝説をモチーフにしたキャラクターをつくりました。最初にそのキャラクターを見た時に、確かに神社っぽさは感じました。
少しずつ少しずつそのキャラクターの仕事の依頼が来るようになりました。最初は関わってはいませんでしたが、携わっていた先輩が会社を辞めたことで、徐々に私にそのキャラクターの仕事が入ってくるようになりました。最初に感じた「神社っぽさ」は私の中で薄れ、そのキャラクターが仕事をする上で当たり前の存在になっていきました。そこから6年間程、そのキャラクターグッズの企画・作成を担当することとなり、私ともう一人の同僚(ノンクリスチャン)が中心となり、そのキャラクターグッズを数多くつくるようになっていきました。それは評判になり、会社の看板商品として新作を待ち望む多くのファンができました。
会社ではプロジェクトチームが作られ、中心メンバーになりました。他の仕事では、自分が良いと思ってつくっても上司の指示のもと納得がいかない変更をすることになったり、上司の許可が下りず思うように仕事を進めることができませんでした。(そういったことで上司を裁いてもいました)ですが、上司が携わっていなかったそのキャラクターの仕事は、自分の思うように作ることができ、それが売れ、評価され…と、その仕事が楽しくなっていきました。
教会の幼い姉妹達の誕生日プレゼントで自分が作ったそのキャラクターのグッズをプレゼントしたこともあり、その時は、その仕事については誰からも何も言われませんでした。ですが、蜘蛛の巣の件で戒めを受けたタイミングで「あのキャラクターは神道系ではなかったか。」「神社の伝説(オカルト)がモチーフのキャラクターだよね…そうとわかりながら携わっていたのか。」と話題にあがりました。それを言われた時は、「なぜ会社を辞めて1年以上経つのに今それを言われるのか、しかも実際に作っていた6年もの間は何も言われなかったのに…それを今になって、クリスチャンとしてなぜそれができてしまったのか?イエス様からではないものを多くの人に広めたでしょう!と言われても…だったらその6年間の内にもっと早く言ってくれれば良かったのに、今更どうすればいいの!?」と牧師、兄弟姉妹を裁きました。

確かに、私は神社の伝説からできたキャラクターだと知っていました。ですが、私に与えられた仕事、ただのキャラクターだから…とその仕事をしていました。いつからか人気が出てきたことで、その仕事への誇りや自信が生まれ、それが神から来ていないキャラクターだという意識はどんどん薄れてなくなりました。
牧師からは、周りの人たちがサタンに使われ、それが自分の誇りだと思うように悪霊が賞賛してきたのだとも語られました。そして、神道に関わることをすんなり受け入れることができた私の霊性が、どうだったのか問われました。クリスチャンとしてイエス様の前に置き、祈ることもできました。会社の中でこれは違うと声をあげることもできました。この世と妥協してそれを受け入れてしまったところから、私は滅びの道を歩いていました。
ですが、神のなさることは全て繋がり、全てに意味があります。牧師は、1つの事柄や物事を断片的に見て判断はしません。仏教(宗教・カルト)に支配されたこの世で仕事をしていく上で、職種によってはそれらと関わることは少なからず出てきます。神が見られるのは、その時のクリスチャンの心だと語られ、私がそのキャラクターの仕事に携わった時の心はどこにあったかと問われました。
霊性がきよく保たれていれば、少しでもイエス様からでないものが入ってこようとしたとき、それを忌み嫌い戦い祈ることができます。
十字架の血を注ぎ、その仕事がこれから真理を知る人たちをつまづかせないようにとイエス様に祈って戦うのか、自分の地位名誉・体裁を守るためにそのまま受け入れてそれをやるのか…私が部屋に巣を作った蜘蛛をほったらかしにする霊性であることが明らかになった時、聖霊が牧師にそのキャラクターの仕事のことを思い出させ、私の内側がどうであったか、影響を与える側ではなくそのキャラクターの霊力に影響される側になって、その霊力を他者にばらまき、祝福をのがしていたのではないかと話してくださいました。キリストの思いに満たされ、チンチンの熱いストーブとしてその場にいれば、聖霊が働いてくださり害虫(悪霊)は寄りつけず、必ず周りが変わっていきます。ですが、中途半端な状態だと祝福を受けれないどころかサタンの策略に翻弄され、滅びの道を歩むことになってしまいます。私はその後者でした。
物事が光りに出されることには神のタイミングがあり、私の全てをご存知のイエス様が牧師をつかって、私が自分の悪を認識するための蜘蛛の巣の一件から解き明かしてくださいました。この世と妥協してキャラクターの仕事をしていたことも、その仕事をしている時でも会社を辞めた時でもなく、自分が滅びの道を歩いていることに気づかせていただいた今のタイミングで、神が光を当ててくださったのだとわかりました。

伝道の書3:11
神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。

そして、みことばをいただきました。私のこれまでの歩きそのものと、それに対するイエス様の無条件の愛がそのままみことばを通して語られました。

ホセア11章(前半)
わたしはイスラエルの幼い時、これを愛した。わたしはわが子をエジプトから呼び出した。
【古いところ=サタンの支配下であるこの世から救い出されました】
わたしが呼ばわるにしたがって、彼らはいよいよわたしから遠ざかり、もろもろのバアルに犠牲をささげ、刻んだ像に香をたいた。
【イエス様は多くの愛を注いでくださったのに、私はプライド・自分の価値観を頭とし、偽りの神=サタンに従いみことばから離れました】
わたしはエフライムに歩むことを教え、彼らをわたしの腕にいだいた。しかし彼らはわたしにいやされた事を知らなかった。
【霊性が狂い、善にも悪にも鈍感でした】
わたしはあわれみの綱、すなわち愛のひもで彼らを導いた。
【牧師、兄弟姉妹を与えてくださっていました】
わたしは彼らに対しては、あごから、くびきをはずす者のようになり、かがんで彼らに食物を与えた。
【イエス様はもちろん、牧師や兄弟姉妹の愛と忍耐で、私にわかるように、その都度、戒め、励まし、導いてくださいました】
彼らはエジプトの地に帰り、アッスリヤびとが彼らの王となる。彼らがわたしに帰ることを拒んだからである。
【私は主の元ではなく古いところに戻り、サタンを頭にしました】
つるぎは、そのもろもろの町にあれ狂い、その門の貫の木を砕き、その城の中に彼らを滅ぼす。
【呪いの道を歩み、次から次へと悪いものを刈り取りました】
わが民はわたしからそむき去ろうとしている。それゆえ、彼らはくびきをかけられ、これを除きうる者はひとりもいない。
【人(自分)では何も解決できず、変わらずにいることで7倍悪くなりました。】

みことばの前半は、まさにここまでの私の歩みでした。

ホセア11章(後半)
エフライムよ、どうして、あなたを捨てることができようか。イスラエルよ、どうしてあなたを渡すことができようか。どうしてあなたをアデマのようにすることができようか。どうしてあなたをゼボイムのように扱うことができようか。わたしの心は、わたしのうちに変り、わたしのあわれみは、ことごとくもえ起っている。わたしはわたしの激しい怒りをあらわさない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたのうちにいる聖なる者だからである。わたしは滅ぼすために臨むことをしない。彼らは主に従って歩む。主はししのほえるように声を出される。主が声を出されると、子らはおののきつつ西から来る。彼らはエジプトから鳥のように、アッスリヤの地から、はとのように急いで来る。わたしは彼らをその家に帰らせると主は言われる。エフライムは偽りをもって、わたしを囲み、イスラエルの家は欺きをもって、わたしを囲んだ。しかしユダはなお神に知られ、聖なる者に向かって真実である。
【悔い改めることで、再び神からの好意を得られるという神の計り知れない愛が語られ、感謝し感動しました。】

後半は、神から離れた私を無条件で愛して、あわれみで再び「守りの中に入りなさい」とおっしゃってくださっているのだと感謝しました。

さらに後日、集会でホセア11章の前半と後半の間には、ヨブ記33:23~28のとりなしの祈りがあったのだと牧師を通して解き明かされました。

ヨブ記33:23~28
もしそこに彼のためにひとりの天使があり、千のうちのひとりであって、仲保となり、人にその正しい道を示すならば、神は彼をあわれんで言われる、『彼を救って、墓に下ることを免れさせよ、わたしはすでにあがないしろを得た。彼の肉を幼な子の肉よりもみずみずしくならせ、彼を若い時の元気に帰らせよ』と。その時、彼が神に祈るならば、神は彼を顧み、喜びをもって、み前にいたらせ、その救を人に告げ知らせられる。彼は人々の前に歌って言う、『わたしは罪を犯し、正しい事を曲げた。しかしわたしに報復がなかった。彼はわたしの魂をあがなって、墓に下らせられなかった。わたしの命は光を見ることができる』と。~
【私には私のためにとりなしてくださった牧師、兄弟姉妹がいました。神の家族のとりなしの祈りによって、死と直面した時、私自身も神に祈ることができました。そして、神がかえりみてくださり報復されませんでした。】

イエス様は、とてもわかりやすく私に語ってくださり、さらに知識の言葉として聖霊が『You are my sunshine.』と語ってくださいました。
その言葉が内側から語られた時、「イエス様が私の太陽。太陽をいつも仰ぎ見ているひまわりのようになりなさい」と語られたと思いました。そして180度変わらなくてはと思い、救われる前から変わっていないことを考えた結果、「映画を見ることが趣味だと言っていることが変わっていない…180度変わるために映画を見ないようにしよう。」と考えました。ですが、趣味を変えようと肉で努力をすることは宗教!太陽とひまわりの解釈も違う!と牧師が教えてくださいました。努力で人間が180度真逆の人間になることは不可能ですし、一つのことを努力して変えたとしても自分自身も、現状も何一つ変わりません。聖書には、霊→魂→体の順番に主にあって変えられていくことが書かれています。霊にみことばを蓄え、“変わりたい!”とイエス様に意志を向けて日々感謝して祈り、喜んで生きていたら、自ずと価値観、判断基準、趣味嗜好、性格、周りの環境など全てが変えられていく…それが聖霊の力です。太陽を信仰の対象としてただ見ているだけなら、宗教の教祖を拝んでいることと変わりません。信仰の対象として太陽を見ているひまわりでは、いつまでたってもひまわりのままで変わることはありません。聖書は、主にあって180度変わりなさいと言っていますが、宗教はあなたはあなたのままでいいと言います。つまり、自分という人間の感情や考え方、判断基準などをしっかりと持ったまま神を仰ぎ見ようとしても、それでは何も変わらない力ない宗教と同じなのだと語られました。

【わたしは神であって、人ではなく、あなたのうちにいる聖なる者だからである。】(ホセア11:9)救いの告白の時にイエス様に私の内に入ってくださいと祈ったとおり、イエス様は私の内におられるということが真理です。イエス様は前後にいる訳でも、隣にいる訳でもありません。イエス様は私の内におられ輝いています。だから「イエス様が『あなたは私の太陽だ』とおっしゃってくださっている」と牧師が教えてくださいました。これまで、サタンの花嫁であった私は、みことばを自分の命より愛することができませんでした…イエス様を愛してこなかった私であったにも関わらず、あなたは私の太陽だと言ってくださるイエス様の愛にただただ感謝しました。
そして、今まで、私の内側を占めていたサタン(怠惰、プライド、高ぶり、占い、裁き)と一体になった古き自分の思いを一つずつ言い表していった時、今まで素直に受け入れることのできなかったみことばが、意味深く、自分のために語られているということが良くわかりました。そして、イエス様が自分の内におられるということも、たった一人の私として愛してくださっていることも。

エペソ4:22~24
すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。

エゼキエル36:25~26
わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。

箴言1:2~19
これは人に知恵と教訓とを知らせ、悟りの言葉をさとらせ、賢い行いと、正義と公正と公平の教訓をうけさせ、思慮のない者に悟りを与え、若い者に知識と慎みを得させるためである。賢い者はこれを聞いて学に進み、さとい者は指導を得る。人はこれによって箴言と、たとえと、賢い者の言葉と、そのなぞとを悟る。主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。わが子よ、あなたは父の教訓を聞き、母の教を捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい冠となり、あなたの首の飾りとなるからである。わが子よ、悪者があなたを誘っても、それに従ってはならない。彼らがあなたに向かって、「一緒に来なさい。われわれは待ち伏せして、人の血を流し、罪のない者を、ゆえなく伏してねらい、陰府のように、彼らを生きたままで、のみ尽し、健やかな者を、墓に下る者のようにしよう。われわれは、さまざまの尊い貨財を得、奪い取った物で、われわれの家を満たそう。あなたもわれわれの仲間に加わりなさい、われわれは共に一つの金袋を持とう」と言っても、わが子よ、彼らの仲間になってはならない、あなたの足をとどめて、彼らの道に行ってはならない。彼らの足は悪に走り、血を流すことに速いからだ。すべて鳥の目の前で網を張るのは、むだである。彼らは自分の血を待ち伏せし、自分の命を伏してねらうのだ。すべて利をむさぼる者の道はこのようなものである。これはその持ち主の命を取り去るのだ。

ローマ6:11
このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。


2020年の正月に牧師、姉妹達と神戸・大阪旅行に行きました。私にとって神戸は初めてで、大阪も行ったことはあるもののゆっくり見て回ることは初めてでした。それに加え、牧師、姉妹達と行く旅行はいつもたくさんのことが語られ、喜びに満ちているのでとても楽しみでした。それを素直に霊で受けて言葉に出し、喜んでいれば良かったのですが、頭で考え自分の判断で物事を精査しだし、言葉が出なくなったところから、一人喜びがなく、必要なことが言葉にならない旅行になってしましました。後にそこから、すぐに頭で考え自分教をしてしまう私の肉の習性が明らかになり、解放へと繋がる旅行になりました。昨年末に私の内にある悪が光に出されたところからのこの旅行は、全てイエス様の御手の中でした。

初めて見る神戸の町並みや、たくさんのお店が立ち並ぶアーケードや中華街、関西出身の牧師が様々なことを解説してくださり、まるで別の国に来たような感覚で驚きの連続でした。10年前にもイエス様の働きのために牧師、兄弟姉妹は神戸に来ていたので、その時のことやそこからの今に至るまでの証を聞いたり、皆がイエス様に感謝して喜んでいました。
そんな中、古い私には、誰かと一緒にいる時に自分の言葉や行動を頭で考え出すと無口になってしまう悪い習性があり、その悪習性を忌み嫌って足の下にしていなかったため、この旅行中も頭で考え出し言葉が出なくなってしまいました。頭で考え出すと、イエス様より自分の感情に忠実になってしまいます。以前も姉妹達との旅行でそのようになり、悔い改めたことがありました。
神戸について間もなくして、有名な中華料理屋に連れて行っていただき食事をしました。私は子供の頃から中華焼きそばにからし酢をかけて食べることが好きだったのですが、以前、それは作り手を尊重することや信頼がないこと=愛がない行い、自分流の食べ方だと訓戒されたことがありました。第3の天から見た時、食べ物は神の言です。偏食があるなら、みことばに対しても“このみことばは従えるけれど、このみことばは従えない”と好き嫌いをしている事と同じであり、自分の食べ方…やり方をするなら、霊の食物であるみことばをそのまま素直に「アーメン」して受けることができず、いつも自分流”に味付けしてしまうということが語られました。つまり、自分に都合の良いみことばの解釈、みことばによって自分が変わるのではなく、自分に合わせてみことばを変えてしまうということでした。大阪・神戸旅行の中華料理屋でもその食べ方をして、みことばに対する私の姿勢が以前と変わっていないこと、肉的にもその食べ方が良い!私にとっての当たり前だ!と握っている頑固な私が示されました。古いものがまだ過ぎ去っていないとそこからも語られました。

また、姉妹達が、ホテルのパン屋でパンを買おうとしていても、私はパンが欲しいと思わず「私はいいや…(ホテルのパンは高いし、そこまで食べたいと思わないし、必要になったらその時にどこかで買えば良い)」と一緒に買いませんでした。ただ、私の霊は蘇っているので「同じ霊を持つ姉妹達が喜んで買っているのに、私だけ喜びもなく欲しいとも思っていない…パンはイエス様の体なのに…」と思ったことを聖霊が私の中に残しました。私は欲しくない…買わない…みんなと価値観が合わない?と思ったところからますます喜びがなくなり言葉もでなくなりました。一緒に住んでいる姉妹は喜んでパンを買ったのに、私が「いらない」と言って買わなかったことから、牧師や姉妹達も私が霊的におかしい、古い私に戻ってしまっていると気がついていました。

そして、ショッピングの時間が与えられ、姉妹達は各々イエス様に聞きながら、欲しいと思っているものが与えられることを祈り求めて楽しく買い物をしていました。ただ、私は前月にセールで何着か服を買っていたので特別欲しいものもなく、今持っているもので事足りているから買う必要はない…と思っていました。(後に、前月に買った服はイエス様に聞いて買ったのか問われました。)お金がない訳ではありませんでした。むしろ、旅行の前にイエス様が備えてくださり、買い物をするお金は十分ありました。(それもイエス様の祝福として、喜んで話していれば良かったものの誰にも話さなかったので、ある姉妹は私がお金がなくて買えないのかと心配してくれ、余計な気をつかわしてしまいました。)ですが、いつも通信販売で安い服やセール品を買っていた私にとって、皆で買い物に行ったデパートの商品は、新春セールだったとはいえ値段が高く思えました。物は十分持っている上、わざわざ高いものを買わなくても…と考えたら何も買えなくなってしまいました。「何も欲しくない…どうしよう…買い物の時間はまだあるのに何を見よう…」と、何かをイエス様に求めるという“目的”がないことに虚無感を感じ、買い物が楽しくなくなっていきました。

そんな中、一人の姉妹は、私と同様に欲しいものはないと言っていましたが、買い物をしている中で聖霊の導きにより牧師に勧めてもらい素敵なスカートが2枚も与えられ、イエス様に感謝しとても喜んでいました。その喜び感謝している姉妹の姿も聖霊が印象的に私の中に残しました。
後から改めて思い返したとき、買い物の途中で牧師が私にも一枚のスカートを勧めてくださったことを思い出しました。とてもキレイなスカートでしたが、値段が高く、さらに旅行前にスカートを買ってしまっていたこともあり、私は試着すらせず買いませんでした。ですが、後でいつもイエス様に忠実に言葉を発している牧師が、私にスカートを勧めてくださった…イエス様が私にスカートを与えようとしてくださっていたのに、私はそれに見向きもしなかった…と、その時の自分と喜んでいた姉妹のことを思い出し、私には信仰がないのだと悟りました。

“目的”がある、ない、それが叶ったから喜ぶ…それはただの御利益宗教ではないか?“目的”は自分の頭が定めるもので、いつもイエス様に聞き、与えられることに素直に感謝していたら、“目的”など関係なく、彼女のように喜んでいたら思いもしない祝福が与えられ、ますます喜びに満たされ、感謝する!私もその歩きをしなくてはいけませんでした。
今まで姉妹達と買い物に行った際に、イエス様が素晴らしいものを私のために与えてくださることは体験してきたはずでした。少し値段が高くてもその分、質が良く、姉妹達がイエス様に聞いて勧めてくれたので、感謝して信仰で買いました。それらは、本当に私にピッタリなものばかりで、後に福音に行くために備えられたものであったり、使いやすくてとても役に立ったり…と、イエス様が与えてくださるものは、買った後もなぜ必要だったのか必ずわかるので、与えられたことへの喜びも増し加わります。そういった証はいくつもいただいていました。

そして、安いものばかり買い求めることも貧困の霊だと牧師が教えてくださいました。見る人が見れば安い物ばかり着ているかどうかわかってしまうし、気持ちに余裕もなくなります。もちろん、ただ高価な物ばかり買えば良いということではなく、何を買うにもしっかりイエス様に聞いて、神の栄光を輝かす姿であることが一番。また、良いものは良いもので着ていくにふさわしい場があること。これから誰と出会い、どこに行くかを全てご存知のイエス様が与えてくださるのですから「イエス様が与えてくださったこれを着て、どこに福音に行くのでしょう」とワクワク楽しく、感謝して買い物ができることも、本当の神が内におられるクリスチャンの特権だと語られました。全てはイエス様の栄光を輝かすため!全てご存知のイエス様に聞き従う歩きに、自分の計画はいりません。
クリスチャンは全てにおいて祝福され最高の物を与えていただけます。これから先のことも全てご存知のイエス様が、捕まえてでも祝福して与えてくださろうとするものを、「私にはそれは必要ないのでいりません!」「それは値段が高いので買いません!」「今のままで十分満足しているので結構です!」「それは食べたくありません!」と自分の価値観で拒否する歩きは、祝福の物は何も得れないと語られました。

そして、私は“目的”がないと喜べない、イエス様に聞くことができない…いつも喜んでいなさい!とイエス様から言われているクリスチャンが、虚無感を感じること、喜びがなくなることは違いますし、やはり私は自分の判断、自分の価値観、自分の感情に忠実な“自分が神”なのだと気がつきました。どこかで、神を畏れていない気持ちがあり、古い自分を忌み嫌うことができませんでした。
自分が神の宗教の霊、自分が正しい間違っていない、間違えたくないというおごり・高ぶり・プライドの霊、自分を第一にした自分のタイミングで生きる怠惰な霊に支配された自分が“私”と考えていた私は、クリスチャンとしてイエス様が求めておられる“死んだ者”=“明け渡した器”には決してなれませんでした。神が求めておられる“幼子のように素直に聞き従い、喜び感謝する”というシンプルな教えも、とても難しいものに思えていました。
「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」(ヘブル11:1)と書かれているように、目で見えるものが一番、“目的”ばかり求めてしまっていた私には、信仰があったとは言えませんでした。その歩きは、すぐに頭にもどって考える“自分が神”の生き方です。自分の知識で答えを出そうとしてもそこに出口は絶対にありません。そういうときは何とも空虚な気持ちになり、無心で下を向いてただただ淡々と歩いているようでした。完全にサタンに明け渡してしまった歩きです。
宗教とはサタンが人間を地獄に道連れにするために作り出した惑わしであり、無意味なものです。99%以上が宗教の霊に捕われている日本人は、皆が虚無感を抱えているのではないかと思います。それが宗教です。

イエス様は、私が宗教をしていることを様々な角度から教えてくださいました。
旅行から帰り、年明けの仕事が始まりました。上司とミーティングをしていた際、話が逸れて仕事とは関係のない話になり、上司が「ブランド品をまねてエルメスの偽物を作って売る人たちがいる。でも、本物は値段が高いから、偽物でも良いと思って買う人たちもいる。偽物で良いと思う人は偽物を買えば良い。」と。その時は、自分には関係のない話だと思って聞いていましたが、後から聖霊がその話を思い出させ「偽物で良いと思う人は偽物を買えば良い」…「宗教で良いと思っている人は宗教をやればいい」とイエス様に語られたのだと思いました。“目的”を求め一喜一憂して、自分の感情が一番大切な私は「偽物の神で良いと思っているのではないか」「自分は何も変わらずに、目的がある時だけ神を信じる…宗教で良いと思っているのではないか」その思いがあるから神への畏れがないのだとわかりました。そしてそれは日本人の血の中に流れる「滅びの霊」だと語られました。

人間は決して神にはなれません。人間の知識や善悪の判断では祝福や平安、喜びを得ることはできません。そして、生きていることは当たり前ではありません。私が戒めを受けたタイミングで、クリスチャンであっても自分の義を通して神の守りから出たことでアフガニスタンで命を失った医師の中村哲氏が示されました。いくらこの世から賞賛されても、目に見えるもの・ことに囚われ、自分を神とする自分教という宗教の先に待っているのは死と滅び、そして地獄です。ですが、私は生かされました。
私が生きているのは、私がよかったからではありません。神の守りの内で生きるために、イエス様は“無条件の愛と無条件の許しで、徹底的に戒め、励まし、教えて、私の解放を祈ってくだる牧師と神の家族”を与えてくださったからです。自分の利益や感情などではなく、全て私のために聖霊に明け渡して愛で語ってくださる言葉がいつも私を闇から引っぱり出してくれました。何度も何度も。ただ、自分の義を通す“自分が神”という悪から解放されるためには、やはり最終的に自分自身がイエス様に意志を向けるしかありません。
私は、意志を向けるどころか、いろいろ頭で考えて自ら神から離れていました。人とコミュニケーションを取ることも億劫に思うことがあり、人との関係は常に一歩引いて関わっていましたし、神の家族の中でも姉妹達の輪に入らなかったり、言葉数少なく自ら離れて心を閉ざすこともありました。なので、それが周りの人を占わせて思い煩わせてしまってもいました。さらには、喜んでいても古い自分がそれを闇に引きずり下ろす…良いことなどそこからは何一つ生まれませんでした。

私の内の悪が光に出されるきっかけになった蜘蛛は、私を示していたと牧師が教えてくださいました。その蜘蛛は繭のような巣をつくっていました。身の回りを糸で覆って自身を守っている姿は、自分の心を守ろうと自ら殻に閉じこもっていた私だと。
さらに、実家のウサギと猫の話でも語られていたように、私は、自分の心のままに一歩引いたり、殻に閉じこもったりと「自由気ままに生きる」猫でもありました。そんな、古い自分を忌み嫌わなければ変わることはできません。ただ、ずっと自分が神であり、心のどこかで宗教で良いと思っていた私は、解放されたい霊の思いはあるものの、すぐに頭で自分なりの方法を考えてしまうため、自分の考えに従う古い自分を完全に忌み嫌うことができませんでした。その状態を「古い自分に依存している」と言われ、本当にその通りだと第3の天から自分を見ることができました。

エペソ4:17~24
そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。 彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、 自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。 しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。 あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。 すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、 心の深みまで新たにされて、 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。

「古き人を脱ぎ捨てる」ことも「新しき人を着る」ことも、論理立てていくら考えてもできませんでした。それは聖霊の力、助けがあってできることです。
私は、牧師や兄弟姉妹がどこまでも愛で語って励ましてくださったこと、イエス様が古い自分の行動を自分にわかるように様々な角度から教えてくださったことを改めて思ったとき、びっくりするくらい爆発的な感謝が内側から満ちあふれ、頭の先からつま先まで全身隈無く感謝に満たされました。100%…それ以上の霊からの喜びは、目的や理由、自分の考え、感情など一切必要としませんでした。絶対に忘れてはいけないことだと、そのあふれる感謝のまま牧師に電話をし「こんな感謝だけしかないのは初めてです」と号泣しました。メールで「感謝」という2文字では表現しきれないほど大きく、大切な思いでした。
そこから、見え方、感じ方が全く変わり、私は古き人を脱ぎ捨てることができました。みことばや書き表す文章の意味(この証も何度も書き直しました)も、完全に解放される前と後では全く別なものになりました。

『You are my sunshine.』から語られたように、クリスチャンは“イエス様が内にいて、いつも神の栄光を全身で輝かしている者”=“太陽”です。宗教に捕われた日本人が“この地上になくてはならない光”=“イエス様”を求めてくるための太陽でなくてはなりません。それは、いつもイエス様に感謝し素直に喜んで生きること。本当に何よりも素晴らしい恵み、イエス様が与えてくださったクリスチャンの特権だと感謝します。
地獄の刻印を押されたと語られた火傷の跡は、「私はヤギではない!イエス様の羊。私は天なる父の子だ。」と宣言し、十字架の血を注いで祈っていくなかで、薄くなり、部分的に元の肌の色に戻り始めていることに気づきました。自然と涙があふれ感謝し、イエス様が共にいてくださっていると喜びました。

ガラテヤ2:20
「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」

アーメン。
不信の娘だった私とずっと共にいて、守り、教え、愛してくださったイエス様に感謝し、その神とのこれからを愛し喜び感謝して生きます。全ての栄光はイエス様に帰して。