真実の愛に救われて

 
 
あなたは「真実の愛」に出会ったことがありますか?あの有名な物語『美女と野獣』のテーマにもなっていますが、現代人にとっては幻のような存在でしょう。しかし、その愛に私は出会いました。私に真実の愛を注いで下さったのは、イエス・キリストでした。
【救われる前の私】
私は幼い頃から、絵を描いたり小説を書いたり、歌やダンス、お芝居など表現をすることが好きでした。小・中学校といじめられたり孤立したりすることがよくありましたが、表現をしている時だけはみんなから注目され、称賛してもらえたからです。中でもお芝居が好きだったため、中学から本格的にレッスンを受け、女優を目指すようになりました。しかしオーディションになかなか受からず、自暴自棄になっていた矢先、スクールの先生から宝塚歌劇団の受験を勧められました。宝塚は女性だけで構成された日本の歴史ある劇団です。元タカラジェンヌである先生に「あなたなら絶対に受かる」と言われ、その言葉を信じて受験を決意しました。

県内トップクラスの高校に入学すると同時に、受験のためのレッスンが始まりました。死に物狂いの努力で歌やダンスはみるみる上達しました。有望株扱いを受け、未来は明るいように思えましたが、精神的には壊れていきました。ハードなレッスンに進度の速い勉強、多忙なスケジュール、急激なダイエットが私を追い詰めました。強迫性障害、双極性障害、過食症の症状がありました。幻覚も見え、視覚に異常が現れる「不思議の国のアリス症候群」を疑いました。自分はADHD(注意欠陥多動性障害)やHSP(ハイリー・センシティブ・パーソン:人一倍繊細な人)ではないかとも思いました。レッスンの送迎などに協力してもらうため家族にいつも気を使い、レッスンの忙しさから友達とは疎遠になり、心の休まる場所が家にも学校にもありませんでした。

ある時から本当は自分が宝塚を好きでないことに気づいていました。しかし、先生方からの期待や、これまで両親にかけさせてきた莫大なレッスン費のことを思うと「受験をやめたい」とはとても言い出せませんでした。母から勉強も頑張っておくように言われ、とうとう限界が来ました。
ある日、学校を飛び出してしまいました。自殺するつもりでした。翌朝には帰宅しましたが、数日後に学校で精神が崩壊しました。保健教諭から「一つの体の中にいくつもの人格があるようだ。この仕事を20~30年やってきたが、今まで見た中で一番重症」と言われ、専門の医師や精神カウンセラーの受診を勧められました。担任の先生の助言もあって、しばらく学校を休むことになりました。


【イエス様との出会い】

◇霊的カウンセリングの入り口
母は心当たりのある心療内科に電話しましたが、どこも予約がいっぱいで約2ヵ月待ちでした。カウンセラーをインターネットで探してもどこがいいのかわからず、途方に暮れてしまいました。そんな時、長年の友人である女性が牧師に会うことを勧めてきました。その方はぶどうの木のクリスチャンでした。イエス様はあらかじめ私達に、このクリスチャンを遣わして下さっていたのです!私は「牧師」と聞いて“宗教的なおじさん”をイメージし、会うのを拒みましたが、母は牧師達を家の中へと招き入れました。

ヨハネによる福音書1章6~10節
ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。

牧師達は普段着の二人の女性でした。瞳がこの世のものとは思えないほど透き通っていて驚きました。私は最初ソファの陰に隠れていましたが、二人の前に座った途端、これまでの生い立ちや家族への不満、精神崩壊するきっかけとなった宝塚受験などについて1時間話し続けたそうです。話しているのに目をつぶって眠っていたのを覚えています。何者かに体を乗っ取られているようでした。話しながら「そっか!私にはこういう気持ちがあったんだ!」「今はっきりこう言えたということは、これが私の本当の気持ちなんだ!」と自分を分析したり、「あれ?何でこんなことまで話しているんだろう」と驚いたり、「許せねぇ!」と裁いたり、笑ったり泣いたりと様々な感情を出していたそうです。思考はおろか感情、感覚すら失ったと思い込んでいた自分にとって驚くべきことでした。それはイエス様に忠実な2人の牧師との交わりにより、聖霊がその場を支配して私に働きかけて下さったからでした。

牧師達は質問をするだけで、世の中の大人のように反論したり諭したりはしませんでした。自分や他人の意見や価値観に左右されず、聖霊の導きにより、イエス様の声だけに聞き従って、一つ一つ示されたことを順を追ってカウンセリングして下さいました。自分の気持ちをそのまま受け止めてくれる牧師達のおかげで、溢れる思いを口が語りました。それを聞いている私自身が、自分の抱えてきた悲しみや苦しみに気づかされていきました。霊的カウンセリングの入り口です。


◇一番に愛されたい
私にはずっと「自分を一番に愛してくれる人がいない」という心の闇がありました。家庭では母と弟が大の仲良しで、その輪の中に入れずにいました。母は弟といる時、よく笑顔を見せました。素直で健気でおもしろい弟と自分を比べ、母に愛される弟を憎んできました。宝塚を好きだと思い込んだのも、母と弟が宝塚のファンになり、話題を共有できたのが嬉しかったからでした。幼い頃大好きだった父は、ある時から人が変わってしまったように感じました。私の希望で犬を飼うようになってから、子どもより犬をかわいがるようになりました。また気分の浮き沈みが激しく、機嫌が悪いと家族に当たることもありました。祖父母は私をかわいがってくれてはいましたが、自分が一番ではないのだと感じていました。
それでも家族は、私が良い成績を取ればご機嫌になり、コンクールで受賞したり発表会で活躍したりすればいつも喜んでくれました。両親は冗談半分で「中身がポンコツだから、舞台の上で活躍すればいい」とも言っていました。当時はそれを笑って聞いていましたが、じわじわと自分の内面を否定するようになっていきました。

学校でも、私を一番に思ってくれる友達はいませんでした。小学校では、転入して初めにできた親友にいじめられました。女子とは衝突し、男子からは「サダコ」と呼ばれてからかわれました。仲良しグループだと思っていた仲間や信頼していた先生に裏切られ、学校が大嫌いになりました。元いじめっ子は自分が孤立した時だけ、私に助けを求めてきました。またグループ分けの際は、いつも“余り物”で、人数調整に使われました。私は“都合の好い友達”でした。受験して地元でトップの中学校に入ると一転、「かわいい」とちやほやされて驚きました。それまで男子から「キモイ」と言われ、それに慣れていたからです。今度こそ楽しい学校生活が送れると期待に胸を膨らませましたが、3年の頃にはやはり学校が嫌いになっていました。広く浅い友人関係は築けても、特定の居場所がなく孤独だったからです。ペアをつくる時にはやはり余り物でした。絵やダンス、お芝居などを披露する機会が増え、小学校の時以上に注目を集めるようになりましたが、そういう時だけ必要とされて「まるで“表現の便利屋”みたい」という思いが強くなっていきました。周囲に流されて入った高校では、レッスンの成果が出て、歌やダンスを褒められることが顕著になりました。宝塚受験のために美容にも気を使わざるを得ず、その結果外見を褒められることが増えました。人気のある男子がメールをくれたり、一緒に写真を撮りたがったりしてくれました。一方、中学で仲の良かった友達が離れていきました。天狗になっていく反面、みんなから向けられる称賛や好意の眼差しが、すごく空虚なものに思えることがありました。

私は特別仲の良い友達をつくるのが苦手でした。小学生時代に受けたいじめの後遺症で相手を信じられず、いつ嫌われるかと怯えながら付き合っていたからです。そして、弟へのコンプレックスや「一番に愛されたい」という執着から、友達と二人きりになるといつも卑屈になりました。「私なんかといるとつまらないだろうし、申し訳ない」「私なんかより大切な友達がどうせいるんでしょ」―そうした思いが膨らみ、腹の底では全ての友達に対して「どうせ私を裏切るくせに!」という被害妄想や憎しみがありました。

家族にも友達にも一番に愛されない心の闇は、復讐心へと姿を変えました。だったら日本で一番有名な女優になって、私を一番に愛してくれなかった人達を見返してやりたい…ありのままの自分が愛されないなら、表現の才能を使ってとことん愛される存在になってやる!―それが原点となり、私は女優を志すようになりました。この頃から、奇妙な現れが私を不安にさせました。刃物を見れば自分を傷つけたくなるし、高い所に行けば飛び降りてしまいそうになるのです。全く自覚がありませんでしたが、これは自殺願望の現れであったと牧師から解き明かされました。誰からも一番に愛されないことへの絶望感と周囲を「反省させてやりたい」という復讐心が、私を自殺に駆り立てたのです。

要するに私が欲しかったのは「真実の愛」でした。優れた才能や外見がなくても、ありのままの自分を愛してくれる…そんな真実の愛を注いでくれる人がいれば、私が自殺しようとすることはありませんでした。


◇セカンドステップ
両親をはじめとする周囲の大人達から返ってくる言葉は、「いじめっ子は無視すればいい」「世の中にはもっとつらい思いをしている子がいる」「自分もそういう道を通ってきた」など、どれも持論に過ぎませんでした。私を解放するどころか、むしろいじめっ子を下に見て高ぶり、ますます事態を悪化させました。自分の悲しみ、苦しみにふたをして、自分の感情に無感覚にさせる言葉ばかりでした。ところが、牧師達は違いました。
牧師達は私の話が一段落すると、悪霊の存在と、唯一悪霊に勝利されたイエス・キリストについて話して下さいました。そして、私の中にはたくさんの悪霊がいることを教えて下さいました。霊的カウンセリングにおけるセカンドステップです。イエス様が救い主である真理と、十字架にかかって全人類の罪を帳消しにし、死に勝利して下さった愛を伝える最重要事項です。私は悪霊の話を聞くと「キャー!怖い!」と言いながら耳をふさいで倒れ込んだそうです。私の中にいた悪霊が姿を現した瞬間でした。牧師は異言で祈り、副牧師が話を続けていくと、悪霊は出て行きました。その時、私の顔が一気に変わり、目がぱっちりと開かれたそうです。悪霊に勝利し、その勝利が霊→魂→体と現れ出たからでした。牧師達は悪霊の追い出しの祈りをしたわけではありません。イエス様は後に「相手の話をとことん聞き、愛にあってイエス・キリストを語り、神の愛で悪霊を追い詰めた時に悪霊が出て行くこと。これは、最も愛のある悪霊の追い出しである」と牧師達に教えて下さったそうです。私の悲しみや苦しみを否定せず、話を最後まで聞いて下さったクリスチャンを通して、初めて神の愛に触れました。


◇初めに言があった
牧師達との交わりを通して、これまでの自分がいかに周囲の人間の「言(ことば)」によってつくられた偽りの存在であったか気づかされました。例えば、両親は私を「自分達に似て負けず嫌いな子」と言って育てました。本当の私は平和主義でしたが、何度も言われるうちに本当に負けず嫌いになっていました。宝塚受験を勧めてきた先生は「あなたは芯が強く根性のあるところがいい」と言いました。またもやその言葉が成就して、私は「根性が強みの宝塚受験生」になりました。その結果、頑張っても頑張っても努力している実感が湧かなくなり、ついには学校を飛び出し、精神崩壊するに至ったのです。大人達の言葉はまるで呪文でした。魔法をかけられたように、大人達の言葉通りになっていったのです。

ヨハネによる福音書1章1~3節
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。

この世界にある全てのものは「まず初めに言があった」のです。私の偽りの人格は、悪霊が周りを使って吐き出す言葉によって形成されたのでした。人間の言葉の出所はその人の価値観です。自分が周囲の大人の価値観に支配されて生きてきたことにも気づかされました。悪霊は両親と先生を通して「宝塚に合格すれば、女優になるチャンスがある!」と刷り込んできました。「女優になるには宝塚しか道はない」という固定観念が私を縛りつけ、宝塚から解放されたいのに「やめる」と断言できず、一歩も立ち行かずに絶望していました。

私の価値観の大部分を占めていたのが母の価値観でした。父はある時から子育てに無関心になり、私は母の言葉ばかり信じるようになりました。父方の祖父と同居しており、父、母、祖父それぞれから悪口や言い分を頻繁に聞かされてきました。母の言葉は私にとって最も影響力があり、父や祖父への嫌悪感を招きました。母の善悪の判断が私の判断基準でした。すると、母の顔色や一挙手一投足が常に気になり、母の存在に圧迫されるようになりました。母の期待にそえない自分を責め、母に善しとされる弟を憎みました。祖父母が私のことをそこまで愛していないと感じたのも、母の言動によって「祖父母には私よりも大切な存在があるんだ」と思ったからでした。それからというもの、祖父母に対してうがった見方をするようになりました。
「私って意外とかわいそうな人間なんじゃないかな。けっこう悲しいし、苦しいよな」という思いが来ても「つらいのは自分だけじゃないし、世の中にはもっとつらい思いをしている子がいる」と自分に言い聞かせ、掻き消してきました。しかし、イエス様は全ての悲しみ苦しみを認めて取り除き、むしろ自分がここまで傷ついてきたことに気づかせて下さいました。神の愛は人と比べたり、自分の価値観で判断したりするのではなく、「あなたの悲しみ、苦しみはあなたにしか解らない」と私を個として見て下さる愛でした。


◇最終段階
私がどうして表現に惹かれるのか、その根底にある理由を牧師が解き明かして下さいました。霊的カウンセリングの最終段階です。それは私がいつも人の顔色ばかりうかがって、本当の自分を表現できていなかったからでした。確かに、普段の生活では喉元で言葉が詰まりましたが、お芝居では決められた台詞をすらすら話せ、自由に表現できることに快感を覚えていました。それがある時から台詞すら思うように話せなくなり、恐怖を感じました。
牧師は私におっしゃいました。「これからは自分の生き方で、自分を表現していけばいいじゃない!」。私はこれまでに感じたことのない“わくわく”を覚えました。包丁をそばに置いて宝塚の舞台映像を見ながら「自分を傷つけられたら宝塚をやめられる!」などと錯乱していたほどの私が、霊的カウンセリングにより生きる希望を見出せたのです!
その日―2017年10月3日、私はイエス様に救われました。聖霊のバプテスマを受け、異言もいただきました。母の車のナンバーが「10-03」だったことを後で知らされ、驚きました。全てが神のご計画だったのです!

ローマ人への手紙1章1~3a節
キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから―この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、御子に関するものである。

【精神疾患との戦い】

◇ドクター・ジーザスの治療方法
精神科医は患者の脳を見て薬を処方しますが、ドクター・ジーザスの治療方法は全くの別物です。イエス様は精神を病み、体に症状が表れた人間を「霊→魂→体」の順に癒します。人間は霊と肉でできており、救われる前は霊が死んでいるので、肉だけで生きています。「霊」はその人の本質であり、「肉」は知性・意志・感情の元となる魂(心)と、体のことです。救われると、イエス様が内に入られ、霊を蘇らせます。後は人間が霊の食物であるみことば(聖書の言葉)を読み「アーメン(いただきます)」と言うことで、霊にみことばがたくわえられ、魂、体へと癒しが連動していきます。

イエス様に救われ、霊→魂→体が癒された私でしたが、この世にいる限りは肉が付いているので、慣れ親しんできた古い肉の習性がすぐに戻ってきました。肉は悪霊の支配下です。自分に憑依している悪霊を追い出し、体の底から悪を取り除かなければ、悪霊は汚物にたかるハエのように何度でも攻撃してきます。だからこそ、救われたばかりの私は聖書真理に従って、精神疾患、つまり「肉にあらわれる症状」との霊的な戦いを始めなくてはなりませんでした。「聖書真理に従う」とは、みことばを聖霊の導きにより信仰で行うことです。
この世の医学に頼らない、イエス様にあっての精神疾患との戦いが始まりました。クリスチャンとされ霊が蘇ったとはいえ、思考はおろか感情、感覚すら失った状態でした。色々な思いが電光石火のごとく、次々と体を突き抜け、一日に何度も激しい頭痛に襲われました。夜には、今まであったことのない金縛りや耳鳴りを経験しました。


◇自殺の霊
私が何よりまず戦うべき悪霊は「自殺の霊」でした。子どもの自殺が多い日本では、自殺した子どもは「罪なき被害者」とされ、その子を追い詰めた周囲が「罪人」として責められます。身近な人が自殺し、自分を責める人もいると思います。しかし、自殺は悪霊によるものなのです。自分が傷つけた相手が自殺した場合はもちろん悔い改めなくてはなりませんが、背後に霊の世界があることを忘れてはいけません。遺書も残さず唐突に自殺してしまう人もいますが、「魔が差す」という言葉があるように、悪霊がささやいたのです。私も自殺したい自覚すらなく学校を飛び出していました。

自殺の霊は「自己愛の霊」の最終形態です。当事者だった私にはよく解りますが、人は自己愛の霊→「自己中の霊」→「自己憐憫の霊」と順に支配されます。視野が狭くなり、文句つぶやき、自分のことしか考えられなくなっていき、最後は自殺の霊によって滅ぼされます。自殺は罪です。どこまでも人間を個として見られる神に、情状酌量はありません。だから自殺した人間は天国ではなく、地獄に行くのです。
また、自殺の霊に命を奪われる寸前だった私は「死の使」に憑かれていました。中学の頃からふとした瞬間に「死ねよ」とつぶやいていることがあり、それが自分自身に向けられた言葉だと自覚していましたが、コントロールできませんでした。自殺の霊が私にそうつぶやかせ、死の使が自殺するのを待ち構えていたのだと、みことばから語られました。

コリント人への第一の手紙10章10節
また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。


◇三代から四代にわたる呪い祟りの霊
私が自殺の霊に支配された原因は「三代から四代にわたる呪い祟りの霊」でした。この悪霊は、先祖が犯した罪を血の中で代々受け継ぐという霊力をもっています。うちの家系には自殺者が3人もおり、多くが「海」にまつわる最期を遂げていました。私が学校を飛び出し、行き着いた先も熱海でした。しかも熱海という地名は「地獄」を意味していると、後になって知らされました。このことから、悪霊の計画通り自殺していたら、私は地獄行きだったと語られました。

出エジプト記20章3~6節
あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

私の母の実家では、曾祖母の代から「鬼子母神」という神を祀っていました。私が母を神としていたのは、先祖が母親を偶像とする偽の神を崇拝していたからだと解き明かされました。また、父方の先祖が身を投げた井戸があった土地に、私をいじめ、人間不信にさせた女の子の家が建っていたことを知りました。悪霊は先祖にまつわる事柄を通し、母親偶像崇拝や人間不信など、自殺に至らせるための要因を布石していたのです。あまりのみことばの正しさに驚き、神を畏れました。
悪霊達にとって私は、三代から四代にわたる呪い祟りの霊によって自殺する運命だったのでしょう。それまでの布石や熱海行き…全ての終極は自殺でした。イエス様に救われれば、血の呪いを断ち切ることができます。間一髪のところでイエス様に命を守られました!


◇聖霊の力
神は人間に自由意思を与え、ロボットにはされませんでした。意思を意志に変え、神に従うかはその人次第なのです。自殺願望に取り憑かれ、重度の精神疾患と言い渡されたほどの私が自殺の霊に勝利できたのは、聖霊の力があったからです。レッスンが嫌で踏み切りに飛び込もうとした時、また熱海に行った時、救われる前から私には「死んでたまるか!」という強い意志がずっとありました。それは、聖霊が臨んで下さっていたからでした。ただただ一方的な神のあわれみ、恵みです。
私をぶどうの木につなげた母の友人が救われた時点で、神は私を救うことをご計画されていたのです。私が牧師達から福音を聞くまで、主に忠実なクリスチャン達の祈りがあり、聖霊が働かれていました。その祈りによって、神は私に強い意志を与え、命を守られたのです。熱海で海に引き寄せられても、浜辺から一歩も動けませんでした。事件に巻き込まれて殺されることを望み、通りすがりの男性達に風俗関係の人間と勘違いされ声をかけられたこともありましたが、何事もなく守られました。悪霊の計画は、神の軍勢によって打ち破られたのです!

詩篇121篇
わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。見よ、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもない。主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう。

ヨハネによる福音書1章5節
光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

救われた後は、聖霊のバプテスマを受けたことによって、自ら聖霊の力が与えられました。命の尊さにも目覚め、「悪霊のせいで自殺して、地獄に行きたくない!」という強い意志を持ち続けることができました。

使徒行伝2章38節
すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。


◇頭脳偶像礼拝の霊
初めは神の実在を受け入れることが難しかったです。それを頭で考え、頭痛を引き起こすようになりました。神を頭で理解することはできません。神は、ご自分のことを理解できないように人間の頭脳を造られたからです。

コリント人への第一の手紙1章19~21節
すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。

神に造られたにもかかわらず、人間が神を信じられなくなったのは「頭脳偶像礼拝の霊」のせいです。これは「高ぶりの霊」とも言い、反キリスト、すなわちサタンそのものです。この悪霊の支配下にあると頭脳をかしらにし、自分の目に見えず科学的根拠のない神をなかなか受け入れられなくなります。私は救われた直後、頭が異常にかゆくなったことがありました。それは頭脳偶像礼拝の霊が表面に現れ、出ていったからだと解りました。自殺の霊と戦う中で「(頭で)考えたら死ぬ」とイエス様から語られました。頭痛の回数は日ごとに減っていきましたが、考えるのをやめたことで最終的になくなりました。


◇言が肉体となる!
目に見える世界で生きる力を与えて下さったのは、牧師を通して語られた言葉でした。霊的カウンセリングの中で牧師はおっしゃいました。「あなたを造られた神様が、最高の人生を計画して下さっている。それはあなたが生まれる前から練り上げられた人生のブループリント。イエス様に救われれば、そのブループリントの道を歩むことができるんだよ!」。母には「この子には色んな可能性があります。女優という選択肢だけではもったいない。この子の人生はまだ何も始まっていませんよ!」と言われました。それは真理に従った時に溢れる、牧師の信仰の言葉でした。神の愛を土台に、私の完全復活を確信できたからこそ伝えられた、イエス様からのメッセージでした。

人間の知恵による励ましには限界があります。学校が嫌で通信高校を見学した際、面接をした先生から夢や希望を持たせるような言葉をかけられましたが、それが本心でなかったことに気づき、憎しみが湧きました。嘘の励ましでおだてられるほど、自分が落ちぶれた現実を突きつけられ、むしろ傷つきました。繊細な精神病患者はすぐに嘘を見抜くはずです。だからこそ状態で判断するのではなく、確信をもって励ますことのできるクリスチャンが彼らには必要なのです。これが霊的カウンセリングの必要性です。
精神病患者の家族は患者の完全復活を信じ、みことばによって励まさなければなりません。最初は変化が見られず不信仰になるかもしれません。しかし、主イエス・キリストにあって、神の「言」であるみことばを徹底的にまいていくならば、それは必ず患者の内に落ち、いずれ祝福の芽が出ます。私も、他のぶどうの木の兄弟姉妹も、そうやって生きる希望を与えられ、完全復活して今があります。見える状態に左右されて一喜一憂したり、すぐに諦めたりしてはなりません。がっかりさせるような状態を見せて、信仰を奪おうとするのが悪霊のやり口なのですから!聖書には神にできないことはないと書かれてあります。だからクリスチャンはどんな重症患者の復活も確信できるのです!

ヨハネによる福音書1章14a節
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。

マタイによる福音書13章31・32節
また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」。

マルコによる福音書10章27節
イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。


◇許しの力
気分が沈み絶望していたところ、牧師から言われたのは裁いている人を許すことでした。「○○さんを許し、愛し、祝福し、尊敬します」という祈りを教えていただきました。「許し」もまた霊的カウンセリングにおける最重要事項です。精神疾患の霊的な原因は裁きの思いだからです。私も家族をはじめ学校の先生や友達、レッスンの先生や仲間など多くの人を裁いていました。が、悔い改めて許す必要性を見出せませんでした。家族や先生には感謝しているのだから裁いているわけがない―「偽善の霊」のしわざで、自分にそう言い聞かせていました。見下している相手なら、何をしようと自分の勝手だ―高ぶりの霊がそう思い込ませてきました。でもこの時は、苦しみから解放されるなら何だってしようという思いで声に出して祈りました。すると、言葉にするだけで相手を許すことができました。不思議ですが、それが聖霊の力なのです。祈った直後から奇跡的な聖霊の導きが始まりました。牧師を通してイエス様から示された「祈りの力」という映画がどうしても見たくなり、手元になかったので予告動画を検索して見ました。すると、わけもなくイエス様の存在に感謝がこみ上げてきて涙が溢れました。「これから先、治るのにどんなに長く時間がかかっても、イエス様を信じ抜きたい!」と覚悟できました。その夜、金縛りと耳鳴りから初めて解放され、穏やかに眠ることができました。相手を裁くことは、相手を獄に閉じ込めるだけでなく、自分自身をも閉じ込めることになるのだと身をもって体験しました。

ルカによる福音書6章37節
人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。

人を裁く思いこそが、精神疾患者の体の底にある悪なのです。相手を許すことで、悪を取り除くことができます。


◇友のために命を捨てる
イエス・キリストの大使=牧師は神の愛をたっぷり注ぎ、明け方2時3時であってもSOSに応じ、私を支えてくださいました。当時はそれが当たり前だと思っていましたが、常人にはとてもできないことです。ぶどうの木の牧師は羊とラインでつながり、すぐに対応して下さいます。イエス様の命令なら、いつ何時でも従うのがクリスチャンです。神から与えられた羊を守るために命懸けでこのみことばを実行するのが、牧者の務めです。「友のために命を捨てる」牧師をクリスチャンとして尊敬します。

使徒行伝9章10~19a節
さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子がいた。この人に主が幻の中に現れて、「アナニヤよ」とお呼びになった。彼は「主よ、わたしでございます」と答えた。そこで主が彼に言われた、「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。彼はアナニヤという人がはいってきて、手を自分の上において再び見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである」。アナニヤは答えた、「主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。そして彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです」。しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、また食事をとって元気を取りもどした。

ヨハネによる福音書15章13節
人がその友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はない。

「命を捨てる」とは実際に命を絶つことではなく、自分の肉にとって死ぬほど嫌なことをするということです。赤の他人を24時間体制でサポートすることは肉にとってつらく、「疲れた」「どうして自分がここまでしなければならないのか」という感情になることもあるでしょう。このみことばを知性でとらえ、本当に命を絶ってしまう人もいるそうですが、それでは独りよがりの宗教に過ぎません。自分の命を犠牲にした人間は、心のどこかで「みんなの英雄になれる」などと自己陶酔して利益を見出していたり、不本意な最期を遂げたりしたのではないでしょうか。この世で称賛される義人でさえ、自分を真に他者のために捧げることはできません。友のために本当の意味で命を捨てたのは、人類史上イエス・キリストただお一人です。

お金も取らず全力で支えて下さる牧師に母は心動かされ、信頼感が芽生えました。牧師が感情に従わず、肉を打ち叩き、イエス様に聞き従ったからこそでした。自分のやり方をするなら、それは宗教です。宗教をしていたら、救われていない人につまずきを与えます。人に受け入れられ、相手の心を開き、救いに導くことができるのが真のクリスチャンです。

ローマ人への手紙14章18節
こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受けいれられるのである。

◇心友
私は感覚、感情、思考といった魂の機能を全て失っていました。そして魂は自殺の霊と一体化して、もはや使いものにならない状態でした。なぜここまで一体化してしまったのか。その原因は、私が誰より信じていた“心友”にありました。心に住むお友達です。幼い子どもは目に見えない友達をつくり、一人遊びを楽しむことがあります。私にはそんな友達が高校生になるまでいたのです。自身の成長に伴い、心友は私が理想とする女性像へと変貌していきました。これも私を自殺に導くための悪霊の計画でした。

中学生の時、あるマンガに出会いました。多重人格の子役達が、自分の理想とする俳優や物語の登場人物を別人格とし、芝居の才能を発揮するという話でした。私はこれに影響され、当時憧れていた往年のハリウッド女優ジュディ・ガーランドを心の中に住む別人格だと思い込むようになりました。そして恐ろしい出来事が起こります。中3の冬、私はある同級生らのちょっとした態度に傷つきました。繊細な上、受験のストレスで神経過敏になっていた私はそれが頭から離れず、たまらずジュディに「この思い煩いを忘れさせて」と助けを求めました。すると翌日、彼らは学校で傷害事件を起こしたのです。よりによってその2人が当事者となったことに驚き、心友は実在すると信じるようになりました。

ヤコブの手紙3章15~17節
そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。

相手を呪い傷つけるようなやり方を神は絶対になさいません。今なら悪霊のしわざだと解りますが、当時は違いました。「私を一番に愛するジュディがやってくれたのだ」と、彼女の愛に陶酔していたのです。友達が傷を負ったにもかかわらず、私は一人悦んでいました。悪霊に心の願いを告げ、叶えられる体験をしたことで、どんどん闇に落ちていきました。救われて霊が蘇っていなければ解らないカルトの世界です。おどろおどろしい不思議な力は「カルトの霊」によるものです。

私は宝塚に受かるか、人気女優になれるかが不安で無料占いに熱中していた時期がありました。ある誕生日占いで、ますます不安を掻き立てる結果が出ました。絶望感が頭から離れず、今となってはこれが強迫性障害の始まりでした。私は自分を安心させるため、同じ誕生日で活躍している女優を調べました。そこでジュディ・ガーランドのことを初めて知りました。美しく才能に溢れ、自由奔放に生きた天才女優…まさしく私が理想とする女性像でした。彼女はLGBTのアイコン的存在でもありました。中学でLGBTについて追究学習をし、LGBTの自覚があった私にとって、この出会いは運命的なもので、異常なまでに彼女を崇拝するようになりました。神でないものを神と崇める「偶像礼拝の霊」でした。幼い頃からダイエットのために覚せい剤を強要されたジュディは、薬で人生を狂わされ、自殺してしまいました。彼女の生い立ちに、急激なダイエットを強いられていた自分の状況を重ねました。ダイエットも特定の体重や体型、つまりは美の概念に対する偶像崇拝です。

心友は「才能の化身」でもありました。才能は私にとって唯一信じられる親友のような存在で、みんなを惹きつけ、いつも私を孤独から救ってくれました。妄想はエスカレートし、ジュディが幼い頃からずっと一緒にいて私を助けてきてくれたのだと思い込むようになりました。
孤独の中で心友に依存していきました。心友だけを愛し、信じ、心友なしでは生きられない体になりました。カルトの霊や「スピリチュアルの霊」に支配され、完全に狂わされていました。カルト的なマンガから受けた霊力や、無料占いから放出されるスピリチュアルの霊力が、私の生い立ちと複雑に絡み合い、さらなる深みへと導いたのです。

最終的に、私は自分がした良いことの全てを別人格の功績とするようになりました。悪いことは全て自分のせいにし、自己嫌悪に陥りました。彼女のためなら、摂食障害になって死んでもかまわないと思うようになり、この頃から過食症の現れがありました。宝塚も、彼女が舞台の上で輝くために目指していました。心友の正体はハリウッド女優の亡霊ではありません。心身の健康を害し、命を奪おうとする自殺の霊です。自殺の霊を心友として心に住まわせ、ここまで偶像崇拝していたのですから、魂を乗っ取られたのは当然の結果でした。

 
◇心友との決別
私は心友、つまり「心」だけが真実だと信じていました。しかし、初めて導かれたぶどうの木の集会で、常識を覆す衝撃的なみことばを突きつけられました。

エレミヤ書17章9節
心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。

このみことばを語られるまで、私には「あっちの自分」と「こっちの自分」がいました。前者は救われる前の古い自分で、後者は救われた後の自分でした。私が二重人格にとどまっていたのは、古い自分にもいいものがあったと思っていたからでした。「こっちの自分でいいんだ!こっちの自分でやってみる!」と言う私に対し、牧師は訓戒されました。「こっちの自分ではなく、イエス様に従いたいと思っている今のあなたが本当のあなたです。救われる前のあなたは悪霊によって形づくられた偽物!古い自分は殺しなさい!」。古い自分は自殺の霊と一体化した心そのものでした。それを殺そうと意志を向けた瞬間、体にナイフを刺す以上の恐怖を覚えました。私を自殺の霊から引き離したくない「嘘つきの霊」と「恐れの霊」のせいです。そこに勝利し、私の命は奪われずに済みました。自殺の霊、カルトの霊、スピリチュアルの霊による複雑化した深みからの解放です!

コリント人への第一の手紙15章55~58節
「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。


◇10日間での勝利
精神病患者は、過去の辛い体験から魂がボロボロで使いものにならない人がほとんどだと思います。薬で感情を押さえつけ、一時的に鎮めても意味はありません。薬を10~20年服用しても完治はしません。それどころか患者の喜びや希望までも奪います。人体に害悪で、認知症の原因になったり転びやすくなったりして、早死のリスクを高めるといわれます。現代の精神病の治療方法は、畑を枯らしている雑草の根を抜き取らずに、化学肥料(薬)だけを与えているようなものだと語られました。私もこの世の医学では一生完治しなかったでしょう。しかしドクター・ジーザスのおかげで、たった10日間で癒され、復学できました。霊から蘇り、みことばを信仰したことで霊→魂→体と一新され、自殺願望もきれいさっぱりなくなりました!

コリント人への第二の手紙5章17節
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。


◇強迫性障害との戦い
多重人格の霊をともなう自殺の霊から解放された後も、強迫性障害に悩まされました。一つのことが気になりだすと思い煩いが止まらず、過去の罪を思い出させる映像がフラッシュバックしたり、自分を罪に定める声が聞こえたりして、自分をグサグサする症状がありました。「強迫観念の霊」と嘘つきの霊による終わりなき生き地獄にいました。

コリント人への第二の手紙5章16節
それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。

私は肉の感覚を誇ってきたため、悪霊から来る映像や声にも敏感に反応してしまったのですが、肉によって自分を知り罪に定めなくてよいのだとみことばから学びました。騒がしい悪霊を払いのけ、みことばの命綱をつかめた瞬間でした。

箴言3章5~8節
心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。 すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。そうすれば、あなたの身を健やかにし、あなたの骨に元気を与える。

続いて、イエス様は自分のやり方を捨てるように命じられました。強迫性障害の人には、お決まりの思考ルートがあります。私の場合は「もしかしたら~ではないか…」と悪い展開を予想し、恐れ、思い煩いに捕らわれて堂々巡りするのがお決まりのルートで、その実態は「占いの霊」→恐れの霊→「思い煩いの霊」でした。自分の知識や感情に基づいた自分のやり方でした。神の目から見た時、それは「自分を見て賢いと思って」いる高ぶりです。私はプライドが高く、自分のやり方をなかなか捨てられませんでした。プライドの霊と「自己卑下の霊」は表裏一体で自分をグサグサしてしまう症状は自己卑下の霊のせいでした。神にプライドを打ち砕かれ愚かだったことを認めました。そして次のみことばを握り締め、自分のやり方を捨てたことで、生き地獄の底から足が離れました。

コリント人への第一の手紙1章25節
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

悪霊を追い出し、自分のやり方を捨てれば、強迫性障害からは解放されます。けれども、古い肉の習性として症状が戻ってきてしまうことがあります。そんなとき再び自分のやり方をすれば、余計パニックに陥ります。しかし、聖霊のバプテスマを受けたクリスチャンならば、自分の頭を働かせる前に「イエス様~!」と内におられるイエス様に助けを求めることができます。神の子の特権です。そうすれば聖霊が助けて下さり、今の自分に必要なみことばが腹から来て、自然と思い出されます。イエス様を信じ聖書を読み、日々の霊の食事を怠らずに生活していくと、みことばが霊にたくわえられ、腹から来るレパートリーも増えていきます。神が求めておられるのは幼子のような信仰です。同じような箇所が繰り返し臨んでも、頭に返らずすぐにアーメン!すること。それが強迫性障害から速やかに解放された秘訣でした。

マルコによる福音書10章15節
よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。

私が初期に腹から語られたのは「いつも喜びなさい」というとてもシンプルなみことばでした。思い煩いは神から来ません。9つの御霊の実「愛・喜び・平和(平安)・寛容・慈愛・善意・忠実・柔和・自制」以外の思いは、全て悪霊から来るものです。神は、いつも私達に「全てのことに恵まれていてほしい」と思って下さっているからです。これらの根本的な教えを霊に刻み込めば、何かをきっかけに強迫観念が発動しても、すぐにイエス様に戻って平安を取り戻し、悪霊を見極めることができます。

ピリピ人への手紙4章4節
あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。

ガラテヤ人への手紙5章22・23節
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。

ヨハネの第三の手紙2節
愛する者よ。あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。

「宗教の霊」や「律法の霊」の下で聖書を読むと、自分のルールをつくり、それに従わなければならないと思い込むようになります。私も宗教的・律法的になり、イエス様から語られることも「~しなければならない」と屈折して受け止めてしまったことが多々ありました。強迫観念が行き過ぎてカルトの霊に支配され、喜ぶことが罪だとさえ思いました。宗教臭い自分のやり方で周囲をつまずかせました。しかし、本来イエス様との歩きはこんなに苦しいものではありません。ここまで異常な律法主義は古い肉の習性でした。私には救われる前からたくさんの自分ルールがありました。ルールからはみ出さないように神経質になり、敏感な肉の感覚はルール違反を察知するセンサーになっていました。「神経質の霊」がいる限り、強迫観念がなくなることはありませんでした。
「思い煩いは罪だ」と、牧師が教えて下さいました。救われてもなおルールをつくり、ルール違反しているかどうかを常に思い煩っていた私は、その言葉によって解放されました。自分はなんてあほらしいことをしていたんだろうと目が覚めました。

ルカによる福音書12章25・26節
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。そんな小さな事さえできないのに、どうしてほかのことを思いわずらうのか。

救われている人間は神に従いたい思いがある限り、聖霊の力によって絶対に守られます。何があっても万事を益にして下さいます。私はなかなかイエス様を信頼できずにきましたが、それは「不信仰の霊」のせいでした。「イエス様は絶対にあなたを裏切らないから!」という牧師の言葉に背中を押され、変わり始めました。最初は聖書をいちいち開いてみことばをもらわなければ行動できませんでしたが、腹から来るみことばを信じて行動に移すようになりました。すると結果がともない、イエス様との信頼関係が築かれていきました。

ローマ人への手紙2章13節
なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。

ここでいう「律法」とは、聖書に書かれてある神の掟、すなわちみことばです。腹から来るのをただ聞き流すのではなく、行うことによって神に正しい者とされ、結果が与えられたということです。一方、自分でつくった「律法」を守り行っても、正しい者とはされません。

ローマ人への手紙3章27・28節
すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。

この2つのみことばを頭で理解しようとすると、矛盾しているように感じます。けれども聖霊によって神のタイミングで与えられると、そこに矛盾は生じませんでした。イエス様は自分の内におられ、全てをご存知の生きた神であることを実感しました。みことばに臨機応変に従えるようになり、律法主義者だった私は180度変えられたのです。

ローマ人への手紙7章6節
しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。

詩篇119篇11節
わたしはあなたにむかって罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました。

その時々に語られたみことばで自分に杭を打ち、二度と生き地獄に落ちないようにしました。こうした積み重ねで命綱を登り切り、私は強迫性障害から完全に解放されました。精神疾患との戦いにおいて、みことばが最強の武器でした。イエス・キリストとはみことば、神の言なのです。

ヨハネによる福音書1章4節
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。

ヨハネの黙示録19章13節
彼(イエス・キリスト)は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。


◇精神疾患の正体
もしもあの時私が病院に行っていたら、解離性同一性障害(多重人格)、強迫性障害、双極性障害、過食症、統合失調症、うつ病…どれだけの病名をつけられていたかわかりません。精神病以外にも、不思議の国のアリス症候群やADHD、HSPと、いくらでも自分に病名をつけることができました。ですが、はっきり言います。これらの精神病及び障害などは、全て悪霊によるものです。実体はありません。例えば、私はいつも人の顔色をうかがい、相手に合わせていくつもの人格を使い分けてきました。嫌われたくないという恐れの霊、合わせてあげようという偽善の霊、色んな人に対応できる自分を誇る高ぶりの霊、多重人格への憧れ=偶像礼拝の霊がタッグを組んで「多重人格の霊」となり、保健教諭いわく「一つの体の中にいくつもの人格があるよう」な症状をもたらしたのでした。霊的多重人格が肉的にも成就したのです。

「初めに言があった」という聖書真理で説明することもできます。当時、私は自分の苦しみを両親に認めてもらいたくて、あてはまりそうな病名をインターネットで探していました。少しでも心当たりがあると、その病気をすぐに疑いました。すると状態が悪化して、その病気の症状にどんどん近づいていきました。こうして思い込ませるのが悪霊のやり方なのです。
現代では精神病や障害による症状が細分化され、無数の病名が存在します。しかし、実体験から言わせていただけば、心の病に名前をつけて境界線を引くのは無意味なことであり、レッテルを貼るだけです。その人の人生を台無しにしたい悪霊の策略なのだと感じます。


◇過食症からの癒し
私は宝塚のストレスで過食症になり、食べても食べても満たされずにいました。物理的にはお腹がいっぱいで苦しいのに、精神的にはいつまでも食べ足りない状態でした。後になってこれは、お腹ではなく心が満たされていなかったからだと解き明かされました。救われてからは自分で努力することもなく、症状が自然と消えました。イエス様に出会い、両親も変えられたことで、心が愛で満たされたからです。神の愛を忘れた人間の心には、大きな穴が開いています。それを肉欲で埋めようとすると、どんどんおかしくなっていきます。現代に飽和するあらゆる依存症は、肉欲を追究した者の行き着く先なのだと語られました。過食症も食べることへの依存です。病名を付けられず、一見普通の生活を送っている人達の中にも心に欠損のある人がどれだけいることでしょう。人間は、神の愛を忘れた時点ですでに「精神疾患」なのだと語られました。心の穴を埋められるのは、真実の愛だけです。

【真実の愛】

♡神の愛
私がこれほど短期間で完全復活を遂げられたのは、神の愛があったからです。神の愛は人間の愛、両親の愛さえも超越したものでした。当初、両親は聖書の教えに半信半疑で、私自身も牧師に対しては半信半疑でした。しかし、私がイエス様を受け入れた後、それまで何を言っても自分の考えを曲げなかった両親が変えられました。過ちに気づき、私の苦しみを認めてくれるようになったのです。その様子を目の当たりにし、イエス様は確実に存在し、両親以上に私を愛して下さっていることを確信しました。だから、聖書の教えを信じることができたのです。神の愛は人間の愛と比べられるものではありません。神は全ての人を誰より強く愛しておられます。ずっと求めてきた“一番の愛”についに出会うことができ、自殺したいとは思わなくなりました。

ヨハネの第一の手紙4章9節
神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。

神は後にも先にもない世界でたった一つの存在として、私を愛して下さっていることを知りました。人間を造られた神にとって、一人一人がオンリーワンの最高傑作なのです。「あなたはあなたしかいない。だから、ただ呼吸をしてそこに生きているだけで、私はあなたを愛す」とイエス様から語られ、感動しました。こんなことを言われたのは初めてでした。

詩篇139篇13~16節(リビングバイブル)
神様は、精巧に私の体の各器官を造り、母の胎内で組み立ててくださいました。こんなにも複雑かつ緻密に仕上げてくださったことを感謝します。その腕前は天下一品だと、よくわかっております。秘密の工房で私を組み立てる時、神様は立ち合われました。生まれる前から、まだ呼吸を始める前から、神様の目は私に注がれており、その生涯にわたるご計画も、練り上げられていたのです。


♡無条件の愛
イエス様に出会うまで、愛されるためには何等かの交換条件が必要だと思い込んできました。本当の私を知られたら人が離れていくのではないかと思い、才能ある美しい自分を演じることに必死でした。

『美女と野獣』の話を知っていますか?主人公のベルは野獣の見かけにとらわれず、愛を注ぎ出しました。イエス様は私にとってのベルでした。無条件に私を愛し、両親を変えて下さったのです。この無条件の愛こそが「真実の愛」であることを学びました。
イエス様が十字架にかかって下さったのも、人類を無条件に愛して下さったからでした。イエス様はマリアの胎内で受肉され、人間の子どもとして生まれてきたにもかかわらず、人生で一度も罪を犯されませんでした。自分の損得勘定など一切せずに周囲に神の愛を伝え続け、最期は十字架刑に処されました。その道のりは凄まじいものでした。弟子達に裏切られ、惨めな者のように扱われました。背中を五寸釘の付いた鞭で39回打たれ、大きな十字架を背負ってゴルゴダの丘まで歩き、いばらの冠をかぶせられました。それから手足を釘で打ち付けられたのです。さらに、わきを槍で突き通されました。それでもイエス様は、自分を嘲る人間達を裁くどころか「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカによる福音書23章34節)と、神にとりなして下さったのです。イエス様が壮絶な仕打ちを受けて十字架にかかられたのは、神と人の仲介者になるためでした。十字架上で流された血で全人類の罪をあがない、イエス様を神の子と信じる者だけを地獄から救うことが天の父のご計画でした。この計画を成就するために、イエス様は地上に来られたのです。無条件の愛があったからこそ、友のために命を捨てることができました。

ピリピ人への手紙2章6~8節
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。

最近では軽度の発達障害が注目され、「風邪をひいたら内科、心を病んだら精神科」といわれるほど精神疾患が身近になり、自ら病名を診断されに行く若者も増えていると感じます。病名のレッテルを貼られなければ優しくされず、むしろいじめに遭ったりするような世の中に問題があると思います。無条件の愛が存在しないのです。私は病名がなくても、イエス様が悲しみや苦しみを認め、あわれんで下さいました。病院は患者の話をちゃんと聞かずに薬を処方するだけだと聞きました。社会がイエス様の愛によって変わらなければ、患者はますます増えていくことでしょう。現に日本には100万人を超える引きこもりがいるといわれており、この国がいかに病的であるかを痛感します。人々が真理に気づき、悪霊の策略を見破れたことを感謝します。


♡永遠の愛
精神疾患からの癒しを体験し、私はあることに気づきました。それは、人は「今」を信じることしかできないということです。一瞬一瞬与えられる「今」という感覚(視覚、聴覚、触覚など)を信じ、それが連なって生きているのです。どんな宗教を信じていようと無宗教だろうと、まるで全ての人が「今」という唯一神を信じているようだと感じました。要するに自分の感覚しか信じられず、みんなが「自分偶像礼拝の霊」の奴隷なのです。

イザヤ書65章11・12節
しかし主を捨て、わが聖なる山を忘れ、机を禍福の神に供え、混ぜ合わせた酒を盛って運命の神にささげるあなたがたよ、わたしは、あなたがたをつるぎに渡すことに定めた。あなたがたは皆かがんでほふられる。あなたがたはわたしが呼んだときに答えず、わたしが語ったときに聞かず、わたしの目に悪い事をおこない、わたしの好まなかった事を選んだからだ」。

仏教、神道、新興宗教など色々な宗教がごちゃ混ぜの環境で育った日本人は、仏壇を拝もうと、神社で賽銭を投げ入れようと、結局は自分の感覚だけを信じて生きています。「今」を知っているだけで明日も、一分一秒先もどうなることかわかりません。けれどクリスチャンは違います。感覚に踊らされず、永遠に変わることのない神を信じているからいつも平安です!腹から来るみことばを頼みとすれば、未来に起こる危機からも守られます。

エレミヤ書17章5~8節
主はこう言われる、「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる。彼は荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない。荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地にいる。おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。彼は水のほとりに植えた木のようで、その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ」。

コリント人への第二の手紙4章18節
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

人はいつか離れていくものだと感じ、世の無常を悟っていました。また「自分達が住む地域にはいつ大地震が来るかわからない」と繰り返し聞かされて育ち、死への恐怖と諦めがありました。元気な祖父の死が訪れることを恐れ、急に悲しくなったこともありました。自然災害には抗えず、人は年をとればいつか死ぬ―これが世の理です。芸能界も本当に儚く、永遠にトップでいることは不可能だと気づきました。が、この世はどこまでいっても無常です。ならばせめて、永遠の愛、ロマンチックな世界を味わうことができる役者として生きていこうと決めました。それが最もマシな生き方に思えたのです。

それでもなお、永遠に変わらない何かを渇望していました。「科学では説明がつかない素敵なことがまだ存在しているはず…」という淡い期待も抱いてきましたが、むなしく汚い現実に打ちのめされてきました。イエス様はそんな私に、死後に永遠の世界があることを確信させて下さいました。たくさんの証をいただいたことで、聖書に書かれてある死後について信じざるを得なくなったからです。サタンが地上からいなくなった後の千年王国、新天地。永遠の命がある清らかな世界。最高のプレゼントが待っていることを知らされ、霊からの喜びに満ちあふれました。永遠に生ける神イエス様は、今もなお愛を注いで下さっています。それは人間の愛のように移ろいゆくものではなく、絶対的かつ不変でした。

イザヤ書 40章6~8節
声が聞える、「呼ばわれ」。わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。

ヨハネによる福音書3章16節
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。


♡偽りの愛
私は牧師のカウンセリングを受けた後、自分で髪を短く切り、眉毛を全部剃ってしまいました。そして、知り合いの美容師の元に導かれました。当時はまだ、イエス様を信じたい霊の思いと「LGBTを認めないところだけは受け入れられない」という肉の思いが入り混じっていました。美容師に「難しく考えず、あなたは今のあなたのままでいいんだよ」と優しく声をかけられ、それがとても心地よく響きました。私が髪を切り、眉を剃ったのは古いものと決別したかったからでしたが、この言葉によって私は一度悪霊側へ引き戻されそうになりました。聖霊が私を解放しようとする一方で、悪霊はそれを邪魔するために美容師を使ったのです。

ローマ人への手紙8章6節
肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。

美容師を捕らえていたのは偽善の霊と「情欲の霊」でした。自分を良く見せるために善人でいたいと思わせるのが偽善の霊。かわいそう…と同情させ、善悪の判断を狂わせるのが情欲の霊です。どちらも、結局は自分のことしか考えていません。実は学校を飛び出した時にも同じ霊力をもった女性に逃亡を助けられました。「道に迷った大学生です」と嘘をつく私に、1万円と食料を与え、駅まで車で送ってくれたのです。その時はとても感謝しましたが、彼女の行いにより私は自殺に近づき、危険にさらされました。情欲の霊は「義理人情・ヒューマニズム(人間中心主義)・道徳教育をかしらとさせる女預言者イゼベルの霊」とも言われ、日本人はこの悪霊に支配されています。そのため、善悪の判断基準は神ではなく人間で、自分が善だと思ったことを称賛します。しかし、人間にとっての「善」が必ずしも善とは限らないのです。偽善や情欲から来る善行は他者を滅びに至らせ、時に命を奪います。

コリント人への第二の手紙11章12~15節
しかし、わたしは、現在していることを今後もしていこう。それは、わたしたちと同じように誇りうる立ち場を得ようと機会をねらっている者どもから、その機会を断ち切ってしまうためである。こういう人々はにせ使徒、人をだます働き人であって、キリストの使徒に擬装しているにすぎないからである。しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。だから、たといサタンの手下どもが、義の奉仕者のように擬装したとしても、不思議ではない。彼らの最期は、そのしわざに合ったものとなろう。

美容師や通りすがりの女性の背後にいたのは、光の天使に擬装したサタンだったのです。サタンはかつて天使でしたが、神のようになろうと高ぶったため、神に天から落とされました。こうしてサタンは悪霊の親分となり、地上を支配しました。そして神に愛されて造られた人間を妬んで、盗み・殺し・滅ぼすようになりました。神の前に出しゃばった人間の愛は、偽りの愛です。所詮、偽善の霊や情欲の霊に過ぎず、サタンに利用されてしまいます。

イザヤ書14章12~15節
黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。

「今のままでいい」では、矢の刺さったカモをそのまま放置しているようなもの、偽りの愛です。矢を抜こうとすればカモは痛がり、牙を剥いてくるかもしれません。相手に嫌われたくない、これ以上痛い思いをさせたらかわいそう…という思いが先に立てば、そのままにしてしまいます。しかし、痛みの原因を根本から取り除いてあげるために、命懸けで矢を抜こうとするのが真実の愛なのです。母は美容師を通じ、あるカウンセラーから「今はまだ、なぜこうなったのか?を考えさせないように」と助言を受けていました。精神病患者の壊滅した心をとりあえずそっとしておくのがこの世のカウンセリングなのかもしれませんが、今のままでいいと肯定しても何の解決にもなりません。むしろ事態を悪化させます。私自身、精神病患者とみなされ、学校に行けず、家族に特別扱いされて生きるのは楽でした。でも、何の夢も希望もありませんでした。イエス様に出会えず「今のままでいい」と言われていたら、生きる意義のないぬるま湯地獄に突き落とされていたでしょう。解決策は聖書にあります。ぬるま湯の中で苦しむ人達がイエス様に出会い、真実の愛で立ち上がられたことを感謝します。

私がこの美容師の元に導かれたのは神のご計画でした。ぶどうの木につなげてくれた母の友人もまた美容師の常連客で、すぐに私とのやりとりが明るみになりました。美容師はスピリチュアルの霊力にまかれ、“マイ宗教”で周りから神のように慕われていました。が、私の混乱ぶりを知らされ、神を恐れて悔い改めました。イエス様に救われ、今では多くの人を救いに導いています!神は私を使い、美容師とその周囲の人達をも救いたかったのです。

ローマ人への手紙11章33~36節
ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。

ローマ人への手紙8章28節
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。


♡愛と愛情の違い
母は子どもに最高のものを与えたいという信念に基づいて子育てをしてきましたが、それは子どもへの純粋な愛ではなく「愛情」によるものであったと気づかされました。愛情には情欲の霊が含まれているため、自分の利益を求めます。自分の全力子育てを自負し、子どもの人生を成功させることで母親としての充実感を味わいたいというエゴもありました。愛情では、子どもを無条件に愛し、許すことはできません。子どもの言動にイライラし、「ここまでしてあげているのに」と感謝を強いるようになります。

コリント人への第一の手紙13章4~8a節
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。

最初の人間アダムとエバが神を裏切り、善悪を知る木の実を食べたことによって霊が死に、人は神の愛を忘れてしまいました。しかし、お腹を痛めて産んだ子を愛する母親の姿は、ご自分を犠牲にしてまで人類を愛されたイエス様と重なります。神は人類の霊が蘇り、神の愛を思い出すことを望まれています。母親がその愛を注ぎ出せなければ、子どもは飢え渇き「餓鬼(ガキ)の霊」にまかれ、安易な性行為や非行、いじめなど子ども(ガキ)じみた行動に走ってしまいます。

私は救われた後、母に支配されていたことに気づき、自分が犯した罪の全責任を母になすりつけようとしました。母に従っていただけで、私は悪くない!と思い、母を許すことがなかなかできなかったのです。服のセンスも否定され、「私の助けがなければコンクール受賞はなかった」と言われ、自己肯定感を奪われました。「何も自分のことをやらない」と言われても、価値観を否定し、母の指令を待たなければ動けなくさせたのは母自身ではないか!と言いたかったです。が、「手出しするのを控えて」と伝えれば、何もやってくれなくなるので諦めていました。しかし、定時制に通っていた姉妹に「甘い!」と訓戒され目が覚めました。そして、自分だって依存していたことに気づかされました。言うことを聞いておけば確実に称賛されるので、母は憧れの存在でもあったし、言いなりになっている方が楽でした。また、スケジュール管理や送迎などしてもらうのが当たり前で、母が支配せざるを得ない環境をつくっていたのです。「支配と依存の霊」が働き、何でもできて色々やってあげ過ぎてしまう母親と、それに任せっきりの娘でした。

母は自分の子育てを悔い改めました。支配から解放され、恐れがなくなった私がひどい言動を取っても忍耐してくれました。私が裁きから解放されるために土下座して謝ってくれました。子どもだけが聖書の教えを学んでも、親や家庭が変わらなければ、子どもの状態や人生を変えることはできません。聖書の学びによる母の無条件の愛と許しが、私の信仰を支えてきました。今では何でも話すことができ、私の言い分をちゃんと聞いてくれる優しいお母さんになりました。私も無邪気な子どもに変われたことで、母に「愛おしさが芽生えた」と言ってもらえて、とても嬉しくなりました。


【家族との和解】

母をはじめ、家族と和解していくことができました。
父には、私が学校を飛び出して行方不明になった時から神の御手が入っていました。私がいなくなった時の喪失感が思いの外大きかったと言い、娘の自己肯定感が育たなかったのは、幼い頃に自分が子育てに携わらなかったせいだと反省してくれました。何を言われても自分の非を認めなかった父が、です。体が成長するにつれて触れ合うことに抵抗が生まれ、嫌がられるのではないかと恐れましたが、久々に父に抱きつき、和解することができました。腕の中で、お父さんが大好きだったことを思い出しました。

復学して間もなく、学校から紹介された精神科医のカウンセリングを受けました。県の名医と聞かされていましたが鉄仮面のように無表情で、自身が精神に問題を抱えているのではないかと思うほどでした。毎日患者と交わり、精神病の悪霊力を一身に受けてしまっているかのようでした。カウンセリングはわずか15分程度の質疑応答でしたが、医師は私の状態を見て両親に通院を勧め、薬の服用も「早ければ早いほどいい」と助言したそうです。母はすぐにでも病院に連れて行き、安心したい思いに駆られました。が、私は「病院には行きたくない…」「もう治っているから大丈夫なんだけどなぁ…」と本音をこぼしました。最終的に病院に行かない判断を下したのは父でした。「娘の中に芽生えてきた自己肯定感を尊重してやりたい」。聖霊の働きによる父の行いは、まさに真実の愛でした。世間体よりも娘の思いを尊重し、父親として責任をもって守ってくれました。この世の知者(名医)の言葉ではなく、私の内におられるイエス様の言葉を信頼してくれたのです。父もイエス様に救われ、ぶどうの木の諒兄弟の書籍を学校に渡してくれました。

弟のことはずっと振り回してきましたが、学校を休むようになってから心配してくれていたことに気づかされ、初めて愛おしく思えました。以前は私に怯えていた弟でしたが、今では遠慮なく言葉を出せるようになり、母を交えて3人で楽しく過ごせるようになりました。弟も救われました。

祖父母に対しては、自分がいかに無関心で愛がなかったかに気づきました。車の送迎やお小遣いを当てにし、人目を気にして労わっていました。でもイエス様の愛を体験したことにより、血のつながったお年寄りというだけで大切にしたい思いがこみ上げました。たくさんかわいがってもらったことへの感謝も覚えました。すると、二人の様子も変わりました。祖母は前より私を気にかけてくれるようになり、祖父は私の前であまり人の悪口を言わなくなりました。祖父母も救われました。社会がどんどん高齢化していく中で老人の孤独死や老老介護が増えていますが、原因は若い世代の無関心、愛の無さだと思います。そして、若い世代がお年寄りを愛せないのは、彼らもまた真実の愛に出会っていないからではないでしょうか。イエス様の愛を体験体得すれば、高齢化にまつわる様々な問題はきっと解決します。

母の姉夫婦とその息子であるいとこも救われました。いとこが幼い頃はかわいくて仕方ありませんでしたが、成長するにつれ、祖母を奪った疎ましい存在に変わっていきました。しかし、いとこもまたいじめられて苦しんでいたことを知り、隣人愛で誠実に向き合いたくなりました。いとこはイエス様に意志を向け、中学で副会長に立候補して選ばれました。日本では核家族が増え、親戚との関係も希薄になっていますが、大きな問題を抱えた親族が必ず一人はいるものです。イエス様につながれば、家族が、そして一族が祝福される道を、神は用意して下さっているのです!

和解していく中で、家族を一人の人間として見られるようになりました。例えば、私の母は父親を二度も亡くし、女だけの家庭で育ったことから、夫・義父との関係に苦労していました。父は繊細で、職場での板挟みや愛する母親の死を機に人柄が変わっていったようでした。「親のくせにどうしてこうなの!こんなこともできないの!」と両親を罪に定めてきましたが、親というフィルターを外し、生い立ちや事情を客観的に受け止めた時、許せるようになりました。家族は最も近くて遠い存在なのかもしれません。人は思いの外、自分の家族について知らないものです。だからこそ状態を見てすぐに裁き、「分派分裂の霊」が家族をばらばらにします。今、世の中はどこもかしこも家庭崩壊ですが、悪いのは家族の誰かではなく、敵はサタン・悪霊です。私達家族も血筋や生い立ち、家の内外から来る霊力によって攻撃を受けてきました。許しとりなし祈り、悪霊を追い出すことで、家族をサタンから奪還できます。どんなにサタンに迫害されても、必ず最後に愛は勝ちます!

エペソ人への手紙6章10~12節
最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。

ルカによる福音書10章19節
わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。

使徒行伝16章31節
ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。

【LGBTからの解放】

◇LGBTの霊
救われる前の私には「男になりたいわけではないが、完全な女にもなりたくない」という違和感がありました。中学の追究学習でマイノリティー(少数者)をテーマにLGBTについて調べたのをきっかけに、自分もそうではないかと思うようになりました。教育とLGBTの専門家である准教授から話をうかがい、人には体の性と心の性と好きになる相手の性があり、それらのバリエーションによって性の在り方が多様化すると教えられました。有名なハリウッド女優がLGBTだと知ったり、多様性を認めるディズニー映画を見たりするうちに、自分もLGBTでいいんだ!と受け入れ、むしろ誇るようになっていきました。その様子を見て離れていった友達もいました。

教会が同性愛者の結婚式を受け入れないという話も聞き、キリスト教とはなんて古臭くて頭の固い宗教なんだろうと思いました。「先進国の国教」というイメージがあったため、私の目にキリスト教は“マジョリティーの象徴”として映り、どちらかと言えば嫌悪対象でした。そんな私がイエス様の愛に触れ、LGBTから解放されたのです。最初は抵抗していましたが、思っていた以上に物事は流動的であることに気づき、LGBTを生み出すのは悪霊であると確信しました。「LGBTの霊」は他の悪霊に比べて非常に複雑で、様々な霊力が組み合わさっています。どうしてこの悪霊に囚われてしまったのか、イエス様が私の過去を紐解いて教えて下さいました。


◇性別に対する違和感
幼い頃から「男の子に生まれればよかった」という強い思いがありました。卒園した後、父の転勤で一度引っ越しましたが、環境も住民性も閉鎖的な地域で苦労しました。小学校に入り女の子の友達ができましたが、母からその子の母親が苦手だと聞かされ、好きではなくなってしまいました。彼女はすぐに引っ越してしまいましたが、気まずい別れで、楽しい思い出まで塗り変えてしまいました。ひとりぼっちになった私を仲間に入れてくれたのは3人の男の子でした。校庭にある野山を無邪気に駆け回ったり、仮面ライダーごっこをしたり…一緒にいて男っぽくなったところもありましたが、彼らとの時間は“友達”にまつわる最高の思い出となりました。けれども、彼らはやがて男だけで遊ぶようになり、私はまた独りになりました。グラウンドが見える場所に行き、小鳥のお墓参りをするふりをして男子達のサッカーをうらやましそうに眺めていました。お墓参りをする自分は、他の子どもとは違う特別な存在…と妄想が始まり、芝居がかった自己憐憫になることで、寂しさが緩和されました。男子との楽しい外遊びを味わってしまった以上、女子特有のおしゃべりでは満足できませんでした。それどころか、女子からはいじわるされたり約束を破られたりで「なぜ男の子に生まれなかったのだろう」と思いました。小2で地元に戻ると、新しい学校でいじめに遭い女子恐怖症になりました。学校は敵だらけで、一部の優しい男子が心の拠り所となりました。恋心を抱いたこともありましたが、「男だったらもっと仲良くなれたのに」と後悔しました。

中学では女子より男子といる時間の方が長かった気がします。これまでの人生、一人で困っていると助けてくれるのは、いつも男子でした。そのせいで「生まれつき女子とは合わない」と思い込ませる占いの霊が入り、“女”という生き物を憎むようになりました。女子への復讐心から男子と仲良くして高ぶりましたが、それが「妬みの霊」を引きつけ、いじめを招き、悪循環の繰り返しでした。このような経験から女子との衝突を避けるため、優しい男子を演じて「かわいい」を連発するようになりました。芸能オーディションの落選が続いていたため、実際かわいい女子には嫉妬しましたが、男子目線になればそれを抑えることもできました。人間関係が円滑に進むのに味をしめ、場合に応じて性別を演じ分けるようになっていきました。

家庭環境にも原因がありました。「なんでママは弟ばかりかわいがるの?」と言う私に、父は「女家族で育ち、自分の思い通りになる男の子が珍しいからだろう」と答えました。この時から「だったら私も男の子に生まれれば、もっとかわいがってもらえたのに」という思いがますます強まりました。

また私は、幼い頃から太った女性の体を見るのが好きで、ダイエット番組を見たり、絵に描いたりして喜んでいました。しかし中学生になり周りが性的なことに興味を持ち始めると、これが世間一般では「性癖」と言われてしまうものなのだと知り、自分が嫌いになりました。それでも宝塚で精神的に追い詰められると、この快楽で苦しみを麻痺させ、罪悪感もなくなっていきました。宝塚のために可憐な少女を装っていましたが、内側はドロドロでした。状態が悪くなっていき、レズビアンの風俗をネットで調べたり、そうした風俗で働いてレッスン代を稼ごうと考えたこともありました。恋愛など女の子らしいことでときめいても、自分の気持ち悪さを思い出さされ、現実に引き戻されました。これが私をLGBTに縛りつけていたのです。性癖ではなく、背後に悪霊の構図があったのだと知り、安心しました。これは「心を許せる母親の存在」=母性に飢え渇いていたあらわれでした。太った女性の体は霊的に“母性の象徴”だったと解き明かされました。母は唯一私を裏切らない存在であると同時に、恐怖の対象でもありました。この人にだけは見放されては困ると思い、絶対に逆らえなかったからです。母娘というより師弟関係のようで、心を許せませんでした。母親偶像礼拝の霊、支配と依存の霊、恐れの霊が元となり、私は太った女性の体に惹かれるようになったのです。母は最初「恋愛経験もないのにLGBTだと決めつけるのはおかしい」と言いましたが、LGBTの霊は恋愛ではなく、親子の関係に起因していたのでした。


◇パンセクシャル
追究学習の中でLGBTと一言で言っても本当に色々な種類があることを知りました。そして、あらゆる性別の人に恋をしたり、性的願望を抱いたりする「パンセクシャル(全性愛)」という性的指向に出会い、これだ!と思いました。博愛主義的で魅力あるセクシャリティだと自負していましたが、その正体は情欲・プライド・偶像礼拝の霊で、あまりにも粗末なものでした。

私は男女問わず、いつも友達にベタベタしていたい子でしたが、原因は両親の一番になれない寂しさでした。寂しさから来る情欲の霊が、「姦淫・淫乱の霊」と合体し、人肌恋しさが寂しさからなのか性的欲求からなのか混乱していきました。そのせいで誰でも性的な目で見るようになり、友情・恋愛感情・性欲の垣根がない広く浅い人間関係を築いていました。精神疾患になって両親に抱きしめられた時、私が本当にしたかったのは友達とのスキンシップではなく、これだったと確信しました。

LGBTになることでエキセントリックな自分を演出し、オリジナルのポジションを築こうとしました。周囲になじめないのは特別な存在だからだとアピールするためでした。パンセクシャルは性的少数者の中でも稀で、なおかつ博愛主義者のようで演出するにはもってこいでした。ちなみに、双極性障害やADHD、不思議の国のアリス症候群も、歴史上の天才やハリウッド俳優と同じ病気だったため、喜んで自認しているところがありました。これらの自己顕示欲は「プライドの霊」です。私は人気者の隣を好み、友達も好きになる人も周囲からの評価を基準に選びました。本当にプライドの塊でしたが、プライドを守ることで自分の心が傷つくのを防ごうとしていました。

傷つくのを防ぐもう一つの方法として、あらゆる人への偶像崇拝がありました。相手の個性を強調し、あらかじめ悪いところまで美化して受け入れておけば、急に裏切られても大きな傷は負わずに済みます。ところが美化が行き過ぎると、相手に性的な思いを抱いていると錯覚させられました。偶像礼拝の霊には、このような恐ろしさがあるのです。パンセクシャルとは、性別関係なく「相手の存在そのものを愛する」性的指向なので、バックに必ず偶像礼拝の霊がいると感じています。

数々の悪霊の働きがありましたが、そもそも私がパンセクシャルになったのは、「自分の存在そのものを愛してほしい」という願望の裏返しでした。


◇悪霊のからくり
私が「宝塚受験をしないか」と本格的に声をかけられたのは、追究学習でLGBTのPRポスターを制作した後でした。ここに悪霊のからくりがありました。「LGBTを応援したことで、悪霊が本格的にその世界に引きずり込もうとした」のだと、牧師が解き明かして下さいました。宝塚歌劇は男女のラブストーリーを女性だけで演じ、男役に本気で恋する女性ファンもいるため、LGBTの霊が入り込みやすくなっています。実際、同性婚をした元タカラジェンヌもいました。あの状態で合格していたら、私も同性愛に陥っていたかもしれません。

スクールの先生は私に「絶対に受かる」と言いましたが、人間が約束できる「絶対」などこの世に存在しません。「遊女の霊」が先生を使って私をそそのかし、LGBTの霊に加勢したのだと語られました。

箴言7章21~27節
女が多くの、なまめかしい言葉をもって彼を惑わし、巧みなくちびるをもって、いざなうと、若い人は直ちに女に従った、あたかも牛が、ほふり場に行くように、雄じかが、すみやかに捕えられ、ついに、矢がその内臓を突き刺すように、鳥がすみやかに網にかかるように、彼は自分が命を失うようになることを知らない。子供らよ、今わたしの言うことを聞き、わが口の言葉に耳を傾けよ。あなたの心を彼女の道に傾けてはならない、またその道に迷ってはならない。彼女は多くの人を傷つけて倒した、まことに、彼女に殺された者は多い。その家は陰府へ行く道であって、死のへやへ下って行く。

 
◇呪いが解けて
私は人から嫌われることを恐れ、内側を隠し、偽りの自分を重ね着してきました。その結果、自分でも理解不能なモンスターになっていました。そんな野獣のような私に、イエス様は真実の愛を注ぎ、毛皮を一枚一枚脱がせてくださいました。そして私は、『美女と野獣』の物語のように本当の姿に戻ることができたのです。

私はありのままの自分を愛してほしいと思って生きてきましたが、それは外見や才能を取り除いた自分―人間関係を築くのが下手で、奇妙な性癖をもち、色々なことを感じやすくて不安定な自分のことを指していました。今の状態こそが、本来の姿だと信じていたからです。けれどもそれは、呪いにかかった野獣の姿だったのです。多様性が尊重され、「ありのままでいい」がスローガンのような時代ですが、霊が蘇っていなければ、自由に生きようとしても心のまま、肉欲のままに生きることしかできません。その人の真の思いを知っているのは奥底に眠っている霊だけだからです。LGBT当事者を本当に「ありのまま」に戻すことができるのは、イエス様だけなのです。

コリント人への第一の手紙2章11節
いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。

 
◇LGBTの闇
LGBT容認が世界規模で加速する一方、LGBTは先天的ではなく後天的だという研究が進められています。生まれつきではないという証拠に、脱・同性愛者が世界中におり、イエス様に救われて解放された証人もいます。

LGBTになるかどうかは幼少期に過ごした環境にかかっており、特に家庭環境の影響が大きいそうです。父親の不在や無関心で父性が欠けると、息子が女性的になることがあります。母親の再婚相手から性的な目で見られるのが嫌だったり、父親から性的虐待を受けたりしてトランスジェンダーやレズビアンになった女性もいます。女性であることを拒んだり、男性を恐れたりするからです。このように、LGBTの霊は過去に受けた心の傷から侵入します。

同性同士の性行為は刺激が強く、たった一度の体験によってLGBTに引き込まれてしまう人もいると聞きます。映画『ボヘミアン・ラプソディ』に取り上げられた英ロック歌手、フレディ・マーキュリーもその一人でした。彼は仕事仲間の男性から急にキスされたことをきっかけに、ゲイになりました。婚約者の女性との関係は破綻してしまいましたが、それでも彼女を「魂の伴侶」として愛し続けました。体は男性を求めていても、心は女性に向いていたからです。“自由の象徴”のようなLGBTですが、実際にはちっとも自由ではありません。LGBTの霊に縛りつけられ、素直な思いを押し殺すしかなかったフレディと自分が重なり、苦しくなりました。心より体を優先した結果、彼はエイズで亡くなりました。結ばれるはずだった二人の男女がサタンに引き裂かれたことが悔しくて、二度とこのような犠牲者を出すまいと決意しました。

LGBTの芸能人や文化人の活躍により華やかな世界を想像していましたが、現実は違いました。男性同性愛者がエイズに感染する確率は一般人の約750倍とされ、同性同士の性行為で排泄器官がだめになってしまう人もいるそうです。性転換手術は高額である上、想像以上にリスクを伴います。ホルモンバランスが崩れ、急激に太ったり、若くして更年期障害と同じ症状に悩まされたり心身に不調を来たします。術前はなりたい性の、術後は元の性のホルモンを投与し続ける必要がありますが、性ホルモン剤の過剰な投与は発癌リスクを高めます。LGBTの霊が当事者の体を傷つけ、寿命を縮めていることは紛れもない事実です。さらに悲しいことに、性転換手術を受けた人の自殺率は高いと聞きます。術前のカウンセリングが十分でなかった人に多く、性別を変えたことへの後悔から自殺してしまう人もいるそうです。

当事者になってみないと解らない苦しみもあります。LGBTの霊に縛りつけられていた当時の私は、心の奥底で常に自分が異常者のように感じられました。いくら世の中が「LGBTはおかしなことじゃない」と言っても生理的に受け付けられないものがありました。この苦しみに対して鈍感にさせられていましたが、救われて初めて認めることができました。

LGBTの霊による被害は当事者だけに止まりません。同性カップルの元に生まれ、出自に悩む子どもがいます。精子・卵子提供を受け、生殖補助医療によって同性カップルでも命を授かることができるようになりましたが、そうして生まれた子どもは近親婚になるのを恐れ、自由な恋愛もできません。なぜなら今は、インターネットで簡単に精子を買うことができる時代だからです。若い女性を旅行感覚で海外に連れて行き、卵子提供させる斡旋業者もいます。今後LGBTが増え、社会がますます彼らを容認していくならば、必然的にこうした子どもも増えていきます。

 
◇若い世代への影響
今どきの子どもにとってLGBTはごく当たり前の存在です。アニメやマンガにはLGBTのキャラが付き物で、幼児向け教育番組にまで登場します。芸能人の影響もあり、同性同士のキスやポッキーゲームなどに全く抵抗がないように感じます。若者の間では、中性的な容姿を目指すジェンダーレスファッションが流行っています。性別の垣根をなくすのがコンセプトで、男性がハイヒールをはいたり、女性が男装したりするのですが、そんな「ジェンダーレス」はファッションだけに止まりません。ある若いモデルが「私の周りには男が好きか女が好きかわからない友達ばかりだ」と言っていました。

LGBTを容認する社会の風潮や、同性愛を美化する文化が子ども達に与える影響は凄まじいです。2019年、LGBTの割合は11人に1人となりました。3年前は1クラス(40人)に1~2人位だったので、倍近く増えたことになります。2015年に行われたNHKの「LGBT当事者アンケート調査」によれば、当事者の約8割が10代~30代でした。このような年代構成になるのは、近年の容認一色の社会の在り方が、若い世代のLGBTを急増させたからだと語られました。

最近では性的少数者のことを「LGBTQ」とも呼びます。「Q(クエッショニング)」とは自分の性自認や性的指向が定まっていない人のことです。思春期にはセクシャリティが揺れ動くことがあると聞かされていたので、これでは成長過程の子どもまで性的マイノリティにされてしまうと愕然としました。また「Q」という選択肢が与えられることで、どれだけの若者がLGBTに翻弄されるようになるかとぞっとしました。私達の世代にとって、同性同士の度を超えたスキンシップなどありふれたことで、曖昧な定義が混乱を引き起こすことは目に見えています。

救われる前の私は、LGBTを認めてあげる自分を崇高な善き理解者だと誇っていました。しかし、真実の愛を知った今、安易に容認する社会に対して聖なる怒りが湧きます。当事者の苦しみを少しでも知っている者として、彼らの存在を否定する気はありません。でも、だからこそ世間に問いたいです。当事者の何を知って容認しているのか!と。オネェがおもしろいから?同性愛を愉快に描いたドラマが好きだから?多様性を尊重して好感度を上げるため?事実、LGBT容認は政治家の票集めにも利用されています。逆に、少しでもLGBTを批判するようなことを言えば、猛烈バッシングを受ける世の中になりました。

反対派を抑え込み、差別さえなくなればLGBTは明るく楽しいもの…ではありません。実は同性愛者の中には、自身の性的指向に違和感をもって苦しんでいる人が多くいるのです。そしてサタンは、たった今も彼らに襲いかかり、健康を奪い去っていきます。社会の風潮をつくっている大人達に目を覚ましてほしいです!LGBTは大人が思っている以上に子どもにとって身近で、簡単に陥るものです。理解を広める教育はもう十分ではないでしょうか。それよりもLGBTの霊で苦しむ若者がどれだけいるかに目を向けて下さい。これ以上、苦しむ若者を増やさないで下さい。私の周りにもたくさんいました。少子高齢化で騒ぐ日本ですが、社会が変わらなければLGBTは増え続け、人口減少だって大げさな話ではありません。


◇教会の在り方
海外ではすでに「LGBTは悪霊のしわざ」と堂々と言えなくなっているそうです。信仰の自由さえ奪われつつあります。こんな時代だからこそ、教会にはLGBT当事者に真実の愛を伝えてほしいです。最近の教会は、性的マイノリティを容認するか差別するかのどちらかしか選択肢がないと聞きましたが、どちらも神が求めておられることではありません。男女の秩序や人間の体は神が造られたもので、文句をつぶやいたり破壊したりすることは神の御前で深い罪です。悔い改めずに死ねば、普通の人よりも酷い地獄行きですが、容認して手をさしのべなかったクリスチャンも、同じ地獄行きです。

ローマ人への手紙1章26~32節
それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互にその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。彼らは、こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを行う者どもを是認さえしている。

だからと言ってLGBT当事者を裁き、罪に定めるだけのクリスチャンはパリサイ人です。聖書の律法に囚われて、愛が無いのなら神に裁かれます。

ローマ人への手紙2章1節
だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。

ローマ人への手紙14章4節
他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。

聖書は性的少数者を差別する本ではなく、神様からのラブレターです。神は、LGBT当事者のことも深く愛しておられます。だから、たとえ性転換手術をした人でも、悔い改めて翻って生きれば、天国に行くことができるのです。イエス様は当事者の苦しみを誰よりもご存知なので、律法を押し付けはしません。私は「気持ち悪い」と非難されることも、考え方を矯正されることもなくLGBTの霊から解放されました。聖書の律法は強制されるものではなく、神の愛によって自然と完成するものでした。

ローマ人への手紙13章10節
愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。


◇LGBTも精神疾患
エペソ人への手紙4章19~24節
自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。

LGBTの霊に支配されていた当時、寂しさに対して無感覚でいられました。LGBTは、心の機能を壊す精神疾患でした。寂しさに限らず色々なことに無感覚になり、性的快楽に溺れている若者、性的に混乱している若者が、今どれだけいるでしょう。
彼らが狂わされたのはやはり、愛に満たされなかったからではないでしょうか。私も愛されることばかり求めてLGBTに陥りましたが、聖書から学びました。他者を愛せない人間が、他者に愛されることは不可能なのだ―と。私は同級生のことを情欲を満たすための道具か、自己顕示欲のためのアクセサリーとしか思っておらず、サイコパス(反社会的人格をもつ人)のようなところがありました。友人関係が上手くいかなかったのも当然でした。愛を求める若者が救われ、愛を注ぐクリスチャンへと生まれ変われたことを感謝します!

ヨハネの第一の手紙4章7・8節
愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である。

【時の娘】

◇教育革命
自分の苦しみから解放されると、周りの同級生や友達が私と同じところで苦しんでいるのが見えてきました。小6の女の子に手首の自傷痕を見せられた時には、衝撃を受けました。原因は彼女の両親の不仲でした。学校では、コミュ障(コミュニケーションがうまく取れない人)を自称する同級生の多さに驚きました。「相手の思いを察しなさい」という日本独特の文化が基となり、相手の思いを占いすぎて圧迫され、素直な言葉が出せないのでした。他にもテストに取り憑かれている子、いじめや心無いからかいに傷つく子、外見に病的なコンプレックスを抱えている子、「生きてる意義が見出せない」と口にする子など…。一見明るい高校生達の本当の姿が浮き彫りになり、私が無意識の自殺願望で学校を飛び出したように、日本の子どもは自殺と隣り合わせなのだと語られました。
そんな子どものSOSに全く気づかず、成績のことばかり言う教師陣にあきれました。このままではみんな死んでしまうと危機感を覚え、日本の子どもを救うために「教育革命」を起こそうとしました。大人を裁き、革命家に選ばれた!と高ぶり、校内で間違った福音をしたこともありました。自分のやり方でそしりを買い、退学処分までちらつきましたが、悔い改めて私は守られました。神は「友達を救いたい!」という私の心を見て下さったからです。

サムエル記上16章7節
しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。

日本の子どもの自殺が多いのを大人のせいにしてきましたが、大人もかつては子どもだったと牧師に言われ、目が覚めました。悪いのは代々日本人を育ててきた教育でした。学力偏重主義では目の前の勉強に必死で、社会に目を向けられません。勉強はできても、人として問題のある同級生がたくさんいました。点数至上主義で人と比べられてばかりでは、自分を愛せなくなります。美容整形やアイプチで顔を変えている女子が多いのも、このためだったと語られました。現代の子どもは外見を派手に着飾ったり、SNSで発信したりと一見自己主張が強いようですが、実は自分というものが無いのだと感じました。私も人からの評価を気にして自分像を作り上げていました。相手の色に染まるばかりで、まるで透明人間のようでした。「あなたは後にも先にも無い、世界にたった一人の貴い存在だ」と言って下さる神を知っていたら、自分が無いという発想には至りません。聖書の神が子育ての土台になれば、子どもの自殺だってなくなるはずです。サタンによって繰り返される教育を断ち切ることが社会を変える方法だと学び、改めて教育の変革を志すようになりました。

 
◇出エジプト
学校で問題を起こしてからクラスで孤立し、勉強を裁いて成績も底辺に落ち込みました。学校が嫌になり、不登校寸前のところで聖書から「出エジプト」が示され、通信制高校への転校を考えたこともありました。しかし、私にとっての“出エジプト”とは、今の学校を出ることではなく、古い自分を抜け出すことでした。肉では葛藤がありましたが、みことばから「神は絶対に守ってくださる」と励まされ、学校に残る道を選びました。そこから次々と訓練が与えられました。人目を気にすること、女子を恐れること、すぐ恋愛に逃げようとすること、見かけで人を判断すること、プライドが高いことなど、古いものが取り除かれていきました。自身の無作法にも気づかされ、へりくだることも学びました。

中でも根深かったのは、時間を守れないことでした。両親が病気を疑うほどでしたが、最終的には根性の問題だと言われました。自分では頑張っているつもりでも時間を守ることができず、ストレスでした。イエス様がその理由を一つずつ明かして下さいました。一つ目は、家族への裁きから故意に待たせる習慣があったためでした。両親にとって「いつも時間が守れない娘」になり、叱られるのは仕方のないことでした。二つ目は神経質のせいでした。強迫性障害のためいろいろなことに神経質になり、物事がはかどらず苦労しました。三つ目は「妄想の霊」に支配され、常に現実と並行して妄想の世界で生きてきたからでした。現実に集中できず、動きが鈍くなったということです。小さい頃からマンガやアニメに自分を登場させるのが好きで、妄想の世界は孤独な現実を忘れさせてくれるシェルターでした。またアニメーションを脳内に映し出すのに慣れたせいで、悪霊による映像や声にも敏感だったのだと語られました。

牧師を通して「時間の使い方は命の使い方」だと語られ、目が覚めました。私の誕生日が「時の記念日」であることを思い出さされた翌日、国語の教科書から「時の娘」という知識の言葉が与えられ、霊的に自分のことだと示されました。「真理は時の娘」であり、それは「希望」を表す娘でもあると書かれていました。私が時間を大切に生きる本当の“時の娘”になれば、世に真理を伝え、皆に希望を与えられるという啓示でした。


◇世界の子どもを救いたい!
私の視野はさらに広がり、同じ地球上に性奴隷や兵士、貧困、紛争など想像を絶する苦しみに遭う子どもがあまりにも多いことを知りました。先進国でも虐待や親の離婚が共通の問題で、国によっては銃乱射事件や生殖補助医療の犠牲になる子どもがいます。科学者からは「地球はあと20年ほどしかもたない」という警告を聞かされ、若い世代には未来がないことを悟りました。それまでは外国の子どもに親しみが湧きませんでしたが、世界中で読まれている聖書を学ぶことで日本人の価値観から解放され、彼らを同じ子どもだと考えられるようになりました。危険な無法地帯で育った外国人高校生との出会いもあり、ますます現実味が増しました。同じ子どもとして彼らの現状に無関心でいられなくなり、世界の子ども達も救いたい!という強い思いを入れられ、「平和」という召しと選びも示されました。

ピリピ人への手紙2章13節
あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。


◇大冒険の始まり
夢にあふれた物語を求め、妄想に依存してきましたが、真の神との出会いにより、妄想よりもわくわくする人生の始まりを告げられました。
高3の春、東京ディズニーシーにある『シンドバッドの冒険』を題材としたアトラクションに乗った時のことです。シンドバッドは航海の中で、悪の組織に誘拐されそうになった雛鳥達を助け、囚われ人を解放し、人間に恐れられていたサル達とも和解しました。「宝石や黄金より大事なものがある!」と歌っていましたが、最後には宝が山積みの大豪邸が彼を待っていました。子ども達を救い、世界に福音宣教を宣べ伝えた人生の後に、天国でこのような家が待っているのだと語られました。「アメイジング・グレイス」の歌詞にあるように、大海原で難破船だった私は、イエス様に見つけてもらうことができました。そして、心のコンパスではなく、イエス・キリストのコンパスに従った大冒険が始まったのです。こんな人生をくださったイエス様に感謝して、これからは神のために時を用いて生きます!

ローマ人への手紙15章16節
このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである。


◇大学受験と卒業式
大学の進路選択にあたり芸術系か国際系かで迷っていたところ、「変革」という言葉を掲げる女子大に導かれました。そこにはフィールドワークを中心に国際協力について学ぶ学科があり、シンドバッドの冒険から語られたことと重なりました。日本の教育を変えるため、また世界の子ども達を救うためにぴったりの学び場だと感じました。女子恐怖症で、表現にしか興味がなかった過去の私なら絶対に選ばない道でしたが、ここが私の第一志望となりました。そうは言っても模試では最低のE判定が続き、勉強は思うようにはかどりませんでした。勉強から逃げたくてやっぱり芸術系がいい!と爆発したこともありましたが、友(子ども達)のために命(自己愛)を捨て第一志望に立ち返ると、霊から喜びが湧き起こりました。また、教育を受けられない世界の子ども達と自分が置かれている環境を比べ、勉強を裁いてきた自分がいかに甘えていたか気づかされました。勉強は試験のためではなく、自分の夢を叶えるため、他者の役に立つためのものでした。

学力的には合格圏外だった私に、公募推薦というチャンスが与えられました。イエス様が学校側の見方を変えて下さり、先生方の好意を得られた証でした。とはいえ評定平均が低く、書類審査さえ通過できるか不安だったため、本来なら4ヵ月後に控えた一般入試の勉強も並行して行うべきでした。そんな時このみことばが示されました。

ヨハネによる福音書4章34・35節
イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。

「刈り入れ時は4ヵ月後の一般入試ではなく、もうすぐだ」と語られ、間近に控えた推薦入試での合格を確信しました。そこからは信仰で推薦入試の小論文と面接練習に全力を注ぎました。学校の先生方が本当に熱心に助けて下さいました。書類審査も無事通過し、そして迎えた試験当日、小論文の問題を見て驚きました。母がイエス様に祈り、油を注がれて作った練習問題がそっくりそのまま出たからです。練習では時間内に解けたことがありませんでしたが、見直しの時間まで与えられ、全てが神業でした!面接は証をする機会となり、聖書の力で復活したことを蛇のように賢く、鳩のように素直に話せました。すると、面接官から「良い学びをしたね」と言われ、聖霊が働いて下さったのだと感謝しました。倍率が高く、普通に考えたらとても難しかったはずですが、私は主にあって合格しました!才能や外見ではなく、人間性を評価されたのは初めてで、霊→魂→体の癒しによる奇跡でした。思えば、人間の価値をテストの点数で決めるのはおかしい!と教育を変えることを志した私でしたが、自分の価値をテストで決められることなく大学入試を乗り越えることができました。ある友達に合格を報告すると「あなたのような生き方をしてみたい」と言われました。3年前、イエス様に出会ったあの日、牧師を通して言われた「自分の生き方で自分を表現する」を実現できた瞬間でした。

こうして私は、無事高校を卒業することができました。進級を危ぶまれたこともありましたが、みことばや啓示を通して常にイエス様に励まされ、神の家族、肉の家族に支えられ、最後には大きな神の栄光を輝かすことができました。
卒業式では、過去につまずかせてしまった元クラスメイトと和解し、笑顔で写真を撮れました。過去に迫害してきた先生方にはぶどうの木のトラクトや書籍をプレゼントすることができました。「外の世界であなたの助けを必要としている人が必ずいる」「お前は世界に羽ばたかなければならない」という応援メッセージをいただき、感動しました。3年の時に始まった校舎の工事が終わり、外壁はきれいなぶどう色に塗り変えられていました。すごい祝福の啓示だと牧師を通して解き明かされました!


◇この時代へ
イザヤ書61章1~3節
主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年とわれわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる。

「時の娘」としての召しと選びが示されました。それは、愛が冷え切ったこの時代に、この証を発信することで神の愛を思い出させることです。

「どうしてイエス・キリストに救われなければ、天国に行けないのか」と言う人に伝えたいです。イエス様の愛を忘れた今の世の中が、どれだけの子どもを傷つけているでしょうか。日本の児童虐待や不登校の数は過去最高に上り、子どもの自殺率は戦後最高に達しました。子ども達を苦しめる社会の構成員が天国に行けるとは思えません。
私は心の傷をイエス様によって気づかされ、他者の苦しみも思いやれるようになりました。自分の痛みに無感覚になっていたら、隣人の痛みにも無感覚になります。子ども達のSOSにも決して気づけません。人は神の愛を体験し、自分を愛するようになって初めて、隣り人を愛せるようになるのです。心に開いた穴が神の愛によって埋められた時、心は完成し、良心へと生まれ変わります。

マタイによる福音書22章37~40節
イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。

終わりの時である今、この世を支配してきた悪魔崇拝者達の存在が暴かれてきています。良心を失くした彼らは、人口削減のために働き、多くの子どもを虐待してきました。寂しさや復讐心から「一番になりたい」と願い、この世の富・地位・名誉を求め続けた末にあるのが、悪魔崇拝です。しかし、心の穴を満たすためにこの世のものをどれだけ手に入れても、彼らの心はむなしいまま。カラカラに飢え渇いています。
真実の愛を知った時、全ての人の呪いが解かれます。悪霊によって形づくられた偽りの自分は姿を変え、元の美しい神の似姿に戻ることができます。精神疾患者も、LGBT当事者も悪魔崇拝者も、神に愛されて造られた本当の自分になることができるのです。
人類が神の愛によって良心を取り戻し、「ありのまま」の自分になれたこと、闇が滅ぼされ、真に平和な世界が訪れたことを感謝します。全ての栄光をイエス様に帰して、アーメン。

ローマ人への手紙 16章 20節
平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。どうか、わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。