安息日を聖別することの大切さと、十分の一献金をしていくことに伴う祝福
~聖書に基づいた子育て~

 
 
長老夫妻の長男と次男は、救われる前にアトピー性皮膚炎に苦しんでおり、母親は子育てにつまずき、自分の思い通りにならない長男を虐待してしまう事に悩んでいました。苦しんでいた母親に真理を伝えたい思いで、ぶどうの木副牧師は当時、幼稚園教諭という立場を捨て仕事を辞めて、一人のクリスチャンとして福音をしました。そして、神に選ばれていたこの家族は、すぐに全員が救われました。一家の長であった長老は、2007年9月2日のぶどうの木初集会後に救われたのですが、その一週間後には、主治医を通して子供達のアトピー性皮膚炎が癒されている事を証明されました。

一家の長である長老に対しては、まず「安息日を聖別すること」が求められました。牧師は「集会とは、霊の糧を得て、一週間、サタンの攻撃から身を守るための武具をつける場所です。安息日を聖別する事については、神の戒めとして聖書に書かれています」と話しました。長老は、その言葉を素直に受け「一週間、丸裸で過ごしたくはない」と思い、すぐに、意志を向けて日曜日休みを求めました。長老は産婦人科医という仕事柄、当然、当直や、日曜勤務もありましたが(24時間365日出産は行なわれるため)、休日希望は全て日曜日とし、その分、平日は誰よりも熱心に働き、「何でもやります!」という姿勢で仕事に向かうことにしました。感謝な事に、助け主聖霊が働いて、同僚からの非難の声は一切ありませんでした。

長老は、安息日の聖別と同時に「十分の一献金」についても、マラキ書3章6節~12節を通して語られました。当時は家を新築したばかりで、ローンの返済も決して余裕をもった返済プランではなかったため、とても収入の十分の一を出す余裕はないと思ったそうですが、唯一神を試してもよいとおっしゃって下さっているという事を信じ、行ないました。一家の長としての、最初の決断でした。献金を始めて1か月も経たない内に、新たな命(長女)を授かっていることが分かりました。生命に関わる仕事をしている者として、献金による祝福とは、こういう事なのか!と驚き、【見よ、子供たちは神から賜わった嗣業であり、胎の実は報いの賜物である。】(詩篇 127:3)を示され、感謝したそうです。

当初は、献金をしながら生活していけるか不安でしたが、実際にふたを開けてみると、不思議と大きく家計が赤字になることもなく、常に守られていることが分かったそうです。そして、献金を始めて4年後には、他の病院からスカウトを受けて職場が変わり、さらに祝福されて、年収が2倍になりました。長老は、新たな職場に導かれる際にも、自身がクリスチャンであることを表明して、安息日を聖別することを求めていきました。信仰を忠実に表明した時に聖霊は働き、日曜日を休日とすることを認めてもらい、転職することになったのです。

牧師は、決して自分の意見は言わずに、いつも「聖書にこう書かれているから」と伝え、私たち羊を導いてきて下さいました。感謝なことに長老夫妻は、みことばで言われる事に対して、無視はできない、うやむやにはできないという聖霊からの強い思いを入れられていたため、全て、「アァメン!」と言って従ってきました。

長老家族は、詩篇127篇・128篇をあらわす「クリスチャン家族の雛型」としてぶどうの木に与えられた家族であり、聖書のみことばに従って行なう子育てとはどういうものなのか、一つ一つ体験体得していきました。3人の子供たちが成長していく中で、両親として、子供と一緒にまず神の国と神の義を求める選択をしなければならない機会がたくさんありました。

救われた当時、長男と次男は、習い事をいくつかやっていましたが、長老夫妻は牧師を通して、「これができる!これが得意!というバッジをつけるような子育てではなく、内面を育てることが大切です。内面が良い土壌であれば、どんな種をまいても立派に育ちます。何でも喜んでできる子に育つのです」と語られました。

小学生だった長男が、スーパードッジのクラブに所属したいと言った時、年に一回、日曜日に大会があることが分かりました。そこから、長男と母親であるS姉妹は、話し合いました。年に一回なら大丈夫か…その日ぐらいは集会を休んでもいいか…と、安易に考えてしまうのではなく、その大会当日=安息日に、大事なメッセージが語られるとしたらどうか?という視点で考えた時、安息日を守る1回を大事にしたいと決断し、スーパードッジのクラブへの所属はやめました。
また、中学に入って部活を決める際も、長男はバスケ部に、次男はテニス部に入りたいという思いがありましたが、日曜日に練習や試合がある事は目に見えていたため、二人は、イ エス様に戻って聞きました。その時、長男は、【日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。】(ローマ 14 :6)を頂き、【主のために食べない】 ことを決め、日曜日を聖別できる部活に入りました。

次男も、まず神の国と神の義を求めて、兄と同じ部活に入りました。それが正しかったのかどうか、イエス様は必ず分かりやすく教えて下さいます。二人が所属した部活には、小学5年生で救われた牧師の次女であるN姉妹が福音をして救われた友達、当時イエス様の事を共に伝えていた友達が、顧問をしていたのです。まさに奇跡の再会でした。彼女は、救われた後に親からの迫害によって、イエス様から離れてしまっていましたが、イエス様はどこまでも彼女を愛していたため、生徒となった二人を通して、改めてご自身の事を思い出させたのです。一人の魂の救いのために、神がどれだけ恵み深いお方か、神の緻密な計画によって再会できた事、神の声を聞いて肉の思いではなく霊の思いに従った二人を通して出会えた奇跡に、N姉妹も群れの皆も驚き、喜びました。二人がイエス様のためにした決心=主のために食べなかった事で、長老家族はキリストの思いで、主のための福音の働きをする事ができたのです。

長女は、月曜日に生まれ、その週の日曜日(生後7日目)から集会に参加してきました。幼稚園のころに、賛美の働き人の姿を見て、自分もピアノが弾けるようになりたい!と思い、ピアノ教室に通うようになりました。その中で、先生に推薦された子だけが参加できるピアノコンクールの話がきて、長女は喜びました。しかし、コンクールの日は日曜日でした。肉の親心としては、長女を参加させてあげたいという気持ちもありましたが、イエス様は、何のためにピアノを始めたのかという原点に戻して下さいました。ピアノコンクールに出て賞をとるためにピアノを始めたのではない事、すでに賛美の働き人として集会でピアノを弾いている自分が、集会を休んでいいのか…賛美の働きをするために、ピアノを始めたのではなかったか…母親であるS姉妹が長女に語っていくと、長女の霊の思いが肉の思いに勝り、ピアノコンクールではなく、集会へ参加する事に決めました。その時、二人が頂いたみことばは、【あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。】(Ⅰコリント 9:24~27)でした。この「朽ちる冠を求めるのか、朽ちない冠を求めるのか」は、クリスチャンホームにおける子育てにおいて、一つの大きな指針となっています。

神道、仏教が土台の日本、聖書真理を知らないで行われる地域行事や学校教育において、クリスチャンが信仰を守り生きていくことは非常に大変です。子供会での祭り参加、修学旅行では神社仏閣を巡り、学校行事はほとんど日曜日に行なわれます。長老夫妻は、そんな日本人が当たり前に受け入れて来たことに、一つ一つ異議を唱え、それが本当に必要な事か、子供が参加すべき事かを、見極め判断してきました。その中で、子供の霊性を守るために、参加しないという選択をしてきた事もありました。子供たち自身も、意味がないと思い同意してきました。

長老夫妻は、救われる前までは、学校行事は両親揃って観に行くのが当たり前であり、救われた後も、それがクリスチャン家族としての栄光であると思っていました。特に学習発表会や運動会はそうあるべきだと思っていましたが、イエス様は、【もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。】(Ⅰコリント 15:19)とおっしゃいました。中途半端な歩きをするなら、私たちは、最もあわれむべき存在です。安息日を聖別して神の言を聞くことなしに、何も得ることはできません。長老夫妻は、このみことばに従い、両親揃ってではなく、どちらかが送迎の役割も兼ねて観に行き、もう一人は、他の子供たちを連れて集会に参加するようになりました。神は、その心を見て下さり、母親であるS姉妹には学校において役職を与え、2部構成で行われる発表会では、一般の保護者が入ることのできない午前の部(集会は午後から)に特別席・来賓席で見ることのできる特権を与えて下さいました。神に意志を向けたら、聖霊が働き、全てをかえりみて下さったのです。

この世で生きている以上、クリスチャンは世の中の“当たり前”に逆らって生きていかなければなりません。それが肉的に辛くて、妥協してしまうクリスチャンもいるでしょう。迫害を恐れて黙って従っている人もいます。それによって、今や、毎週安息日を聖別しているクリスチャンは、減る一方です。献金に関しても同様でしょう。

S姉妹は、「自分の行いに倣って、周りが罪を犯すとしたらどうか。福音を伝えていても、『あなたもやっているじゃん!』と言われるような事がないようにしたい!」という思いでいるのだと話してくれた事があります。聖書を土台とした人生、みことばを行う人生を送ることが、人として “当たり前”であると、人間を造った神が定められました。ですから、クリスチャンが世の中の常識や、やり方に流されてはいけないのです。聖さという品位を保ち、神=聖書に従う人生がどれだけ幸せで平安であるかを、私たちは、自身を通してあらわしていかなければならないと語られました。

そして、すでに親になっている人、これから親になる人は、神から授かった子供、預かった子供をどのように育てていくべきか、神の言である聖書から学んでいかなければなりません。岩の上に教会を建てていれば、どんな事が起きても倒れることはありません。神の教えに逆らって、自分の考え・やり方で生きるからこそ、問題が生じると倒れるのだと、私たちはみことばで再確認しました。

マタイによる福音書7章24節~27節
【それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。】

小学1年生で救われた長老夫妻の長男は現在大学生ですが、人生における大きな選択を前に、彼はイエス様に聞きみことばをもらい、自分の進むべき道を決定しました。大学進学の際、彼は、神の家族に以下のようにメールで報告してくれました。

「大学の事に関してみことばをもらいました。
ローマ 8:26~39、第1テモテ4:11~16、ルカ 5:1~11
テストは計3回受け、2回は生物学部だけを志望していましたが、一つの学部を握りすぎてはいけない、もっと視野を広げるべきだと、イエス様が父を通して語って下さり、最後の1回は学部を3つ志願しました。扉が開いた道は生物ではなく、地球環境を勉強する道でした。それは、昨年1月に与えられたレポート(このまま行けば2040年には海抜が70m上がる)や、終わりの日に近づいている中で示されている環境の変化に繋がるものであり、自分では予想もできない神の計画を知ることができました。自分が4年間勉強するにふさわしい内容だと思います。第1テモテ4:15に【すべての事にあなたの進歩があらわれるため、これらの事を実行し、それを励みなさい。】と書かれてある通り、高校を卒業して大学生に進歩できること、これから進む道の中で勝利が約束されていること、また、イエス様に従えばすべてのことが益となることに感謝し、喜んで進学しようと思います。」

クリスチャンホームで育った子供たちに信仰はあるのか?嫌々安息日に集会に参加していなかったか?その答えは、成長した時に、はっきりと見えてきます。彼は高校卒業を迎える前に、牧師から「群れの働きだけではなく、神から預かった一人一人の羊が良い実を結んでいなければ、牧師として神の御心を行なっているとは言えません。イエス様を知っていて良かったですか?信じてきて良かったですか?」と尋ねられた時、「はい!大学も毎週集会に参加できる事を求めて選びました」と答えました。彼の内に、確固たるイエス様との一対一の関係がある事が分かり、感謝しました。

詩篇127篇
【主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。見よ、子供たちは神から賜わった嗣業であり、胎の実は報いの賜物である。壮年の時の子供は勇士の手にある矢のようだ。矢の満ちた矢筒を持つ人はさいわいである。彼は門で敵と物言うとき恥じることはない。】

詩篇128篇
【すべて主をおそれ、主の道に歩む者はさいわいである。あなたは自分の手の勤労の実を食べ、幸福で、かつ安らかであろう。あなたの妻は家の奥にいて多くの実を結ぶぶどうの木のようであり、あなたの子供たちは食卓を囲んでオリブの若木のようである。見よ、主をおそれる人は、このように祝福を得る。主はシオンからあなたを祝福されるように。あなたは世にあるかぎりエルサレムの繁栄を見、またあなたの子らの子を見るであろう。どうぞ、イスラ エルの上に平安があるように。】

箴言3章1節~26節
【わが子よ、わたしの教を忘れず、わたしの戒めを心にとめよ。そうすれば、これはあなたの日を長くし、命の年を延べ、あなたに平安を増し加える。いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。そうすれば、あなたは神と人との前に恵みと、誉とを得る。心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。そうすれば、あなたの身を健やかにし、あなたの骨に元気を与える。あなたの財産と、すべての産物の初なりをもって主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は満ちて余り、あなたの酒ぶねは新しい酒であふれる。わが子よ、主の懲しめを軽んじてはならない、その戒めをきらってはならない。主は、愛する者を、戒められるからである、あたかも父がその愛する子を戒めるように。知恵を求めて得る人、悟りを得る人はさいわいである。知恵によって得るものは、銀によって得るものにまさり、 その利益は精金よりも良いからである。知恵は宝石よりも尊く、あなたの望む何物も、これと比べるに足りない。その右の手には長寿があり、左の手には富と、誉がある。その道は楽しい道であり、その道筋はみな平安である。知恵は、これを捕える者には命の木である、これをしっかり捕える人はさいわいである。主は知恵をもって地の基をすえ、悟りをもって 天を定められた。その知識によって海はわきいで、雲は露をそそぐ。わが子よ、確かな知恵と、慎みとを守って、それをあなたの目から離してはならない。それはあなたの魂の命となりあなたの首の飾りとなる。こうして、あなたは安らかに自分の道を行き、あなたの足はつまずくことがない。あなたは座しているとき、恐れることはなく、伏すとき、あなたの眠りはここちよい。あなたはにわかに起る恐慌を恐れることなく、悪しき者の滅びが来ても、それを恐れることはない。これは、主があなたの信頼する者であり、あなたの足を守って、わなに捕われさせられないからである。】

第二次世界大戦後、敗戦国民となった日本人は、アメリカGHQからの「3S政策」なるものによって自分で物事を考える力を失いました。そして人の目や言葉ばかりを気にして、大多数の人と同じならば安心するという、「赤信号みんなで渡れば怖くない」という言葉そのままの習性を持つ国民にされてしまいました。3S政策とは、①スクリーン(映画、テ レビ、ゲーム、芸能人)②スポーツ③セックス(性産業)を日本人の生活の中に入れ込み、これによって人々を洗脳していく政策です。戦後生まれの私たちは、生まれた時からすでにこの政策の中で育てられてきたわけですから、全く違和感がありません。テレビを付ければ、低次元の話題ばかりを繰り返され、本当に日本人として注視すべき事、知らなければならない真実は隠されてきましたし、低次元のそれらを見聞きしているうちにまともに物事を考える思考が奪われていきました。その日暮らしで今が楽しければ良いと言い、アイドル(偶像)に熱をあげたり、テレビで言われる報道や見解が全て正しいのだと思い込まされ、今や情報に振り回されて右往左往するばかりです。不倫や離婚も、芸能人がしていれば、そこまで大変な問題ではないと思い込まされてきました。また、現実から逃避できるようなゲームに楽しみや癒しを求めて逃げ込んだ結果、深入りしてしまい日常生活がままならなくなったり、残忍な内容に感化されて様々な問題行動に出る人達もたくさんいます。特に男性たちは、野球やサッカーといったスポーツに没頭させられてきました。教育現場では、子供たちに部活動が強いられ、強豪校ともなれば学校をあげて盛んにもてはやされ、子供たちは部活に入ることによって週末も部活一色の生活となります。これでは安息日を聖別することなど不可能です。両親が一人の子供の部活につきっきりでいて、他の兄弟姉妹を放任しているならば、非行に走ったりさみしい思いを膨らませたりする子供も増えていきます。そして、欧米諸国から「売春天国」と言われていた時代があったほど、日本には風俗やキャバクラがたくさん生まれました。映画やテレビ、本など、様々な媒体を通して性の多様化や、倫理にもとる情報が垂れ流され、今や子供たちでさえもそのようなものにさらされ汚されているのです。このように3S政策が意図的に生活の中心になる事によって、国民は物事を深く考えたり、正しく判断できないようになり、アメリカ側からすれば、日本人をアメリカに従順な奴隷にしていったということです。

今まで福音によって大勢の人が救われてきましたが、いざ日曜日の集会への参加・安息日の聖別となると、趣味ができなくなるという理由で集会への参加を拒んだり、部活や模試が邪魔をしてきました。日本は、世界の教育戦争に勝つために、大量の宿題と、複数の模試で子供たちを縛り、点数至上主義の教育をさせ、物事を考えられない、コミュニケーションが取れない人間を育ててきたとも言えます。日本人を聖書に向けさせない策略が、戦後からしっかりと張り巡らされ、それは神が教える家庭・家族の在り方への崩壊にもつながっていたのです。これは、安息日を聖別させまいとするサタンの策略そのものでした。長老家族が子育ての中で戦ってきたものは、まさにこのサタンの策略だったのです。長老家族は、この“日本人白痴化計画”と言われる3S政策を知った時、自分たちは神の律法を守り従うことによって、気付かぬうちにサタンの仕掛けた罠から逃れてきた年月を送ってきたのだと悟りました。日本においては、狭き門、細い道でありましたが、そこを通ることによって足元をすくわれることなく、流されることなく、悪しき者から守られ続けてきた恵みに感謝しました。

ローマ人への手紙13章11節~14節
【なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。】

マタイによる福音書7章13節~14節
【狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。】